第六編 長崎時代(上)

第六編 長崎時代 (上)

一、ウイリアムス師の來任

 一千八百五十九年(ねん)六月(ぐわつ)下旬(げじゆん)、我(わ)が帝國(ていこく)長崎(ながさき)港内(かうない)に、米國(べいこく)軍艦(ぐんかん)ゼルマントンが投錨(とうべう)した。數日(すうじつ)の後(のち)同艦(どうかん)より一卷(くわん)の聖書(せいしよ)を手(て)にして、上陸(じやうりく)したる碧眼(へきがん)美髯(びぜん)の少壯(せうさう)の聖徒(せいと)があつた。彼(かれ)は基督(きりすと)の深愛大慈(しんあいだいぢ)に驅(か)られ、雄心(ゆうしん)勃勃(ぼつぼつ)異境(いきやう)傳道(でんだう)の念(ねん)禁(きん)ずる能(あた)はず、其(その)剛毅(がうき)不撓(ふたう)の英魂(えいこん)温容(をんよう)の裏(うち)に包(つゝ)み、福音(ふくいん)宣傳(せんでん)の大命(たいめい)を奉戴(ほうたい)して、終生(しゆうせい)を此國(このくに)に献(けん)ずべく來(きた)つた。是(これ)ぞ、我等(われら)が敬愛(けいあい)する故(こ)監督(かんとく)、チヤニング、ムーア、ウイリアムス師(し)である。
 師(し)の長崎(ながさき)上陸(じやうりく)の日(ひ)は、遺憾(ゐかん)ながら明(あきら)かでない。リギンス師(し)の書信(しよしん)には、「氏(し)は、ゼルマントン艦長(かんちやう)の厚意(かうい)により、同艦(どうかん)に乘(じよう)じて上海(しやんはい)を出立(しゆつたつ)し、七月(ぐわつ)初旬(しよじゆん)に我(わ)が許(もと)に來(きた)れり」とある。兎(と)に角(かく)師(し)の上陸(じやうりく)は我(わ)が安政(あんせい)六年(ねん)六月(ぐわつ)にして、幕府(ばくふ)が前年(ぜんねん)(安政(あんせい)五年(ねん))調印(てういん)したる條約(でうやく)の明文(めいぶん)に從(したが)ひ、米(べい)魯(ろ)蘭(らん)英(えい)佛(ふつ)の五國(こく)の爲(ため)に、神奈川(かながは)(橫濱(よこはま))箱館(はこだて)長崎(ながさき)の三港(かう)を開(ひら)き、其(その)外交官(ぐわいかうくわん)の駐在(ちゆうざい)を江戸(えど)に許(ゆる)す事(こと)を實行(じつかう)したる日(ひ)(安政六年六月二日 千八百五十九年七月四日)の前後(ぜんご)であつた。

二、當時我國の状態

 當時(たうじ)我國(わがくに)は過激(くわげき)なる攘夷(じやうい)熱(ねつ)の熾(さかん)に燃(も)え立(た)つた時(とき)であつた。抑(そ)も我國(わがくに)が尊内(そんない)卑下(ひげ)の精神(せいしん)を以(も)て、外人(ぐわいじん)を拒絶(きよぜつ)するや其(その)由來(ゆらい)久(ひさ)しいものである。德川(とくがは)政府(せいふ)は嚴(げん)に外人(ぐわいじん)との交際(かうさい)を禁(きん)じ、之(これ)を犯(おか)す者(もの)は重刑(ぢゆうけい)に處(しよ)し、特(とく)に文政(ぶんせい)年間(ねんかん)、異國(いこく)船(せん)打拂(うちはらひ)の攘夷(じやうい)令(れい)を國内(こくない)に布告(ふこく)し、外人(ぐわいじん)憎惡(ぞうを)の念(ねん)を養成(やうせい)し、久(ひさ)しく此(この)氣風(きふう)を養(やしな)ひ來(きた)りしを以(も)て、癸丑甲寅の際(さい)は、上下(じやうげ)の議論(ぎろん)は皆(みな)攘夷(じやうい)に傾(かたむ)き、夷賊(いぞく)傲慢(がうまん)無禮(ぶれい)神州(しんしう)を汚辱(をじゆく)す、豈(あ)に膺懲(ようちよう)の典(てん)を擧(あ)げざる可(べ)けんやとて、理由(りいう)も無(な)く斷然(だんぜん)砲火(はうくわ)を以(も)て打拂(うちはら)ふべしとは、攘夷家(じやういか)の口(くち)にする所(ところ)であつた。
然(しか)るに、自(みづか)ら外交(ぐわいかう)を禁(きん)じたる幕府(ばくふ)は、目下(もくか)兵備(へいび)全(まつた)からざるを以(も)て、一時(じ)の權道(けんだう)に由(より)て和約(わやく)したるのみ、兵備(へいび)を整(とゝの)へ其(その)全(まつた)きに到(いた)らば、攘夷(じやうい)の目的(もくてき)を達(たつ)すべしとの口實(こうじつ)を以(も)て、米國(べいこく)と和親(わしん)條約(でうやく)を締結(ていけつ)し、爾來(じらい)數年間(すうねんかん)表面上(へうめんじやう)には兵備(へいび)の事(こと)を令達(れいたつ)したれども、外國(ぐわいこく)の強請(きやうせい)に遭(あ)ひ、且(かつ)は實地(じつち)の應接(おうせつ)によりて、到底(たうてい)開國(かいこく)の止(や)む可(べ)からず、攘夷(じやうい)の行(おこな)ふ可(べ)からざるを覺(さと)り、遂(つひ)に安政(あんせい)四年(ねん)外國(ぐわいこく)使臣(ししん)出府(しゆつぷ)登城(とじやう)拜謁(はいえつ)、和親(わしん)貿易(ぼうえき)の條約(でうやく)を取結(とりむず)ぶに至(いた)りしかば、天下(てんか)紛々(ふんふん)幕府(ばくふ)が外夷(ぐわいい)に屈(くつ)するを難(なん)ずる聲(こゑ)四方(はう)に起(おこ)り、攘夷家(じやういか)の氣焔(きえん)は益々(ますます)激烈(げきれつ)になつた。
既(すで)にして安政(あんせい)五年(ねん)四月(ぐわつ)、井伊(ゐい)掃部頭(かもんのかみ)大老職(たいらうしよく)に就(つ)くや、諸(しよ)強藩(きやうはん)有志者(いうししや)が望(のぞみ)を屬(しよく)したる一橋(ひとつばし)卿(きやう)を退(しりぞ)け、紀州家(きしうけ)を養君(やうくん)に立(た)て、天下(てんか)の人士(じんし)をして愈々(いよいよ)攘夷(じやうい)の實行(じつかう)に望(のぞみ)を絶(た)つに至(いた)らしめ、更(さら)に翌(よく)五年(ねん)六月(ぐわつ)勅許(ちよくきよ)を經(へ)ずして、專斷(せんだん)を以(も)て條約(でうやく)に調印(てういん)し、宿次(しゆくじ)奉書(ほうしよ)を以(も)て之(これ)を上奏(じやうそう)するや、天下(てんか)の志士(しし)は切齒(せつし)悲憤(ひふん)刀(たう)を堤(ひつさ)げて蹶起(けつき)した。
此(この)時(とき)よりして攘夷(じやうい)論(ろん)は、益々(ますます)尊王(そんわう)論(ろん)と聯貫(れんくわん)し、尊攘(そんじやう)の大義(たいぎ)と名(なづ)けたる旌旗(せいき)を樹立(じゆりつ)し、頑冥(ぐわんめい)無謀(むぼう)の尊攘(そんじやう)の徒(と)は、安政(あんせい)六年(ねん)の夏(なつ)に至(いた)りては、遂(つひ)に腕力(わんりよく)を以(もつ)て攘夷(じやうい)を實行(じつかう)し、荀(いやしく)も尊攘(そんじやう)の爲(ため)なりと云(い)へば、何等(なんら)の粗暴(そぼう)も憚(はばかり)なく之(これ)を擧行(きよかう)した。斯(かく)の如(ごと)きが故(ゆゑ)に、人心(じんしん)恟々(きようきよう)として安(やすん)せず、外國人(ぐわいこくじん)を敵視(てきし)して往々(わうわう)殺害(さつがい)を加(くは)へ、襲撃(しふげき)を謀(はか)ること頻(しきり)であつた。
試(こゝろみ)に其(その)一二を擧(あぐ)れば、先(ま)づ安政(あんせい)六年(ねん)六月(ぐわつ)橫濱(よこはま)にて、魯國(ろこく)海軍(かいぐん)士官(しくわん)三人(にん)を暗殺(あんさつ)し、其(その)翌(よく)萬延(まんえん)元年(ぐわんねん)正月(しやうぐわつ)、高輪(たかなわ)東禪寺(とうぜんじ)なる英國(えいこく)公使館(こうしくわん)にて、同館(どうくわん)使丁(してい)傳吉(でんきち)を殺害(さつがい)し、同年(どうねん)十二月(ぐわつ)赤羽(あかばね)にて、米國(べいこく)公使館(こうしくわん)書記(しよき)ヒユースケンを暗殺(あんさつ)したるを初(はじめ)とし、或(あるひ)は公使(こうし)等(ら)を路(みち)に擁(えう)して無禮(ぶれい)を加(くは)へ、遂(つひ)に同年(どうねん)に於(おい)ては、水戸(みと)の浪士(らうし)は橫濱(よこはま)を襲撃(しふげき)せんと謀(はか)り、其他(そのほか)橫濱(よこはま)江戸(えど)に於(おい)て、外國人(ぐわいこくじん)に向(むかつ)て種々(しゆじゆ)害惡(がいあく)を加(くは)へたるは枚擧(まいきよ)に遑(いとま)がない。
果(はて)は文久(ぶんきう)元年(ぐわんねん)五月(ぐわつ)廿八日(にち)夜(よ)には、數(すう)十人(にん)の浮浪(ふらう)は、英國(えいこく)公使館(こうしくわん)を夜撃(ようち)するに至(いた)つた。此(これ)が爲(た)め幕府(ばくふ)外交上(ぐわいかうじやう)の危殆(きたい)急刻(きふこく)の間(あひだ)に迫(せま)るが如(ごと)き事(こと)は、決(けつ)して一兩度(りやうど)にして止(とゞ)まらなかつた。安藤(あんどう)閣老(かくらう)が寧(むし)ろ老中(らうちう)を殺(ころ)し將軍家(しやうぐんけ)を弑(しい)して内亂(ないらん)を釀(かも)すとも、外國人(ぐわいこくじん)を殺(ころ)して外難(ぐわいなん)を買(か)ふ事(こと)を休(やすめ)よと嘆息(たんそく)したるは、即(すなは)ち當時(たうじ)の事(こと)にして、以(もつ)てウイリアムス師(し)來任(らいにん)前後(ぜんご)の我(わ)が國情(こくじやう)を察(さつ)すべきである。

