聖路加国際大学 聖ルカ礼拝堂

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2025年12月14日(降臨節第3主日)(2025/12/17)

「 執着と執念 」

修行の旅に出ている師匠と弟子がいました。ある日、小さな川辺に着いた二人は、川を渡ることができなくてそわそわしている若い女性に出会いました。女性の状況を慈しんだ師匠が彼女をおぶって川を渡してあげました。傍で師匠のその姿を見ていた弟子は、師匠の不敬な行為が頭から離れずにずっと心に引っかかっていました。弟子は幾日も悩んだ挙句、師匠に言いました。“先生、どうして真の修行を教える方が若い女性に手を触れたのですか。しかもおぶって。”すると師匠は“わしは川を渡った後、その女性を下ろしたが、君は心の中でまだおぶっているようだな。”と答えました。

禅仏教には、禅の根本を示す「不立文字」という教えがあります。文字や言葉には限界があるため、それらに頼らず直接的な体験を通じて悟りを得ることを示す概念として古くから重んじられてきた教えです。それに準じると、師匠の行為が理解できず不満をぶつけた弟子は、まだ文字や言葉による皮相的な教えにとどまっていたと言えます。もしかしたら自分が一生懸命に読んできた経典につづられている文字に執着して、それに心が縛られていたかもしれません。しかし真理や悟りの領域は、執着を通してはたどり着くことのできない世界です。いかなる執着も良しとされません。

宗教は執着ではなく執念の領域にあります。執着と執念は、共通して漢字の「執」(‘掴む’‘手でしっかりと持つ’という意味)によって成り立ち、両者ともにこだわりや強い意志のイメージがあるため、同じ概念だと思われる傾向があります。しかし両者には細やかではあるが明確な違いがあります。それは「着」と「念」の違いとして、執着が何かに強く貼り付いて動かないことだとすると、執念は一種の念願の領域として思いと願いを深めることによる進歩の可能性があるということです。つまり、過去に止まろうとする傾向にあるのか、若しくは未来への変化の余地があるのかによって両者の違いが生じるのです。ところが、執念も「念」の部分が形式的で機械的になると、いつでも執着に後退してしまう可能性がります。女性に手を触れたにも拘わらず、それを心に残すことなく悟りの境地へと進んだ師匠は執念の領域を象徴し、過去に止まって何日も女性のことに心を縛られていた弟子は執着の領域を象徴すると言えます。宗教において、執念は私たちの存在を真理や進歩へと導き、執着は私たちの魂を過去の奴隷の状態へと転落させます。

今日の福音書の主人公である洗礼者ヨハネは、まさに執念の男でした。強い念願を以て執念深くキリストの道を整え、そのキリストを通して神の国が実現できるようすべてを捧げた彼には、過去に止まることも目先のことに執着することもありませんでした。偏にキリストの道を整えることに徹底するため、彼は荒れ野を拠点としながら「らくだの毛衣を着、腰には革の帯を締め、ばったと野蜜を食べ物とする。」(マタイ3:4)など、極限までシンプルに生きました。洗礼者ヨハネの執念は、牢に閉じ込められた時にも弟子たちをキリストのところに送って「来るべき方は、あなたですか。」(3節)と尋ねさせたことからも読み取れますが、最終的に彼は自分の命までもその執念を成し遂げるために捧げました。執着が過去や目先のことに心が置かれていることだとすると、執念は未来やもっと広大なことに念願を込めて心を置くことだと言えます。まるで、波乗りをするときに、足元のサーフボードだけに執着し、寄ってくる目先の波を気にするとバランスが崩れ海に落ちるが、広い海を見渡しながら執念を以て進みたいところを見据えると不思議にも波に乗れるようなことだと言えます。波乗りは、私たちが心から強く願っている念願が、どのように叶えられるのかについてのヒントを与えてくれます。

ではいかがでしょうか、皆さんにはどのような念願と執念があり、それを成し遂げるためにどのように取り組んでいるのでしょうか。「念」の部分が形式的で機械的になると、念願はマンネリ化しやすくなり、執念は執着に変わりやすいものでもあります。2025年も終わりに近づいているこの年末、去る一年間を振り返りながら省察し、また新しい年に備えるひと時を過ごすのはいかがでしょうか。


<福音書> マタイによる福音書 11章2~11節

2ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 6わたしにつまずかない人は幸いである。」 7ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。 8では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。 9では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
10『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。 11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

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