第八編 長崎時代(下)

第八編 長崎時代 (下)

一、米國聖公會總會の決議 

 一千八百六十五年(ねん)十月(ぐわつ)、フヒラデルフヒヤに於(おい)て開(ひら)かれたる米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)傳道局(でんだうきよく)總會(そうくわい)は極(きは)めて重要(ぢゆうえう)なる要件(えうけん)を決議(けつぎ)せしが、其中(そのうち)日本傳道(にほんでんだう)に關(くわん)する條項(でうかう)は、長老(ちやうろう)チヤニング、ムーア、ウイリアムス師(し)を、支那(しな)及(および)日本(にほん)の傳道(でんだう)監督(かんとく)に推薦(すいせん)する事(こと)であった。此(この)總會(そうくわい)の記録(きろく)第(だい)九項(かう)に左(さ)の如(ごと)く記(しる)されてある。

『(九) チヤニソグ、ムーア、ウイリアムス氏(し)を支那(しな)及(および)日本(にほん)の傳道監督(でんだうかんとく)に選擧(せんきよ)するの件(けん)は、代議院(だいぎゐん)并(ならび)に敎職院(けうしよくゐん)全會一致(ぜんくわいいつち)の賛成(さんせい)を以(も)て可決(かけつ)せられ、傳道局員(でんだうきよくゐん)は此(この)監督(かんとく)候補者(こうほしや)に關(くわん)して、興味(きやうみ)最(もつと)も深(ふか)き數番(すうばん)の演説(えんぜつ)の後(のち)、監督(かんとく)ポツター氏の提出(ていしゆつ)に係(かゝ)る左(さ)の決議案(けつぎあん)を通過(つうくわ)せり。

 決議(けつぎ)

本(ほん)傳道局(でんだうきよく)は、日本(にほん)駐在(ちゆうざい)宣敎師(せんけうし)チヤニング、ムーア、ウイリヤムス氏(し)が、支那(しな)の傳道監督(でんだうかんとく)として、該國(がいこく)及(およ)び日本(にほん)の傳道事務(でんだうじむ)を統轄(とうくわつ)すべき職(しよく)に推薦(すいせん)せられ、敎職院(けうしよくゐん)并(ならび)に代議院(だいぎゐん)の全會(ぜんくわい)一致(ち)を以(も)て此推薦(このすいせん)を可(か)としたるを聞(き)き、茲(こゝ)に此選定(このせんてい)に對(たい)し、多大(ただい)の滿足(まんぞく)を表(へう)し、同氏(どうし)に對(たい)し滿腔(まんこう)の同情(どうじやう)と、不撓(ふたう)の援助(ゑんじよ)を致(いた)すべきことを通告(つうこく)する事(こと)

支那(しな)及(および)日本(にほん)監督(かんとく)被推選者(ひすいせんしや)

支那(しな)及(および)日本(にほん)監督(かんとく)に推選(すいせん)せられたる、チヤニング、ムーア、ウイリヤムス氏(し)は、千八百二十九年(ねん)七月(ぐわつ)十八日(にち)、ヴアジニア州(しう)リチモンド市(し)に生(うま)れ、同州(どうしう)ウイリアム、エンド、メリー大學(だいがく)の卒業生(そつげふせい)にして、ヱ、ヱムの學位(がくゐ)を有(いう)し、一千八百五十一年(ねん)より一千八百五十三年(ねん)まで、同大學(どうだいがく)に學(まな)び、後(のち)同州(どうしう)の神學校(しんがくかう)に於(おい)て神學(しんがく)を修(おさ)め、一千八百五十五年(ねん)六月(ぐわつ)、アレキサンドリアの基督(きりすと)敎會(けうくわい)に於(おい)てミート監督(かんとく)より執事(しつじ)の按手(あんし)を受(う)け、同年(どうねん)十一月(ぐわつ)、ジヱ、リギンス氏(し)と共(とも)に支那(しな)に向(むか)つて出發(しゆつぱつ)す、後(のち)外國(ぐわいこく)傳道(でんだう)委員(ゐゐん)より、日本(にほん)宣敎師(せんけうし)に任命(にんめい)せらるゝに至(いた)る迄(まで)、支那(しな)に於(おい)て引續(ひきつゞ)き其勞(そのらう)を執(と)れり。氏(し)の長崎(ながさき)に達(たつ)したるは、一千八百五十九年(ねん)七月(ぐわつ)にして、爾來(じらい)一日(にち)の如(ごと)く勤勞(きんらう)怠(おこた)ることなかりき。』

二、師の歸米 

 本國(ほんこく)傳道局(でんだうきよく)委員(ゐゐん)より、支那(しな)及(および)日本(にほん)傳道(でんだう)監督(かんとく)に選擧(せんきよ)せられたる通告(つうこく)に接(せつ)して、師(し)は、千八百六十六年(ねん)(慶應(けいおう)二年(ねん))三月(ぐわつ)、長崎(ながさき)を出發(しゆつぱつ)し本國(ほんこく)に向(むか)はれた。同年(どうねん)七月(ぐわつ)の傳道局(でんだうきよく)機關紙(きくわんし)には、『師(し)は日本(にほん)を出發(しゆつぱつ)し三月(ぐわつ)二十四日(にち)上海(しやんはい)に着(ちやく)し、同地(どうち)にて合衆國行(がつしゆうこくゆき)の最初(さいしよ)の便船(びんせん)を待受(まちう)けつゝある。師(し)の健康状態(けんかうじやうたい)は此度(このたび)の歸國(きこく)をなすに至(いた)らしめた。師(し)は監督職(かんとくしよく)に就(つ)かるゝや否(いな)やに就(つい)ては、未(いま)だ決定(けつてい)せずといふ』と記載(きさい)されてある。また同年(どうねん)十月(ぐわつ)の機關紙(きくわんし)は、師(し)の無事(ぶじ)本國(ほんごく)到着(たうちやく)と、師(し)は幾多(いくた)の熟慮考察(じゆくりよかうさつ)の上(うへ)に、傳道監督(でんだうかんとく)たることを承諾(しやうだく)せられたる事(こと)を報(はう)じた。之(これ)で見(み)ると、師(し)は長崎出發(ながさきしゆつぱつ)の際(さい)は、傳道局(でんだうきよく)總會(そうくわい)の決議(けつぎ)に對(たい)して、熟慮(じゆくりよ)考察中(かうさつちゆう)であって、未(ま)だ確答(かくたふ)を與(あた)へられなかつた。思(おも)ふに敬虔忠誠(けいけんちうせい)なる師(し)は、此數(このすう)ヶ月(げつ)の間(あいだ)は、神前(しんぜん)に幾度(いくたび)か專念默想(せんねんもくさう)し、而(そ)して、衷心(ちうしん)の強烈(きやうれつ)なる召命(せうめい)の感念(かんねん)と確信(かくしん)に動(うごか)されて、遂(つひ)に此大任命(このたいにんめい)を奉(ほう)じて起(た)つべく決心(けつしん)せられたのであらう。