三、德川幕府の敎徒迫害

 更(さら)に當時(たうじ)幕府(ばくふ)が基督敎(きりすとけう)に對(たい)する政策(せいさく)を見(み)るに、實(じつ)に峻嚴(しゆんげん)を極(きは)めた。抑々(そもそも)德川(とくがは)幕府(ばくふ)は家康(いへやす)の當初(たうしよ)より、秀吉(ひでよし)の政略(せいりやく)を繼承(けいしよう)して、基督敎(きりすとけう)を杜絶(とぜつ)する方針(はうしん)を執(と)り來(きた)りしが、島原(しまばら)の亂後(らんご)は、特(とく)に禁令(きんれい)を嚴重(げんぢゆう)にし、諸大名(しよだいみやう)へ領内(りやうない)の敎徒(けうと)退治(たいぢ)及(およ)び大船(おほぶね)禁止(きんし)の事(こと)を令(れい)し、南蠻(なんばん)諸國(しよこく)の通交(つうかう)を全(まつた)く禁絶(きんぜつ)し、以(もつ)て基督敎(きりすとけう)の痕跡(こんせき)を盡滅(じんめつ)せんと力(つと)めた。
されば島原(しまばら)亂(らん)以後(いご)、諸國(しよこく)に殘存(ざんそん)したる敎徒(けうと)を捕(とら)へ、慘刑(ざんけい)に處(しよ)する事(こと)頻(しき)りであつた。寬永(くわんえい)十五年(ねん)十二月(ぐわつ)、江戸(えど)芝口(しばぐち)に於(おい)て敎徒(けうと)七十三人(にん)を捕(とら)へ烙殺(らくさつ)水殺(すゐさつ)の慘刑(さんけい)に處(しよ)し、同(どう)十七年(ねん)四谷(よつや)近郊(きんかう)に於(おい)て敎徒(けうと)十餘人(よにん)を捕(とら)へ斬罪(ざんざい)梟首(けうしゆ)し、又(また)品川(しながは)に於(おい)て七十餘人(よにん)を水刑(すゐけい)に處(しよ)した。慶安(けいあん)三年(ねん)江戸(えど)小日向(こひなた)に牢獄(らうごく)を造(つく)る、石垣(いしがき)一丈(じやう)二尺(しやく)、方(はう)四十三間(げん)、塀(へい)高(たか)さ一丈(じやう)二尺(しやく)、其上(そのうへ)に八寸(すん)の鐵釘(てつくぎ)を樹(た)て皆(みな)刀(かたな)あり、内(うち)に向(む)けて之(これ)を繞(めぐ)らし、外圍(ぐわいゐ)は提墻(ていしよう)を以(もつ)てす。
是(こ)れ所謂(いはゆる)切支丹(きりしたん)屋敷(やしき)である。爾後(じご)諸國(しよこく)にて捕(とら)へたる敎徒(けうと)を、此處(こゝ)に幽閉(ゆうへい)し或(あるひ)は拷問(がうもん)處刑(しよけい)埋葬(まいさう)の場所(ばしよ)となした。正保(しやうほ)元年(ぐわんねん)長崎(ながさき)西阪(せいはん)に於(おい)て敎徒(けうと)七人(にん)を穴釣(あなつり)の上(うへ)梟首(げうしゆ)し、明暦(めいれき)三年(ねん)大村(おおむら)に於(おい)て、百十九人(にん)を穴釣(あなつり)の上(うへ)斬首(ざんしゆ)し、二十五人(にん)を永禁錮(えいきんこ)に處(しよ)し、百九十人(にん)を數藩(すうはん)に付(ふ)して梟首(げうしゆ)せしめた。
萬治(まんぢ)元年(ぐわんねん)大村(おほむら)管下(くわんか)に於(おい)て敎徒(けうと)六百三人(にん)を捕(とら)へて處刑(しよけい)し、延寶(えんぽう)四年(ねん)岡本(おかもと)三右衞門(ゑもん)の僕(しもべ)角内(かくない)、館林藩(たてばやしはん)齋藤(さいとう)賴母(たのも)の組子(くみこ)新兵衞(しんべゑ)を獄(ごく)に下(くだ)し、翌年(よくねん)刑(けい)に處(しよ)した。また武藏(むさし)府中(ふちう)に敎徒(けうと)城之進(じやうのしん)なる者(もの)を捕(とら)へ、拷問(がうもん)せしも屈(くつ)せず、遂(つひ)に刑(けい)に處(しよ)した。斯(か)くも幕府(ばくふ)が禁敎(きんけう)の處置(しよち)嚴重(げんぢゆう)なりしにも係(かゝは)らず、尚(な)ほ文政(ぶんせい)年間(ねんかん)まで敎徒(けうと)は全(まつた)く其跡(そのあと)を絶(たゝ)なかった。
文政(ぶんせい)十二年(ねん)十二月(ぐわつ)、京都(きやうと)に窃(ひそか)に天主敎(てんしゆけう)を奉(ほう)ずる者(もの)あること發覺(はつかく)し、其徒(そのと)數人(すうにん)は捕(とら)へられ、大阪(おおさか)にても橋本(はしもと)宗吾(そうご)なる者(もの)捕(とら)へられ、共(とも)に刑(けい)に處(しよ)せられた。茲(ここ)に於(おい)て漸(やうや)く基督(きりすと)敎徒(けうと)は全滅(ぜんめつ)の状態(じやうたい)となつた。而(し)かも幕府(ばくふ)の禁敎(きんけう)の嚴令(げんれい)は依然(いぜん)として變(かは)らず、『右(みぎ)宗門(しうもん)之(の)儀(ぎ)彌(いよいよ)可被遂御穿鑿(ごせんさくをとげらるべき)[#返り点省略]之(の)條(でう)、銘々(めいめい)無油斷(ゆだんなく)相改(あひあらため)自然(しぜん)疑敷(うたがはしき)もの有之(これあら)ば、早々(さうさう)其筋(そのすぢ)へ可申出(まをしいづべく)、品(しな)に寄(より)御褒美(ごほうび)被下(くだされ)、其者(そのもの)より仇(あだ)をなさゞる樣(やう)可被仰付(おほせつけらるべく)候(そろ)。若(もし)見聞(みきゝ)及(および)ながら隱置(かくしおき)他所(よそ)より顯(あら)はるゝに於(おい)ては其所(そこ)の者迄(ものまで)も罪科(ざいくわ)可被行(おこなはせらるべく)候(そろ)』と嚴達(げんたつ)した。

四、禁敎の法令

 當時(たうじ)行(おこな)はれたる禁敎(きんけう)の法令(はふれい)は、先(ま)づ諸國(しよこく)各地(かくち)に、切支丹(きりしたん)邪宗門(じやしうもん)の儀(ぎ)は是迄(これまで)の通(とほ)り堅(かた)く禁制(きんせい)の事(こと)、てふ高札(かうさつ)を掲(かゝ)げて以(もつ)て禁令(きんれい)の嚴(げん)なるを示(しめ)し、士民(しみん)一般(ぱん)には年々(ねんねん)宗旨(しうし)證文(しようもん)と稱(しよう)するものを其筋(そのすぢ)に差出(さしだ)し、切支丹(きりしたん)邪宗門(じやしうもん)に非(あらざ)る事(こと)を誓約(せいやく)せしめた。
宗旨(しうし)證文(しようもん)の文體(ぶんたい)は地方(ちはう)により異(ことな)る所(ところ)があつたが、長崎(ながさき)に行(おこな)はれたる宗旨(しうし)證文(しようもん)は左(さ)の如(ごと)し。

一私儀(わたくしぎ)元來(ぐわんらい)何宗(なにしう)にて御座候(ござそろ)、切支丹(きりしたん)宗門(しうもん)にては無御座候(ござなくそろ)、我等(われら)妻子(さいし)召使者(めしつかふもの)迄(まで)も切支丹(きりしたん)宗門(しうもん)一人(にん)も無御座候(ござなくそろ)、若(もし)後日(ごじつ)切支丹(きりしたん)に相成(あひなり)候由(そろよし)被聞召候(きこしめされそふら)はゞ、親子(をやこ)兄弟(きやうだい)迄(まで)も如何樣(いかやう)共(とも)可被仰付(おほせつけらるべく)候(そろ)、爲後日(ごじつのため)如此(かくのごとくに)御座候(ござそろ)以上(いじやう)

又(また)町年寄(まちどしより)行事(ぎやうじ)組頭等(くみがしらとう)よりも

町内(ちやうない)切支丹(きりしたん)宗門(しうもん)の者(もの)一人(にん)も無御座候(ござなくそろ)、自然(しぜん)切支丹(きりしたん)又(また)は不審(ふしん)成(なる)儀(ぎ)御座(ござ)候(そふら)はゞ、早速(さつそく)可申上(まをしあぐべく)候(そろ)、若(も)し隱置(かくしおき)脇(わき)より顯(あら)はれ於申(まをすにおいて)は、私共(わたくしども)如何樣(いかやう)の曲事(きよくじ)に被爲仰付(おほせつけられ)候(そろ)とも、少(すこし)も違背(ゐはい)申上(まをしあげ)候(そろ)間敷(まじく)候(そろ)、爲後日(ごじつのため)以連判(れんぱんをもつて)手形(てがた)差上(さしあげ)仕置(つかまつりおき)申候(まをしそろ)

