第七編 長崎時代(中)

第七編 長崎時代 (中)

一、政治上の状態

 師(し)は安政(あんせい)六年(ねん)六月(ぐわつ)我國(わがくに)に來任(らいにん)し、以來(いらい)約(やく)八年間(ねんかん)、幕末(ばくまつ)史上(しじやう)最(もつと)も多難(たなん)多事(たじ)なりし時期(じき)を長崎(ながさき)に過(すご)し、慶應(けいおう)二年(ねん)三月(ぐわつ)、幕府(ばくふ)衰亡(すゐばう)の氣運(きうん)愈々(いよいよ)迫(せま)り、將(まさ)に一大(だい)變革(へんかく)の起(おこ)らんとしつゝある我(わ)が國(くに)を後(あと)にして本國(ほんごく)に歸(かへ)られた、而(しか)して師(し)が支那(しな)日本(にほん)傳道(でんだう)監督(かんとく)として、再(ふたゝ)び我國(わがくに)に來(きた)りし時(とき)ははや舊(きう)幕府(ばくふ)は倒(たう)れて、維新(いしん)空前(くうぜん)の大革命(だいかくめい)既(すで)に成(な)れる明治(めいぢ)元年(ぐわんねん)であつた。舊日本(きうにほん)をして新日本(しんにほん)たらしめたる此(この)一大(だい)變遷(へんせん)の時期(じき)の我政界(わがせいかい)は、師(し)は最(もつと)も興味(きやうみ)を以(もつ)て注目(ちゆうもく)したであらう。
此頃(このころ)師(し)が本國(ほんごく)へ送(おく)りし書簡中(しよかんちう)には、當時(たうじ)の政治上(せいぢじやう)の状態(じやうたい)を記述(きじゆつ)し、又之(またこれ)に論及(ろんきふ)する所(ところ)は尠(すくな)くない。以下(いか)に列擧(れつきよ)する者(もの)は其(その)二三に過(す)ぎぬが、以(もつ)て師(し)が時運(じうん)の進行(しんかう)に周到(しうたう)なる注意(ちゆうい)を拂(はら)はれたる事(こと)を推知(すいち)するに足(た)るであらう。千八百六十二年(ねん)(文久(ぶんきう)二年(ねん))一月(ぐわつ)通信中(つうしんちう)に曰(いわ)く、

『茲(こゝ)に政治上(せいぢじやう)に於(おい)て注目(ちゆうもく)すべき若干(じやくかん)の事柄(ことがら)有之(これあり)、之(こ)れ實質的(じつしつてき)に我等(われら)の働(はたらき)きに影響(えいきやう)可致故(いたすべきゆゑ)に候(そろ)。第(だい)一日本政府(にほんせいふ)が其商人(そのしやうにん)の貿易(ぼうえき)の目的(もくてき)を以(もつ)て、外國(がわいこく)に渡航(とかう)することを許(ゆる)したることに候(そろ)。勿論(もちろん)此許可(このきよか)に伴(ともな)ふ條件(でふけん)の如何(いかん)は、未(いま)だ公(おほやけ)にせられず、初(はじめ)の内(うち)は必(かなら)ず多(おほ)くの制限(せいげん)の附(ふ)せらるべきは疑(うたが)ひ無之(これなく)候得共(さうらえども)、假令(たとへ)如何(いか)に狹隘(けふあひ)なる制限(せいげん)の附(ふ)せらるゝにせよ、確(たし)かに之(こ)れ將來(しやうらい)無制限(むせいげん)の交通(かうつう)に向(むか)つて、更(さら)に一ツの間隙(かんげき)を供(きよう)するものなること疑(うたがひ)なく、從來(じゆうらい)日本人(にほんじん)にして一度(たび)其國(そのくに)を去(さ)るものは、假設(たとひ)暴風(ばうふう)の爲(ため)に漂流(へうりう)したる場合(ばあひ)と雖(いえど)も、再(ふたゝ)び國(くに)に歸(かへ)ることを許(ゆる)さずといふ、近頃(ちかごろ)まで實施(じつし)せられたる法律(はふりつ)の一大進歩(だいしんぽ)と存(ぞん)じ候(そろ)。此(この)新法律(しんはふりつ)は來春(らいしゆん)より實施(じつし)せらるべく、目下(もくか)商人(しやうにん)にして其恩澤(そのおんたく)に浴(よく)して海外(かいぐわい)渡航(とかう)の準備(じゆんび)をなせるもの尠(すくな)からず、彼等(かれら)は既(すで)に之(これ)が爲(ため)に一船(せん)を長崎(ながさき)に於(おい)て、又(また)二船(せん)を神奈川(かながは)に於(おい)て買入(かいい)れたりと承(うけたまは)り候(そろ)。
此傾向(このけいかう)に伴(ともな)ひて日本政府(にほんせいふ)は又(ま)た特使(とくし)を、英國(えいこく)及(および)佛蘭西(ふらんす)に派遣(はけん)することを決定(けつてい)し、近々(きんきん)出發(しゆつぱつ)せしむることに相定(あひさだま)り候(そろ)。斯(かゝ)る訪問(はうもん)は必(かなら)ず日本人(にほんじん)の眼界(がんかい)を擴張(くわくちやう)し、外國(ぐわいこく)との交通(かうつう)に於(おい)て、一層(そう)自由(じいう)なる政策(せいさく)を執(と)らしむるに至(いた)ること疑(うたが)ひ無之候(これなくそろ)。
 乍去(さりながら)、茲(こゝ)に最(もつと)も我等(われら)の働(はたら)きに影響(えいきやう)するの虞(おそれ)ある事柄(ことがら)は、日本(にほん)と或(ある)強國(きやうこく)との間(あひだ)に戰端(せんたん)を開(ひら)かれんことに候(そろ)。固(もと)より其事(そのこと)は何時(いつ)起(おこ)るべきか知(し)る者(もの)之無(これなく)候得(さふらえ)共(ども)、仕切(しき)りに戰爭(せんさう)の開(ひら)かれん事(こと)を恐(おそ)るゝ人々(ひとびと)尠(すくな)からず、例(れい)せば日本人(にほんじん)が妄(みだ)りに外國人(ぐわいこくじん)を殺傷(さつしやう)するが如(ごと)き、英國(えいこく)公使館(こうしくわん)を襲撃(しふげき)するが如(ごと)き、或(あるひ)は日本人(にほんじん)が條約(でふやく)の明文(めいぶん)を守(まも)らず、若(もし)くは外國(ぐわいこく)の個人(こじん)又(また)は官吏(くわんり)が、屡々(しばしば)日本人(にほんじん)に對(たい)して激怒(げきど)の原因(げんいん)を與(あた)ふる如(ごと)き事柄(ことがら)が、此上(このうへ)尚(なほ)も續生(ぞくせい)至候(いたしそろ)に於(おい)ては、勢(いきほ)ひ戰爭(せんさう)に立(た)ち至(いた)らざるを得(え)るべく候(そろ)。
既(すで)に去(さ)る頃(ころ)も露西亞人(ろしあじん)が炭水(たんすゐ)の爲(ため)に、九州(しう)の西部(せいぶ)對馬(つしま)に上陸(じやうりく)せし一件(けん)の如(ごと)きは、貴下(きか)も既(すで)に御承知(ごしやうち)の事(こと)と存候(ぞんじそろ)。當時(たうじ)日本人(にほんじん)は非常(ひじやう)に恐慌(きようくわう)を起(おこ)し、之(こ)れ必(かなら)ず露西亞(ろしあ)が南方(なんぱう)の港(みなと)を得(え)んとの、世(よ)にも有名(いうめい)なる希望(きぼう)よりして、此島(このしま)を永久(えいきう)に占領(せんりやう)せんとの野心(やしん)に出(い)でたる者(もの)と解(かい)し、事態(じたい)甚(はなは)だ容易(ようい)ならざる形勢(けいせい)を示(しめ)し候(そろ)より、英國(えいこく)提督(ていとく)は餘儀(よぎ)なく露西亞(ろしあ)船(せん)に對(たい)して、其(その)目的(もくてき)のある所(ところ)を詰問(きつもん)致(いた)したる次第(しだい)に候(そろ)。
 固(もと)より今日(こんにち)の日本(にほん)は、其(その)進運(しんうん)誠(まこと)に些(さ)々たることに候得共(さふらへども)、過去(くわこ)を回想(くわいさう)すれば、既(すで)に幾分(いくぶん)の進歩(しんぽ)の見(み)るべきあり、我等(われら)は此國(このくに)の前途(ぜんと)必(かなら)ず洋々(やうやう)たる希望(きばう)あるべきを信(しん)じ候(そろ)。故(ゆゑ)に我等(われら)は毫(がう)も失望(しつばう)すべき謂(ゐは)れ無之(これなく)、今迄(いままで)になしたることは、我等(われら)の希望(きばう)に對(たい)して如何(いか)に些少(させう)なるにせよ、既(すで)に幾分(いくぶん)の光明(こうめう)と生命(せいめい)と自由(じいう)とを、多(おほ)くの滅(ほろ)びんとする靈魂(れいこん)に向(むか)つて與(あた)ふる所(ところ)あり、此上(このうへ)神(かみ)の惠(めぐみ)の豐(ゆた)かに加(くは)えらるゝに於(おい)ては、必(かなら)ず我等(われら)の事業(じげふ)を增進(ぞうしん)し給(たま)ふべく、神(かみ)は僅少(きんせう)なる手段(しゆだん)と器(うつは)とを以(もつ)て、多(おほ)くの慶福(けいふく)を與(あた)え給(たま)ふべく候(そろ)。
願(ねがは)くは神(かみ)を信(しん)ずる人々(ひとびと)の祈祷(きたう)が神(かみ)の御聽(おきゝ)に達(たつ)し我等(われら)が爲(な)したる小(ちい)さき働(はたらき)の上(うへ)に惠(めぐみ)を下(くだ)し給(たま)ひ、我等(われら)が蒔(ま)きたる種(たね)は、聖靈(せいれい)の恩化(おんくわ)によりて、芽(め)を生(しやう)じ實(み)を結(むす)び、救拯(すくひ)の福音(ふくゐん)を此(この)異敎土(いけうど)に宣傳(せんでん)する爲(ため)に、其(その)門戸(もんこ)を開於(かいはう)せしめ給(たま)はんことを切(せつ)に祈(いの)る處(ところ)に候(そろ)。』

