「 謎解き 」
「一つの声を持ちながら、朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足で歩く生き物は何か」という有名な謎解きがあります。ギリシャ神話に登場する怪物として、女性の顔、獅子の体、鳥の翼を持つスフィンクス(Sphinx)はこの謎を通行人に出し、解けない者の命を奪いました。人々が恐れている中、英雄オイディプス(Oedipus)がこの謎に挑み、見事に「人間」という正解を出しました。人間にとって朝・昼・夜は人生サイクルを象徴し、赤ん坊の時には四つん這いで、成人の時には二本足で、老人の時には杖を使うので三本足で歩くという説明です。謎を解かれて面目を失ったスフィンクスは、自ら崖から身を投げて命を絶ちました。このスフィンクスの謎解きは人間の本質や生き方を考えさせますが、一方で今日のテーマである「三位一体」についての理解へと私たちを案内してくれます。
今は四字熟語として社会の色々な場面で使えますが、元々キリスト教用語である三位一体は、「唯一の神様が父と子と聖霊である」という概念です。私たちが四本足・二本足・三本足で歩きながら一つの声を持つ人間であるように、神様は三つの姿(位格;ペルソナ)でありながら本質的には一つであるという理解です。つまり、異なる働きとその内容のために、父と子と聖霊という三つの姿になっているが、本質としては変わらない一つなのです。「父なる神様」「子なるキリスト」「聖霊なる神様」と表現することがあっても決して多神教的な理解ではなく、一つの神様についての異なる表現なのです。この三位一体は、使徒たちの熾烈な宣教活動の中で、父と子と聖霊のどれかを省けば信仰は成り立たないという体験から生まれた信仰告白のエッセンスだと言えます。
それでも三位一体は、理屈っぽくて理解し難い概念というイメージが強いので、私はよく水のたとえを用いて説明します。水は化学記号として「H2O」、つまり水素二つと酸素一つが合わさってできています。ところが、水はH2Oという物質的な本質は変わらないが、異なる三つの形態を持っています。一つ目は普通の水のままの状態で、二つ目は水を凍らせることによってできる氷です。そして三つ目は水を沸騰させることによってできる水蒸気です。私たちが命を保つために欠かせない水は、本質は同じですけれども、液体と固体と気体という異なる三つの形態になります。このように命の源である神様も、異なる働きのために、父と子と聖霊という三つの形になっていますが、その本質としては一つなのです。
三位一体の神様のそれぞれ異なる働きはこうなります。私たちが祈り、また語りかける神様は「天におられる父なる神様」です。父なる神様は「創造主としての神様」でもあります。その父なる神様がどのようなお方であるかを知るのは、「子なる神様であるイエス・キリスト」においてです。まるで親子が似ていることと同じように、子なるキリストは父なる神様のことを最も完璧に表されたのです。子なるキリストは「救い主としての神様」でもあります。そしてキリストを信じることを通して父なる神様に向かうことを可能にするのは、私たちを内から生かしてくださる「聖霊なる神様」です。この聖霊なる神様は今も私たちをお守り導いてくださる「命の与え主としての神様」です。そのような三位一体の神様は、昔も今もこれからも、私たちの信仰を支えて、命を守り導いてくださいます。
こういう理解に準じますと、実際に私たちは父と子と聖霊なる三位一体の神様に包まれて生きていると言えます。父と子と聖霊の三者は、私たちの命や信仰の根底的な構造となり、一人ひとりはその三位一体の神様のまっただ中で生かされているのです。そういった意味では、三位一体の教えは論理的に解明し理論的に理解しようとするよりは、三位一体の神様自らがご自身の神秘を表すことができるように、むしろ私たちが心を開いて自己存在を委ねることが求められます。知らないことの多い世の中において、自分自身を委ねることを通して三位一体の神様と共に、神秘に包まれた謎を一つひとつ解きながら生きていく私たちでありますようにお祈りいたします。
<福音書> ヨハネによる福音書 16章12~15節
12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」