との證書(しようしよ)を奉行(ぶぎやう)に差出(さしだ)すのが例(れい)であつた。
尚(な)ほ切支丹(きりしたん)訴人(そにん)に對(たい)し賞金(しやうきん)を與(あた)ふる左(さ)の法令(はふれい)があつた、

切支丹(きりしたん)宗門(しうもん)は累年(るゐねん)御制禁(ごせいきん)たり、自然(しぜん)不審(ふしん)なるもの有之者(これあらば)申出(まをしい)づべし御褒美(ごほうび)として

ばてれんの訴人(そにん)  銀(ぎん)五百枚(まい)
いるまんの訴人(そにん)  銀(ぎん)三百枚(まい)
立(たち)かへり者(もの)の訴人(そにん)  銀(ぎん)三百枚(まい)
同宿(どうしゆく)並(ならびに)宗門(しうもん)の族(ぞく)訴人(そにん)  銀(ぎん)百枚(まい)

右之通(みぎのとほり)可被下(くださるべく)たとひ同宿(どうしゆく)宗門(しうもん)の内(うち)たりと雖(いへ)ども、訴人(そにん)に出(いづ)る者(もの)品(しな)により銀(ぎん)五百枚(まい)可被下(くださるべく)、之(これ)をかくし置(お)き他(た)より顯(あら)はるゝに於(おい)ては、其所(そこ)の名主(なぬし)並(ならび)に五人組(にんぐみ)迄(まで)、一類共(るゐとも)可處罪科(ざいくわにしよせらるべき)者也(ものなり)仍(よつて)下知(げぢ)件如(くだんのごとし)

日本(にほん)第(だい)一の新敎(しんけう)宣敎師(せんけうし)が、來任(らいにん)したる當時(たうじ)の日本(にほん)は、斯(かく)の如(ごと)く攘夷熱(じやういねつ)は激烈(げきれつ)にして殺伐(さつばつ)の氣(き)充(み)ち、彼等(かれら)が宣傳(せんでん)せんとする基督敎(きりすとけう)に對(たい)しては、幕府(ばくふ)の禁令(きんれい)斯(かく)の如(ごと)く嚴重(げんぢう)であつた。

五、日本に來る宣敎師の資格  

 されば千八百六十年(ねん)(萬延(まんえん)元年(ぐわんねん))來任(らいにん)の翌(よく)年(ねん)に、ウイリアムス師(し)は書簡(しよかん)の一節(せつ)に曰(いは)く

『前略(ぜんりやく) 監督(かんとく)ブーン師(し)よりの來翰(らいかん)によれば、同師(どうし)は小生(せうせい)の要求(えうきう)に應(おう)じて、今(いま)一人(にん)の宣敎師(せんけうし)を日本(にほん)の爲(た)めに送(おく)られんことを請求(せいきう)致(いた)されし由(よし)に御座候(ござそろ)。何卒(なにとぞ)外國(ぐわいこく)傅道(でんだう)委員(ゐゐん)に於(おい)ても此(この)請(こひ)を容(い)れ、適當(てきたう)の士(し)を此(この)任務(にんむ)の爲(た)めに發見(はつけん)せられんことを希望(きばう)仕候(つかまつりそろ)。小生(せうせい)は先(さき)にブーン監督(かんとく)への書簡中(しよかんちゆう)にも申(まをし)述候(のべそろ)通(とほ)り、此(この)任務(にんむ)に當(あた)るの士(し)は、學識(がくしき)ある熟練(じゆくれん)の士(し)にして、聖書(せいしよ)の飜譯(ほんやく)并(ならび)に類書(るゐしよ)の編纂(へんさん)に助力(じよりよく)し能(あた)ふ人(ひと)たるべぐ候(そろ)。
乍去(さりながら)、そは唯(ゆゐ)一若(もし)くは最重要(さいぢゆうえう)の資格(しかく)にては無之候(これなくそろ)。第(だい)一此(この)任(にん)に當(あた)るの士(し)は、胸宇濶達(きよううくわつたつ)にして自(おのづか)ら持(じ)すること貞潔(ていけつ)、深(ふか)く篤(あつ)く主(しゆ)耶蘇(いへす)を愛(あい)し、并(ならび)に主(しゆ)が之(これ)を救(すく)はんが爲(た)めに死(し)し給(たま)ひし人類(じんるゐ)の靈(れい)を愛(あい)する人(ひと)たること最(もつと)も肝要(かんえう)に御座候(ござそろ)、且(か)つ其人(そのひと)は堅忍(けんにん)、耐久(たいきう)の德(とく)を有(いう)し、神(かみ)が御心(みこゝろ)に合(かな)ふ時(とき)に於(おい)て、此(この)日本(にほん)に不朽(ふきふ)の福音(ふくゐん)を宣傅(せんでん)するの門戸(もんこ)を開放(かいはう)し給(たま)ふに至(いた)る迄(まで)、失望(しつぼう)落膽(らくたん)することなく、靜(しづか)に働(はたら)きを續(つゞ)け得(う)る人(ひと)たるを要(えう)し候(そろ)。
其人(そのひと)は又(ま)た謹嚴(きんげん)にして判斷(はんだん)明碓(めいかく)の人(ひと)たるを要(えう)し候(そろ)、熱心(ねつしん)なれども智識(ちしき)を缺(か)きて、妄(みだ)りに輕擧(けいきよ)躁急(さうきふ)を事(こと)とするの士(し)は、却(かへ)つて我(わ)が働(はたら)きの進歩(しんぽ)に妨(さまた)げたるべく候(そろ)、支那(しな)に於(おい)ては政府(せいふ)の權力(けんりよく)薄弱(はくじやく)にして、官憲(くわんけん)は外國(ぐわいこく)條約(でうやく)の條項(でうこう)に符合(ふがふ)せざる事柄(ことがら)をも、等閑(とうかん)に附(ふ)すること多(おほ)く有之(これあり)候得共(さふらえども)、日本(にほん)に於(おい)ては事情(じじやう)大(おほひ)に異(ことな)り、政府(せいふ)の權力(けんりよく)強大(きやうだい)にして苟(いやしく)も條約(でうやく)の明文(めいぶん)に違背(ゐはい)する事柄(ことがら)は、決(けつ)して看過(かんくわ)すること御座(ござ)なく候(そろ)、且(かつ)亦(また)彼等(かれら)日本(にほん)官憲(くわんけん)は特(とく)に疑心(ぎしん)深(ふか)く、宗敎(しうけう)のために爲(な)さるゝ或(あるひ)は宣傅(せんでん)者(しや)に依(よ)りて爲(な)さるゝ事柄(ことがら)に對(たい)し、特(とく)に疑心(ぎしん)を以(もつ)て臨(のぞ)む次第(しだい)にして、之(こ)れ特(とく)に注意(ちうい)すべき事(こと)に御座候(ござそろ)。
只今(たゞいま)の處(ところ)にては公然(こうぜん)宣敎(せんけう)の事業(じげふ)に從事(じふじ)するを許(ゆる)さるべき見込(みこも)は、差當(さしあた)り御座(ござ)なく候(そろ)に付(つ)き、我(わ)がミツシヨンは當分(たうぶん)靜(しづか)に待(ま)つの外(ほか)無之候(これなくそろ)、乍併(しかしながら)、今(いま)や日本(にほん)の特派(とくは)大使(たいし)は、我(わ)が合衆國(がつしゆうこく)訪問(はうもん)中(ちゆう)なれば、此事(このこと)よりして幾分(いくぶん)の希望(きばう)を抱(いだ)き得(う)べく、又(また)此事(このこと)は我(わ)が敎會(けうかい)の人々(ひとびと)をして、此國(このくに)の爲(た)めに一層(さう)熱心(ねつしん)なる祈禱(きたう)を促(うなが)すの結果(けつくわ)を生(しやう)すべく、而(しかう)して此(この)祈禱(きたう)によりて神(かみ)の惠(めぐ)みは必(かな)らず下(くだ)り來(きた)ることゝ存候(ぞんじそろ)。
尚(なほ)又(また)日本人民(にほんじんみん)の中(うち)には、將來(しやうらい)日本(にほん)傅道(でんだう)の成功(せいこう)の爲(た)めに人意(じんい)を強(つよ)からしむべき事情(じじやう)多(おほ)く有之候(これありそろ)。彼等(かれら)人民(じんみん)の品性中(ひんせいちゆう)には一度(ど)彼等(かれら)の治者(ぢしや)が、築(きづ)きたる墻壁(しようへき)の撤去(てつきよ)せらるゝ曉(あかつき)には、駸々(しんしん)として基督敎(きりすとけう)の公布(こうふ)せられ得(う)べき素質(そしつ)は歴然(れきぜん)と存(そん)し居候(をりそろ)現今(げんこん)當地(たうち)に於(おい)ては郵便局(いうびんきよく)出張所(しゆつちやうしよ)設(もう)けられ候(そろ)に付(つき)き、長崎(ながさき)に宛(あ)てゝ送(おく)らるゝ書翰(しよかん)は皆(みな)安全(あんぜん)に到着(たうちやく)致候(いたしそろ)』。

六、傅道の困難  

 千八百六十一年(ねん)(文久元年(ぶんきうぐわんねん))六月(ぐわつ)十一日(にち)附(づき)にて、本國(ほんごく)に致(いた)したる書簡中(しよかんちう)、師(し)は當時(たうじ)の傳道(でんだう)の困難(こんなん)を記述(きじゆつ)して曰(いは)く、