千八百六十四年(ねん)(元治(げんぢ)元年(ぐわんねん))一月(ぐわつ)通信中(つうしんちゆう)に曰(いは)く、

『薩州候(さつしうこう)が英國政府(えいこくせいふ)の要求(えうきう)に應(おう)じて、賞金(しやうきん)を拂(はら)ひ候(そろ)ことは、貴下(きか)既(すで)に新聞(しんぶん)紙上(しゞやう)にて、御承知(ごしやうち)と存候(ぞんそろ)。此(この)事(こと)の爲(ため)に難件(なんけん)全(まつた)く落着(らくちやく)し、最早(もはや)開戰(かいせん)の恐(おそ)れ全(まつた)くなきに至(いた)り候(そろ)。尚(なほ)又(また)越前候(ゑちぜんこう)は今(いま)や其(その)港(みなと)を擴張(くわくちやう)し、浚渫(しゆんけう)致居候(いたしをりそろ)。是(こ)れは外國人(ぐわいこくじん)を防(ふせ)ぐ爲(ため)の、防備(ばうび)工事(こうじ)に金(かね)を費(つひや)やすにはあらずして、只(たゞ)港(みなと)を改良(かいりやう)し外人(ぐわいじん)を來(きた)らしむる爲(た)めとのことに候(そろ)。越前(えちぜん)藩主(はんしゆ)の父(ちゝ)は、數年前(すうねんぜん)政治上(せいぢじやう)の理由(りいう)により、其(その)職(しよく)を退(しりぞ)きし人(ひと)に候(さふら)ふが、大(おほひ)に其(その)子息(しそく)の劃策(くわくさく)に同意(どうい)せられ候(そろ)。
此(この)老候(らうこう)は日本(にほん)に於(お)ける最(もつと)も知識深(ちしきふか)く度量(どりやう)廣(ひろ)き一人(にん)に候(そろ)。此(この)人(ひと)は去(さ)る頃(ころ)、諸大名(しよだいみやう)と共(とも)に京都(きやうと)に出(い)でゝ、帝(みかど)に拜謁(はひえつ)し、攘夷(じやうゐ)の企(くはだ)ての不可(ふか)なることを奏(さう)して、其(その)採決(さいけつ)を取消(とりけ)さしめたる一運動(うんどう)の率先者(そつせんしや)(否(いな)實(じつ)は其(その)計劃(けいくわく)の發起人(はつきにん))に有之候(これありそろ)。今(いま)此(この)大名(だいみやう)が其(その)境(さかひ)を擴張(くわくちやう)せることは、思(おも)ふに之(こ)れ他(た)の大名(だいみやう)と、竊(ひそが)に協商(けふしやう)して其(その)港(みなと)を開(ひら)かしむるに至(いた)るべく、薩州候(さつしうこう)も亦(また)其(その)港(みなと)を開(ひら)かんとの意向(いかう)ありと申(もう)すことに御座候(ござそろ)。將軍(しやうぐん)は近々(きんきん)更(さら)に一使節(しせつ)を歐羅巴(ようろつぱ)に遣(つかは)はして、橫濱港(よこはまこう)閉鎖(へいさ)の承諾(しやうだく)を諸外國(しよぐわいこく)より得(え)んと致(いたし)候(そろ)。此度(このたび)の使節(しせつ)は外國(ぐわいこく)軍艦(ぐんかん)には依(よ)らずして、大陸橫斷(たいりくわうだん)の汽車(きしや)にて行(ゆ)く由(よし)に承(うけたまは)り候(そろ)。』