三、監督聖別式 

 一千八百六十六年(ねん)十月(ぐわつ)三日(か)、紐育(ニユウヨルク)市(し)聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)に於(おい)て、師(し)の監督(かんとく)聖別式(せいべつしき)は最(いと)も莊嚴(さうごん)に執行(しつかう)せられた。傳道局(でんだうきよく)機關紙(きくわんし)が報(はう)ずる所(ところ)は左(さ)の如(ごと)し。

『吾人(ごじん)は今(い)ま傳道局(でんだうきよく)年會(ねんくわい)の報告(はうこく)を我(わが)が讀者(どくしや)に致(いた)すに先(さきだ)ちて、支那(しな)及(および)日本(にほん)の傳道(でんだう)監督(かんとく)たる、チヤニング、ムーア、ウイリアムス氏(し)の聖別(せいべつ)に關(くわん)して、ー言(ごん)なかる可(べか)らず。蓋(けだ)し此(こ)の興味深(きやうみふか)き禮拜(れいはい)は傳道局(でんだうきよく)の會議(くわいぎ)と同日(どうじつ)(十月(ぐわつ)三日(か))に行(おこな)はれ、傳道局員(でんだうきよくゐん)悉(ことごと)く之(これ)に參列(さんれつ)し、恰(あたか)も同局事務(どうきよくじむ)の一部(ぶ)たるの觀(くわん)ありたればなり。聖別(せいべつ)の式(しき)はセント、ジョンス、チャペルに於(おい)て執行(しつかう)せられたり。
 午前(ごぜん)十時半(じはん)、諸監督(しよかんとく)は、其職服(そのしよくふく)にて會堂(くわいだう)に入(い)り、着席(ちやくせき)せらる。早禱式(そうたうしき)の司式者(ししきしや)は、昇天敎會(しようてんけうくわい)牧師博士(ぼくしはかせ)ジヱ、カツトン、スミス氏(し)、及(およ)びブルツクリン市(し)聖(せい)三一敎會(けうくわい)牧師(ぼくし)、博士(はかせ)リツツルジヨン氏(し)にして、聖餐式(せいさんしき)の前部(ほんぶ)は、オハイオの監督(かんとく)メルバイン氏(し)、及(およ)びウイスコンシンの監督(かんとく)ぺイーン氏(し)及(およ)び監督(かんとく)ケンバー氏(し)によりて奉讀(ほうどく)せられたり。説敎者(せつけうしや)は、ヴアジニヤ監督(かんとく)ジヨーンス氏(し)にして、其題(そのだい)は聖馬可傳(せいまこでん)十六章(しやう)十五節(せつ)、「偏(あまねく)く世界(せかい)を廻(めぐ)りて凡(すべ)ての人(ひと)に福音(ふくゐん)を宣傳(のべつた)へよ」なりき、基督(きりすと)の福音(ふくゐん)を最(もつと)も忠實(ちゆうじつ)且(か)つ有力(いうりよく)に闡明(せんめい)し、辯舌亦(べんぜつま)た力(ちから)あり、而(しか)して極(きは)めて流暢(りゆうちやう)なりき。此説敎(このせつけう)は此事業(このじげふ)の爲(た)めに、轉(うた)た人心(じんしん)を激勵(げきれい)するに足(た)るものありき、冀(こひねがは)くは全公會(ぜんこうくわい)の耳(みゝ)に達(たつ)せんこと。
且(か)つ説敎者(せつけうしや)は、新選監督(しんせんかんとく)と交誼(かうぎ)歳(とし)既(すでに)に久(ひさ)しきことを語(かた)り、且(か)つ其人(そのひと)の此大任(このたいにん)の爲(た)めに特(とく)に適材(てきざい)なることを述(の)べられたり。惟(おも)ふに、ウイリアムス氏(し)にして、若(も)し此場(このば)にあらざらしめば、説敎者(せつけうしや)は更(さら)に多(おほ)く氏(し)に對(たい)する賞讃(しやうさん)の辭(じ)を盡(つく)せしなるべし。されどウイリアムス氏(し)の此式(このしき)に列(れつ)せらるゝあり、且(か)つ其人(そのひと)の謙遜(そんけん)を知(し)るが故(ゆゑ)に、充分(じゆうぶん)其云(そのい)はんと欲(ほつ)する所(ところ)を盡(つく)されざりしものゝ如(ごと)し。
 説敎(せつけう)了(おは)りて後(のち)、新選監督(しんせんかんとく)は、博士(はかせ)ツウイング氏(し)、及(およ)び博士(はかせ)デニソン氏(し)に伴(ともな)はれて、ボツター、タルボツト兩監督(りやうかんとく)に推薦(すいせん)せられたり。而(しか)してヱチ、ヱチ、モーレル氏(し)、新選監督(しんせんかんとく)の宣誓文(せんせいぶん)を朗讀(らうどく)し、リー、ジヨーンス、ペイーン、ボツター、及(および)ホヰツプルの諸監督(しよかんとく)は、監督會議長(かんとくくわいぎちやう)と共(とも)に、恭(うやうや)しく按手(あんし)に加(くは)はれり。聖別終(せいべつおは)りし後(のち)、聖餐式(せいさんしき)行(おこな)はれたり。此(この)聖別式(せいべつしき)をして特(とく)に感興(かんきやう)深(ふか)からしめし所以(ゆえん)は、啻(たゞ)に殆(ほと)んど凡(すべ)ての監督(かんとく)が、之(これ)に臨席(りんせき)したるのみならず、又(ま)た亞弗利加(アフリカ)の傳道(でんだう)監督(かんとく)、及(およ)び將(まさ)に支那(しな)の任地(にんち)に歸(かへ)らんとするネルソン氏(し)、并(ならび)に米國西部(べいこくさいぶ)の傳道(でんだう)諸監督(しよかんとく)の列(つらな)れるありて、説敎者(せつけうしや)は是等(これら)の人々(ひとびと)の令名(れいめい)を巧(たくみ)に、其(その)綿繍(きんしゆく)の辯舌中(べんぜつちゆう)に織(お)り込(こ)みしことなりとす。』

かくて監督聖別式(かんとくせいべつしき)を了(おわ)り、翌年(よくねん)コロンビヤ大學(だいがく)より神學博士(しんがくはかせ)の名譽學位(めいよがくゐ)を受(う)けられた。

