大阪教区報第531号

大阪教区報第531号(2026年6月20日号)が発行されました。
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*以下では、教区報の記事本文(礼拝・プログラム情報以外)のみを掲載しています。

司祭ヤコブ義平雅夫

少しずつ呼吸が弱くなる高齢の母の傍らで私はこの原稿を書いている。これが活字となって皆さんの手元に届く頃には、その見守りの日々もきっと終りを迎えていると思う。そんなことを思い巡らしながら、私はここ数日を過ごしている。

スポンジに水を含ませて口を拭いたり小さい氷を含ませたりしながら私は、母の耳もとで「仏さんにまかしたらええんやで」と言う。母は頷いている。それは神仏を大切にしていた母に少しでも安心してほしいと願う私からの最後の言葉かけの一つであった。

母方の曽祖父は僧侶だったので、私は小さい頃からそういった宗教的雰囲気の中でに、どこか「大事にしないといけない」と感じられることでもあった。

そんな環境に育った私は、子どもの頃、時々母から「仏さんにお願いしとき」という言葉をかけてもらった記憶がある。可愛がっていた犬が亡育った。母は毎朝仏壇にお水をあげて、夕方ご飯が炊けるとまずお仏飯にして供えた。時々子どもたちもそれを手伝わされたが、それは私たちにとって面倒であったと同時くなってしまって涙が止まらなかった私に、母が「仏さんにお願いしとき」と言った。

悲しかったけれど、その一言を聞くとなぜか安心した。それは悲しみがそのまま包まれているような不思議な感覚だった。

中学1年の時に大好きだった祖母が亡くなった。動かなくなった祖母の手を一所懸命さすりながら、私は心の中でやっぱり仏さんにお願いしていた。願いながら何を願っていたのか自分でもわからない。だから「願っていた」というより「すがっていた」と言った方がいいかもしれない。すがるとはきっとそういうことなのだろうと思う。そんな子どもが大きくなって牧師になった。

イエスがゼベダイの息子たちの母に「あなたがたは自分が何を願っているか分かっていない」(マタイ2)と言われた個所や、また、「もしあなたが望んでくださるなら」と願った病人に対してイエスが「わたしの心(願い)だ、清くなれ」(マタイ8:3)と言って癒された場面がある。ここには、自分が何を願っているのか本当は自分でもわかっていない人間と、究極的には、全幅の信頼を寄せる神の願いが自分に起こることしか願えない人間の姿が描かれている。だからイエスはイエス自身の願いとしてこの病人を癒してくださった。イエスが私に実現するよう望んでくださる望みにすべてお任せする-「すがる」とはこういうことだと思う。

少しずつ呼吸が弱く浅くなる母の手を握りながら、私はもう一度、「仏さんにまかしたらええんやで」と声をかける。母への言葉として。そして、私たち家族が共有するこころの土台として。そのような土台を持たせてくださったのは、他ならぬイエス・キリストを通した神ご自身の望みであると私は信頼し、母の命を神に委ねるのである。

(守口聖オーガスティン教会牧師・守口ぶどうのいえ施設長)

サラ田中愛子

5月14日、今年の昇天日礼拝は石橋聖トマス教会で行われました。お天気にも恵まれ、坂を上って、大きな十字架のある建物を見上げた時のきれいな大空と、トマス教会の信徒の方々の、入り口で一人一人を迎え入れて下さる温かさが大変印象的でした。

礼拝は、司式がバルナバ小林聡主教、説教はステラ・ミシェル大倉有紀執事でした。大倉執事の説教は、まず、「キリストの昇天」を題材とした四つの宗教絵画の紹介から始まりました。レンブラント、ジョット、ダリ、マンテーニャ。マルコによる福音書第16章 節、「主イエスは、 弟子たちと話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」とある「キリストの昇天」が四人の画家それぞれの捉え方で、個性的に描かれていて、その対比が面白かったです。