千八百六十八年(ねん)(明治(めいぢ)元年(ぐわんねん)一月(ぐわつ)通信中(つうしんちゆう)に曰(いは)く、

『目下(もくか)日本(にほん)に於(おい)ては、形勢(けいせい)の變動(へんどう)極(きわ)めて著(いちじる)しきもの有之候(これありそろ)。兼(かね)て豫期(よき)せられたる如(ごと)く、諸大名(しよだいみやう)若(もし)くは其(そ)の有力者(いうりよくしや)の臣下等(しんから)は、將軍(しやうぐん)の權力(けんりよく)を廢(はい)し若(もし)くは大(おほひ)いに之(これ)を變革(へんかく)して、帝(みかど)を其(そ)の正當(せいたう)の位地(ゐち)に恢復(くわいふく)し、名實共(めいじつとも)に此(こ)の國(くに)の皇帝(くわうてい)たらしめんとの決心(けつしん)を抱(いだ)けるものゝ如(ごと)くに候(そろ)。過(すぐ)る二百年(ねん)以上(いじやう)の間(あいだ)此(こ)の國(くに)の帝(みかど)は、只(ただ)虚器(きよき)を擁(えう)して禁隔(きんかく)の生涯(しやうがい)を送(おく)らせられ、(中略(ちゆうりやく))其(そ)の一言(げん)一行(かう)をも嚴密(げんみつ)に規定(きてい)せる法規(はふき)の爲(ため)に束縛(そくだく)せられ給(たま)ひ、政府(せいふ)に實務(じつむ)は主(しゆ)として、將軍(しやうぐん)及(およ)び其(そ)の内閣(ないかく)の處理(しより)に任(にん)じ、極(きは)めて緊要(きんえう)なる事件(じけん)のみを帝(みかど)に奏聞(そうもん)して其(そ)の勅栽(ちよくさい)を仰(あふ)ぎ來(きた)り候(そろ)。
乍去(さりながら)、此(こ)の勅許(ちよくきよ)の事(こと)は僅(わづか)に形式(けいしき)に止(とま)り、假令(たと)ひ帝意(ていい)が或(あ)る政策(せいさく)に批准(ひじゆん)を拒(こば)むことありとも、將軍(しやうぐん)の政府(せいふ)は帝意(ていい)に反(はん)して事(こと)を處(しよ)するを憚(はゞか)らず候(そろ)。例(れい)せば此(こ)の國(くに)をして西洋諸國(せいやうしよこく)との交際(こうさい)を開(ひら)かしめたる提督(ていとく)ペリーとの條約(でふやく)の如(ごと)きも、將軍(しやうぐん)の政府(せいふ)が朝廷(ちやうてい)の御意(ぎよい)に反(はん)して、處置(しよち)したるものに御座候(ござそろう)。曩(さき)に此(こ)の案件(あんけん)の帝(みかど)に奏聞(そうもん)せられし時(とき)、帝(みかど)は多(おほ)くの攘夷(じやうゐ)論者(ろんしや)の意見(いけん)を聽(き)きて、斷然(だんぜん)其(その)勅許(ちよくきよ)を拒(こば)み給(たま)ひ候(そろ)。されども將軍(しやうぐん)の政府(せいふ)か斯(か)く皇帝(くわうてい)の峻拒(しゆんきよ)あるにも拘(かゝは)らず、竊(ひそか)に條約(でふやく)を締結(ていけつ)仕候(つかまつりそろ)。此(この)幕府(ばくふ)の處置(しよち)は爾來(じらい)此(この)國(くに)に生(せう)じたる多(おほ)くの内訌(ないこう)及(および)紛擾(ふんじやう)の原因(げんいん)たりしこと申(まをす)までも無之(これなく)候(そろ)。
 從來(じゆうらい)大名等(だいみやうら)は、太閤樣(たいかうさま)の後繼(こうけい)者(しや)たる權現樣(ごんげんさま)の嚴命(げんめい)により一年中(ねんぢゆう)六ヶ月間(げつかん)は、江戸(えど)に住居(ぢゆうきよ)することを餘儀(よぎ)なくせられ、而(しか)して其(そ)の領國(りやうこく)を訪(と)ふ時(とき)にも、家族(かぞく)を携(たづさ)ふることを許(ゆる)されず、家族(かぞく)等(ら)は實際(じつさい)人質(ひとじち)の有樣(ありさま)にて江戸(えど)に抑留(よくりう)せられ候(そろ)。之(こ)れ即(すなは)ち大名等(だいみやうら)は將軍(しやうぐん)に對(たい)する忠誠(ちゆうせい)の保證(ほしやう)にして、敢(あへ)て叛亂(はんらん)を企(くはだ)てさることを確證(かくしよう)するの政策(せいさく)に有之候(これありそろ)。されば有力(いうりよく)なる諸大名(しよだいみやう)は將軍(しやうぐん)の斯(かゝ)る待遇(たいぐう)に甚(はなは)だ慊焉(けんえん)たるもの茲(こゝ)に年(とし)あり、此等(これら)の大名等(だいみやうら)は將軍(しやうぐん)を見(み)ること、矢張(やはり)自己(じこ)と同(おな)じく大名(だいみやう)の大(だい)なる者(もの)にして、謂(ゐ)はゞ其(その)同僚(どうはひ)に過(す)ぎざるものと見做(みな)し居候(おりそろ)。
而(しか)して近頃(ちかごろ)幕府(ばくふ)が諸(しよ)外國(がわいこく)と條約(でふやく)を結(むす)びてより以來(いらい)、大名等(だいみやうとう)は將軍(しやうぐん)に迫(せま)りて、自己(じこ)の領國(りやうごく)に家族(かぞく)と共(とも)に永住(えいぢゆう)することを許可(きよか)せしめ候(そろ)。爾來(じらい)大名(だいみやう)は皇帝(くわうてい)を擁(えう)して其(その)權力(けんりよく)を高(たか)め、以(もつ)て將軍(しやうぐん)の權力(けんりよく)を削減(さくげん)せんと企(くはだ)つるの形勢掩(けいせいおほ)ふべからざるに至(いた)り候(そろ)。殊(こと)に大名(だいみやう)の中(うち)には自己(じこ)の領國(りやうごく)に於(おい)て港(みなと)を開(ひら)くことに反對(はんたい)する政策(せいさく)に對(たい)して、幕府(ばくふ)に不滿(ふまん)を抱(いだ)き居(お)り候(そろ)。之(これ)夫等(それら)開港地(かいかうち)より取上(とりあ)ぐる輸出入(ゆしゆつにふ)の關税(くわんぜい)が、大名(だいみやう)の競爭者(きやうさうしや)たり、甚(はなはだ)しきは其(その)敵視(てきし)せる將軍(しやうぐん)の府庫(ふこ)に入(い)るが故(ゆゑ)に御座候(ござそろ)。是(これ)に於(おい)て大名等(だいみやうら)は新(あらた)に法度(はつと)を設(まう)けて、各自(かくじ)の大名(だいみやう)をして自(みづか)ら港(みなと)を開(ひら)くことを得(え)せしむるか、若(もし)くは此上(このうへ)開港(かいかう)を中止(ちゆうし)せんことを希望(きばう)し、中(なか)には既(すで)に開(ひら)きたる港(みなと)をも閉鎖(へいさ)せんと主張(しゆちやう)するものも有之候(これありそろ)。されば本年(ほんねん)一月(ぐわつ)一日(にち)に於(お)ける兵庫(ひやうご)、及(およ)び大阪(おほさか)の開港(かいかう)は、茲(こゝ)に一大(だい)危機(きゝ)を生(せう)じ、帝(みかど)は大名(だいみやう)の會議(くわいぎ)を召集(せうしふ)して、此國(このくに)の未來(みらい)の政策(せいさく)を決定(けつてい)せんとせられ候(そろ)。
是(これ)に於(おい)て現將軍(げんしやうぐん)一橋卿(ひとつばしけう)は、自己(じこ)に對(たい)して形造(かたちづく)られし同盟(どうめい)の優勢(いうせい)に、抵抗(ていかう)すべからざるを覺(さと)りしにや、止(や)むなくも其(その)職(しよく)を辭(じ)せられ候(そろ)。然(しか)れども其(その)辭職(じしよく)は帝(てい)之(これ)を容(い)れ給(たま)はず、目下(もくか)大名(だいみやう)會議(くわいぎ)の議員等(ぎゐんら)は、既(すで)に都(みやこ)に上(のぼ)り居(をり)候得共(さふらへども)、尚(なほ)未(いま)だ參集(さんしふ)せざる者(もの)ありて、會議(くわいぎ)は未(いま)だ進行(しんかう)を始(はじ)むるに至(いた)らず候(そろ)。
 この會議(くわいぎ)を開(ひら)かるゝに先(さきだ)ちて、三大侯(だいこう)は、將軍(しやうぐん)に反對(はんたい)致候(いたしそろ)。即(すなは)ち薩州(さつしう)、長州(ちやうしう)、及(および)土州(としう)の侯(こう)は殆(ほとん)どクーデタにも等(ひと)しき高壓(かうあつ)手段(しゆだん)を取(と)り、皇居(くわうきよ)の周圍(しうゐ)には其(その)軍隊(ぐんたい)を配置(はひち)して、事實上(じゞつじやう)帝(みかど)を其(その)手中(しゆちゆう)に入(い)れ、嚴(げん)に帝(みかど)と將軍(しやうぐん)との交通(かうつう)を遮斷(しやだん)致候(いたしそろ)。勿論(もちろん)、之等(これら)諸侯(しよこう)の口實(こうじつ)とする處(ところ)は將軍(しやうぐん)が帝(みかど)に對(たい)して不當(ふたう)の勢力(せいりよく)を揮(ふる)ふことを防(ふせ)ぎ、帝(みかど)をして自由(じいう)に其(そ)の御意(ぎよい)の存(ぞん)する處(ところ)を、發表(はつぺう)せしめんとの揚言(やうげん)に有之(これあり)候得共(さふらへども)、彼等(かれら)諸侯(しよこう)の眞意(しんい)は皇帝(くわうてい)をして、自己等(おのれら)の政策(せいさく)を勅許(ちよくきよ)せしめ、以(もつ)て全然(ぜんぜん)將軍(しやうぐん)職(しよく)を廢棄(はいき)するか、或(あるひ)は少(すくな)くとも現今(げんこん)の政體(せいたい)を、大(おほひ)に變革(へんかく)するを目的(もくてき)と致(いたし)候(そろ)由(よし)に御座候(ござそろ)。
 斯(かゝ)る事變(じへん)の直接(ちよくせつ)の結果(けつくわ)、如何(いか)あるべきかを豫見(よけん)するは困難(こんなん)に御座(ござ)候得共(さふらへども)、兔(と)に角(かく)將來(しやうらい)は外國(がわいこく)に對(たい)し一層(そう)寬大(くわんだい)なる方針(ほうしん)を執(と)るに立(た)ち至(いた)り可申(まをすべく)と存候(ぞんじそろ)。將軍(しやうぐん)は外國人(ぐわいこくじん)に對(たい)して大(おほひ)いに厚意(かうい)を有(いう)し居(を)られ候(そろ)。而(しか)して右(みぎ)の三大侯(だいこう)は黨派(たうは)的(てき)の目的(もくてき)の爲(ため)に一時(じ)異(ことな)りたる政略(せいりやく)を取(と)り候得共(さふらへども)、之(こ)れ等(ら)諸侯(しよこう)は元來(ぐわんらい)識(しきけん)廣(ひろ)き人々(ひとびと)に御座(ごぞ)候得(さふらへ)ば、必(かなら)ず行(ゆ)く行(ゆ)くは西洋諸國(せいやうしよこく)との交通(かうつう)を一層(そう)自由(じいう)にするに賛同(さんどう)いたすべく候(そろ)。
 要(えう)するに之等(これら)の變革(へんかく)は皆(みな)福音(ふくいん)の宣傳(せんでん)を助(たす)くるの傾向(けいかう)を有(いう)し候(そろ)。基督敎(きりすとけう)を此國(このくに)に無(む)制限(せいげん)に宣傳(せんでん)することは、恐(おそら)く諸侯(しよこう)各自(かくじ)の獨立(どくりつ)行動(かうどう)によりて許(ゆる)さるゝに至(いた)るべく候(そろ)。當國(たうこく)在留(ざいりう)の宣敎師(せんけうし)、商人(しやうにん)及(および)智識(ちしき)ある日本人(にほんじん)より聞(き)く處(ところ)を綜合(そうがふ)すれば、拙者(せつしや)は遠(とほ)からずして基督敎(きりすとけう)を敎(をし)ふる爲(た)めに、自由(じいう)に内地(ないち)諸國(しよこく)に入(い)り込(こ)み得(う)るに至(いた)るべく、只(たゞ)其(その)條件(でふけん)としては一日(にち)數(すう)時間(じかん)、英語(えいご)、數學(すうがく)等(とう)を敎(をし)ふることに候(そろ)。一人(にん)の位(くらゐ)高(たか)き役人(やくにん)にして、其(その)君侯(くんこう)に遣(つか)はされ、物品(ぶつぴん)を買(か)ひ入(い)れ、且(かつ)事情(じゞやう)を探(さぐ)る爲(た)めに、米國(べいこく)に行(ゆ)きて近頃(ちかごろ)歸(かへ)り來(きた)りし人(ひと)有之候(これありさふら)ふが、拙者(せつしや)が其人(そのひと)の土地(とち)に至(いた)りて定住(ていぢゆう)せんことを熱心(ねつしん)に勸(すゝ)められ候(そろ)。其人(そのひと)の謂(ゐ)ふ所(ところ)によれば、其(その)君侯(くんこう)は日本(にほん)に於(おい)て最(もつと)も寬大(くわんだい)なる諸侯(しよこう)の一人(にん)にして、 必(かなら)ず拙者(せつしや)を歡迎(くわんげい)せらるべしとのことに候(そろ)。
此(この)君侯(くんこう)の父(ちゝ)は數年前(すうねんぜん)一の上奏(じやうさう)書(しよ)を皇帝(くわうてい)に呈(てい)して候(さふら)ふが、此(この)國(くに)の進歩(しんぽ)の爲(ため)に進言(しんげん)したる箇條(かでう)の一に、只今(たゞいま)西洋諸國(せいやうしよこく)に行(おこな)はるゝ所謂(いはゆる)邪敎(じやけう)は、以前(いぜん)此國(このくに)に傳(つた)えられたる基督敎(きりすとけう)とは全(まつた)く異(ことな)りたるものにして、假令(たとひ)日本(にほん)が之(これ)を採用(さいやう)して實地(じつち)に行(おこな)はしむるも、決(けつ)して此(こ)の國(くに)を亡(ほろ)ぼし若(もし)くは損害(そんがい)する如(ごと)き、宗派(しうは)は生(しやう)じ間敷(まじく)候(そろ)との言葉(ことば)有之候(これありそろ)。』

千八百六十八年(ねん)(明治(めいぢ)元年(ぐわんねん))二月(ぐわつ)通信中(つうしんちゆう)に曰(いは)く、

『前便(ぜんびん)にて申上候(まをしあげそろ)以來(いらい)の日本(にほん)の事情(じじやう)は、諸大名(しよだいみやう)が愈々(いよいよ)公然(こうぜん)と將軍(しやうぐん)に反對(はんたい)し、其(その)軍勢(ぐんぜい)を撃破(げきは)し、將軍(しやうぐん)は直(たゞち)に江戸(えど)に遁(のが)れ歸(かへ)りて堅(かた)く同市(どうし)の入口(いりくち)を固(かた)め、征討軍(せいたうぐん)の攻撃(こうげき)を豫期(よき)して兵力(へいりよく)を集中(しふちゆう)致(いたし)し候(そろ)。大阪(おほさか)兵庫(ひやうご)及(および)長崎(ながさき)は既(すで)に大名軍(だいみやうぐん)の手(て)に落(お)ち、大名(だいみやう)等(ら)は帝(みかど)の御名(おんな)よつて、此等(これら)の土地(とち)を支配(しはひ)すと揚言(やうげん)致候(いたしそろ)。而(しか)して大名等(だいみやうら)は將軍(しやうぐん)の味方(みかた)なりと思(おも)はるゝ、北方(ほくはう)の諸國(しよこく)に於(お)ける大名等(だいみやうら)に向(むか)つて、遠征(ゑんせい)の準備(じゆんび)おさおさ怠(おこた)りなく、既(すで)に出兵(しゆつぺい)の運(はこ)びに至(いた)り候(そろ)。彼等(かれら)は東北(とうほく)の諸(しよ)大名(だいみやう)に向(むか)つて、將軍(しやうぐん)の輩下(はひか)を脱(だつ)して、勝(か)ちたる大名(だいみやう)と同盟(どうめい)し、帝(みかど)に服從(ふくじゆう)せんことを強要(きやうえう)致候(いたしそろ)。若(も)し違背(ゐはい)あるに於(おい)ては、直(たゞち)ちに之(これ)を攻撃(こうげき)して其(その)領土(れうど)を沒收(ぼつしう)すべしと威赫(ゐくわく)致候(いたしそろ)。』