四、滯米中の監督  

 監督(かんとく)は、聖別式(せいべつしき)を了(お)へて直(たゞち)に歸任(きにん)の意(い)であったが、歸航便船(きかうびんせん)の無(な)き爲(ため)に、本國(ほんごく)滯留(たいりう)を延(のば)さゞるを得(え)なかった。然(しか)し其間(そのあひだ)、監督(かんとく)は東奔西走(とうほんさいさう)して、或(あるひ)は個人(こじん)を訪問(はうもん)し、或(あるひ)は公會(こうくわい)の席上(せきじやう)に於(おい)て、日本(にほん)支邦(しな)傳道(でんだう)に就(つい)て訴(うつた)へ、大(おほい)に人心(じんしん)を激勵(げきれい)された。又(ま)た監督(かんとく)の熱誠(ねつせい)なる盡力(じゆんりよく)により、一の傳道會(でんだうくわい)は組織(そしき)された。此會(このくわい)は一ケ月(げつ)に一度(ど)集會(しふくわい)して、講演(かうえん)を開(ひら)き外國(ぐわいこく)傳道地(でんだうち)の報告(はうこく)を聞(き)き各會員(かくくわいゐん)は若干(じやくかん)の金(かね)を寄附(きふ)し、之(これ)を以(もつ)て支那人(しなじん)の子弟(してい)の爲(ため)に設(まう)けられたる、傳道會社(でんだうくわいしや)の學校(がくかう)の補助(ほじよ)に充(あ)つる事(こと)とした。爾來(じらい)此會(このくわい)は都合(つがふ)よく進行(しんかう)し、大(おほい)に傳道(でんだう)の精神(せいしん)を奬勵(しやうれい)し、其興味(そのきやうみ)を持續(じぞく)するに最(もつと)も有効(いうかう)なるものとなった。

五、支那に歸任 

 翌年(よくねん)(千八百六十七年(ねん))九月(ぐわつ)、監督(かんとく)は傳道局(でんだうきよく)外國(ぐわいこく)傳道委員(でんだうゐゐん)の要請(えうせい)により、萬國(ばんこく)聖公會(せいこうくわい)大會(たいくわい)に出席(しゆつせき)の爲(ため)に、英國(えいこく)に赴(おも)かれた。而(しか)して其(その)翌年(よくねん)(千八百六十八年(ねん))明治(めいぢ)元年(ぐわんねん)一月(ぐわつ)十四日(か)、桑港(サンフランシスコ)から上海(シヤンハイ)に歸任(きにん)せられた。千八百六十八年(ねん)(明治(めいぢ)元年(ぐわんねん))一月(ぐわつ)十五日(にち)、即(すなは)ち上海(シヤンハイ)到着(たうちやく)の翌日(よくじつ)、師(し)の發信(はつしん)に曰(いわ)く

『父(ちゝ)なる神(かみ)の大(だい)なる御惠(みめぐみ)に由(よ)りて、小生(せうせい)は昨夜(さくや)無事(ぶじ)當地(たうち)に着(ちやく)仕候(つかまつりそろ)。小生(せうせい)の乘船(じよせん)グレート、レパブリツク號(がう)は、航海(かうかい)中(ちゆう)逆風(ぎやくふう)及(およ)び暴風怒濤(ばうふうどたう)に難(なやま)され、且(か)つ其(その)積荷(つみに)の甚(はなは)だ重(おも)かりし爲(た)め、桑港(サンフランシスクコ)より橫濱迄(よこはままで)の豫定時(よていじ)は二十二日(にち)なるに、實際(じつさい)二十九日半(にちはん)を要(えう)し候(そろ)。加(くは)ふるに日本(にほん)瀨戸内海(せとないかい)の入口(いりくち)なる下之關(しものせき)に於(おい)て、再(ふたゝ)び抑留(よくりう)せられ候(そろ)ため、桑港(サンフランシスコ)より上海(シヤンハイ)迄(まで)の航程(かうてい)は、殆(ほと)んど十二日(にち)遲延(ちえん)仕候(つかまつりそろ)。當地在留(たうちざいりう)の宣敎師(せんけうし)諸氏(しよし)は皆々(みなみな)強壯(きやうさう)にして、最(もつと)も懇(ねんご)ろに小生(せうせい)を歡迎(くわんげい)せられ候(そろ)。之(こ)れ實(じつ)に小生(せうせい)が敎會(けうくわい)より托(たく)せられたる重大(ぢゆうだい)なる責任(せきにん)を盡(つく)すに於(おい)て、我(わ)が同勞者(どうらうしや)諸氏(しよし)の深(ふか)き同情(どうじやう)を有(いう)し、且(かつ)衷心(ちうしん)より共働(きやうどう)を得(う)べきことを證(しよう)するものにして、轉(うた)た會心(くわいしん)の至(いた)りに奉存候(ぞんじたてまつりそろ)。我等(われら)は皆(みな)此(この)困難(こんなん)なる働(はたらき)に於(おい)て、上(うへ)よりの恩惠(おんけい)及(およ)び強(つよ)むる力(ちから)の必要(ひつえう)を感(かん)ずること甚(はなは)だ切(せつ)に御座候(ござそろ)。願(ねがは)くは此(この)大帝國(だいていこく)に於(おい)て救主(すくひぬし)の王國(わうこく)を建(た)つる爲(た)めに、犬馬(けんば)の勞(らう)を致(いた)せる我等(われら)宣敎師(せんけうし)の爲(ため)に本國(ほんごく)敎會(けうくわい)各員(かくゐん)の熱切(ねつせつ)なる祈禱(きたう)を添(そ)えられんことを切望(せつばう)仕候(つかまつりそろ)。當地(たうち)宣敎事業(せんけうじげふ)の詳細(しやうさい)に就(つ)きては、何(いづ)れ後便(こうびん)にて可申上候(まをしあぐべくそろ)。』

