「 あだ名 」
キリストにはあだ名があります。本名は天使に示されて親から名付けられた「イエス」ですが、それにもう一つ、古くから預言されていた「インマヌエル」というあだ名のような名前もあります。イエスは「主は救い」という意味で、インマヌエルは、インマヌ(我らと共にいる)とエル(神)が組み合わさって「神は我らと共にいる」という意味です。預言とは、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ書7:14)というものですが、インマヌエルとして生まれたキリストは、救い主として時間と空間の隔てを超えていつどこにおいても私たちと共におられます。時間と空間をそれぞれ取り上げて考えてみましょう。
[時間]。よく神様を永遠なる存在だと表現します。それは神様が時間の創り主であるために時間の概念に支配されることなく、永遠なる今を生きているということを表します。父なる神様と同じように子なる神様であるキリストも、インマヌエルとして過去・現在・未来という時間の概念に縛られずすべての時において私たちと共におられます。キリストは、今現在の私たちが嬉しいときにも悲しいときにも共におられ、そして過去の先祖とも未来の子孫とも永遠に共におられます。それは復活の後、天に戻られる昇天の際、弟子たちに残してくださった最後のみ言葉からも読み取ることができます。キリストは「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と約束してくださいました。それこそ時間の創り主である神様の心、救い主であるインマヌエルのキリストの本質なのです。
[空間]。インマヌエルのキリストは、空間の隔たりを超えて私たちと共におられます。福音書の教えに準じますと、空間の隔たりを超えて私たちに近づいてくださる神様、私たちとの出会いを待ってくださるキリストのことを見出せる三つの場面が挙げられます。一つ目は信仰的な兄弟姉妹の中です。キリスト自らが「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる。」(マタイ18:20)と語られたように、教会共同体の中でキリストに出会えます。二つ目は聖餐の中です。聖餐式の感謝聖別の部分で、司祭はキリストの代わりとしての役割を担います。司祭は、パンを取り上げて「取って食べなさい。これはあなた方のために与える私の体です。」(マタイ26:26-28参考)と語り、杯も取って「皆この杯から飲みなさい。これは罪の赦しを得させるようにと、あなたがたおよび多くの人のために流す私の新しい契約の血です。」(ルカ22:19-20参考)と述べるのですが、インマヌエルのキリストはその聖餐の中に臨在されます。私たちは聖餐に与ることを通してキリストが私たちと共におられることを確認し、さらにはキリストと一つになることを実感できます。そして三つ目はキリストが「よく言っておく。この最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」(マタイ25:40)と語られたように、世の中、ことに弱く小さくされている人々を通してインマヌエルのキリストに出会えます。
三つの場面以外にも、私たちがインマヌエルのキリストに出会える可能性はすべての空間や場所へと開かれています。つまり、私たちはあらゆる場面や出来事を通してキリストに出会えるのです。そのことについて見事に告白した祈祷文がありますので紹介いたします。聖公会の聖人で5世紀のアイルランドの主教聖パトリック(St.Patrick、387-461)の祈りです。“キリストは、私と共におられます。私の中に、後ろに、前に、側におられて、私を助け、慰め、回復してくださいます。キリストは私の下に、上におられます。キリストは静けさの中にも、危険の中にもおられます。キリストは、私の愛する全ての人の心の中におられ、また友や見知らぬ人の言葉の中にもおられます。” クリスマスまであとわずかです。インマヌエルのキリストの誕生が、他ではなく自分自身を通して、去年でも来年でもなく今現在に成し遂げられるように準備し、「神は我らと共にいる」というインマヌエルの恵みに与る私たちでありますように祈ります。
<福音書> マタイによる福音書 1章18~25節
18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。