千八百六十八年(ねん)(明治(めいじ)元年(ぐわんねん))十二月(ぐわつ)通信中(つうしんちう)に曰(いは)く、

『現今(げんこん)日本(にほん)の政府(せいふ)は驚(おどろ)くべき速度(そくど)を以(もつ)て變化(へんくわ)致居候(いたしをりそろ)。去(さ)る一月(ぐわつ)小生(せうせい)が日本(にほん)を通過(つうくわ)致(いた)し候時(そろとき)には、將軍(しやうぐん)は殆(ほと)んど最上(さいじやう)の權(けん)を有(いう)して、事實(じじつ)上(じやう)の皇帝(くわうてい)に有之候(これありそら)ひしが、其以來(それいらい)薩長土(さつちやうど)三藩(はん)の率(ひき)ふる南方(なんぱう)諸侯(しよこう)の爲(ため)に撃破(げきは)せられて、將軍(しやうぐん)は悉(ことごと)く其(その)權力(けんりよく)を剥奪(はくだつ)せられ、其(その)宗廟(そうびやう)の地(ち)なる駿河(するが)に退隱(たいいん)を命(めい)ぜられ、帝(みかど)より若干(じやくかん)の祿(ろく)を與(あた)えらるゝことと相成(あひなり)申候(まをしそろ)。帝(みかど)は其頃(そのころ)に至(いた)る迄(まで)は禁裡(きんり)御所(ごしよ)の裡(うち)に屏居(へいきよ)ましまして、神(かみ)の子孫(しそん)と見做(みな)され、一の活(い)き神(がみ)と認(みと)められ、凡人(ぼんにん)の眼(め)を以(もつ)て仰(おほ)ぎ見(み)る可(べか)らざるものと思惟(しゐ)せられ給(たま)ひしに引換(ひきか)えて、今(いま)や其(その)殆(ほと)んど國囚(こくしう)たるの状態(じやうたい)を免(まぬか)れ給(たま)ひ、人民(じんみん)に見(み)え、外國(ぐわいこく)の使臣(ししん)を接見(せつけん)し、海軍(かいぐん)の演習(えんしふ)を御覽(ごらん)じては、之(こ)れ大(だい)なる河(かは)なりと宣(のたま)ひしと傳(つた)へられ、今(いま)や江戸(えど)に向(むか)かつて行幸(ぎやうかう)遊(あそ)ばされ候(そろ)。嗚呼(あゝ)日本人(にほんじん)が數(すう)千年(ねん)來(らい)、神聖(しんせい)視(し)せし傳説(でんせつ)と所見(しよけん)を、僅々(きんきん)數(すう)月(げつ)にして斯(か)く迄(まで)全然(ぜんぜん)と放棄(はうき)せしことは、實(じつ)に驚嘆(きやうたん)に値(あたひ)することに候(さふら)はずや。(中略)
 方今(はうこん)此國(このくに)の政治(せいぢ)を指導(しどう)せる若干(じやくかん)の領袖(りやうしゆ)は、日本(にほん)を立憲(りつけん)君(主《くんしゆ)國(こく)になすの希望(きばう)を有(いう)せるものゝ如(ごと)く去(さ)る六月(ぐわつ)京都(きやうと)に於(おい)て會議(くわいぎ)を開(ひら)き、其(その)討議(たうぎ)の結果(けつくわ)として、甚(はなは)だ自由(じいう)なる憲法(けんはふ)草案(さうあん)を提出(ていしゆつ)せり。此(この)憲法(けんはふ)は多(おほ)くの點(てん)に於(おい)て、合衆國(がつしゆうこく)の憲法(けんぱふ)を模傚(もかう)したるものゝ如(ごと)く、議會(ぎくわい)には上下(じやうげ)兩院(りやうゐん)ありて、萬事(ばんじ)を自由(じいう)討議(たうぎ)に據(よ)り、多數(たすう)を以(もつ)て決(けつ)せんとするものに候(そろ)。議席(ぎせき)を有(いう)し得(え)べき人々(ひとびと)の種類(しゆるゐ)は規定(きてい)せられあれど、各(かく)院(ゐん)幾何名(いくばくない)の議員(ぎゐん)より成(な)るべきやは明(あきら)かにせず、且(かつ)其(その)選擧(せんきよ)若(もし)くは任命(にんめい)の法(はふ)に就(つ)きても云(い)う所(ところ)無之候(これなくそろ)。之(こ)れ第(だい)一の試(こゝろ)みなれば、必然(ひつぜん)其(その)不(ふ)完全(くわんぜん)なるを免(まぬか)れざるべく、之(これ)が圓滑(ゑんくわつ)に行(おこな)はるゝ迄(まで)には、多(おほ)くの改正(かいせい)を要(えう)す可(べ)く候(そろ)。尚(なほ)又(ま)た之(これ)を實行(じつかう)するの時期(じき)に就(つ)きても、未(いま)だ云(い)ふ所(ところ)無(な)く、或(ある)日本人(にほんじん)は此(この)變革(へんかく)を尚早(なほはや)しと唱(とな)へ居(を)り候得(さふらへ)ば、其(その)實行(じつかう)せらるゝには、尚(なほ)多(おほ)くの時(とき)を要(えう)すべく候(そろ)。而(しか)して其(その)反對(はんたい)に立(た)てる有力(いうりよく)なる黨派(とうは)も有之(これある)ことなれば、餘(あま)りに事(こと)を急(いそ)がざるを最良(さいりやう)とすべく、若(も)し急激(きふげき)の變革(へんかく)を施(ほどこ)すに於(おい)ては、反動(はんどう)を生(しやう)ずるの恐(おそ)れ可有之候(これあるべくそろ)。
 近頃(ちかごろ)此國(このくに)に於(おい)て、大(おほい)に古(こ)神道(しんだう)を振作(しんさく)せんとの努力(どりよく)行(おこな)われ、此(この)努力(どりよく)は人民(じんみん)をして凡(すべ)て外來(ぐわいらい)の宗敎(しうけう)を棄(す)てゝ、彼等(かれら)が祖先(そせん)の舊信仰(きうしんかう)を保持(ほぢ)せしめんとするものにして、既(すで)に其(その)布告(ふこく)を長崎(ながさき)に於(おい)て官憲(くわんけん)より公示(こうし)せられたりと申(まを)すことに候(そろ)。此(この)政策(せいさく)は佛敎(ぶつけう)並(ならび)に基督敎(きりすとけう)を共(とも)に排(はい)せんとするものにして、夫(そ)れが爲(た)めにや、近頃(ちかころ)佛敎(ぶつけう)徒(と)に對(たい)して斷然(だんぜん)たる敵意(てきい)を示(しめ)され候(そろ)。長崎(ながさき)に於(お)ける一佛敎(ぶつけう)僧(そう)が拙者(せつしや)に通知(つうち)して申(まを)すには、近頃(ちかごろ)佛敎(ぶつけう)に反對(はんたい)するの布告(ふこく)發(はつ)せられたれども、其後(そのご)政府(せいふ)は佛敎(ぶつけう)僧(そう)の代表者(だいへうしや)よりの抗議(かうぎ)の爲(た)めに此(この)布告(ふこく)を撤回(てつくわい)せりとのことに候(そろ)。 且(か)つ其(その)云(い)ふ處(ところ)に依(よ)れば、長崎(ながさき)にては既(すで)に十箇(こ)の寺院(じゐん)は知事(ちじ)の命(めい)に依(よ)りて全然(ぜんぜん)破壞(はくわい)せられ、而(しか)して神道(しんだう)の徒(と)は大(だい)活動(くわつどう)を起(おこ)し、新(あた)らしき神宮(しんぐう)を建設(けんせつ)し、特(とく)に集會(しふくわい)を開(ひら)きて公然(こうぜん)説敎(せつけう)致(いた)し居(を)る由(よし)に候(そろ)。尚(なほ)又(ま)た其(その)眞僞(しんぎ)は保證(ほしやう)し難(がた)く候得共(さふらへども)薩摩(さつま)に於(おい)ては、佛敎徒(ぶつけうと)は全(まつた)く禁遏(きんあつ)せられたりとのことに候(そろ)。而(しか)して拙者(せつしや)の見(み)る處(ところ)に依(よ)れば、佛敎(ぶつけう)を壓迫(あつぱく)して神道(しんだう)を奬勵(しやうれい)するは基督敎(きりすとけう)の爲(た)めに有利(いうり)なるべく候(そろ)。』

二、同勞者リギンス氏  

 一千八百五十五年(ねん)十一月(ぐわつ)、本國(ほんごく)出發(しゆつぱつ)以來(いらい)師(し)の同勞(どうらう)の友(とも)なるジョン、リギンス師(し)は、安政(あんせい)六年(ねん)五月(ぐわつ)病氣(びやうき)療養(れうやう)の爲(ため)に、我國(わがくに)に來(きた)り長崎(ながさき)に在留中(ざいりうちゆう)、日本(にほん)傳道(でんだう)の任命(にんめい)に接(せつ)し、直(たゞち)に其任務(そのにんむ)に就(つ)きたるが、在留(ざいりう)僅(わづか)に十ヶ月(つき)にして宿痾(しゆくあ)再發(さいはつ)し、蔓延(まんえん)元年(ぐわんねん)二月(ぐわつ)二十四日(か)歸國(きこく)するの止(や)むを得(え)ざるに至(いた)つた。師(し)の在職(ざいしよく)は僅(わづか)に十ヶ月(つき)の少(せう)期間(きかん)なりしが日本語(にほんご)を學習(がくしふ)し、有志者(いうししや)に英語(えいご)を敎授(けうじゆ)し、聖書(せいしよ)類書(るゐしよ)或(あるひ)は科學(くわがく)書(しよ)を人々(ひとびと)に與(あた)へ、或(あるひ)は基督敎(きりすとけう)に對(たい)する誤解(ごかい)を解(と)く等(とう)大(おほひ)に努(つと)むる所(ところ)があつた。師(し)また英和(えいわ)對譯(たいやく)日用(にちよう)語(ご)一千題(だい)と題(だい)する書(しよ)を著(あらは)したるが、頗(すこぶ)る好評(かうひやう)を博(はく)し版(はん)を重(かさ)ぬること數回(すうくわい)なりしといふ。殊(こと)に師(し)が力(ちから)を盡(つく)されたるは、基督敎(きりすとけう)に對(たい)する人民(じんみん)の誤解(ごかい)を解(と)き偏見(へんけん)を打破(だは)し、以(もつ)て將來(しやうらい)の直接(ちよくせつ)傳道(でんだう)のために道(みち)を備(そな)ふるには、基督敎(きりすとけう)を混淆(こんかう)せる科學(くわがく)書(しよ)を使用(しよう)し、一は以(もつ)て科學(くわがく)的(てき)知識(ちしき)を與(あた)へ、一は以(もつ)て宗敎(しうけう)的(てき)知識(ちしき)を與(あた)ふるを最(もつと)も得策(とくさく)なりとし、支那(しな)に於(おい)て宣敎師(せんけうし)の編纂(へんさん)せる此(この)種(しゆ)の書類(しよるゐ)を取寄(とりよ)せ知識(ちしき)を渇望(くわつばう)せる人々(ひとびと)の手(て)に廣(ひろ)く是等(これら)を行渡(ゆきわた)らしたことである。當時(たうじ)師(し)の書信(しよしん)中(ぢゆう)に此(この)種(しゆ)の書籍(しよせき)に付(つ)き下(しも)の如(ごと)く記(しる)されてある。