 支那(しな)日本(にほん)傳道監督(でんだうかんとく)として、上海(シヤンハイ)に歸任(きにん)した監督(かんとく)は、歸來(きらい)直(たゞち)に支那(しな)内地(ないち)に大旅行(だいりよかう)を試(こゝろ)みられた。此旅行(このりよかう)の目的(もくてき)は、内地(ないち)の傳道地(でんだうち)として、適良(てきりやう)の地方(ちはう)を選定(せんてい)する事(こと)であった。支那帝國内(しなていこくない)の大都市(だいとし)數(すう)ヶ所(しよ)を視察(しさつ)し殆(ほと)んど二千二百哩(まいる)の旅行(りよかう)をせられた。此視察(このしさつ)の結果(けつくわ)先(ま)づ武昌(ブシヤウ)に傳道(でんだう)を開始(かいし)し、後(の)ち續(つゞ)いて北京(ペキン)、漢口(カンコウ)、蘇州(ソシウ)、漢陽(カンヤウ)等(とう)の傳道(でんだう)に着手(ちやくしゆ)する事(こと)となった。又(ま)た師(し)は數年間(すうねんかん)長崎(ながさき)に在(あ)つて淸語(しんご)を語(かた)る機會(きくわい)が無(なか)つたから、再(ふたゝ)び支那(しな)に在(あつ)て監督職(かんとくしよく)を執行(しつかう)するには、支那語(しなご)を復習(ふくしふ)する必要(ひつえう)を生(せう)じた。上海(シヤンハイ)に着後(ちやくご)直(たゞち)に之(これ)に掛(かゝ)り、鋭意(えいい)復習(ふくしふ)せられて、三月(ぐわつ)一日(にち)までに、洗禮式(せんれいしき)、聖餐式(せいさんしき)、信徒(しんと)按手式(あんしゆしき)、聖職(せいしよく)按手式(あんしゆしき)等(とう)を執行(しつかう)し、自由(じいう)に會話(くわいわ)する事(こと)ができるやうに成(な)られた。此年(このとし)の三月(ぐわつ)上海(シヤンハイ)の敎會(けうくわい)にて、五十三人(にん)の支那人(しなにん)に按手(あんしゆ)し、五月(ぐわつ)十七日(にち)に、ケンニオン大學(だいがく)の卒業生(そつげふせい)にして、長老(ちやうらう)ネルソン氏(し)の敎導(けうどう)の下(もと)に神學(しんがく)を研究(けんきふ)されたるYoung King Ngan氏(し)に、執事(しつじ)の按手(あんし)を施(ほどこ)された。之等(これら)は師(し)の支那(しな)に於(お)ける第(だい)一の按手(あんしゆ)であった。
當時(たうじ)上海(シヤンハイ)には、長老(ちやうらう)Chai氏(し)主牧(しゆぼく)の基督(きりすと)敎會(けうくわい)、長老(ちやうらう)ネルソン氏(し)主牧(しゆぼく)の救主(きうしゆ)敎會(けうくわい)あり、同地(どうち)を去(さ)る五哩(まいる)のKon-Wanには説敎場(せつけうじやう)あり、聖職(せいしよく)候補生(こうほせい)Sung-Ting氏(し)働(はたら)き、同地(どうち)を去(さ)る二哩(まいる)の張家濱(チヤウカヒン)説敎場(せつけうば)には、聖職(せいしよく)候補生(こうほせい)Hong Neok氏(し)が働(はたら)いた。其他(そのた)病院(びやうゐん)學枚(がくかう)あり、宣敎醫師(せんけういし)マクゴーン氏(し)、長老(ちやうらう)タムソン氏(し)、女敎師(ぢよけうし)フエー孃(ぢやう)等(とう)其任務(そのにんむ)を執(と)られた。而(しか)して北京(ペキン)には長老(ちやうらう)セルフスキー氏(し)定住(ていぢゆう)し、氏(し)は當時(たうじ)聖書(せいしよ)の支那語譯(しなごやく)に全力(ぜんりよく)を盡(つく)されつゝあった。後(の)ち監督(かんとく)は新(しん)傳道地(でんだうち)武昌(ブシヤウ)に居(きよ)を移(うつ)された、此(こ)は同地(どうち)に於(おい)て支那(しな)敎役者(けうえきしや)と協力(けふりよく)して働(はたら)く宣敎師(せんけうし)の來任(らいにん)するまで、同地(どうち)に在留(ざいりう)する必要(ひつえう)があったからである。當時(たうじ)の通信(つうしん)に曰(いは)く、武昌(ブシヤウ)に於(おい)てHohing氏(し)と偕(とも)に、働(はたら)く爲(ため)に直(たゞち)に何人(なにびと)かを派遣(はけん)するは切要(せつえう)なることに候(そろ)、何(なん)となれば小生(せうせい)は同氏(どうし)のみを遺(のこ)して去(さ)るに忍(しの)びず候(そろ)と。斯(か)くてホート、ブーン兩宣敎師(りやうせんけうし)が來任(らいにん)するまで、武昌(ブシヤウ)傳道(でんだう)の任務(にんむ)を自(みづか)ら負(お)はれた。 千八百六十九年(ねん)三月(ぐわつ)、武昌(ブシヤウ)に於(おい)て第(だい)一の洗禮式(せんれいしき)は執行(しつかう)せられ、師(し)はHohing氏(し)の舊帥(きうし)なる一學者(がくしや)に洗禮(せんれい)を授(さづ)けられた。
千八百六十八年(ねん)、師(し)が支那(しな)日本(にほん)監督(かんとく)として上海(シヤンハイ)に歸任(きにん)せられたる當時(たうじ)は、傳道地(でんだうち)は上海(シヤンハイ)及(およ)び北京(ペキン)にして、敎役者(けうやくしや)は長老(ちやうらう)三人(にん)(外國人(ぐわいこくじん)二支那人(しなじん)一)傳道師(でんだうし)數人(すうにん)、學校(がくかう)三、受洗者(じゆせんしや)總數(そうすう)二百十九人(にん)、受聖餐者(じゆせいさんしや)總數(そうすう)百四人(にん)なりしが、千八百七十二年(ねん)には師(し)が管轄(くわんくわつ)の傳道地(でんだうち)及(およ)び敎役者(けうやくしや)は、(一)上海(シヤンハイ)及(および)其附近(そのふきん)、基督敎會(きりすとけうくわい)、主任長老(しゆにんちやうらう)タムソソ氏(し)、男女學校(なんによがくかう)七、救主敎會(きうしゆけうくわい)、主任長老(しゆにんちやうらう)ネルソン氏(し)、Kong Chai Wong氏(し)、學校(がくかう)一、病院(びやうゐん)一、張家濱(チヤウカヒン)説敎場(せつけうぢやう)、聖職(せいしよく)候補生(こうほせい)Hoong-hiok Woo氏(し)、Sau-nok説敎場(せつけうぢやう)、フエー孃(ぢやう)、(二)北京(ペキン)、セルフスキー氏(し)、學校(がくかう)一、(三)武昌(ブシヤウ)及(および)其附近(そのふきん)ホート氏(し)、ブーン氏(し)、敎會(けうくわい)一、學校(がくかう)一、(四)漢口(カンコウ)Hohing氏(し)、Young Kiung Ngan氏(し)、傳道所(でんだうじよ)一、學校(がくかう)一、(五)蘇州(ソシウ)であった。千八百七十四年(ねん)の報告(はうこく)によれば、更(さら)に前記(ぜんき)の傳道地(でんだうち)に數(すう)ヶ所(しよ)の派出(はしゆつ)傳道地(でんだうち)を加(くは)へ、長老(ちやうらう)九人(にん)(外國人(ぐわいこくじん)七支那人(しなじん)二)、執事(しつじ)三人(にん)(外國人(ぐわいこくじん)一支那人(しなじん)二)、宣敎醫師(せんけういし)二人(にん)、女敎師(ぢよけうし)二人(にん)、傳道師(でんだうし)十數人(すうにん)、學校(がくかう)二十四(寄宿生(きしゆくせい)百八人(にん)、通學生(つうがくせい)四百九十五人(にん))、受洗者(じゆせんしや)總數(そうすう)四百十人(にん)、受聖餐者(じゆせいさんしや)總數(そうすう)二百三十人(にん)に增加(ぞうか)した。