『現今(げんこん)にて宣敎(せんけう)的(てき)働(はたら)きの何等(なんら)御報告(ごはうこく)致(いた)すべきもの無之候(これなくそろ)に付(つき)、貴下(きか)よりの手紙(てがみ)を受(う)くることも、又(また)小生(せうせい)より手紙(てがみ)を差上(さしあ)ぐるも共(とも)に不滿足(ふまんぞく)に存候(ぞんじそろ)。小生(せうせい)は二三の信用(しんよう)すべき日本人(にほんじん)に、聖書(せいしよ)及(および)類書(るゐしよ)を與(あた)へ、幾分(いくぶん)か宗敎上(しうけうじやう)の談話(だんわ)をなすを得(え)たるは、固(もと)より興味深(きやうみふか)きことには候得共(さふらへども)、未(いま)だ以(もつ)て通信(つうしん)の材料(ざいれう)となすには物足(ものた)らず、若(も)し夫(そ)れ此國(このくに)人民(じんみん)の心(こゝろ)に觸(ふ)れて、神(かみ)に向(むか)つて悔改(くひあらた)めしむるの希望(きばう)に至(いた)つては、未(いま)だ現(あら)はれ來(きた)らず候(そろ)。
 斯(かく)の如(ごと)く我等(われら)の働(はたらき)の捗(はかど)らざるに就(つ)きては、或(あるひ)は奇異(きい)の思(おもひ)を御催(おもよほ)し被成(なされ)候(さふら)はんかなれど、我等(われら)宣敎師(せんけうし)の位地(ゐち)は、特(とく)に困難(こんなん)にして、日本(にほん)に於(お)ける基督敎(きりすとけう)の先例(せんれい)、政府(せいふ)者(しや)の嫉妬(しつと)、及(およ)び條約中(でうやくちう)に米國人(べいこくじん)は決(けつ)して宗敎上(しうけうじやう)の怨恨(えんこん)を釀(かも)すが如(ごと)き所行(しよぎやう)をなすべからずと云(い)へる不得(ふとく)要領(えうりやう)なる條文(でうぶん)、並(ならび)に異敎(いけう)探索法(たんさくはふ)の行(ゆ)き渡(わた)れることは、下(しも)は貧民(ひんみん)の茅屋(ほうをく)より上(かみ)は天子(てんし)の禁庭(きんてい)に及(およ)び居(を)る事等(こととう)は、皆(みな)之(こ)れ一考(かう)に價(あたひ)することに御座候(ござそろ)。
若(も)し是等(これら)の事(こと)を充分(じうぶん)に御(ご)了解(れうかい)有之候(これありさふら)へば、我等(われら)が非常(ひじやう)に小心(せうしん)翼々(よくよく)として、事(こと)に從(したが)ふの必要(ひつえう)あることは明(あきら)かに可相成(あひなるべく)候(そろ)。我等(われら)の周圍(しうゐ)には無藪(むすう)の偵吏(ていり)附(つ)き纏(まと)ひ居候得(をりさふらえ)は、若(も)し一歩(ぽ)を誤(あやま)る時(とき)は、危瞼(きけん)云(い)ふ可(べか)らずして、忽(たちま)ち人民(じんみん)との交通(かうつう)を遮斷(しやだん)せらるべく候(そろ)。
 此國(このくに)に於(おい)ては基督敎(きりすとけう)禁制(きんせい)の法律(はうりつ)は、未(いま)だ撤去(てつきよ)せられず、踏繪(ふみゑ)の制度(せいど)は既(すで)に癈(すた)り候(さふら)へ共(ども)、基督敎(きりすとけう)は依然(いぜん)として禁遏法(きんあつはふ)の下(もと)に有之(これあり)、貴下(きか)御承知(ごしようち)の如(ごと)く、是等(これら)の法律(はふりつ)は制札(せいさつ)の上(うえ)に書(か)きて、市街(しがい)公共(こうきよう)の場所(ばしよ)に掲(かゝ)げ有之候(これありそろ)、當地(たうち)知事(ちじ)の邸前(ていぜん)の制札(せいさつ)には、左(さ)の如(ごと)く記(しる)し有之候(これありそろ)。

切支丹(きりしたん)邪宗門(じやしうもん)の儀(ぎ)は是迄(これまで)の通(とほ)り堅(かた)く禁制(きんせい)の事(こと)

斯(かゝ)ることは人民(じんみん)の心(こゝろ)に政府(せいふ)が基督敎(きりすとけう)を以(もつ)て、惡事(あくじ)の最大(さいだい)なるものと見做(みな)すとの感(かん)を生(しやう)ぜしめ、且(か)つ其(その)禁制(きんせい)は最大(さいだい)主要(しゆえう)の事(こと)なりと思(おも)はしめ候(そろ)、且(か)つ又(また)彼等(かれら)人民(じんみん)は新敎(プロテスタント)と羅馬(ローマ)カソリツク敎(けう)との嘔別(くべつ)をなす能(あた)はず候(そろ)。
 當國(たうごく)の官憲(くわんけん)が人民(じんみん)の基督敎(きりすとけう)に改宗(かいしう)するを防遏(ばうあつ)する爲(た)めに、備(そな)へたる手段(しゆだん)は實(じつ)に行屆(ゆきどゞ)きたるものにして、若(も)し之(これ)を勵行(れいかう)せらるゝ時(とき)は、極(きは)めて其(その)效果(かうくわ)著(いちゞる)しきものに候(そろ)。各町(かくちやう)の組頭(くみがしら)は毎年(まいねん)の初(はじ)めに於(おい)て、其(その)市(まち)の奉行(ぶぎやう)に對(たい)し左(さ)の如(ごと)き上申書(じやうしんしよ)を差出(さしいだし)候(そろ)。

第(だい)一、 町内(ちやうない)の住民(ぢゆうみん)男女(なんによ)老幼(らうよう)共(とも)に連署(れんしよ)して差出(さしいだ)すもの。

 私共(わたしども)は切支丹(きりしたん)宗門(しうもん)に無御座候(ござなくそろ)。私共(わたしども)の宗旨(しうし)は各々(おのおの)名前(なまへ)の上(うえ)に記(しる)し有之候(これありそろ)。若(も)し私共(わたしども)にして宗門(しうもん)を變更(へんかう)仕度節(つかまつりたきせつ)は、改宗(かいしう)の趣(おもむき)御屆(おとゞけ)可申上候(まをしあぐべくそろ)。

第(だい)二、 五人組頭(ぐみがしら)より差出(さしいだ)すものにして、其(その)趣意(しゆい)左(さ)の如(ごと)し、

 私共(わたしども)は五人組(にんぐみ)の中(なか)に於(おい)て、絶(た)へず切支丹(きりしたん)宗門(しうもん)の者(もの)を詮索(せんさく)することを怠(おこた)らず、互(たがひ)に相(あひ)吟味(ぎんみ)仕候(つかまつりそろ)。以上(いじやう)の趣意(しゆい)堅(かた)く相守(あひまも)り、銘々(めいめい)檀那寺(だんなでら)の加判(かはん)を受(うけ)申候(まをしそろ)。若(も)し疑(うたが)はしき事情(じゞやう)有之(これあり)候(そろ)節(せつ)は、直(たゞち)に御屆(おとゞけ)可申上(まをしあぐべく)候(そろ)。萬(まん)一隱(かく)し立(だ)ての事(こと)顯(あら)はれ候(そろ)に於(おい)ては、如何樣(いかやう)なる御仕置(おしおき)被成候(なされそろ)とも不苦(くるしからず)候(そろ)。

第(だい)三、 町(まち)の名主(なぬし)より差出(さしいだ)したるものにて、其(その)文言(もんごん)に曰(いは)く、

 以上(いじやう)連名(れんめい)の人々(ひとびと)の宗門(しうもん)を夫々(それそれ)吟味仕(ぎんみつかまつり)、且(か)つ檀那寺(だんなでら)の加判(かはん)を得(え)て、茲(こゝ)に呈上(ていじやう)仕候(つかまつりそろ)。若(も)し右(みぎ)の趣意(しゆい)に違背(ゐはい)致(いた)すもの有之候(これありそろ)節(せつ)は、私共(わたしども)を御仕置(おしおき)可被下(くださるべく)候(そろ)。
 斯(か)くして各人(かくじん)は毎年(まいねん)一度(ど)、上申書(じやうしんしよ)に署名(しよめい)して基督敎徒(きりすとけうと)にあらざることを明(あきら)かにし、其(その)屬(ぞく)する佛敎(ぶつけう)の宗派(しうは)を明(あき)らかにせざるを得(え)ず、夫(そ)れ故(ゆゑ)何人(なにびと)にても、基督敎徒(きりすとけうと)となれば、必(かなら)ず奉行(ぶぎやう)に知(し)られざるを得(え)ず、何(なん)となれば苟(いやしく)も眞正(しんせい)の基督敎徒(きりすとけうと)ならば、必(かなら)ず右(みぎ)の上申書(じやうしんしよ)に署名(しやめい)することを拒(こば)むべき故(ゆゑ)に候(そろ)。然(し)かも尚(なほ)僞(いつは)りて署名(しよめい)する者(もの)あらんことを恐(おそ)れ、五人組(にんぐみ)の者(もの)共(ども)は互(たがひ)に相(あひ)詮議(せんぎ)し、各々(おのおの)幾分(いくぶん)の責任(せきにん)を他(た)の爲(た)めに負(お)はさるゝ次第(しだい)に候(そろ)。
且(か)つ夫(そ)れ彼等(かれら)は佛敎(ぶつけう)僧侶(そうりよ)の加判(かはん)を乞(こ)ひて、證明書(しようめいしよ)を製(せい)する次第(しだい)にして、僧侶(そうりよ)は基督敎(きりすとけう)の弘布(こうふ)を止(や)むるに最(もつと)も熱心(ねつしん)なる人々(ひとびと)なれば、社會(しやくわい)に於(おい)ける各人(かくじん)の信仰(しんかう)を定(さだ)むるに最(もつと)も必要(ひつえう)なるものとせられ居候(をりそろ)。
若(も)し僧侶(そうりよ)が苟(いやしく)も基督敎(きりすとけう)に傾(かたむ)ける者(もの)あるを疑(うたが)ふ時(とき)は、其(その)證明(しやうめい)を拒(こば)み從(したが)つて疑(うたが)はれたる人(ひと)の行爲(かうゐ)は、最(もつと)も嚴重(けんぢゆう)に詮議(せんぎ)せらるゝことゝ可相成(あひなるべく)候(そろ)。現今(げんこん)に於(おい)ては此(こ)の形式(けいしき)は依然(いぜん)として守(まも)られ、上申書(じやうしんしよ)は差出(さしいだ)され候(さふら)へ共(ども)、各家(かくか)の主人(しゆじん)は敢(あへ)て隣人(りんしん)の宗敎(しうけう)信仰(しんかう)を詮議(せんぎ)不仕(つかまつらず)、且(か)つ又(また)政府(せいふ)に密告(みつこく)して人(ひと)の憎(にく)しみを蒙(かうむ)ることを厭(いと)ふ氣風(きふう)が行(おこな)はれ候(そろ)に就(つ)き、復讐心(ふくしうしん)より出(い)づるか、岩(もし)くは最下等(さいかとう)の輩(はい)にして、輿論(よろん)の制裁(せいさい)以下(いか)に陷(おちい)りたる者(もの)が、下劣(げれつ)なる慾心(よくしん)よりするの外(ほか)は、他人(たにん)の宗門(しうもん)に就(つ)き訴人(そにん)致(いた)すものは無御座(ござなく)候(そろ)。』