『目下(もくか)小生(せうせい)の時間(じかん)は、國語(こくご)學習(がくしふ)と、左記(さき)書籍(しよせき)賣却(ばいきやく)取扱(とりあつかひ)に費(つひや)され居(を)り候(そろ)。書籍(しよせき)は漢文書(かんぶんしよ)にて既(すで)に多數(たすう)賣却(ばいきやく)いたし申候(まをしそろ)。

シルナー氏(し)英國(えいこく)歴史(れきし)
ブリツヂマン氏(し)合衆(がつしう)國史(こくし)
ウエー氏(し)地理(ちり)提要(ていえう)
ムアーヘット氏(し)地文學(ちぶんがく)
同(どう)   歴史(れきし)地理(ちり)
インスリー氏(し)月刊(げつかん)雜誌(ざつし)
ホブソン氏(し)物理(ぶつり)學(がく)
同(どう)   外科(げくわ)術(じゆつ)
同(どう)   醫學(いがく)
ウイリヤムソン氏(し)植物(しよくぶつ)學(がく)
ガズラツフ氏(し)萬國史要(ばんこくしえう)

以上(いじやう)の書籍(しよせき)を今日(こんにち)まで、千部(ぶ)以上(いじやう)賣却(ばいきやく)いたし候(そろ)が、購求(かうきう)者(しや)は日本(にほん)上流(じやうりゆう)社會(しやくわい)の人士(じんし)に候(そろ)。其等(それら)の書(しよ)の多(おほ)くは、慥(たしか)に日本人(にほんじん)の手(て)により再版(さいはん)せられ、帝國内(ていこくない)に廣(ひろ)く行(ゆ)き渡(わた)りたる事(こと)と存候(ぞんじそろ)。支那(しな)に於(おい)て米國(べいこく)宣敎師(せんけうし)の編輯(へんしふ)せられたる、四の科學(くわがく)書(しよ)は既(すで)に飜譯(ほんやく)せられ、知識(ちしき)を渇望(くわつばう)する此(この)人民(じんみん)により出版(しゆつぱん)せられ候(そろ)。然(しかし)ながら、以上(いじやう)の書籍(しよせき)の配布(はひふ)より、期待(きたい)せらるゝ好(かう)結果(けつくわ)は多(おほ)くとも、小生(せうせい)は單(たん)に之(こ)れのみにて決(けつ)して滿足(まんぞく)する能(あた)はず候(そろ)。小生(せうせい)は、神奈川(かながは)に至(いた)らば、聖書(せいしよ)販賣(はんばい)を回復(くわいふく)する積(つも)りに候(そろ)。若(も)し官憲(くわんけん)が干渉(かんせふ)を企(くはだ)つるならば、兼(かね)て約(やく)せるハリス氏(し)の保護(ほご)を要請(えうせい)致(いた)す可(べ)く候(そろ)。然(しか)し彼等(かれら)は左樣(さやう)爲(な)すまじと存候(ぞんじそろ)。而(しか)して人民(じんみん)が聖書(せいしよ)を讀(よ)むに由(よ)りて、基督敎(きりすとけう)を大(おほひ)いに誤解(ごかい)したることを悟(さと)り、多(おほ)くの人々(ひちびと)は、聖靈(せいれい)の祐助(たすけ)に由(よ)り、耶蘇(いゑす)にある救(すくひ)の知識(ちしき)に導(みちび)かるゝに至(いた)らんことは小生(せうせい)の信(しん)じて疑(うたが)はざる所(ところ)に候(そろ)』と。

 師(し)はまた、當時米國(たうじべいこく)に於(おい)て、我國(わがくに)が基督敎(きりすとけう)國禁(こくきん)を解(と)かず、開國(かいこく)とはいへ實(じつ)は鎖國(さこく)も同樣(どうやう)の状態(じやうたい)にて、宣敎師(せんけうし)は直接(ちよくせつ)傳道(でんだう)を爲(な)す能(あた)はざれば、かゝる地(ち)に宣敎師(せんけうし)を派遣(はけん)するは、無益(むえき)にはあらざるかとの疑問(ぎもん)、多(おほ)くの人々(ひとびと)の間(あひだ)に起(おこ)りつゝありたれば、大(おほひ)に日本(にほん)傳道(でんだう)の爲(た)めに辨(べん)じ、現在(げんざい)日本(にほん)に於(おい)て宣敎師(せんけうし)の爲(な)し得(う)る所(ところ)、數(す)々條(でう)を列擧(れつきよ)して、宣敎師(せんけうし)派遣(はけん)の必要(ひつえう)を論(ろん)じた。師(し)は熱烈(ねつれつ)なる傳道(でんだう)心(しん)を有(いう)し、言論(げんろん)巧(たくみ)に文筆(ぶんぴつ)に長(ちやう)じ、經綸(けいりん)の才(さい)に富(と)める人(ひと)なりしものゝ如(ごと)し。師(し)にして若(も)し長(なが)く我國(わがくに)に在留(ざいりう)したならば、我(わ)が基督敎界(きりすとけうかい)に貢献(かうけん)する所(ところ)多大(ただい)であつたらう。

三、宣敎醫師シユミツト氏  

 米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)傳道局(でんだうきよく)總會(そうくわい)が、日本(にほん)傳道(でんだう)開始(かいし)を決議(けつぎ)し、リギンス及(およ)びウイリヤムス兩氏(りやうし)を、日本(にほん)宣敎師(せんけうし)に任命(にんめい)したる時(とき)、兩師(りやうし)の外(ほか)に更(さら)に一名(めい)の宣敎(せんけう)醫師(いし)を派遣(はけん)することを決議(けつぎ)し、傳道局(でんだうきよく)委員(ゐゐん)は印刷物(いんさつぶつ)を以(もつ)て、適當(てきたう)の資格(しかく)ある醫師(いし)を募集(ぼしふ)したるが、此(この)募集(ぼしふ)に應(おう)じて我國(わがくに)に來任(らいにん)したる宣敎(せんけう)醫師(いし)は、エイチ、イ、シユミツト氏(し)である。氏(し)は一千八百六十年(ねん)(萬延(まんえん)元年(ぐわんねん))四月(ぐわつ)、長崎(ながさき)に來着(らいちやく)した。當時(たうじ)我國(わがくに)の醫學(いがく)は未(いま)だ進歩(しんぽ)せざりしを以(もつ)て、氏(し)の事業(じげふ)は大(おほひ)に成功(せいかう)し、傳道(でんだう)上(じやう)に貢献(かうけん)せし所(ところ)も尠(すくな)からざりしが、氏(し)も亦(また)健康(けんかう)を害(がい)し、在職(ざいしよく)僅(わづか)に一年(ねん)有餘(いうよ)にして、翌(よく)年(ねん)(文久(ぶんきう)元年(ぐわんねん))十一月(ぐわつ)、歸國(きこく)せざるべからざるに至(いた)つた。左(さ)の書簡(しよかん)は氏(し)が長崎(ながさき)來着(らいちやく)後(ご)、本國(ほんごく)傳道局(でんだうきよく)に致(いた)せるものである。

『拜啓(はいけい)、小生(せうせい)は途中(とちゆう)無事(ぶじ)支那(しな)に到着(たうちやく)致(いた)せし後(のち)、早速(さつそく)一書(しよ)を呈(てい)し置候(おきそろ)。爾後(じご)日本(にほん)に參(まゐ)り候(そろ)てより、既(すで)に二ケ月(げつ)、上海(しやんはい)より當地(たうち)への最(もつと)も愉快(ゆくわい)なる旅行(りよかう)をなしたることを、茲(こゝ)に御報道(ごはうだう)申上候(まをしあげそろ)。當(たう)地方(ちはう)には未(いま)だ規則(きそく)正(たゞ)しき郵便(ゆうびん)の制度(せいど)無之(これなく)、夫(そ)れが爲(ため)に斯(か)く報告(はうこく)の遲延(ちえん)致(いた)せし次第(しだい)に候(そろ)。小生(せうせい)は到着(たうちやく)以來(いらい)今回(こんくわい)が漸(やうや)く通信(つうしん)を送(おく)る第(だい)二の機會(きくわい)に御座候(ござそろ)。第(だい)一の機會(きくわい)は小生(せうせい)が到着(たうちやく)後(ご)僅々(きんきん)數日(すうじつ)の中(うち)にありたる事(こと)に候(そろ)。
 扨(さて)ウイリアムス氏(し)は、孜々(しゝ)として日本語(にほんご)を學習(がくしふ)し居(を)られ、既(すで)に必要(ひつえう)なる事(こと)丈(だ)けは、日本語(にほんご)にて語(かた)られ候(そろ)。小生(せうせい)の如(ごと)きは勿論(もちろん)日本語(にほんご)及(およ)び醫術(いじゆつ)を漸(やうや)く相(あひ)初(はじ)めし所(ところ)に候(そろ)。小生(せうせい)曩(さき)に上海(しやんはい)に於(おい)て、支那人(しなじん)の病者(びやうしや)を治療(ぢれう)し、又(また)我國(わがくに)の宣敎師(せんけうし)を診察(しんさつ)致(した)し居(を)りし時(とき)、支那人(しなじん)の病者(びやうしや)を治療(ぢれう)することは、甚(はなは)だ不(ふ)結果(けつくわ)に候(さふら)ひき。何(なん)となれば彼等(かれら)は只(た)だ暫(しばら)く外國(ぐわいこく)醫者(いしや)の藥(くすり)を用(もち)ひ、若(も)し容易(ようい)に治癒(ぢゆ)せざる時(とき)は、復(ま)た土着(どちやく)の醫者(いしや)に歸(かへ)り行(ゆ)き候而巳(そろのみ)ならず、養生(やうじやう)の如(ごと)きも醫者(いしや)の指圖(さしづ)に從(したが)はず、又(また)藥(くすり)を處方(しやはう)通(どほ)り使用(しよう)致(いた)さず候(そろ)。然(しか)るに、日本(にほん)に於(おい)ても矢張(やはり)同樣(どうやう)の思想(しさう)有之候(これありさふら)ふが、只(たゞ)小生(せうせい)は夫(そ)れが支那人程(しなじんほど)には甚(はなはだ)しからざることを希望(きばう)致候(いたしそろ)。
 小生(せうせい)の所見(しよけん)によれば、從來(じゆうらい)日本(にほん)の事情(じじやう)に就(つい)ては、概(がい)して針小(しんせう)棒大(ばうだい)の報道(はうだう)多(おほ)きやに考(かんが)へ候(そろ)。日本(にほん)の事(こと)を書(か)く人々(ひとびと)に、由來(ゆらい)二種類(しゆるゐ)有之(これあり)、一種(しゆ)の人(ひと)は熱心(ねつしん)なる日本(にほん)贔負(びゐき)にして、此國(このくに)の事情(じじやう)に就(つい)て何等(なんら)の缺點(けつてん)をも見(み)ざる人々(ひとびと)に候(そろ)。今(いま)一種(しゆ)の人々(ひとびと)は所謂(いはゐる)瞥見者(べうけんしや)にて、只(た)だ數日間(すうじつかん)此國(このくに)に止(とま)りて、大體(だいたい)の事情(じゞやう)を一寸(ちよつと)眺(なが)めたるのみにて、夫(そ)れで日本(にほん)に就(つい)ての書籍(しよせき)を書(か)きたがる人々(ひとびと)に候(そろ)。斯(かゝ)る人々(ひとびと)は常(つね)に手帳(てちやう)と鉛筆(えんぴつ)を手(て)にして、事物(じぶつ)を見(み)るが儘(まゝ)、聞(き)くが儘(まゝ)に記(しる)し付(つ)け、以(もつ)て書籍(しよせき)を製造(せいざう)する人々(ひとびと)に候(そろ)。
 小生(せうせい)の見(み)る所(ところ)にては、日本人(にほんじん)は嘆美(たんび)すべき所(ところ)ある人種(じんしゆ)に候(そろ)。彼等(かれら)は概(がい)して禮儀(れいぎ)厚(あつ)く親切(しんせつ)にして殊(こと)に其(その)偉大(ゐだい)なる點(てん)は、進歩(しんぽ)を喜(よろこ)ぶ民(たみ)に御座候(ござそろ)。之(こ)れ即(すなは)ち日本人(にほんじん)品格(ひんかく)の大(だい)資質(ししつ)に有之(これあり)、現今(げんこん)文明(ぶんめい)の點(てん)に於(おい)て一歩(ぽ)を進(すゝ)み居(を)れる支那人(しなじん)よりも、他日(たじつ)必(かなら)ず日本人(にほんじん)は一頭地(たうち)を拔(ぬ)くこと可有之候(これあるべくそろ)。されど日本人(にほんじん)は嘘(うそ)を吐(つ)き物(もの)を盜(ぬす)み人(ひと)を欺(あざむ)くことに於(おい)ては、支那人(しなじん)と敢(あへ)て變(かは)り無之(これなく)、是(こ)れ許(ばか)りは日本通(にほんつう)の人々(ひとびと)が如何(いか)に辨護(べんご)するとも、蔽(おほ)ふ可(べか)らざる事實(じゞつ)に御座候(ござそろ)。』