また、聖書箇所、マルコによる福音書第16章9~115、19~ 節のお話で、マグダラのマリアや二人の弟子にイエスが姿を見せたことを伝えても、人々は信じなかったり、イエスを受け入れることができずにいたこと。人々の不信仰、かたくなな心。そのような弱い自分、人間であっても、イエスは私達を愛して下さっていることに、自分自身も大変勇気づけられ、また、感謝の気持ちで一杯になりました。

当日の出席者は105名。献金は117.120円。献金先は、長崎聖三一教会(九州教区)の教会補修、大阪聖三一教会です。ありがとうございました。

そして、午後には第102回総会が開かれました。今回は、議案審議の中で、婦人会会則を改定する箇所があり、質疑応答も活発な中、満場一致で可決となりました。出席者は81人でした。ありがとうございました。今後の婦人会の活動もどうぞお祈りください。

主に平和

(堺聖テモテ教会)

司祭バルナバ永野拓也

私たちは信仰生活の中で「宣教」という言葉を耳にする機会があります。一方で、「宣教とは何なのか?」と問われると、実は人によって様々な答えが返ってくるのではないでしょうか。それだけ、「宣教」という言葉が多様な意味を持つことを表していると思います。

福音書は、イエスさまが「時は満ち、神の国は近づいた(マコ1:15他)」と語り、宣教を始められたと述べています。つまり、イエスさまにとって「神の国」を伝えることこそが、「宣教」の中心だったと言えるでしょう。しかし、「神の国」とは何なのかと問われると、私たちは改めて考え込んでしまいます。そんな私たちに「神の国」という言葉について示唆を与えてくれるのが、今回紹介する「『神の王国』を求めて近代以降の研究史」です。

本書の著者である山口希生氏は、著名な新約学者でもある英国聖公会のN.T.ライト主教の弟子の一人です。その山口氏が、 教役者だけではなく信徒も対象に発行されている『舟の右側』という月刊誌で三年にわたって連載していた「神の王国」という記事を書籍化したものが、本書です。興味深いのは、山口氏の持論を展開しているというよりも、19世紀以降に多くの研究者が「神の王国」という言葉をどのように考えたかということが、丁寧に語られている点です。例えば神の国は「自分たちの心の中で実現するものだ」という意見もあれば、「将来実現するもの」という考え方も示されています。「神の国」という概念が、如何に多様なものか、そして多くの人々によって論じられてきたかを知ることは、「宣教」という言葉を巡って、葛藤している私たちにとって意味深いものであると考えます。

ちなみに、神戸教区では4月から月に一度、オンラインで教役者の有志で本書の読書会を開催しています。興味のある方は、是非永野までお声掛けください。「神の国」について共に学びながら、「宣教」について考えを深めていければと思います。

(プール学院中高チャプレン)

司祭フランチェスコ成岡宏晃

去る、3月22日(土)と4月 に大阪聖愛教会にて岩城聰司祭を講師に迎えて、「キリスト教シオニズム」についての学びの時を過ごした。大阪聖愛教会のみなさま、とくに牧師の古澤司祭のホスピタリティには感謝をしてもし尽せません。

講演ではまず、聖書の極端な字義的解釈や「ディスペンセーション主義」に立って現代のイスラエル国家を無条件に支持する思想に基づき、パレスチナを排他的にユダヤ人のものとし、中東での戦争を世界最終戦争(ハルマゲドン)やイエス再臨への「神の計画」として待望する神学への危機が語られた。

世紀英国のJ. N.ダービーらによって体系化されたこの思想は、大英帝国の植民地主義的野望と結びつき発展した。 世紀後半には米国の「福音派」を中心に爆発的に広がり、強力な政治的影響力を持つに至ったことが語られた。

現在、パレスチナでは入植植民地主義による土地の強奪、アパルトヘイト、そしてガザでのジェノサイドやインフラ破壊(ドミサイド)が進行しており、キリスト教シオニズムはこれらの暴力を宗教的に正当化し、人権を軽視して平和への展望を阻害していると岩城司祭は語気を強めた。日本でもこの思想が浸透している実態が報告された。