七、日本語の研究と飜譯  

 斯(かゝ)る事情(じじやう)なれば、師(し)は長崎(ながさき)在留(ざいりう)七年間(ねんかん)は、殆(ほと)んど直接(ちよくせつ)傅道(でんだう)をなす餘地(よち)なく、唯(た)だ稀(まれ)に來訪(らいはう)せる人々(ひとびと)に道(みち)を説(と)き、聖書(せいしよ)及(および)類書(るゐしよ)を與(あた)ふる外(ほか)は、專(もつば)ら日本語(にほんご)の研究(けんきう)と飜譯(ほんやく)に從事(じゆうじ)し、靜(しづか)に將來(しやうらい)の準備(じゆんび)をせられた。

『前條(ぜんでう)の次第(しだい)なれば、即今(そくこん)何等(なんら)傅道(でんだう)事業(じげふ)の報告(はうこく)可致(いたすべき)もの無之(これなく)と申上(まをしあげ)候(さふら)はば、日本(にほん)に於(お)ける宣敎師(せんけふし)は手(て)を束(つか)ねて何(なん)の爲(な)す所(ところ)無(な)しとの意味(いみ)にては無之(これなく)、準備的(じゆんびてき)の働(はたら)きは吾等(われら)の爲(た)めに多々(たゝ)有之候(これありそろ)。即(すなは)ち國語(こくご)の學習(がくしふ)、書籍(しよせき)出版(しゆつぱん)の準備(じゆんび)等(とう)、瑕令(たとひ)技倆群拔(ぎりやうばつぐん)の人(ひと)たりとも、茲(こゝ)多年(たねん)の間(あひだ)、精力(せいりよく)と時間(じかん)と技倆(ぎりやう)とを悉(ことごと)く之(これ)に用(もち)ふるを要(えう)し候(そろ)。
尚(なほ)又(また)吾等(われら)宣敎師(せんけうし)は前途(ぜんと)に橫(よこた)はれる困難(こんなん)の爲(た)めに、意氣(いき)沮喪(そさう)せる譯(わけ)にては萬々(ばんばん)無御座(ござなく)、私(わたし)に取(とり)ては是(こ)れ等(ら)の困難(こんなん)は、當地(たうち)に來(きた)る前(ぜん)豫期(よき)したる程(ほど)には多(おほ)く無之(これなく)、又(また)大(だい)なるものにも無之候(これなくそろ)。然(しか)れども瑕令(たとへ)其(その)困難(こんなん)にして、現在(げんざい)我等(われら)の遭遇(さうぐう)する所(ところ)より百倍(ばい)大なりとするも、我等(われら)にして手(て)に聖書(せいしよ)を携(たづさ)ふる限(かぎ)りは、決(けつ)して意氣(いき)沮喪(そさう)すべき謂(いは)れ無御座(ござなく)候(そろ)。聖書(せいしよ)には異敎(いけう)の民(たみ)が神(かみ)の御子(みこ)の嗣業(しげふ)の爲(た)めに得(え)らるべきことを敎(をし)へられ、地(ち)の極(きよく)に至(いた)る迄(まで)其(その)所有(しういう)たるべく、況(いは)んや其(その)敎會(けうかい)に對(たい)しては、諸々(もろもろ)の海(うち)を爾(なんぢ)のものたらしむべしとの御(お)約束(やくそく)有之候(これありそろ)。 されば我等(われら)は失望(しつぼう)落膽(らくたん)することなく、却(かへつ)て神(かみ)の我等(われら)の爲(た)めに既(すで)に爲(な)し給(たま)ひしことを感謝(かんしや)し、自(みづか)ら勵(はげ)み將來(しやうらい)盆々(ますます)其(その)敎會(けうかい)と我等(われら)の爲(た)めに、我等(われら)が願望(ぐわんぼう)し思考(しかう)するよりも、更(さら)に豐(ゆた)かになし給(たま)ふ所(ところ)あるを信(しん)じ、孜々(しゝ)として努(つと)むるの外(ほか)無之(これなく)と存候(ぞんじそろ)。』

また千八百六十二年(ねん)(文久(ぶんきう)二年(ねん))一月(ぐわつ)十日(か)長崎(ながさき)發(はつ)の書信(しよしん)に曰(いは)く。

『年末(ねんまつ)に臨(のぞ)みて拙者(せつしや)は、一の報告(はうこく)を貴下(きか)に致(いた)すの必要(ひつえう)あるを感(かん)じ候(そろ)。此(この)報告(はうこく)は此國(このくに)に於(おい)て基督敎會(きりすとけうくわい)に入(い)れられ、救(すく)はれたる人々(ひとびと)の數(すう)を語(かた)るものならば、如何(いか)に喜(よろこ)ばしからんと存(ぞん)じ候(そろ)。然(しか)れども日本(にほん)よりして、其(その)報告(はうこく)を致(いた)すべき時(とき)は、神(かみ)の攝理(せつり)に於(おい)て未(いま)だ到着(たうちやく)不仕候(つかまつらずそろ)。我等(われら)宣敎師(せんけうし)は尚(なほ)も忍耐(にんたい)と祈禱(きたう)を以(もつ)て、其(その)働(はたら)きを續(つゞ)け、遂(つひ)に收獲(しうくわく)の主(しゆ)が其(その)適當(てきたう)とし給(たま)ふ時(とき)に至(いた)りて、惠(めぐみ)の露(つゆ)を注(そゝ)ぎ、我等(われら)をして其(その)寳座(ほうざ)に色(いろ)づきたる豐穗(たりほ)を刈入(かりい)るを得(え)しめ給(たま)ふ時(とき)を待(ま)つの外(ほか)無之候(これなくそろ)。
其時(そのとき)に至(いた)る迄(まで)は、拙者(せつしや)の報告(はうこく)は勢(いきほ)ひ簡單(かんたん)ならざるを得(え)ざる次第(しだい)に御座候(ござそろ)。申迄(まをすまで)もなぐ拙者(せつしや)は日本語(にほんご)の學習(がくしふ)の爲(た)めに殆(ほと)んど全(まつた)く時間(じかん)を費(つひや)し居候(をりそろ)。既(すで)に幾分(いくぶん)の進歩(しんぽ)をなしたるかとも存候得共(ぞんじさふらえども)、此國語(このこくご)は甚(はなは)だ六ヶ敷(しく)して加(くは)ふるに辭書(ぢしよ)も文法書(ぶんはふしよ)も無之(これなく)、又(また)敎師(けうし)は甚(はなは)だ無頓着(むとんぢやく)なれば、小生(せうせい)の日本語(にほんご)の進歩(しんぽ)は遲々(ちゝ)たらざるを得(え)ず候(そろ)。先(ま)づ飜譯(ほんやく)の初(はじ)めとして、拙者(せつしや)は主禱文(しゆたうぶん)、信經(しんきやう)、十誡(かい)を譯(やく)し、之(これ)を一冊(さつ)の書籍(しよせき)と致申候(いたしまをしそろ)。乍去(さりながら)、凡(すべ)て最初(さいしよ)の飜譯(ほんやく)に免(まぬか)れざる如(ごと)く、恐(おそ)らくは甚(はなは)だ不完全(ふくわんぜん)なるものに可有之(これあるべく)、之(これ)を出版(しゆつぱん)せんには一層(そう)の訂正(ていせい)を要(えう)すべく候(そろ)。
 拙者(せつしや)は既(すで)に多數(たすう)の聖書(せいしよ)及(および)類書(るゐしょ)を人々(ひとびと)に與(あた)へ、又(ま)た來客(らいきやく)と宗敎(しうけう)談(ろん)を致(いた)せしことは、前(ぜん)半年間(はんねんかん)に於(お)けるよりも更(さら)に多(おほ)く候(そろ)。人々(ひとびと)は概(がい)して躊躇(ちうちよ)なく我等(われら)の與(あた)ふる書籍(しよせき)を受(う)け候得共(さふらえども)、時(とき)としては丁寧(ていねい)に斷(ことは)る人々(ひとびと)も有之候(これありそろ)。拙者(せつしや)方(かた)へ來(く)る人(ひと)の中(うち)に、一人(ひとり)の佛敎(ぶつけう)の老僧(らうそう)有之(これあり)、屡(しばし)ば來訪(らいはう)して基督敎(きりすとけう)に就(つ)き、種々(しゆじゆ)問題(もんだい)を尋(たづ)ね候得共(さふらえども)、決(けつ)して書籍(しよせき)贈物(おくりもの)を受取(うけと)らず、此人(このひと)は拙者(せつしや)の有(いう)する殆(ほと)んど凡(すべ)ての書籍(しよせき)を借(か)りて熟讀(じゆくどく)し、殊(こと)に基督敎(きりすとけう)證據論(しやうころん)の一書(しよ)は度々(たびたび)借(か)りて歸(かへ)られ候(さふら)へ共(ども)、之(これ)れを讀(よ)みたる後(のち)は必(かなら)す返却(へんきやく)致候(いたしそろ)。
其(その)理由(りいう)は日本(にほん)の法律(はうりつ)にては、斯(かゝ)る書籍(しよせき)を所持(しよぢ)するを許(ゆる)さず候(そろ)に付(つき)、萬(まん)一官憲(くわんけん)の搜索(さうさく)を受(う)けたる時(とき)に。自己(じこ)が之(これ)を所有(しよいう)し居(を)ることを發見(はつけん)せられざらん爲(た)めに、扨(さて)こそ毎々(まいまい)之(これ)を返却(へんきやく)するなりと申(まを)され候(そろ)。』

