「 二人の犯罪人 」
古代ギリシャの哲学者ソクラテス(Socrates、BC469-BC399)が座右の銘にしていた“汝自身を知れ”という有名な格言があります。元々はデルフォイ神殿の入口に刻まれていた言葉で、人間に向けられた警告のようなものです。有限な存在である人間が身のほどを知らず、神になったかのようにうぬぼれると裁かれるというメッセージが込められています。このように自己存在について正しい認識を持つことが全ての学問や宗教の目的だと言えます。キリスト教の多くの営みも人間としての自己認識、さらにそこから導かれる神認識の深化のために行われています。キリスト教は少し特別な人間観を持っています。聖書の教えによると、私たち人間は偉大でありながらも弱い者です。神様のイメージ、つまり聖性とも言える神様の無限なる可能性を持って創造されているため偉大な存在ですが、一方で過ちに陥りやすいし一人では生きられない限界を持っている弱い存在です。それゆえ、人々は互いに協力し、また神様の助けを求め、力をいただきながら、自分の可能性を実現しながら生きているのです。
キリスト教の裏切り者の代名詞だとも言えるユダとペトロを通してもその理解を深めることができます。ペトロはキリストが捕らわれた後、三度もキリストを知らないと否定しました。そのようにキリストを裏切った後、泣きながら自分の過ちを後悔しました。恐らく彼は、自分の中に潜んでいた弱さと限界を知り、痛感したのでしょう。その悔い改めの過程を通して、彼は自分が持っている良し悪しをありのまま認めるようになり、そこからやっと本当の意味で弟子になり始めたのではないかと推察します。その反面、キリストを銀貨30枚で売ってしまったユダは、人間としての自分の弱さと限界を認めることはしませんでした。彼は後に、キリストを売り渡した自分の過ちを悔いはしたもののペトロのように改めることはせず、自分のことを自分が判断して自殺するというもう一つの過ちに陥ってしまいました。慈しみ深い神様へと戻ることなく、自分の世界に閉じこもった挙句、過ちに過ちを重ね、更なる悪の道へと走ってしまったわけです。このようにペトロとユダの間には、人間としての自己認識、また神認識についての差があり、それが天と地ほどに違う結果を生み出したのです。
今日の福音書に登場する二人の犯罪人からも、ペトロとユダに似たようなことが見出せます。同じく罪を犯した者としてキリストを中心に右と左の十字架にかけられていましたが、キリストに対する二人の態度は正反対でした。一人は、キリストに「お前がメシアではないか。自分と我々を救ってみろ」(39)と嘲って罵りました。一方でもう一人は、その人に「お前は神を恐れないのか」(40)、“我々がそれを言える立場ではない。身のほどを知れ”というようなことを語りました。さらに進んではキリストに「イエスよ、あなたの御国に行かれるときには、私を思い出してください。」(42)と救いまでも求めました。同じ立場にいながらも、二人は愚かさと賢さ、高慢と謙虚、不信と信仰、絶望と希望などを象徴的に表す者として描かれています。
さて、この二人は別々の人物であるというより、人間として私たちにある二面性を象徴的に示していると読むことができます。まるでローマ神話に登場するヤーヌス(Janus)の相反する二つの顔のように、善と悪など相反する二面性を同時に持っている人間そのものを表しているということです。人間は誰もが二面性を持っていますが、救いのためには、自分の裏切り行為を悔い改めたペトロと十字架上のキリストによって救われた一人の犯罪人から学ぶ必要があります。つまり、自分に二面性や限界をあることをありのまま認め、愚かさや過ちを悔い改め、さらに謙虚に神様によりたのむということです。言葉を言い換えますと、ユダのように自分の悪い部分を自分が判断し責めるのではなく、神様からいただいた聖性とも言える自分の中にある良い部分を、さらに養うように努めることが大事なことになるわけです。そうすれば私たちも救われた一人の犯罪人のように「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(43節)という恵みに預かることができるでしょう。
<福音書> ルカによる福音書 23章35~43節
35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。






