聖路加国際大学 聖ルカ礼拝堂

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2026年1月18日(顕現後第2主日)(2026/01/22)

「 姿なき姿 」

“全ての見えるものは見えないものに、聞こえるものは聞こえないものに、感じられるものは感じられないものにつながっている。おそらく、考えられるものは考えられないものにつながっているだろう。” 19世紀のドイツの詩人で思想家のノヴァーリス(Novalis、1772-1801)の言葉ですが、これはキリスト教を含めてほとんどの宗教や霊性の営みにも通じます。キリスト教では神様を「姿なき姿」「声なき声」「力なき力」などと表現することもあります。つまり、神様は人間の感覚を超えた領域の存在であるけれども、私たちは見ること・聞くこと・考えることなどを通してその神様に接して交わることができる、という理解なのです。そういった意味で、私たちは見ること・聞くこと・考えることを通して救いへと導かれることができると言えます。

今日の福音書の中で洗礼者ヨハネが、自分の弟子たちに二度も「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(29節、35節)つまり世を救うために来られたキリストだ、と語りかけたこともその延長線上で理解することができます。洗礼者ヨハネの弟子たちは、救い主キリストを自分の目で直接見ることになり、キリストに従って救いの道へと進むようになりました。彼らはキリストを通して「姿なき姿」である神様を見出すようになり、救いに与るようになったのです。ではいかがでしょうか、今の時代の私たちは洗礼者ヨハネと弟子たちのように、キリストに直接会うことができませんが、何を通して救いへと導かれるのでしょうか。キリストのいない今の時代の私たちは、何を通して、どのように姿なき姿である神様を見出せるのでしょうか。

“キリストは仮面を被ってこられる。”という話があります。水戸黄門が姿を隠して各地を回りながら人々を助け、世直しに務めたように、今の時代においてキリストは様々な仮面を被ってこの世に来られて、私たちに接してくださいます。思わぬときにそっと近寄っては、困っている人を助けたり、寂しい人を慰めたり、元気をなくした人に寄り添ったり、意地悪な人に御心を伝えたりしながら、私たちを救いへと導いてくださるのです。また聖公会の聖人で5世紀のアイルランドの主教聖パトリック(St. Patrick、386-461)は「沈黙の中におられるキリスト、危険の中におられるキリスト、友と見知らぬ人の中におられるキリスト」と書かれた札を、いつも胸に付けていた、という伝承があります。
これらのことに準じますと、キリストは私たちがどのような状況の中にいても、また様々な人の姿を借りて、私たちが必要とされるときに近寄ってきては救いへと導いてくださるのです。そのように、私たちは特定な何かだけではなく、ありとあらゆることに巡り合い、それらを見ることを通して、感覚を超えた領域の存在である「姿なき姿」の神様に出会い、その神様から真理・愛・希望・慰め・癒し・力などを頂くように導かれます。それが救いのために今日の私たち一人ひとり、信仰のあるなしを問わず誰にでも開かれている恵みなのです。

見えない・聞こえない・話せないという三重苦を抱えながらも人々に希望と影響を与えたヘレン・ケラー(Helen Adams Keller、1880-1968)は、視覚障害を持つ自らの体験から見ることの素晴らしさについてこう語りました。“見ることができない私は、単なる体の触感だけで私の興味を引く何百もの気づきを見つけ出します。… そして時折、運がよければ、手を小さな木の上に置くことだけで、歌っている鳥たちの幸せな振動も感じます。そのようなときに私の心は、これらのものを直接見たくて叫びます。ただ触れるだけでこんなにも多くの喜びが得られるのに、もし直接見ることができたならどれほど多くの美しさを感じるようになるのでしょう。残念なことに見える目を持っている人々は殆どの物事を見ていません。いや見えないのかもしれません。光の世界の中にいながらも、視覚というプレゼントは人生に豊かさを与える手段としてではなく、単なる便利さとしてのみ用いられているからです。これは非常に残念なことです。私は、目は見えませんが世界を埋め尽くす色彩と動きのパノラマを感謝のうちに捉えるつもりです。” ではいかがでしょうか、皆さんは神様からいただいた感覚、ことに視覚というプレゼントをどのように用いているのでしょうか。見ることを通して、どのくらい「姿なき姿」の神様の恵みに与っているのでしょうか。


<福音書> ヨハネによる福音書 1章29~41節

29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」 32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
最初の弟子たち
35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。 37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、 39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。 40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
                       

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