千八百六十四年(ねん)(元治元年(げんぢぐわんねん))一月(ぐわつ)、書信(しよしん)の一節(せつ)に曰(いは)く。

『此(この)國語(こくご)を學(まな)び且(か)つ將來(しやうらい)の布敎(ふけう)の爲(た)めに、書物(しよもつ)を準備(じゆんび)することは、實(じつ)に果(は)てしもなき大事業(だいじげふ)に有之候(これありそろ)。書籍(しよせき)に就(つ)きては、小生(せうせい)は既(すで)に支那語(しなご)より飜譯(ほんやく)したる三種(しゆ)の小册子(せうさつし)、及(および)英語(えいご)より飜譯(ほんやく)したる小兒(せうに)の爲(た)めの一小册子(せうさつし)を有(いう)し居(を)り候(そろ)。右(みぎ)の中(うち)一種(しゆ)は尚(なほ)も數回(すうくわい)の訂正(ていせい)を經(へ)て、之(こ)れを木版(もくはん)に起(おこ)し長崎(ながさき)に於(おい)て印刷(いんさつ)せしむる積(つも)りに御座候(ござそろ)。今日(こんにち)に至(いた)る迄(まで)は、我等(われら)は只(た)だ支那語(しなご)にて書(か)きたる書物(しよもつ)のみを頒布(はんぷ)致(いた)し來(きた)り候(さふら)ふが、今(いま)や日本人(にほんじん)中(ちゆう)漢文(かんぶん)を讀(よ)み能(あた)はざる大(だい)多數(たすう)の階級(かいきふ)に、書籍(しよせき)を以(もつ)て傅道(でんだう)すべき時(とき)は來(きた)れりと存候(ぞんじそろ)。 勿論(もちろん)これは試(こゝろ)みに計畫(けいくわく)いたし候(さふら)へ共(ども)、當地(たうち)の印刷(いんさつ)者中(しやちゆう)果(はた)して之(これ)を引受(ひきう)くるものあるや否(いな)や、確(たしか)ならず候(そろ)。』

八、來訪者  

 基督敎(きりすとけう)禁制(きんせい)の嚴令(げんれい)が實際(じつさい)に行(おこな)はれたる當時(たうじ)は、道(みち)を敎(をし)ゆる者(もの)も學(まな)ぶ者(もの)も、共(とも)に生命(いのち)懸(が)けであつたから、直接(ちよくせつ)傅道(でんだう)の道(みち)は容易(ようい)に開(ひら)けず、宣敎師(せんけうし)は決(けつ)して宗敎(しうけう)を以(もつ)て人民(じんみん)に接近(せつきん)することはできなかつた。フルベツキ氏(し)曰(いわ)く、當時(たうじ)日本人(にほんじん)に會(くわい)し、談(だん)偶(たまた)ま宗敎(しうけう)の問題(もんだい)に及(およ)ぶや、彼等(かれら)は殆(ほと)んど無意識的(むいしきてき)に手(て)を咽喉(のど)に當(あ)て、斯(かゝ)る事柄(ことがら)は甚(はなは)だ危險(きけん)千萬(ばん)なりとの意(い)を表(へう)せりと、殊(こと)に日本(にほん)は二種(しゆ)のもの即(すなは)ち阿片(あへん)と基督敎(きりすとけう)を除(のぞ)く外(ほか)は、何物(なにもの)にても外國人(ぐわいこくじん)の輸入品(ゆにふひん)を歡迎(くわんげい)すと主張(しゆちやう)する長崎(ながさき)奉行(ぶぎやう)の配下(はひか)にあつては、人々(ひとびと)は其(その)筋(すぢ)の嫌疑(けんぎ)を恐(おそ)れて、溶易(やうい)に宣敎師(せんけうし)に接近(せつきん)せざりしことゝて、來訪者(らいはうしや)は實(じつ)に稀(ま)れであつたに相違(さうゐ)ない。
かゝる際(さい)に偶(たまた)ま危險(きけん)を冒(をか)して、師(し)を訪(と)ひ來(く)る者(もの)があらば、基督敎(きりすとけう)を魔法(まはふ)と心得(こゝろえ)、宣敎師(せんけうし)より祕法(ひはふ)の傅授(でんじゆ)を求(もと)むる野心家(やしんか)か、西洋(せいやう)文明(ぶんめい)の新知識(しんちしき)に渇(くわつ)せる長崎(ながさき)留學(りゆうがく)の幕臣(ばくしん)藩士(はんし)か、新宗敎(しんしうけう)に關(くわん)する智識慾(ちしきよく)を滿足(まんぞく)せんために來(きた)れる儒者(じゆしや)佛僧(ぶつそう)か、宣敎師(せんけうし)の動靜(どうせい)を窺(うかゞ)ひ其(その)祕密(ひみつ)を探索(たんさく)せんどする偵吏(ていり)か、然(しか)らざれば、眞理(しんり)を探求(たんきふ)する爲(ため)には、千難(なん)萬苦(く)も辭(じ)せしとの大勇(だいゆう)猛心(まうしん)を以(もつ)て來(きた)れる特志(とくし)求道(きうざう)の士(し)であつた。
先(さき)に掲(かゝ)げたる師(し)の書簡中(しよかんちう)の佛僧(ぶつそう)の如(ごと)きは、思(おも)ふに新宗敎(しんしうけう)の智識(ちしき)を得(え)んために來(きた)りし人物(じんぶつ)であつたらう。此(この)老僧(らうそう)は屢(しばし)ば師(し)を訪(と)ひたるものと見(み)へ、漸(やうや)く保存(ほぞん)するを得(え)たる師(し)の日記(につき)の斷片中(だんぺんちう)、千八百六十一年(ねん)(文久(ぶんきう)元年(ぐわんねん))十一月(ぐわつ)十七日(にち)に記(しる)して曰(いは)く、

『本日(ほんじつ)老年(らうねん)なる佛敎(ぶつけう)僧侶(そうりよ)の來訪(らいはう)を受(う)く、予(よ)は此人(このひと)に基督敎(きりすとけう)書類(しよるゐ)を數(すう)ヶ月間(げつかん)貸與(たいよ)せり。予(よ)は彼(かれ)と倶(とも)に談論(だんろん)せり、彼(かれ)は羅馬敎(らうまけう)と基督敎(きりすとけう)新敎(しんけう)の相違(さうゐ)する點(てん)に關(くわん)し、予(よ)の説明(せつめい)に暫(しば)らく耳(みゝ)を傾(かたむ)けし後(のち)曰(いは)く、佛敎(ぶつけう)及(およ)び羅馬敎(らうまけう)は餘(あま)り狹隘(けふあい)なるが故(ゆゑ)に、全世界(ぜんせかい)に擴張(くわくちやう)する資格(しかく)に欠(か)くる處(ところ)あるなり。然(しか)れども耶蘇敎(やそけう)(當時(たうじ)既(すで)に新敎(しんけう)を耶蘇敎(やそけう)と呼(よ)べり)は廣(ひろ)きが故(ゆえ)に萬人(まんにん)を敎(をし)ゆるに適(てき)せりと。然(しか)れども予(よ)は思(おも)へり、斯(かゝ)る言(げん)は、彼(かれ)が基督敎(きりすとけう)の眞理(しんり)に感動(かんどう)したることを、證明(しようめい)する證據(しようこ)とはならざるべしと。彼(かれ)は冷靜(れいせい)なる哲學的(てつがくてき)頭腦(づなう)を以(もつ)て、基督敎(きりすとけう)の書籍(しよせき)を讀(よ)む人々(ひとびと)の種類(しゆるゐ)に屬(ぞく)する人(ひと)なるが如(ごと)く思(おも)はる。然(しか)れども彼(かれ)が言(げん)は以(もつ)て基督敎(きりすとけう)が人類(じんるゐ)一般(ぱん)に適合(てきがふ)する宗敎(しうけう)なることを證(しよう)する著(いちじる)しき證據(しようこ)とはなるなり。況(いは)んや彼(かれ)は異敎(いけう)の僧侶(そうりよ)なるに於(おい)てをや。』

