聖路加国際大学 聖ルカ礼拝堂

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2026年3月22日(大斎節第5主日)(2026/04/02)

「 甦り 」

ドイツのある牧師が、子どもの葬儀で今日の福音書のあるラザロの復活物語を用いて説教する折に遺族から強く反論された、という話があります。親は牧師に向かって“イエス様は死んで四日も経っているラザロを甦らせました。私も愛する子の甦りを必死で祈りましたが叶えてもらえませんでした。それはどうしてですか。ラザロの復活は嘘だったのですか。”と嘆いて言いました。私たちはこの疑問にちゃんと向き合わなくてはなりません。そのためには先ずキリスト者にとって復活と命とは何かについて正しく理解する必要があります。ギリシャ語で命を意味する言葉は大きく2種類あります。一つは生物的な命を意味するビオス(bios)で、もう一つは霊的な命を指すゾーエー(zoe)です。ラザロの復活物語における命にはゾーエーが用いられています。つまりラザロの復活は、生物的ではなく霊的な命の甦りを意味するのです。キリストの復活に与る者として霊的に生まれ変わって新たな存在として生きるようになるということです。生物的な命は有限で、ラザロはもちろん全ての人間は、仮に生物的に甦っても再び死ぬのです。

今日の福音書の舞台はベタニアという村です。ベタニアはラザロとマルタとマリアの三兄弟が住んでいた、エルサレムから3キロほど離れた小さな村です。言葉としてベタニアは「悩みの家」という意味です。どうしてそのような悲しい名前の村になったかは分りませんが、キリストが愛された村の名前がそうであることを知るとき、私たちの心にも慰めが与えられます。私たちは皆、悩みを持っているからです。果たして悩みのない人、悩みのない家がこの世にあるのでしょうか。世の全ての人々は「悩みの家」そのものだと言っても過言ではありません。さらに「悩みの家」で死んで甦ったラザロの名前も私たちに重要な意義をあたえてくえますが、それはヘブライ語で「神は助ける」という意味です。キリストによって甦ったラザロは、悩みのただ中でも神様の助けを信じてひとえに神様に頼って生きる私たちのことを象徴的に示しています。つまり私たち一人ひとりは、ベタニアという悩みの家に居ながら神様の助けと復活を求めている今日のラザロそのものなのです。

それならば今日のラザロである私たちに、復活はどのように訪れるのでしょうか。もし私たちが霊的な側面で深い眠りに陥っているとしますと、復活のためには何が求められるのでしょうか。先ず復活の源であるキリストを迎え入れなくてはなりませんが、今日の福音書によりますとラザロの復活のためにマルタとマリアが交互にキリストを出迎えたということが分かります。つまり積極的にキリストを迎え入れたマルタとマリアによる愛の行いが、ラザロの復活の始まりだったのです。今日のラザロである私たちの復活、つまり私たちが霊的に生まれ変わり新たな存在として生きるためにも愛が、ことにマルタとマリアの愛が求められます。マルタとマリアのどちらだけではなく、両者の愛が求められるのです。

古くからキリスト教において、マルタは行動的な営みとして奉仕を、マリアは静寂的な営みとして祈りを象徴してきました。どちらが優れた営みなのかという論争がありますが、奉仕することと祈ることは決して分離できる事柄ではなく、どちらも大事な愛の営みなのです。今日のラザロである私たちの復活のためにも、マルタとマリアによる愛として奉仕と祈りどちらも求められます。マルタとマリアは、私たちの中にある愛の二つの要素です。まるで左右の手のように、私たちは両手を通して奉仕し両手を合わせて祈ります。そして両手のようなマルタとマリアによって、私たちの魂は復活の源であるキリストへと導かれるのです。アメリカの公民権運動家で詩人マヤ・アンジェロウ(Maya Angelou、1928-2014)が、“愛が私を救うこと、そして愛は私たちすべてを救うために存在することを、私は確信しています。”と語ったように、奉仕と祈りの愛の営みによって一人の人間も人類も救いへと導かれます。


<福音書> ヨハネによる福音書 11章17~32、41~44節

17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。 30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。 32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。

41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。



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