六、日本傳道 

 師(し)は支那(しな)武昌(ブシヤウ)に定住(ていぢゆう)し、支那(しな)敎役者(けうえきしや)を補助(ほじよ)して、同地(どうち)の傳道(でんだう)に盡力(じゆんりよく)せらるゝと共(とも)に、上海(シヤンハイ)、北京(ペキン)、漢口(カンコウ)、其他(そのた)の傳道地(でんだうち)を巡回(じゆんくわい)して敎務(けうむ)を執(と)られた。 『而(し)かも小生(せうせい)は日本(にほん)に於(おい)て福音(ふくゐん)の智識(ちしき)を弘(ひろ)むる何等(なんら)かの好機會(かうきくわい)を捕捉(ほそく)せんことは最(もつと)も好(この)ましきことに御座候(ござそろ)』と當時(たうじ)の書信中(しよしんちゆう)に記(しる)されてあるが、師(し)は一日(にち)も我(わ)が日本(にほん)を忘(わす)るゝことはできなかつた。然(し)かも其(その)日本傳道(にほんでんだう)の現状(げんじやう)は如何(いかん)、一方(ぱう)日本(にほん)の形勢(けいせい)の激欒(げきへん)は、基督敎(きりすとけう)傳道(でんだう)の爲(ため)に前途(ぜんと)頗(すこぶ)る多望(たばう)なりと觀取(くわんしゆ)しながらも、同勞者(どうらうしや)リギンス氏(し)去(さ)り、宣敎醫師(せんけういし)シミツト氏(し)もまた去(さ)りて、師(し)が屢(しばし)ば熱切(ねつせつ)なる請求(せいきう)に拘(かゝは)らず、本國(ほんごく)よりは日本(にほん)の爲(ため)に一人(にん)の宣敎師(せんけうし)も遣(つか)はされず、折角(せつかく)新敎(しんけう)傳道(でんだう)の先鞭(せんべん)を着(つ)けたる聖公會(せいこうくわい)の傳道(でんだう)は、唯(ゆ)一の宣敎師(せんけうし)たりし師(し)が、監督(かんとく)の重職(ぢゆうしよく)に就(つ)かれたれば、師(し)自(みづか)ら日本(にほん)に留(とま)つて之(これ)が專務(せんむ)に當(あた)ることは能(で)きぬので、餘儀(よぎ)なくも今(いま)や日本傳道(にほんでんだう)は全(まつた)く中止(ちゆうし)の状態(じやうたい)にあった。此(かく)の如(ごと)くなれば、當時(たうじ)師(し)は日本(にほん)を思(おも)ふて、「憤慨(ふんがい)轉(うた)た禁(きん)ぜざるの思(おも)ひし、」「痛嘆(つうたん)の情(じやう)胸臆(きやうおく)を壓(あつ)し悲哀(ひあい)の感(かん)に堪(た)へず」と云(い)はれた。

七、熱切なる要求 

 左(さ)に掲(かゝ)ぐるものは、師(し)が監督職(かんとくしよく)に就(つい)てから、第(だい)一に我國(わがくに)に巡回(じゆんくわい)された時(とき)の書信(しよしん)である。いかに師(し)が日本傳道(にほんでんだう)に熱烈(ねつれつ)であつたかを想(おも)ふべく、また當時(たうじ)師(し)の衷情(ちうじやう)を察(さつ)すべきである。