 一千八百六十一年(ねん)一月(ぐわつ)、書信(しよしん)の一節(せつ)に曰(いは)く。

『小生(せうせい)は今(いま)や若干(じやくかん)の醫學生(いがくせい)を得(え)て、英語(えいご)を敎授(けうじゆ)いたし初(はじ)め候(そろ)。此(この)敎授(けうじゆ)は是(これ)より四ヶ月間(げつかん)、相續(あひつゞ)くる積(つもり)に候(そろ)。小生(せうせい)の目的(もくてき)は、日本語(にほんご)に譯(やく)し能(あた)はざる醫學上(いがくじやう)の術語(じゆつご)を彼等(かれら)に了解(れうかい)せしめ、以(もつ)て將來(しやうらい)誤解(ごかい)の虞(おそれ)なく、彼等(かれら)を使用(しよう)せん爲(た)めに候(そろ)。小生(せうせい)は又(ま)た英和(えいわ)對照(たいしやう)の醫學(いがく)字彙(じゐ)を編纂(へんさん)致居候(いたしをりそろ)。……………
 前述(ぜんじゆつ)の學生(がくせい)の外(ほか)に更(さら)に一級(きふ)を設(もう)けて英語(えいご)を敎授(けうじゆ)致(いた)し居候(をりそろ)。右(みぎ)の次第(しだい)に就(つ)き小生(せうせい)中々(なかなか)多忙(たさう)に御座候(ござそろ)。』

ウイリヤムス師(し)の書信(しよしん)中(ちゆう)、師(し)の事業(じげふ)に就(つ)き語(かた)る所(ところ)あり、其(その)一、二を掲(かゝ)ぐれば、

『我等(われら)の宣敎(せんけう)事業(じげふ)にて、轉(うた)た人意(じんう)を強(つよ)ふするに足(た)るべき一方面(はうめん)有之候(これありそろ)。之(これ)を報告(はうこく)するは他(た)に其人(そのひと)有之(これあり)候得共(さふらへども)、拙者(せつしや)も亦茲(またこゝ)に一言(げん)するを禁(きん)ぜざる次第(しだい)に候(そろ)。即(すなは)ち當國(たうごく)人間(じんかん)に施(ほどこ)せる醫療(いれう)事業(じげふ)にしてシユミツト博士(はかせ)は、日本人(にほんじん)間(かん)に其(その)本職(ほんしよく)を以(もつ)て天晴(あつぱ)れ成功(せいかう)致(いた)し居(を)り候(そろ)。既(すで)に多(おほ)くの難病者(なんびやうしや)を扱(あつか)ひて着々(ちやくちやく)其(その)効(かう)を奏(さう)し、從(したがつ)て熟練(じゆくれん)の令名(れいめい)を博(はく)し居(を)られ候(そろ)。 同(どう)博士(はかせ)が治療(ぢれう)の効(かう)と病者(びようしや)に對(たい)する親切(しんせつ)とは多(おほ)くの患者(くわんじや)を引着(ひきつ)け、遠方(ゑんぱう)より來(きた)りて氏(し)の診斷(しんだん)を請(こ)ふ者(もの)も多(おほ)く、患者(くわんじや)の數(すう)は駸々(しんしん)として增加(ぞうか)致候(したしそろ)に付(つき)、久(ひさ)しからずして同(どう)博士(はかせ)一人(にん)の手(て)にては、便(べん)じ能(あた)はざるに至(いた)るべしと存候(ぞんじそろ)…………』

『シユミツト博士(はかせ)が不(ふ)健康(けんかう)の爲(ため)に、餘儀(よぎ)なくミツシヨンを辭(じ)して、本國(ほんごく)に歸(かへ)られたることは、貴下(きか)既(すで)に御承知(ごしやうち)と存候(ぞんじそろ)。同(どう)博士(はかせ)の熟練(じゆくれん)は大(おほい)に日本人(にほんじん)の賞讃(しやうさん)を博(はく)し、其(その)業(げふ)は同(どう)博士(はかせ)の時間(じかん)の許(ゆる)す限(かぎ)り如何(いか)なる程度(ていど)迄(まで)にても、擴張(くわくちやう)せらるべきものを、誠(まこと)に遺憾(ゐかん)の至(いた)りに存候(ぞんじそろ)。同(どう)博士(はかせ)にして其(その)業(げふ)を繼續(けいぞく)せられたらんには、日本人(にほんじん)中(ちゆう)に宣敎師(せんけうし)の働(はたら)きを恐(おそ)るゝの念(ねん)を、除(のぞ)き去(さ)るに與(あづか)つて大(おほひ)いに力(ちから)あり將來(しやうらい)日本(にほん)に於(お)ける我等(われら)の働(はたら)きに重要(ぢゆうえう)なる援助(えんじよ)となりたるべしと存候(ぞんじそろ)』云々(うんうん)。
 先(さき)に多年(たねん)の同勞(どうらう)の友(とも)リギンス氏(し)去(さ)り、喜憂(きいう)倶(とも)に語(かた)る者(もの)なく、獨(ひと)り異境(いきやう)に在(あ)りし師(し)は、漸(やうや)くシユミツト氏(し)來(きた)りて、慰(なぐさ)めを得(え)且(かつ)其(その)事業(じげふ)の成功(せいかう)は傳道(でんだう)上(じやう)の大(だい)なる援助(えんじよ)となるべしと、賴(たの)みに思(おも)ひしに、僅(わづか)に一年(ねん)有餘(いうよ)の後(のち)氏(し)も又(ま)た歸國(きこく)する事(こと)となり、一千八百六十一年(ねん)十一月(ぐわつ)二十五日(にち)、軍艦(ぐんかん)アクタエヲン艦上(かんじやう)にて、最後(さいご)の握手(あくしゆ)をなし、此(この)の唯一(ゐいつ)の友(とも)に別(わか)れて、再(ふたゝ)び一身(しん)に傳道(でんだう)の大任(たいにん)を負(お)ひ、獨(ひと)り異邦(いはう)の地(ち)に留(とま)ることゝなつた。
天父(てんふ)偕(とも)に在(あ)りとの信仰(しんかう)は、いかに境遇(きやうぐう)が轉變(へんてん)するも、師(し)をして喜(よろこび)に滿(み)ち慰(なぐさ)むるに餘(あまり)あらしむるとはいへ、師(し)も亦(また)人(ひと)である、こゝに至(いた)つて情緖(じやうちよ)頻(しき)りに動(うご)き、寂寥(せきれう)の感(なん)轉(うた)た切(せつ)ならざるを得(え)なんだであろう。師(し)は此(この)日(ひ)日誌(につし)に記(しる)して曰(いは)く、『醫學(いがく)博士(はかせ)イ、シユミツト氏(し)は、軍艦(ぐんかん)アクタヱヲンに便乘(びんじやう)して、英國(えいこく)を經(へ)歸國(きこく)の途(と)に就(つ)けり。是(こ)れ實(じつ)に我(わが)傳道(でんだう)會社(くわいしや)が日本(にほん)に派遣(はけん)したる人々(ひとびと)の中(うち)、健康(けんかう)上(じやう)の事情(じゞやう)のために止(や)むを得(え)ず、歸國(きこく)したる第(だい)二番(ばん)目(め)の人(ひと)なり。更(さら)に予(よ)自(みづか)らを顧慮(こりよ)するに予(よ)は日本(にほん)に於(おい)て尚(なほ)幾年(いくねん)間(かん)天父(てんふ)の命(めい)じ給(たま)ふ使命(しめい)のために、盡(つく)すことを許(ゆる)し給(たま)ふぞや。予(よ)は信(しん)ず慥(たし)かに多年(たねん)從事(じゆうじ)することを得(え)ん。そは兎(と)に角(かく)に、予(よ)は萬事(ばんじ)に於(おい)て、神(かみ)よ汝(なんぢ)の聖旨(せいし)の如(ごと)くあれかしと云(い)ふを學(まな)ばざるべからざれば、此(この)一事(じ)に於(おい)ても亦(また)、斯(か)く祈(いの)り以(もつ)て聖旨(せいし)に一任(にん)するの外(ほか)あらざるなり』と。

