「 疑い 」
使徒聖トマス(Thomas the Apostle、生年不詳-72)、「疑り屋さん」というあだ名がついている彼はキリスト教の歴史上最も誤解されている人かもしれません。イタリア・バロックの巨匠カラヴァッジオ(Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571-1610)の代表作の一つに『聖トマスの不信』(The Incredulity of Saint Thomas)があります。光と陰の明暗を明確に分けて人間の姿を写実的に描く手法で知られたカラヴァッジオらしく、絵にはトマスがキリストの腹に指を入れる場面が生々しく表現されています。そこからも、「キリストの傷跡を自分の目と手で直接確かめない限り、キリストの復活を決して信じない。」(25節参照)という彼の疑い深さが読み取れます。皆さんは、そのようなトマスについてどのような印象を持っているでしょうか。一般的にトマスは疑い深い人物として理解され、彼には浅い信仰の代表者というレッテルが張られています。では、真理そのものである神様を求め、御心に適った生き方をするためには、彼のように疑いや疑問を持ってはならないのでしょうか。本当に彼は見習うべきではない存在であり、彼の信仰は浅かったのでしょうか。
私はトマスについて少し違う理解を持っています。それは、トマスは信仰の浅い者の代表者ではなく、信仰を求めている者の代弁者ではないかということです。つまり、トマスは真理を探し求めている私たちの心の中にある思いをありのまま率直に表した者であり、その過程を通して信仰がどのように形成されていくのかを示してくれた存在でもあるのです。確かに彼には、キリストの復活についての強い疑いがありました。しかしそれは何の意味もない無茶ぶりや無条件的な否定ではなく、明確な目的のある疑問として、より確かな信仰、真理へとつながっているのです。トマスの疑いというのは、復活されたキリストについての認識の強化と信仰の深化のために必要なプロセスだった、と理解できるのです。
疑いや疑問それ自体が悪いのではありません。完全なる信仰を持って真理にたどり着いた聖人じゃない限り、誰もが疑問や疑う気持ちを持つでしょう。それが、真理へ向う道の途中にある我々人間の姿であり、誰もが通る道なのです。疑いや疑問は、信仰を形成して行く霊的な旅路において自然に湧いてくるものであるがゆえ、肝心なのはそれをどのように受け止めて解決するのかということなのです。疑いや疑問を持ち続けることは、むしろより強い信仰と揺るがない真理へと私たちを導いてくれます。そういう意味で、疑いや疑問は信仰の一部だと言っても過言ではありません。20世紀のウィリアム・ブレイク(William Blake、1757-1827)とも称されるレバノン出身のアメリカ詩人、カリール・ジブラン(Khalil Gibran、1883-1931)は著書『人の子、イエス(Jesus、The Son of Man)』の中で“疑いとは、信仰を求めるがゆえの苦しみである。信仰と疑いは双子の関係である。”と語りました。彼の話のように信仰と疑い、真理と疑問は切り離せるものではありません。疑いは信仰につながっているため、真理の影だとも言えます。
トマスはディディモ(24節)とも呼ばれますが、ディディモ(ギリシャ語)とトマス(へブライ語)は、両方ともに双子という意味です。ところが福音書を見る限り、双子の片方の兄弟については何も記されていません。そういう背景に沿って考えますと、ディディモと呼ばれるトマスは生物学的に双子であるよりは、人間の二面性を象徴的に表していると推察することができます。つまり、双子というのは信仰的な意味として、キリストの復活を信じたい思いと疑ってしまう思い、という信仰的に相反する二つの思いが同時に心の中にあることを示していると考えられます。そしてそのトマスは、二つの心を持ち悩みながらも信仰を求め、真理を探している今日の多くの人々の代弁者でもあるのです。トマスに照らしながら、自分の信仰のあり様、その救いと真理を求めている過程について、自責の念に陥ることも自負する事もなく、ありのままに省みてみましょう。
<福音書> ヨハネによる福音書 20章19~31節
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。