また同年(どうねん)十一月(ぐわつ)二十九日(にち)の日誌(につし)に曰(いは)く、

『先日(せんじつ)來訪(らいはう)したる老僧(らうさう)、書籍(しよせき)を返却(へんきやく)せんために再(ふたゝ)び來宅(らいたく)せり、彼(かれ)は予(よ)を試(こゝろ)みんと欲(ほつ)し、發問(はつもん)して曰(いは)く、何故(なにゆゑ)に神(かみ)は、獅子(しゝ)虎(とら)等(とう)の如(ごと)き人間(にんげん)を食(しよく)する猛獸(まうじう)を造(つく)りしや、何故(なにゆゑ)に神(かみ)は地球(ちきう)を造(つく)るに當(あた)り大部分(だいぶゞん)の大洋(たいやう)を造(つく)り、小部分(せうぶぶん)なる陸地(りくち)を形成(けいせい)せしや、神(かみ)若(も)しサタンを作(つく)らずば、蛇(へび)の如(ごと)きものを使用(しよう)して、人間(にんげん)の始祖(しそ)アダムを欺(あざむ)き、以(もつ)て罪(つみ)を犯(おか)さゞらしめざりしものをと。
予(よ)は長時間(ちやうじかん)彼(かれ)と論(ろん)じ佛敎(ぶつけう)孔子敎(こうしけう)基督敎(きりすとけう)等(とう)を比較(ひかく)し、此等(これら)の宗敎(しうけう)が人心(じんしん)に及(およ)ぼす效果(かうくわ)に就(つ)き論述(ろんじゆつ)したれば、彼(かれ)は予(よ)が談論(だんろん)を聽(き)き終(おは)りて後(のち)曰(いは)く、予(よ)は佛敎(ぶつけう)の僧侶(そうりよ)なり、然(しか)れども佛敎(ぶつけう)の敎理(けうり)を信奉(しんほう)せず、我(われ)は儒敎(じゆけう)を信(しん)ず然(しか)れども耶蘇敎(やそけう)は就中(なかんづく)善良(ぜんりやう)なる宗敎(しうけう)なりと。
彼(かれ)又(また)曰(いは)く、日本(にほん)古代(こだい)の宗敎(しうけう)は輪廻(りんゑ)を説(と)かず、耶蘇敎(やそけう)の如(ごと)く天堂(てんだう)の存在(ぞんざい)を説(と)けり。其(その)敎義(けうぎ)によれば、善人(ぜんにん)は未來(みらい)に於(おい)て高天原(たかまがはら)に趣(おもむ)き、惡人(あくにん)は死後(しご)或(ある)場所(ばしよ)に趣(おもむき)きて永久(えいきう)に留(とゞま)らざるべからず』と。

或(ある)人(ひと)は曾(かつ)て師(し)より直接(ちよくせつ)聽(き)きしとて、左(さ)の物語(ものがたり)をした。

『或(あ)る夜(よ)、一人(にん)の來客(らいきやく)あり、珍(めづ)らしき事(こと)とて監督(かんとく)は之(これ)を迎(むか)へ來意(らいい)を問(と)ひしに、彼(かれ)は恐々(おそるおそる)手(て)を伸(のば)し天井(てんじやう)並(ならび)に四方(はう)の壁(かべ)を指(ゆびさ)した、之(これ)は二階(かい)や隣室(りんしつ)に誰(たれ)か人(ひと)が居(を)りませんかといふ事(こと)にて、若(も)し自分(じぶん)が宣敎師(せんけうし)を訪(と)ひし事(こと)が人(ひと)に知(し)られなば、此(これ)を切(き)られると云(い)つて、手(て)を首(くび)に當(あ)て恐(おそ)るゝゆへ、監督(かんとく)はどうぞ安心(あんしん)なさい、誰(たれ)も他人(たにん)は居(を)りませんと云(い)ふと、彼(かれ)はやうやう落(お)ち付(つ)いて腰(こし)を掛(か)け、數本(すほん)の眞鍮(しんちう)の煙管(きせる)を取(と)り出(だ)し、誠(まこと)に申兼(まをしかね)ますが、 どうぞ之(これ)を本金(ほんきん)にして下(くだ)さいと云(い)ふ。
監督(かんとく)は大(おほい)に驚(おどろ)かれ、私(わたし)は手品師(てじなし)とは違(ちが)ひますと斷(ことは)られた。そうすると今度(こんど)は某町(ばうちやう)の財産家(ざいさんか)は、多(おほ)くの金庫(きんこ)を持(も)ち居(を)るも、土藏(どざう)の錠前(ぢやうまへ)堅(かたく)して幾度(いくど)之(これ)を試(こゝろ)みるも溶易(ようい)に破(やぶ)れぬ。何卒(なにとぞ)他人(たにん)に露顯(ろけん)せぬ樣(やう)に窓(まど)から出入(しゆつにふ)し、其(その)寶(たから)を奪(うば)つてソツト逃(に)ぐる法(はふ)を敎(をし)へて下(くだ)さいと云(い)ふ。監督(かんとく)は、私(わたし)そんな事(こと)は知(し)りませんと云(い)はれても、彼(かれ)はなかなか承知(しやうち)せず、是非(ぜひ)敎(をし)へて下(くだ)さい、極(ご)く内密(ないみつ)に致(いた)します、誰(たれ)にも決(けつ)して話(はな)しませんから、キリスタン、バテレンの祕法(ひはふ)を敎(をし)へて下(くだ)さいと、切(しき)りに願(ねが)つた。
そこで監督(かんとく)は彼(かれ)に向(むか)ひ、私(わたし)は日本(にほん)の御國(おくに)に參(まゐ)りましたのは、神樣(かみさま)の敎(をしへ)を傅(つた)へる爲(ため)です。態々(わざわざ)遠方(ゑんはう)から御國(おくに)の人(ひと)に盜賊(たうぞく)の仕方(しかた)を敎(をし)へに來(き)たのではありませんと斷(ことは)ると、彼(かれ)はスゴスゴ立(た)ち去(さ)つたさうです。』

千八百六十四年(ねん)(元治(げんぢ)元年(ぐわんねん))の一月(ぐわつ)師(し)の通信中(つうしんちゆう)に、一人(にん)の來訪者(らいはうしや)の事(こと)が記述(きじゆつ)されてあるが。此(こ)の來訪者(らいはうしや)は、眞面目(まじめ)なる求道者(きうだうしや)の一人(にん)であつた。

『來訪者(らいはうしや)と宗敎談(しうけうだん)をなし、及(およ)び之(これ)に聖書(せいしよ)又(また)は册子(さつし)を與(あた)ふる事(こと)は、從來(じゆうらい)極(ご)く靜(しづ)かなる方法(はうはふ)にて致(いた)し居候(をりそろ)。苟(いやしく)も機會(きくわい)あらば必(かなら)ず之(これ)を怠(おこた)らず候(そろ)。時(とき)としては甚(はなは)だ興味深(きやうみふか)き事件(じけん)は、之(これ)より生(しやう)ずる事(こと)御座候(ござそろ)。去年(きよねん)八月(ぐわつ)、當地(たうち)附近(ふきん)の一州(しう)より來(きた)りし藩士(はんし)は、小生(せうせい)の知己(ちき)の一日本人(にほんじん)より紹介(せうかい)せられたる人(ひと)に候(そろ)が、小生(せうせい)は彼(かれ)に數種(すうしゆ)の小册子(せうさつし)を與(あた)へ候處(そろところ)、其人(そのひと)之(これ)を受(う)けて數日中(すうじつちう)に再來(さいらい)を約(やく)し立(た)ち歸(かへ)り候(そろ)一二日(にち)の後(のち)彼(かれ)は再(ふたゝ)び來訪(らいはう)し、前年(ぜんねん)フルベツキ氏(し)より受(う)けたりと云(い)ふ一卷(くわん)の聖書(せいしよ)を携(たづさ)へ來(きた)りて、聖書(せいしよ)は大(おほひ)に之(こ)れを讀(よ)みて且(かつ)信(しん)ずれども、尚(な)ほ了解(れうかい)し能(あた)はざる處(ところ)多(おほ)くありと申(まを)し候(そろ)。
是(これ)に於(おい)て小生(せうせい)はそを説(と)き明(あ)かさんと申(まを)し出(い)で候處(そろところ)、彼(かれ)暫(しばら)く躊躇(ため)らひたる後(のち)、若(も)し夜分(やぶん)に來(きた)ることを得(え)ば、敎(をしへ)を受(う)けんと申(まを)し候(そろ)。夫(そ)れより彼(かれ)は二週間(しうかん)殆(ほと)んど毎夜(まいよ)來訪(らいはう)し、十時(じ)後(ご)迄(まで)小生(せうせい)と偕(とも)に支那譯(しなやく)の聖書(せいしよ)を讀(よ)み候(そろ)。
 彼(かれ)は眞理(しんり)には極(きは)めて無知(むち)なれども、尚(な)ほ敎(をし)ゆるに足(た)るべき氣象(きしやう)を有(いう)し、且(か)つ新(あたら)しき事(こと)を學(まな)ばんとの熱心(ねつしん)表(おもて)に現(あら)はれ候(そろ)。彼(かれ)が餘儀(よぎ)なく鄕里(きやうり)に歸(かへ)りし時(とき)は、小生(せうせい)は實(じつ)に遺憾(ゐかん)に存候(ぞんじそろ)。其(その)歸(かへ)るに臨(のぞ)みて、小生(せうせい)は書籍(しよせき)及(およ)び小册子(せうさつし)各(かく)一册(さつ)、並(ならび)に支那譯(しなやく)の祈禱書(きたうしや)及(および)日本譯(にほんやく)にて記(しる)せる主禱(しゆたう)、信經(しんけう)、十誡(かい)を與(あた)へ候處(そろところ)、歸國(きこく)の後(のち)は勉強(べんきやう)して之(これ)を學(まな)ぶべしと約束(やくそく)致(いた)し候(そろ)。且(かつ)又(また)彼(かれ)は此(こ)の宗敎(しうけう)の敎理(けうり)を妻子(さいし)に敎(をし)へても宜敷哉(よろしきや)と尋(たづ)ね候(そろ)、誠(まこと)に良(よ)き兆候(てうこう)に御座候(ござそろ)。
 其後(そのご)一夜(や)小生(せうせい)は一の消息(せうそく)を受(う)け候(そろ)。其(その)文(ぶん)によれば、此人(このひと)は砲兵(はうへい)士官(しくわん)にして、近頃(ちかごろ)八千人(にん)の指揮官(しきくわん)に昇進(しようしん)致(いた)し候(そろ)に付(つ)き、再(ふたゝ)び長崎(ながさき)には歸(かへ)り難(がた)しとのことに候(そろ)。されど若(も)し小生(せうせい)が彼(かれ)のために軍術(ぐんじゆつ)の一書(しよ)を手(て)に入(い)れ呉(く)るゝに於(おい)ては、君公(くんこう)の許(ゆるし)を得(え)て長崎(ながさき)に來(きた)り、通譯者(つうやくしや)の助(たすけ)によりて之(これ)を學(まな)びたしと有之候(これありそろ)。さすれば彼(かれ)は一度(たび)長崎(ながさき)に來(きた)りて福音(ふくおん)の眞理(しんり)を、一層(そう)詳細(しやうさい)に學(まな)ぶの機會(きくわい)可有之(これあるべく)と存(ぞん)じ小生(せうせい)は一の軍學書(ぐんがくしよ)を借(か)り入(い)れ、彼(かれ)の友人(いうじん)をして之(これ)を通知(つうち)せしめ候(そろ)。彼(かれ)は必(かなら)ず正月(しやうぐわつ)後(ご)には、再(ふたゝ)び長崎(ながさき)に來(きた)るべく候(そろ)。』