四、女敎師カノヴアー孃  

 シユミツト氏(し)歸國(きこく)後(ご)、文久(ぶんきう)三年(ねん)にジヤネ、アール、カノヴアー孃(じやう)は傳道(でんだう)女敎師(ぢよけうし)として神奈川(かながは)に來着(らいちやく)した。同(どう)孃(じやう)は千八百五十三年以來(ねんいらい)上海(しやんはい)に於(おい)て有力(いうりよく)なる働(はたらき)をなしたる人(ひと)にして、我國(わがくに)に來(きた)りし女敎師(ぢよけうし)の率先者(そつせんしや)である。然(しか)るに當時(たうじ)我國(わがくに)と列強(れつきやう)との間(あいだ)に紛議生(ふんぎしやう)じ、今(いま)にも開戰(かいせん)に至(いた)らんとする形勢(けいせい)にて、外人(ぐわいじん)の身命(しんめい)危(あや)ふかりし際(さい)なりければ、同孃(どうじやう)其他(そのた)神奈川(かながは)に在住(ざいぢゆう)せし外人(ぐわいじん)は、難(なん)を避(さ)くるの止(や)むなきに至(いた)り、來任後間(らいにんごま)もなく上海(しやんはい)に退却(たいきやく)した。曩(さき)にリギンス氏(し)在留(ざいりう)僅(わづか)に十ヶ月(げつ)にして去(さ)り、シユミツト氏(し)亦(また)在職(ざいしよく)一年餘(ねんよ)にして去(さ)り、カノヴアー孃(じやう)また忽(たちま)ち去(さ)り、是(これ)より以後(いご)、千八百七十一年(ねん)(明治(めいぢ)四年(ねん))三月(ぐわつ)、モリス氏(し)新(あらた)に大阪(おほさか)に來任(らいにん)する迄(まで)、屡(しばし)ば本國(ほんごく)に向(むかつ)て勢援(せいえん)を乞(こ)ひしも、遂(つひ)に一人(にん)の應援者(おうゑんしや)も來(きた)らなかつた。此(こ)の傳道(でんだう)開始(かいし)十二年間(ねんかん)、獨(ひと)り幾多(いくた)の危險(きけん)を冒(おか)し困難(こんなん)を忍(しの)び屈(くつ)せず撓(たゆ)まず、而(し)かも前途(ぜんと)に洋々(やうやう)たる希望(きばう)を懷(いだ)きつゝ、師自(しみづか)ら所謂(いはゆる)「此(こ)の最(もつと)も興味深(きやうみふか)き國民(こくみん)」敎化(けうくわ)の爲(ため)に、靜(しづ)かに精勵努力(せいれいどりよく)せられたる師(し)の精根氣魄(せいこんきはく)もまた偉大(ゐだい)なるかな。之(こ)れ實(じつ)に「日本(にほん)に於(お)ける基督敎會(きりすとけうくわい)の基礎(きそ)を据(すえ)ることを許(ゆる)さるゝよりも、喜(よろこ)ばしきことは、我(われ)に取(と)りては天下(てんか)またとある無(な)し」と云(い)へる猛烈(まうれつ)なる献身的精神(けんしんてきせいしん)、能(よ)く之(これ)を爲(な)したのである。

五、最初の新敎々會堂 

 是(これ)より先(さき)、リギンス及(およ)びウイリヤムス兩師(りやうし)は長崎(ながさき)に來着後直(らいちやくごたゞち)に、日本人(にほんじん)傳動(でんだう)の傍(かたは)ら長崎(ながさき)に在住(ざいぢゆう)せる英米兩國(えいべいりやうごく)の商人(しやうにん)の爲(ため)に、毎(まい)日曜日(にちえうび)に早朝(さうたう)禮拜式(れいはいしき)を執行(しつかう)した。
 禮拜(れいはい)出席(しゆつせき)者(しや)の數(すう)は次第(しだい)に增加(ぞうか)し、特(こと)に香港(ホンコン)の監督(かんとく)が長崎(ながさき)に來訪(らいはう)したる時(とき)、在留(ざいりう)の英國人(えいこくじん)に、此(この)禮拜式(れいはいしき)に出席(しゆつせき)するやう奬勵(しやうれい)せられたので、其後(そのご)は一層(そう)會衆(くわいしゆう)が增加(ぞうか)した。香港(ホンコン)の監督(かんとく)は禮拜堂(れいはいどう)を建設(けんせつ)する爲(ため)に助力(じよりよく)せられたるが、ウイリアムス師(し)ら米國(べいこく)の一商人(しやうにん)より之(これ)が爲(た)め寄附金(きふきん)を得(え)たので、遂(つひ)に禮拜堂(れいはいだう)を建築(けんちく)することゝとなり、文久(ぶんきう)元年(ぐわんねん)に小(ちい)さき美(うる)はしい會堂(くわいだう)を竣工(しゆんこう)した。是(こ)れ我國(わがくに)に於(お)ける最初(さいしよ)の新敎禮拜堂(しんけうれいはいだう)である。リギンス師(し)は香港(ホンコン)の監督(かんとく)が長崎(ながさき)に來訪(らいはう)する以前(いぜん)に歸國(きこく)されたので、新會堂(しんくわいだう)の牧會(ぼくくわい)の任務(にんむ)はウイリアムス師(し)の負(お)う所(ところ)となつた。師(し)の日誌中(につしちゆう、)

『一千八百六十一年(ねん)(文久(ぶんきう)元年(ぐわんねん))十一月(ぐわつ)二十四日(か)午後(ごご)聖餐式(せいさんしき)を執行(しつかう)せり。米國(べいこく)軍艦(ぐんかん)アクタエヲンより。艦長(かんちやう)士官(しくわん)二十人(にん)及(および)七人(にん)の水兵(すゐへい)之(こ)れに列席(れつせき)せり。是(こ)れ實(じつ)に樂(たの)しき日(ひ)なりき。かくも多數(たすう)なる人員(じんゐん)が、軍艦(ぐんかん)より上陸(じやうりく)して上帝(じやうてい)の禮拜式(れいはいしき)に列席(れつせき)したることは、實(じつ)に愉快(ゆくわい)ならざるを得(え)ず。軍艦中(ぐんかんちゆう)には猶(な)ほ神(かみ)の恩寵(おんちやう)に接(せつ)して、平和(へいわ)と喜樂(きらく)を與(あた)へられんことを欲(ほつ)する凡(およ)そ二十人(にん)の水兵(すゐへい)、及(およ)び七八人(にん)の士官(しくわん)ありと云(い)う、』とあるが、此(こ)の樂(たの)しき禮拜(れいはい)は、新會堂(しんくわいだう)に於(おい)て執行(しつかう)せられたのであらう。