『目下(もくか)此國(このくに)に於(おい)て宣敎師(せんけうし)は、日本人(にほんじん)に交際(かうさい)し之(これ)を敎訓(けうくん)するに就(つ)きては、拙者(せつしや)が曩(さき)に此國(このくに)を去(さ)りし時(とき)よりも、一層(そう)自由(じいう)に御座候(ござそろ)。ダツチリフオームト敎會(けうくわい)の宣敎師(せんけうし)バラ氏(し)は、醫師(いし)へボン氏(し)の施藥所(せやくじよ)に於(おい)て、毎日曜日(まいにちえうび)の朝(あさ)若干(じやくかん)の日本人(にほんじん)を集(あつ)めて、聖書(せいしよ)を敎(おし)え居(お)られ候(そろ)。拙者(せつしや)は本週(ほんしう)の日曜日(にちえうび)を橫濱(よこはま)に於(おい)て通(すご)し、バラ氏(し)の集會(しふくわい)に出席(しゆつせき)致(いたし)候處(そろところ)、凡(およ)そ十五人(にん)の日本人(にほんじん)之(これ)に列(れつ)し、甚(はなは)だ靜肅(せいしゆく)且(か)つ熱心(ねつしん)に有之候(これありそろ)。其人々(そのひとびと)は大抵(たいてい)聖書(せいしよ)を開(ひら)き其説明(そのせつめい)を傾聽(けいちやう)致居候(いたしをりそろ)。ヘボン氏(し)の病院(びやうゐん)は今(いま)や建築中(けんちくちゆう)に有之(これあり)、其落成(そのらくせい)の上(うへ)は治療(ぢれう)を受(う)けに來(く)る患者(くわんじや)に、基督敎(きりすとけう)を敎(おし)ふる積(つも)りなりと申居(まをしを)られ候(そろ)。
 橫濱(よこはま)に於(おい)てはヘボン氏(し)、バラ氏(し)及(および)トムソン氏等(しら)は、目下(もくか)新約聖書(しんやくせいしよ)の飜譯(ほんやく)に從事致(じゆうじいた)し居(を)られ候(そろ)。此人々(このひとびと)は毎朝(まいてう)集(あつま)りて飜譯(ほんやく)に從事(じゆうじ)し、今(いま)や既(すで)に聖馬太傳(せいまたでん)福音書(ふくゐんしよ)の第(だい)二十章(しやう)迄(まで)譯(やくし)し了(をは)られ候(そろ)。諸氏(しよし)は拙者(せつしや)が該地(がいち)にありて、其(その)飜譯(ほんやく)を助力(じよりよく)せんことの希望(きばう)を、熱心(ねつしん)に現(あら)はされ候(そろ)。
 フルべツキ氏(し)は、長崎(ながさき)に於(お)ける唯(ゆ)一のプレスビテリアン宣敎師(せんけうし)にして、一日(にち)數時間(すうじかん)官立學校(くわんりつがくかう)に敎(おし)え居(を)られ候(そろ)。同氏(どうし)は大(おほい)に其働(そのはたら)きの有望(いうぼう)なるを感(かん)じ、種々(しゆじゆ)と興味(きやうみ)ある事實(じゞつ)を拙者(せつしや)に語(かた)られ候(そろ)。乍併(しかしながら)近頃(ちかごろ)長崎(ながさき)に於(お)ける羅馬教會(ろうまけうくわい)宣敎師(せんけうし)のことに就(つい)て、幾分(いくぶん)人心(じんしん)の激昂(げきかう)を來(きた)したること有之候(これありそろ)爲(た)め、當分(たうぶん)の内(うち)は同氏(どうし)の働(はたら)きを詳(くは)しく發表(はつぺう)するを好(この)まずと申居(まをしを)られ候(そろ)。
 然(しか)るに飜(ひるがえ)つて、我(わ)が愛(あい)する敎會(けうくわい)の此國(このくに)に於(お)ける働(はたら)きを見(み)るに、未(いま)だ一人(にん)の宣敎師(せんけうし)の此(この)大事業(だいじげふ)に從事(じゆうじ)せるもの無(な)きを思(おも)ひ、憤慨轉(ふんがいうた)た禁(きん)ぜざるの思(おも)ひに御座候(ござそろ)。抑(そもそ)も現下(げんか)の日本(にほん)の如(ごと)く傳道(でんだう)の爲(ため)に興味(きやうみ)に充(み)ち、美(うつく)しき成果(せいくわ)を收獲(しうくわく)するの希望(きばう)洋々(やうやう)たるの傳道地(でんだうち)は、世界廣(せかいひろ)しと雖(いへど)も又(また)と有之間敷(これあるまじく)候(そろ)。此國(このくに)の人民(じんみん)は今(いま)や大(おほい)に醒覺(せいかく)し、根本的(こんぽんてき)の變事(へんかく)は日々(ひゞ)に行(おこな)はれ居候(をりそろ)。彼等(かれら)は競(きそ)ふて外國(ぐわいこく)の風俗(ふうぞく)習慣(しふくわん)を採用(さいよう)し、基督敎徒(きりすとけうと)とならんとの希望(きばう)を抱(いだ)ける者(もの)多(おほ)く候(そろ)。其中(そのうち)幾何(いくばく)かは只(た)だ名義(めいぎ)のみの信者(しんじや)となるに過(す)ぎざる者(もの)も有之候(これありさふら)はんかなれど、又(また)其實(そのじつ)忠誠(ちうせい)にして全心(ぜんしん)を捧(さゝ)ぐるの信者(しんじや)となるべき者(もの)の少(すくな)からざることを信(しん)じ候(そろ)。夫(そ)れ斯(かく)の如(ごと)く收穫(しうくわく)の大原野(だいげんや)は既(すで)に色(いろ)づきて鋭鎌(とかま)を俟(ま)てるものあるに拘(かゝは)らず、我敎會(わがけうくわい)は此豐(このゆた)かなる足穗(たりほ)を刈(か)り集(あつ)めて、主(しゆ)の庫(くら)に入(い)るゝの働(はたら)きをなす人(ひと)、一人(にん)も無之(これなく)とは豈(あ)に遺憾(ゐかん)の至(いた)りに候(さふら)はずや。
 我(わ)が愛(あい)する兄弟(きやうだい)よ、拙者(せつしや)は會衆國(がつしふこく)の東西南北(とうざいなんぼく)、各所(かくしよ)を訪問(はうもん)したる後(のち)、今(いま)や只(た)だ一人(にん)にて日本(にほん)を通過(つうくわ)し、此暗黑(このあんこく)に漂(たゞよ)ひ異敎迷信(ゐけうめいしん)の中(うち)に漂(たゞよ)へる人民(じんみん)を、眞(まこと)の道(みち)に導(みちび)かんが爲(ため)に、福音(ふくゐん)を敎(をし)ふる一人(にん)の宜敎師(せんけうし)をも此國(このくに)に遺(つかは)す能(あた)はずして、淸國(しんこく)に歸(かへ)らざるを得(え)ざるとは、痛歎(つうたん)の情(じやう)胸臆(けうおく)を厭(あつ)し悲哀(ひあい)の感(かん)に堪(た)えざる思(おも)ひに御座候(ござそろ)。
 思(おも)ふに神(かみ)は此日本(このにほん)をして、其愛子(そのあいし)の福音(ふくゐん)を受(う)けしむる爲(た)めに、今(いま)や其道(そのみち)を備(そな)え居給(ゐたま)ふこと殆(ほと)んど疑(うたが)ふべきにあらず、必(かなら)ずや或(あ)る人々(ひとびと)を召(め)して此最高(このさいかう)の事業(じげふ)に從事(じゆうじ)せしめ、以(もつ)て耶蘇基督(ゑすきりすと)を隅(すみ)の首石(おやいし)となし、使徒(しと)と預言者(よげんしや)を基(もと)となせる敎會(けうくわい)を、此最(このもつと)も興味深(きやうみふか)き國土(こくど)に於(おい)て、深(ふか)く廣(ひろ)く且(かつ)堅固(けんご)に建設(けんせつ)せしめ給(たま)ふべく候(そろ)。神(かみ)は既(すで)に基督(きりすと)の多(おほ)くの司牧者(しぼくしや)中(ちう)の或(あ)る人々(ひとびと)を召(め)して日本(にほん)に於(お)ける憐(あはれ)むべき異敎徒(ゐけうと)に對(たい)する御惠(おめぐ)みの豐(ゆた)かなることを知(し)らしめ給(たま)ひしにあらずや。
 望(のぞ)むらくは神(かみ)の御惠(みめぐみ)により、適當(てきたう)の資格(しかく)ある人(ひと)が、此(この)マセドニヤの高(たか)き叫(さけ)び、「來(きた)りて我等(われら)を助(たす)けよ」との聲(こゑ)を聞(き)き、又(また)「汝(なんぢ)ヱルサレムを出(い)でよ、我(われ)汝(なんじ)を遙(はる)かに異邦人(ゐはうじん)に送(おく)り、海(うみ)の彼方(かなた)の島(しま)より選(えら)ばれたる者(もの)を集(あつ)めしめん」との、我等(われら)の主(しゆ)の聲(こゑ)に應(おう)ずる人(ひと)の起(おこ)らんことを。
 切(せつ)に願(ねがは)くば此人民(このじんみん)を暗(くら)き中(うち)より呼(よ)び出(いだ)し、大(おほい)なる光(ひかり)を與(あた)え給(たま)ふ神(かみ)を讃(ほ)むる聖(せい)なる國民(こくみん)たらしむる爲(た)めに、忠實(ちゆうじつ)なる牧者(ぼくしや)の現(あら)はれんことを。』