此(この)の求道者(きうだうしや)は師(し)が豫期(よき)せし如(ごと)く、再(ふたゝ)び長崎(ながさき)に來(きた)り、師(し)より道(みち)を學(まな)ぴしや、彼(かれ)は何(いづ)れの藩士(はんし)にて、其(その)姓名(せいめい)は何(な)んと稱(しやう)せしか、這(こ)は何人(なにびと)も知(し)らんと欲(ほつ)する所(ところ)ならんも、其(そ)の後(ご)の師(し)の書簡中(しよかんちゆう)に、彼(かれ)に就(つい)て記(しる)せるものを發見(はつけん)せざれば、此處(こゝ)に明言(めいげん)するを得(え)ざるは、甚(はなは)だ遣憾(ゐかん)であるが、想(おも)ふに、彼(かれ)の如(ごと)き眞率(しんそつ)熱心(ねつしん)なる求道者(きうだうしや)にして、特(とく)に願望(ぐわんばう)の軍學書(ぐんがくしよ)を手(て)に入(い)れる事(こと)となりしゆへに、必(かな)らず師(し)の期待(きたい)せし如(ごと)く、翌(よく)元治(ぐわんぢ)元年(ぐわんねん)正月(しやうぐわつ)後(ご)に、再(ふたゝ)び長崎(ながさき)に來(きた)り、更(さら)に師(し)の敎(をしへ)を受(う)け一層(そう)信仰(しんかう)に進(すゝ)んだであらう。或(あるひ)は此人(このひと)が、慶應(けいおう)二年(ねん)に師(し)より洗禮(せんれい)を受(う)けし肥後(ひご)の人(ひと)庄村(しやうむら)氏(し)、其人(そのひと)ではあるまいか。

九、傅道の方針  

 千八百六十四年(ねん)(元治(ぐわんぢ)元年(ぐわんねん))一月(ぐわつ)、師(し)の書簡(しよかん)に曰(いは)く。

『回顧(くわいこ)すれば前回(ぜんくわい)報告(はうこく)以來(いらい)又(また)一年(ねん)の光陰(くわういん)を經(へ)候(そろ)。然(しか)れども日本(にほん)に於(おい)て、公然(こうぜん)基督敎(きりすとけう)の福音(ふくおん)を宣傅(せんでん)せんとの、我等(われら)が宿昔(しゆくせき)の希望(きばう)及(および)之(これ)が爲(た)めに祈(いの)りたる時(とき)は、未(いま)だ來(きた)らず候(そろ)。今日(こんにち)迄(まで)の處(ところ)にては、世界(せかい)の大(だい)原野(げんや)の此(この)一小隅(せうぐう)に於(おい)て我等(われら)は靈界(れいかい)の農夫(のうふ)として、石(いし)を掻(か)き集(あつ)め荊棘(いばら)を取除(とりのぞ)き、以(もつ)て將來(しやうらい)之(これ)に鋤鍬(すきくわ)を入(い)るゝの準備(じゆんび)をなし、又(ま)た此處(こゝ)、彼處(かしこ)、竊(ひそか)に道(みち)の善(よ)き種(たね)を蒔(ま)くの勞作(らうさく)に服(ふく)し居候(をりそろ)。
若(も)し夫(そ)れ其種(そのたね)の芽(め)を出(いだ)し葉(は)を長(ちやう)し、穗(ほ)傾(かたむ)きて之(これ)に穀(こく)を生(しやう)ずるを見(み)ることは、未(いま)だ我等(われら)に賜(たま)はらざる特權(とくけん)に御座候(ござそろ)。其時(そのとき)に至(いた)る迄(まで)は只管(ひたすら)に待(ま)ち且(かつ)祈(いの)り、刈入(かりい)れの主(しゆ)が良(よ)き時(とき)に至(いた)つて、墻垣(かき)を撤(てつ)し我等(われら)をして公然(こうぜん)種(たね)を蒔(ま)き地(ち)を耕(たがや)すを得(え)せしめ、又(ま)た靈(れい)の露(つゆ)を注(そゝ)ぎ給(たま)ふて、我等(われら)をして主(しゆ)の穀倉(こくぐら)に靈(れい)の果實(くわじつ)を收(おさ)むることを得(え)せしめ給(たま)ふ時(とき)の至(いた)るを望(のぞ)むの外(ほか)無之候(これなくそろ)。されば今日(こんにち)迄(まで)、此地(このち)に於(お)ける宣敎師(せんけうし)の働(はたら)きは、前(ぜん)申上(まをしあげ)候如(そろごと)く、宛(あたか)も地(ち)の瓦礫(ぐわれき)を除(のぞ)き荊棘(けいきよく)を拓(ひら)きて、除草(ぢよさう)及(およ)び播種(はんしゆ)の備(そなへ)をなすに止(とま)り候(そろ)。
即(すなは)ち基督敎(きりすとけう)に對(たい)する人民(じんみん)の偏見(へんけん)及(および)誤解(ごかい)を釋(と)くに勉(つと)め、新敎的(しんけうてき)基督敎(きりすとけう)は何(なん)の恐(おそ)るべき所(ところ)なく、却(かへ)つて日本(にほん)にして福音(ふくゐん)宣傳(せんでん)の爲(ため)に、門戸(もんこ)を開放(かいはう)するは、之(こ)れ此國(このくに)の上(うえ)に亦(また)大(だい)なる慶福(けいふく)を亨(う)くる所以(ゆえん)なることを、機會(きくわい)ある毎(ごと)に人々(ひとびと)に説(と)き明(あ)かすことを專(もつぱ)ら努(つと)め居候(をりそろ)。
日本人中(にほんじんちゆう)には既(すで)に歴史(れきし)に通(つう)じて、能(よ)く我等(われら)の説(と)く所(ところ)を諒(りやう)とし、一國(こく)に基督敎(きりすとけう)の入(い)り來(きた)ることは其(その)結果(けつくわ)必(かなら)ず文明(ぶんめい)の進歩(しんぽ)を促(うなが)し、道德上(だうとくじやう)、知識上(ちしきじやう)及(および)社會上(しやくわいじやう)一般(ぱん)の幸福(かうふく)を增進(ぞうしん)することを信(しん)じ、而(しか)して此(この)進歩(しんぽ)は大(おほひ)に基督敎(きりすとけう)思想(しさう)の純潔(じゆんけつ)なるに依(よ)ると、承諾(しやうだく)せる人々(ひとひと)も有之候(これありそろ)。
 斯(かゝ)る働(はたら)きをなすは、餘(あま)り益(えき)なきことに時間(じかん)を消費(せうひ)するものなりとし、專制國(せんせいこく)の政府(せいふ)に於(おい)ては、斯(かゝ)る言説(げんせつ)は、最上級(さいじやうきふ)の人々(ひとびと)に向(むか)つてなすにあらざれば、何(なん)の效果(かうくわ)をもなしと思惟(しひ)する人(ひと)も有之候(これありそろ)はんかなれども、之(これ)は必(かなら)ずしも無益(むえき)の業(げふ)には無御座(ござなく)、斯(かゝ)る説明(せつめい)を聞(き)きし人々(ひとひと)の中(うち)には、其(その)君公(くんこう)に近侍(きんじ)する人々(ひとびと)も有之(これあり)、中(なか)には又(また)其(その)左右(さいう)に在(あ)つて事(こと)を執(と)り、言(げん)を進(すゝ)むるの人々(ひとびと)も有之候(これありそろ)。
大名等(だいみやうとう)は適當(てきたう)の同輩(どうはひ)合意(がふい)せば以(もつ)て、政府(せいふ)をして其(その)欲(ほつ)する政策(せいさく)を探用(さいよう)せしむる權力(けんりよく)有之候(これありそろ)。加之(しかのみならず)、此(この)專制國(せんせいこく)に於(おい)ても、矢張(やはり)幾分(いくぶん)か輿論(よろん)の行(おこな)はるゝありて、其(その)聲(こゑ)は全然(ぜんぜん)無視(むし)する譯(わけ)には相成不申(あひなりまをさず)、而(しか)して輿論(よろん)の力(ちから)は不絶(たえず)增進(ぞうしん)致居候(いたしをりそろ)、且(か)つ夫(そ)れ商人(しやうにん)階級(かいきふ)も其(その)聲(こゑ)の增進(ぞうしん)して、外國人(ぐわいこくじん)と接觸(せつしよく)し他(た)の國(くに)に於(おい)て商人(しやうにん)の占(し)むる位地(ゐち)を學(まな)ぶにつれて、彼等(かれら)は愈々(いよいよ)自己(じこ)の權利(けんり)を自覺(じかく)し、進(すゝ)んで之(こ)れを主張(しゆちやう)いたし候(そろ)。
されば、我等(われら)の時(とき)は必(かなら)ず將(まさ)に來(きた)るべく、其(その)來(きた)るは現今人(げんこんじん)の考(かんが)ふるよりも意外(いぐわい)に早(はや)かるべく候(そろ)。されば將來(しやうらい)第(だい)三階級(かいきふ)の發達(はつたつ)して、其意見(そのいけん)が此國民(このこくみん)の會議(くわいぎ)に於(おい)て、適當(てきたう)の威重(ゐぢゆう)を有(いう)する時(とき)の至(いた)らんことは、期(き)して待(ま)つべきに御座候(ござそろ)。』