六、聖公會第一の受洗者  

 安政(あんせい)六年(ねん)長崎(ながさき)上陸(じやうりく)より、明治(めいぢ)二年(ねん)傳道(でんだう)の根據(こんきよ)を大阪(おほさか)に移(うつ)せし迄(まで)、此(この)十年間(ねんかん)の長崎(ながさき)時代(じだい)は、師(し)は專(もつば)ら日本語(にほんご)の研究(けんきふ)、翻譯(ほんやく)事業(じげふ)に從事(じゆうじ)せられたるが、また聖書(せいしよ)及(および)類書(るゐしよ)を人々(ひとびと)に與(あた)へ、或(あるひ)は來訪者(らいはうしや)と會談(くわいだん)し、師自(しみづか)ら云(い)える如(ごと)く「多(おほ)くの滅(ほろ)びんとする靈魂(れいこん)に向(むか)つて、幾分(いくぶん)の光明(くわうめい)と生命(せいめい)と自由(じいう)とを與(あた)ふる所(ところ)あり」、かくて直接(ちよくせつ)傳道(でんだう)に盡(つく)せし所(ところ)も尠(すくな)くなかつた、殊(こと)に師(し)は其(その)熱誠(ねつせい)、敬虔(けいけん)、忍耐(にんたい)とに由(よ)りて、接(せつ)する者(もの)の心(こゝろ)を和(やは)らげ、日本人(にほんじん)をして基督敎(きりすとけう)宣敎師(せんけうし)の人格(じんかく)親(した)しむべく愛(あい)すべく敬(けい)すべきを感(かん)ぜしめ、其人(そのひと)にして斯(かく)の若(ごと)くんば、其(その)敎(をしへ)決(けつ)して畏(おそ)るべく忌(い)むべきにあらずと、想(おも)はしむるに至(いた)つた無形(むけい)の感化(かんくわ)は、更(さら)に大(だい)なるものであつたであらう。
明治(めいぢ)三年(ねん)の師(し)の書簡中(しよかんちゆう)には「近頃(ちかごろ)長崎(ながさき)に於(おい)て基督敎徒(きりすとけうと)の迫害(はくがい)ありしに拘(かゝ)はらず、暫時(ざんじ)の間(あひだ)に數人(すうにん)の洗禮(せんれい)を領(りやう)せしもの有之候(これありそろ)。其等(それら)の受洗者(じしゆせんしや)の中(うち)に、以前(いぜん)小生(せうせい)の僕(しもべ)なりし者(もの)もありしは、誠(まこと)に喜(よろこ)ばしき事(こと)に候(さふら)ひき。彼(かれ)は豫(かね)て小生(せうせい)より受(う)けし敎(をしへ)を決(けつ)して忘(わす)るゝ能(あた)はざりしと申候(まをしそろ)。尚(なほ)また以前(いぜん)小生(せうせい)に仕(つか)へし他(た)の僕(しもべ)も、基督敎(きりすとけう)を信(しん)ずと申(まを)し候(そろ)。彼(かれ)も遠(とほ)からず進(すゝ)んで人々(ひとびと)の前(まへ)に、基督(きりすと)を告白(こくはく)するに至(いた)らんことは、小生(せうせい)の信(しん)じて疑(うたが)はざる所(ところ)に候(そろ)」とあるを見(み)れば、師(し)が自己(じこ)に接近(せつきん)する者(もの)に機會(きくわい)ある毎(ごと)に、福音(ふくいん)を傳(つた)ふることを務(つと)められしを知(し)るべく、其(その)僕(しもべ)の二人(にん)までが主(しゆ)を信(しん)ずるに至(いた)りしことは、以(もつ)て師(し)の德化(とくくわ)のほどを察(さつ)すべく、又(ま)た此(この)時代(じだい)に師(し)より熱心(ねつしん)に道(みち)を學(まな)びし、所謂(いはゆる)求道者(きうだうしや)なるものゝありしことが知(し)らるゝのである。
明治(めいぢ)三年(ねん)三月(ぐわつ)の報告中(ほうこくちゆう)「遠(とほ)からず日本人(にほんじん)の按手(あんしゆ)の數(すう)を御報告(ごはうこく)申上(まをしあぐ)るに至(いた)るべく候(そろ)」とあるが、之(これ)を以(もつ)て見(み)るにそれより以前(いぜん)早(はや)くとも、明治(めいぢ)二年(ねん)若(もし)くは元年(ぐわんねん)に、師(し)より洗禮(せんれい)を受(う)けしものか或(あるひ)は求道者(きうだうしや)がありしと想(おも)はる。師(し)は洗禮(せんれい)及(および)按手(あんしゆ)を施(ほどこ)すには甚(はなは)だ嚴格(げんかく)にてありしゆへ、求道者(きうだうしや)が之(こ)れを領(りやう)する迄(まで)には、少(すくな)くとも五六ヶ月(げつ)以上(いじやう)一年(ねん)の時日(じゞつ)を準備(じゆんび)に要(えう)した。況(ま)して基督敎禁制(きりすとけうきんせい)の當時(たうじ)の事(こと)なれば、師(し)は堅固(けんご)なる信仰(しんかう)と決心(けつしん)ありと充分(じゆうぶん)認(みと)めし上(うへ)ならざれば、容易(やうい)に洗禮(せんれい)及(および)按手(あんしゆ)を施(ほどこ)さなんだであらう。それゆへに長崎(ながさき)時代(じだい)に若干(じやくかん)の熱心(ねつしん)なる求道者(きうだうしや)、或(あるひ)は受洗者(じゆせんしや)があつたと想(おも)はるゝのである。
然(しか)し其等(それら)の人々(ひとびと)に就(つい)ては明(あきら)かに知(し)ることはできぬ。保存(ほぞん)されたる師(し)の記録中(きろくちゆう)にある洗禮(せんれい)及(およ)び按手(あんしゆ)は、大阪(おほさか)傳道(でんだう)開始(かいし)以後(いご)(明治(めいぢ)四年(ねん)より)のもので、此(この)時代(じだい)の參考(さんかう)すべき記録(きろく)は何(なに)もない。師(し)の著書(ちよしよ)敎會(けうくわい)歴史(れきし)問答(もんだう)には、師(し)に依(より)て洗禮(せんれい)を授(さづ)けられし聖公會(せいこうくわい)最初(さいしよ)の信徒(しんと)は、肥後(ひご)のShiomuraといふ人(ひと)にて、此人(このひと)は慶應(けいおう)二年(ねん)長崎(ながさき)に於(おい)て受洗(じゆせん)せりとある。此(これ)は師自(しみづか)ら記(しる)せることなれば確實(かくじつ)なるは云(い)ふまでもないが、如何(いか)なる故(ゆゑ)か此(こ)の聖公會(せいこうくわい)第(だい)一の受洗者(じゆせんしや)として、特筆(とくひつ)大書(たいしよ)せらるべき庄村(しやうむら)氏(し)の事(こと)は、師(し)の當時(たうじ)の書信中(しよしんちゆう)にも、本國(ほんごく)の雜誌中(ざつしちゆう)にも更(さら)に記載(きさい)されてない。惟(おも)ふに師(し)がフルベツキ氏(し)の事(こと)を記(しる)せし書簡中(しよかんちゆう)に、「併乍(しかしながら)近頃(ちかごろ)長崎(ながさき)に於(お)ける羅馬(ローマ)敎會(けうくわい)宣敎師(せんけうし)のことに就(つ)き、幾分(いくぶん)人心(じんしん)の激昂(げきかう)を來(きた)したること有之候(これありそろ)爲(た)め、當分(たうぶん)の内(うち)は同氏(どうし)の働(はたら)きを詳(くは)しく發表(はつぺう)するを好(この)まずと申居(まをしを)られ候(そろ)」とある如(ごと)く、師(し)もまた同樣(どうやう)なる事情(じゞやう)のために、之(これ)を發表(はつぺう)するを差控(さしひか)へたのであらう。師(し)の事(こと)なれば、長(なが)き歳月(さいげつ)の間(あひだ)、此人(このひと)の信仰(しんかう)と決心(けつしん)を試(こゝろ)み、彼(かれ)が確固(かくこ)不動(ふどう)の信念(しんねん)と不屈(ふくつ)不撓(ふたう)の決心(けつしん)を認(みと)めて、愈々(いよいよ)監督(かんとく)聖別(せいべつ)式(しき)のために、本國(ほんごく)に向(むか)つて出立(しゆつたつ)せんとする間際(まぎは)に、洗禮(せんれい)を授(さづ)けたものと見(み)へる。當時(たうじ)師(し)の僕(しもべ)なりしといふ人(ひと)の談(だん)に、或(あ)る夜(よ)深更(しんかう)に、師(し)は表門(おもてもん)と裏口(うらぐち)に見張(みはり)を置(お)き、某(ぼう)外人(ぐわいじん)立會(たちあひ)の上(うへ)、或人(あるひと)に洗禮(せんれい)を授(さづ)けしことありと、是(こ)れ聖公會(せいこうくわい)第(だい)一の洗禮式(せんれいしき)にして、其夜(そのよ)の受洗者(じゆせんしや)は庄村氏(しやうむらし)(?)であつたであらう。
 偖(さ)て、此(こ)の聖公會(せいこうくわい)第(だい)一の受洗者(じゆせんしや)、肥後(ひご)の人(ひと)庄村氏(しやうむらし)とは、如何(いか)なる人物(じんぶつ)にてありしか、之(これ)に就(つ)き此處(ここ)に何(なに)も明言(めいげん)することはできぬが、先(さき)に記載(きさい)せし文久(ぶんきう)三年(ねん)八月(ぐわつ)、師(し)を訪(と)ひ來(きた)り師(し)より熱心(ねつしん)に道(みち)を學(まな)びし藩士(はんし)は、庄村氏(しやうむらし)ではあるまいか、長崎(ながさき)付近(ふきん)の一州(しう)の藩士(はんし)とは、肥後(ひご)の某(ぼう)藩士(はんし)ではあるまいか。庄村氏(しやうむらし)は武士(ぶし)なりしといへば、肥後(ひご)の藩士(はんし)にて、當時(たうじ)長崎(ながさき)に遊學(いうがく)した人(ひと)であらう。氏(し)の受洗(じゆせん)は慶應(けいおう)二年(ねん)春(はる)なれば、氏(し)が道(みち)を學(まな)び初(そ)めしは、文久(ぶんきう)三年(ねん)或(あるひ)は元治(げんち)年間(ねんかん)なるべく、彼(か)の藩士(はんし)が師(し)より道(みち)を學(まな)び初(そ)めしと同年(どうねん)頃(ごろ)であらう。
 明治(めいぢ)三年頃(ねんごろ)、香港(ホンコン)の監督(かんとく)が英國(えいこく)プレストンに於(おい)て演説中(えんぜつちゆう)に、監督(かんとく)ウイリアムス師(し)に依(よつ)て洗禮(せんれい)を授(さづ)けられたる一人(にん)の改宗者(かいしうしや)に就(つい)て、興味(きやうみ)ある物語(ものがたり)をした事(こと)がある。その物語(ものがたり)の概略(がいりやく)を記(しる)せば、長崎(ながさき)に碇泊(ていはく)したる英國(えいこく)の一軍艦(ぐんかん)の士官(しくわん)候補生(こうほせい)が、祈祷書(きたうしよ)を海中(かいちゆう)に落(おと)したことがあつた。然(しか)るに其後(そののち)その祈祷書(きたうしよ)を漁師(りやうし)が網(あみ)に掛(かけ)て拾(ひろ)ひ取(と)つた。漁師(りやうし)は之(これ)をある紳士(しんし)の許(もと)に持(も)ち行(ゆ)き如何(いか)なるものなるやと尋(たづ)ねた。紳士(しんし)は人(ひと)を遣(つかは)してフルベツキ氏(し)に尋(たづ)ねしに、氏(し)は一卷(くわん)の支那(しな)譯(やく)聖書(せいしよ)を贈(おく)られた。紳士(しんし)は熱心(ねつしん)に聖書(せいしよ)を讀(よ)み行(ゆ)く中(うち)に、大(おはい)いに感(かん)ずる所(ところ)あり、自(みづか)らフルベツキ氏(し)を訪(と)ひ、氏(し)の敎(をしへ)を受(う)けた。後(の)ち彼(かれ)はウイリヤムス師(し)を訪(と)ひ益々(ますます)研究(けんきふ)を進(すゝ)め、遂(つひ)に洗禮(せんれい)を希望(きばう)するに至(いた)つた。師(し)は彼(かれ)が基督(きりすと)を信(しん)ずる爲(ため)には死(し)もまた辭(じ)さぬ決心(けつしん)を見(み)て、洗禮(せんれい)を授(さづ)けられた。其後(そのご)彼(かれ)は歸國(きこく)し久(ひさ)しく其(その)消息(せうそく)なかりしが、一日(にち)一個(こ)の小包(こづゝみ)を送(おく)り來(きた)つた。開(ひら)き見(み)れば一葉(えう)の寫眞(しやしん)であつた。一個(こ)の卓(たく)を圍(かこ)んで六七名(めい)の紳士(しんし)が居列(ゐなら)ぶ中央(ちゆうおう)に、支那譯(しなやく)聖書(せいしよ)を開(ひら)いて坐(ざ)するは彼(かれ)である。其状(そのさま)は彼(かれ)自(みづか)ら堅(かた)く信仰(しんかう)に立(た)つのみならず、彼(かれ)が故里(ふるさと)の人々(ひとびと)に福音(ふくゐん)を傳(つた)へんと力(つと)めつゝあることを現(あら)はさんとしたるものゝ如(ごと)くであつたと。
 此(この)物語(ものがたり)の紳士(しんし)とは武士(ぶし)である。而(しか)して彼(かれ)がフルベツキ氏(し)より支那譯(しなやく)の聖書(せいしよ)を與(あた)へられ、後(の)ちウイリアムス氏(し)を訪(と)ひ道(みち)を學(まな)びしことは、先(さき)の藩士(はんし)に符合(ふがふ)する所(ところ)がある。或(あるひ)は是(こ)れ彼(か)の藩士(はんし)と同(どう)一人物(じんぶつ)ではなからうか、或(あるひ)は此(この)紳士(しんし)が庄村氏(しやうむらし)ではあるまいか。