更(さら)に他(た)の書簡中(しよかんちゆう)に曰(いは)く、

『乍併(しかしながら)茲(ここ)に悲(かなし)むべき事實(じじつ)は、此國(このくに)は既(すで)に駸々(しゆんしゆん)として開國(かいこく)の氣運(きうん)に向(むか)ひ、吾人(ごじん)が宣敎(せんけう)の準備(じゆんび)は寧(むし)ろ此大勢(このたいせい)の後(しり)へに瞠若(だうじやく)たるの有樣(ありさま)に有之候(これありそろ)。羅馬(ローマ)加特利(カトリツク)敎會(けうくわい)は稍(や)や優勢(いうせい)に有之(これあり)候得共(さふらへども)、新敎(しんけう)の各派(かくは)は遙(はる)かに其背後(そのはいご)に落(お)ちて、プレスビテリアン及(およ)びダツチ、リフオームト敎會(けうくわい)は、僅(わずか)に三人(にん)の牧師(ぼくし)と一人(にん)の宣敎師(せんけうし)を有(いう)し候(そろ)。若(も)し夫(そ)れ我(わが)敎會(けうくわい)に至(いた)つては、悲(かなし)ひ哉(かな)、我等(わらら)の主(しゆ)の名(な)に依(よ)りて、此國(このくに)に入(い)れる者(もの)未(いま)だ一人(にん)も無之(これなく)、悲(かなし)み且(かつ)恥(は)づべき事(こと)に候(さふら)はずや、曾(かつ)ては此國(このくに)に於(おい)て最先鞭(さいせんべん)を着(つ)けたる我(わ)が敎會(けうくわい)は、今(いま)や一人(にん)の代表者(だいへうしや)をも有(いう)せずして、既(すで)に獲得(くわくとく)したる位置(ゐち)をすら棄(す)てんとするは、何(なん)たる痛恨事(つうこんじ)に候(さふら)ぞや。
鳴呼(あゝ)愛(あい)する兄弟(きやうだい)よ、諸君(しよくん)は果(はた)して本國(ほんごく)に於(お)ける靑年敎職(せいねんけうしよく)を奬勵(しやうれい)して、此(この)大事業(だいじげふ)に從事(じゆうじ)するの重要(じゆうえう)と光榮(くわうえい)と特權(とくけん)とを悟(さと)らしめ、以(もつ)て聖保羅(せいほうろ)が在昔(ざいせき)自(みづか)ら奮(ふる)つて、異邦人(ゐはうじん)の傳道(でんだう)に從事(じゆうじ)したる如(ごと)く、今(いま)や此最(このもつと)も興味深(きやうみふか)き人民(じんみん)に、基督(きりすと)の測(はか)る可(べか)らざる富(とみ)を宣傳(せんでん)するの光榮(くわうえい)を有(いう)せんとの、熱情(ねつじやう)を激勵(げきれい)せらるゝ譯(わけ)には相成(あひなり)不申哉(まをさずや)、小生(せうせい)の如(ごと)きは若(も)し最(もつと)も得策(とくさく)と認(みと)めらるゝに於(おい)ては、喜(よろこ)んで日本(にほん)に歸(かへ)り此(この)事業(じげふ)に從事(じゆうじ)可致(いたすべき)、日本(にほん)に於(お)ける基督(きりすと)致會(けうくわい)の基礎(きそ)を据(すえ)ることを許(ゆる)さるゝよりも、喜(よろこ)ばしきことは小生(せうせい)に取(と)りては、天下(てんか)またとある間敷候(まじくそろ)。然(しか)れども此(この)最高(さいかう)の特權(とくけん)、此(この)最(もつと)も高(たか)き名譽(めいよ)は、小生(せうせい)に許(ゆる)されざるを奈何(いか)せん。小生(せうせい)は只(た)だ我(わ)が十字架(じか)を取(と)りて、「聖旨(せいし)のまゝに成(なし)たまへ」と申(まを)さんのみに侯(そろ)。』

 師(し)がかくも熱切(ねつせつ)に日本(にほん)の爲(ため)に宣敎師(せんけうし)派遣(はけん)を要請(えうせい)したれでも、明治(めいぢ)四年(ねん)迄(まで)一人(にん)の宣敎師(せんけうし)も我國(わがくに)に送(おく)られなかった。されば師(し)は常(つね)に日本(にほん)と支那(しな)の間(あいだ)を往復(わうふく)し、支那(しな)に在(あつ)ては監督(かんとく)の敎務(けうむ)に忙(いそが)しく、日本(にほん)に留(とゞま)つては傳道(でんだう)の任務(にんむ)を一身(しん)に負(お)ひ、殆(ほと)んど席暖(せきあたゝま)るに暇(いとま)がなかった。左(さ)の書簡(しよかん)は、一千八百六十八年(ねん)(明治(めいぢ)元年(ぐわんねん))十二月(ぐわつ)八日(か)、我國(わがくに)よりの歸途(きと)、汽船(きせん)コスタリカ船上(せんじやう)に於(おい)て認(みと)められたものである。

