聖路加国際大学 聖ルカ礼拝堂

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2024年9月1日(聖霊降臨後第15主日)(2024/09/03)

チャプレン ヨナ 成成鍾司祭
「 言霊 」

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外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、
人の中から出て来るものが、人を汚すのである。
(マルコ8:15)

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<福音書> マルコによる福音書 7章1~8, 14~15, 21~23節


ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、
エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。

そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、
つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。

――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、
昔の人の言い伝えを固く守って、
念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
また、市場から帰ったときには、
身を清めてからでないと食事をしない。

そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、
昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――

そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。

「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、
 汚れた手で食事をするのですか。」

イエスは言われた。

「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを
 見事に預言したものだ。

 彼はこう書いている。

  『この民は口先ではわたしを敬うが、
   その心はわたしから遠く離れている。
   人間の戒めを教えとしておしえ、
   むなしくわたしをあがめている。』

 あなたたちは神の掟を捨てて、
 人間の言い伝えを固く守っている。」



それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。

「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、
 人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」



「人から出て来るものこそ、人を汚す。
 中から、つまり人間の心から、
 悪い思いが出て来るからである。

 みだらな行い、盗み、殺意、 姦淫、貪欲、悪意、
 詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」



<メッセージ>

キリストは数々の金言を残しました。「外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである。」(15節)というのもその一つです。では、人から出て来て人を汚すものは何でしょうか。人から出て来るものは、いわゆる排泄物のことですが、言葉こそ最も汚い排泄物になることがあります。言葉が人を汚す理由は、それが「心から出て来るからだ」(21節参考)とキリストは指摘されました。このお話によりますと、言葉は語られた音声や文字だけではなく、それ以上のものであることが分かります。言葉には、語る人の心から出て来る、思いや感情、意図や目的などの見えない色が付いているからです。そのように口から出て来る言葉は、その裏に何かを持っているため人を生かす事も殺すこともできる力が宿っている、と古くから言われています。それが聖書の『箴言』というところには「死も生も舌の力にある」(18章21節)とか「あたかも剣で刺すかのように軽率に語る者がいる。知恵のある人の舌は癒しを与える。」(12章18節)と表現されています。

聖書だけではなく、古今東西を通じて言葉が持つ力についての認識は深いものですが、とりわけ日本では「言霊」という概念があります。言霊とは、文字通り言葉に霊が宿っている、だから発散するエネルギーがあるということを意味します。口にした言葉は、先ず音になりますが、それと同時にエネルギーとも言える霊が伴うために人の心と体と魂に大きな影響を与え、良くも悪くも人生を変える力になることもあります。それは聞く人だけではなく、語る人にも当てはまります。例えば、ポジティブな言葉を言えば、聞く側も語る側もポジティブになり、ネガティブな言葉を言えば、聞く側も語る側もネガティブになります。それは口から出て来る言葉が意識を変え、意識が行動を変え、行動が生き方を変え、それが結果となって自分に返ってくるようになるからです。つまり、全ての言葉は、それが良い言葉であろうとも悪い言葉であろうとも、相手に影響を与え、さらに自分に戻ってくるわけです。

そういった意味で、日本の古代において「言」と「事」は同一の概念であって、漢字が導入された当初も「言」と「事」は区別せずに用いられた、という話にはうなずけます。それは日本に現存する最古の和歌集である『万葉集』にも反映されていました。“言葉の力で幸せをもたらされる国”(柿本人麻呂の歌3254)という表現が記されているほど、古くから日本は言葉に宿る不思議な力を重んじて、慎みながら言葉を選び、また口にすることを通して万事を良い方向へと導こうとしたのではないかと推察します。日常生活で使う言葉はもちろんのこと、私たちがそれぞれ持っている名前というのもその延長線上で理解することができます。親など身近な人から意味を持つ名前をもらい、普段その名前で呼ばれるわけですが、それは名前の意味が実現されていく過程でもあります。つまり誰かから名前を呼ばれることを通して、名前に込められている意味が働くということになるわけです。キリスト教にも古くから洗礼を受ける際に洗礼名(教名)をもらう習慣がありますが、ほぼ同じ営みとして理解することができます。

ではいかがでしょうか。自分の名前や洗礼名にはどういう意味が込められていて、その意味はどのように活かされているのでしょうか。そして、今の言葉使い、言語習慣はどのようになっているでしょうか。それらのことについて振り返ってみますようお勧めいたします。

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