聖路加国際大学 聖ルカ礼拝堂

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2025年6月29日(聖霊降臨後第3主日)(2025/07/03)

「 従う 」

韓国で尊敬される法頂(ボプチョン、1932-2010)という僧侶がいました。残した沢山のエッセイ集の中、『捨てて去る』という本があります。彼は本を通して、仏教の基本的な教えとは無所有、つまり何に対しても執着や未練を捨てて去ることだという言葉を残しました。私は彼の教えに因んで、キリスト教の教えは「捨てて従う」ことだと言い換えてみます。捨てていくのは仏教と同じですが、キリスト教はどこかへ漠然と去るのではなく、確実な存在であるキリストに従っていく信仰であるということです。ところが、キリストに従うというのは誤解されやすい概念でもあります。

心理学の分野で用いられる概念としてアンビバレンスの法則(Ambivalence Theory)というのがあります。ある対象に対して相反する感情や意見を同時に抱き、それが人間の心理や意思決定に影響を及ぼすことを指します。両価感情や両価性とも言いますが、言葉としての「従う」に対しても私たちは相反するイメージを抱きます。「従う」とは他者の意志や指示に対して自分の行動を合わせることを意味しますが、用い方には違いがあります。例えば、社会における権力的な組織構造としてヒエラルキー(hierarchie)や家父長制(patriarchy)のもとにおける「従う」は規律を守るための服従・順従・厳守というイメージがあり、その半面、精神的な悟りを追求する世界や伝統的な技を伝授するための徒弟制度(apprenticeship)においての「従う」は修行・修練・熟練のための学びというイメージがあります。前者は否定的で後者は肯定的なニュアンスがあるとしても両者の違いは紙一重であり、場合によって両者のイメージは混在しています。それゆえ、キリストに従うことは後者ではなく前者に近いイメージとして受け止められる場合もありますが、今日の福音書に登場して人たちがその例です。彼らはキリストから呼びかけられましたが、従うことについて誤解して重苦しく感じたのか、色々な言い訳をしてキリストから離れ自分の道を進んでいきました。

ではキリストに従うことは一体どういう意味なのでしょうか。それを知るために、日本語の文法で「従う」は「準じる」や「基づく」に代替されるということが参考になります。例えば、「…従って」という表現は、「…準じて」とか「…基づいて」というふうに和らげて使うこともあるのです。「準じる」ことや「基づく」ことは、何かを基準や根拠として行動することを意味するので、キリストに従うとはキリストを基準とし、福音を根拠として行動することを意味すると言えます。そういった意味でキリストに従うことは、キリストの呼びかけに応じなかった彼らが恐れたように人生を全て捨てる厳しい決断ではありません。誰もがアッシジのフランチェスコ(Francesco d'Assisi、1182-1226)のように、着ている服までも全部脱ぎ捨てて従うことができるのでも、また求められることでもないのです。それ以前に、キリストという基準について知り、福音という根拠について学び、それに準じ基づいて生きることが求められるわけです。

アメリカとカナダの国境にはナイアガラの滝があり、その上には両国を渡す高架橋があります。険しい滝の上に橋が建てられたことで多くの人が不思議がりますが、意外にもその建設にはごく基本的な過程があったのです。先ず、鳥の足に紐を縛って向こう側まで飛ばします。次はその紐に針金を縛って引っ張ります。針金をつなぐと、次は針金に太い綱を縛ってから引っ張り、その綱をつなぎます。そのようにいくつかの綱をつなぐことができたら、今度は人が綱の上に乗って橋を建てていくのです。広大な滝の上の橋の建設が細い紐から始まるように、キリストに従うことも同じです。キリストという基準について知り、福音という根拠について学ぶことこそが、キリストに従うことの始まりなのです。キリストに従うことは、キリストと福音という最も根本的で基本的なことから始まりますが、それを古くから教会は祈り・礼拝という言葉で表現してきました。祈りと礼拝を通してキリストと福音についての真の知識を得るようになるからです。キリストに従う一人ひとりの人生が豊かになることも、自分の家族や属している共同体や組織の未来も、すべて祈りと礼拝から始まります。


<福音書>ルカによる福音書9:51-62

51イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。 52そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。 53しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。 54弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。 55イエスは振り向いて二人を戒められた。 56そして、一行は別の村に行った。
弟子の覚悟
57一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。 58イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 59そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 60イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」 61また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 62イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

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