「 門 」
マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887-1968)は、セラミック素材の男性用小便器を展示しそれに『泉(Fountain)』(1917)というタイトルを付けました。20世紀美術に決定的な影響を残したと評されるこの衝撃な傑作は現代アートの出発点とも言われます。また、空中に浮かぶ岩、鳥の形に切り抜かれた青空など不可思議なイメージの絵画を通して「目に見える思考」を表現しようとしたルネ・マグリット(René Magritte、1898-1967)は、パイプの絵を描いてその下に“これはパイプではない(Ceci n’est pas une pipe)”と書いておきました。絵のタイトルは『イメージの裏切り(La trahison des images)』(1929)です。
これらの作品は、表現された対象が持っている本来の意味を超えて別の意味を伝える、いわゆるメタメッセージ(metamessage)の例でもあります。今日の聖書の中でキリストが「私は羊の門である」(7節)・「私は門である」(9節)と語ったこともその一環として読むことができます。キリストがご自身のことを門だと表現したことには、実際に私たちが出入りする門以上の意味があります。宗教や文化人類学において門は、古くから境界・権威・保護・通過・変容などの象徴的な意味を持つものとして重んじられてきました。ことに「内と外」「聖と俗」「生と死」「旧い自己と新しい自己」を分かつ境界であり、そこを通る者は何らかの変化や内面的な変容を経験するという理解があります。例えば、日本において神社の鳥居や寺院の山門には、俗界と神界を分ける象徴的な役割があります。それゆえ鳥居や山門をくぐる行為は、穢れを離れ神聖な領域へと入ることを意味し、心と体を清める儀礼的な通過行為として認識されています。
キリストが自らを門だと語ったこともその延長線上で解釈することができます。当時中東地方には羊を飼って生計を立てる人が多くいました。大半の羊飼いは貧しかったので村の人々が一緒に造った共同の囲いを使いました。共同の囲いは石垣を四角の形で大きく囲んで、門を一つ設けておくのが一般的でした。門を一つだけにしたことは効率的に羊たちを保護するためでしたが、門には門番がいて夜の間に狼や泥棒から羊を守りました。そして朝になったら、羊飼いたちは門番の確認を得てから囲いに入り、自分の羊たちを呼び集めて牧草や水のある草原へと連れて行ったのです。このような当時の文化的な背景に準じますと、キリストは世の中という囲いにおいて、羊に喩えられている私たちを保護し、また養うための門だと理解することができます。つまり暗い夜には狼や泥棒のような霊的な危険から守る門であり、明るい昼には命を育ませるための糧と水の草原へと開かれている門なのです。
ヴィクター・ターナー(Victor Witter Turner、1920-1983)などの人類学者が提唱したリミナリティ(liminality)・リミナル(liminal)という言葉があります。敷居を意味するラテン語のリーメン(līmen)に由来するリミナリティは、内でも外でもない間の境界的領域を指すため中途半端で不安定でありますが、その一方で新しい創造性や可能性が秘められている状態でもあります。キリストが門であることは、キリスト自らがリミナルの境界的な状態に立たれ、「内と外」「聖と俗」「生と死」のどちらかではなく両者をつなぎ統合する存在であり、それは羊である私たちを時には守り、時には豊かな命の世界へと案内するためである、ということを表します。キリストという門は目には見えませんが、いつどこにおいても私たちが新しい命・内面的な変容・未来への可能性・豊かな世界へと進み出るように開かれている門なのです。
<福音書> ヨハネによる福音書 10章1~10節
1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 2門から入る者が羊飼いである。 3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。