岩城司祭は、聖書のイスラエルと現代の「世俗国家イスラエル」は別物であり、両者を同一視して現在の暴力を正当化することは「神への冒流」であると強く批判し、神は弱く虐げられた者を愛される平和の神であり、私たちは現地の「生ける石」であるパレスチナ人クリスチャンの叫びに耳を傾け、彼らと連帯すべきであると主張した。

信仰が政治的野心や差別の道具とされる危うさに触れ、富や力を振りかざす道ではなく、福音の根幹である神の義と愛に基づく共同体を追求し続ける信仰生活を大切にしなければないと深く感じた。

(芦屋聖マルコ教会牧師)

司祭ジョイ千松清美

去る3月 日(金・祝)午前10時から午後4時まで、守口聖オーガスティン教会において大阪教区聖職養成委員会主催「春の教役者黙想会(黙想と研修)」が開催され、教役者11人が出席しました。内田望司祭が講師を務め、「病床訪問(病床聖餐・塗油・死に臨んでいる人のための嘆願)」と「通夜の祈り~葬送の式」について、それぞれ基本事項のレクチャーと質疑応答、意見交換とそれに続く黙想を行ないました。祈祷書に基づく基本事項のレクチャーは、ルブリックにある言葉の大切さが語られ、それぞれに必要な式服や聖具の準備など実際的な説明は大変参考になり、私たちに欠けていた点や気づかされた点はすぐにでも実行できる研修となりました。また意見交換においては、教役者の日々の牧会でどのように考え、対応すればよいのかをこれまでの経験から具体的な意見が多く述べられ、自身の牧会内容の確認と反省、そして励ましを受けとることができました。黙想では悩み落ち込む出来事が頭の中を巡りながらも、主の臨在と導きのもとで平常心が与えられるときを過ごさせてもらいました。講師を務めてくださった内田望司祭のレクチャーは教役者としての働きにおいて実践的で現実味あるものでしたので、別の項目で第2弾を期待したいです。

(石橋聖トマス教会牧師・東豊中聖ミカエル教会管理牧師)

司祭ヒューム ウィリアム ユーワン

2026年3月25日、「聖マリヤへのみ告げの日」にカンタベリー大聖堂においてサラ・ムラリー主教 (Sarah Mullally)がカンタベリー大主教として就任しました。1月28日に聖パウロ大聖堂において行われた当選確認式によってムラリー主教はカンタベリー大主教となりました。その式の中で、ムラリー大主教は首座主教の十字架を受け取り、カンタベリー大主教として初めての祝祷を行ったということです。更に、2月5日にムラリー大主教はカンタベリー大主教としてイギリスの上院議員の中の聖職貴族(Lords Spiritual)の一人となりました。

3月25日の礼拝の中で一番重要な部分は着座式です。の初めにサラ・ムラリー師をカンタベリー大主教として任命するため、国王チャールズ3世からの任命書が読み上げられました。その後、新カンタベリー大主教は入堂が許されました。

カンタベリー大主教はカンタベリー教区の大主教だけでなく、全英国教会首座主教(the Primateof All England)ですので、そのことを反映するため、着座式は二つ行います。最初に、カンタベリー大聖堂の大執事がムラリー大主教をカンタベリー教区の座席に着座させ、そしてカンタベリー管区の教務院長であるウィンチェスター教区主教が新大主教を祝福しました。最後に、カンタベリー大聖堂の主任司祭が牧杖をムラリー師に渡したことによって、彼女はカンタベリー教区の大主教に就任しました。続いて全英国教会首座主教に就任するため、カンタベリー大聖堂の主任司祭は新大主教をカンタベリーの聖オーガスチンの椅子に着座させました。また、カンタベリー大主教はアングリカン・コミュニオンの代表式者(primus inter pares)ですので、着座後にアングリカン・コミュニオンの総長からコンパス・ローズが渡されました。

ムラリー師が女性として初めてカンタベリー大主教に就任したことによって、ガラスの天井が打ち破られ、英国教会は新時代に入ったと言えるでしょう。

(堺聖テモテ教会牧師、聖ルカ教会管理牧師、桃山学院大学チャプレン、東光学園チャプレン)

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