『拙者(せつしや)は目下(もくか)此國(このくに)に於(おい)て、行(おこな)はるゝ大變革(たいへんかく)と宣敎(せんけう)の好機(かうき)を捉(とら)えんが爲(た)めに、米國(べいこく)より宣敎師(せんけうし)を派遣(はけん)するの焦眉(せうび)の急務(きふむ)たることを茲(ここ)に再(ふたたび)び切言(せつげん)致候(いたしそろ)。有力(いうりよく)なる日本人(にほんじん)及(および)一二外國(ぐわいこく)商人(しやうにん)の意見(いけん)を徴(ちよう)し候(さふら)ふに、日本政府(にほんせいふ)が基督敎(きりすとけう)に對(たい)して自由(じいう)、寬容(くわんよう)を與(あた)ふるの時(とき)は甚(はなは)だ近(ちか)く可有之(これあるべく)、去(さ)れば我(わが)敎會(けふくわい)は此久(このひさ)しく希望(きばう)したる出來事(できごと)を助(たす)け、且(かつ)あらゆる好機(かうき)を捉(とろ)ふるが爲(た)めに、日本(にほん)に代表者(だいへうしや)を有(いう)すること最(もつと)も必要(ひつえう)に御座候(ござそろ)。故(ゆゑ)に小生(せうせい)は誠實(せいじつ)に日本國(にほんこく)の爲(た)めに訴(うつた)へ、我(わが)外國(ぐわいこく)傳道委員(でんだうゐゐん)が少(すくな)くとも、一人(にん)の宣敎師(せんけうし)及(および)一人(にん)の醫師(いし)を派遣(はけん)せられんことを切(せつ)に希望(きばう)致候(いたしそろ)。取(と)り分(わ)け小生(せうせい)は一人(にん)の醫師(いし)を有(いう)せんことを冀(こいねが)ひ候(そろ)。若(も)し其(その)醫師(いし)が善良(ぜんりやう)なる技倆(ぎれう)を有(いう)し、且(か)つ能(よ)く敎育(けういく)せられたる基督敎(きりすとけう)信者(しんじや)にして有(あ)らゆる好機(かうき)を捉(とら)へ、己(おの)れに接觸(せつしよく)し來(きた)る人々(ひとびと)に對(たい)し、基督(きりすと)の爲(た)めに一言(ごん)にても語(かた)り候(さふら)はゞ、其効果(そのかうくわ)や殆(ほと)んど測(はか)る可(べか)らざるもの可之有候(これあるべくそろ)。
若(も)し其醫師(そのいし)が正(たゞ)しき人(ひと)にて且(か)つ活發(くわつぱつ)なる信徒(しんと)たり、衷心(ちうしん)より基督(きりすと)を愛(あい)し、自(みずか)ら有(いう)する貴(たうと)き信仰(しんかう)に他人(たにん)を導(みちび)かんとの熱望(ねつばう)ある人(ひと)に候(さふら)はゞ、必(かなら)ずや現時(げんじ)に於(おい)ては、敎職者(けうしよくしや)よりも更(さら)に善(よ)き働(はたら)きを爲(な)し得(う)ることは拙者(せつしや)の確(かた)く信(しん)ずる處(ところ)に候(そろ)。斯(かゝ)る醫師(いし)は必(かなら)ず政府(せいふ)の最高(さいかう)の官吏(くわんり)に接觸(せつしよく)し得(う)べく、其(その)治療(ぢれう)の効(かう)は必(かなら)ず彼等(かれら)の信用(しんよう)を博(はく)し、其恩(そのおん)に感(かん)ぜしめ、以(もつ)て彼等(かれら)をして其云(そのい)ふ處(ところ)に耳(みゝ)を傾(かたむ)けしむるを得(う)べく候(そろ)。 若(も)し斯(かゝ)る醫師(いし)が大阪(おほさか)に住居致(ぢゆうきよいた)し候(さふら)はゞ、彼(かれ)は時(とき)に國(くに)の首府(しゆふ)なる都(みやこ)に招聘(せうへい)せられて、高級(かうきふ)の官吏(くわんり)に接(せつ)することを得(え)、逐(つひ)に京都(きやうと)に住居(ぢゆうきよ)せんことを需(もと)めらるゝにも至(いた)るべく、斯(か)くして此國(このくに)を福音宣傳(ふくいんせんでん)の爲(た)めに開(ひら)くに與(あづか)つて大(おほひ)に力(ちから)可有之(これあるべく)候(そろ)。曩(さき)に拙者(せつしや)大阪(おほさか)に之(こ)れ有(あり)し時(とき)、或(ある)高官(かうくわん)は人(ひと)を兵庫(ひやうご)に遣(つかは)し、外國醫師(ぐわいこくいし)を招聘(せうへい)せしこと有之(これあり)、當時(たうじ)恰(あたか)も米國(べいこく)海軍(かいぐん)の一軍醫(ぐんい)京都(きやうと)に上(のぼ)りて、或(ある)堂上人(だうじやうにん)に治療(ぢれう)を致候(いたしそろ)。
斯(かく)の如(ごと)く宣敎醫師(せんけういし)は能(よ)く自(みずか)ら此國人(このこくじん)の爲(た)めに善(ぜん)をなし得(う)るのみならず、又能(またよ)く拙者(せつしや)をして多(おほ)くの人々(ひとびと)に接觸(せつしよく)せしむるの機會(きくわい)を與(あた)ふべく候(そろ)。乍併(しかしながら)、若(も)し果(はた)して我(わが)傳道局(でんだうきよく)が斯(かか)る醫師(いし)を送(おく)らるゝならば直(たゞ)ちに送(おく)らるべく、或(あるひ)は少(すくな)くとも拙者(せつしや)が武昌(ブシヤウ)に於(お)ける任務(にんむ)を解(と)きて日本(にほん)に至(いた)り、其人(そのひと)と協力(けふりよく)し得(う)る場合(ばあひ)に立至(たちいた)り次第(しだい)、差遣(さけん)せられたく候(そろ)。今(いま)や實(じつ)に日本傳道(にほんでんだう)の爲(た)めに、最(もつと)も緊要(きんえう)なる時(とき)に際(さい)し、此(この)千載(ざい)一遇(ぐう)の好機(かうき)は逸(いつ)すべからざるものに候(そろ)。他(た)の諸敎會(しよけうくわい)の傳道(でんだう)會社(くわいしや)は、日本(にほん)に於(お)ける傳道事業(でんだうじげふ)の重要(ぢゆうえう)なるを覺(さと)り、此(この)原野(げんや)を占領(せんりやう)せんが爲(た)めに人々(ひとびと)を送(おく)り出(だ)し居候(をりそろ)。英國敎會(えいこくけうくわい)の宣敎會社(せんけうくわいしゃ)(c.m.s.)は今(いま)や特(とく)に其第(そのだい)一宣敎師(せんけうし)を送(おく)り、長老敎會(ちやうらうけうくわい)は近頃(ちかごろ)更(さら)に一宣敎師(せんけうし)を加(くは)え、ダッチ、レフオムト敎會(けうくわい)のフルべツキ氏(し)は、近(ちか)く今(いま)一人(にん)の同勞者(どうらうしや)を得(え)らるゝ筈(はづ)、羅馬(ローマ)加特力(カトリツク)は多數(たすう)の部屬(ぶぞく)を有(いう)し、現在(げんざい)日本(にほん)の開港地(かいかうち)一として同敎會(どうけうくわい)宣敎師(せんけうし)の在(あ)らざるは無(な)く候(そろ)。然(しか)るに何事(なにごと)ぞ我敎會(わがけうくわい)は其(その)主(しゆ)の事業(じげふ)に對(たい)して、極(きは)めて因循(いんじゆん)且(か)つ冷淡(れいたん)には候(さふら)はずや。
 我等(われら)の敎會(けうくわい)は此國(このくに)に入(い)るに先頭(せんとう)第(だい)一なりしにも拘(かゝは)らず、日本(にほん)より援助(ゑんじよ)を求(もと)むる高(たか)き叫(さけ)びにも耳(みゝ)を假(か)さずとは、欺(なげ)きても餘(あま)りあることに候(そろ)。願(ねがは)くば神(かみ)の靈(れい)全敎會(ぜんけうくわい)の人々(ひとびと)を醒覺(せいかく)し、此國(このくに)に於(お)ける主(しゆ)の爲(た)めの勞働者(らうどうしや)の必要(ひつえう)焦眉(せうび)の急(きふ)なること、及(およ)び敎會(けうくわい)の大首(かしら)たる耶蘇基督(いゑすきりすと)が、我(わ)が敎會(けうくわい)に托(たく)し給(たま)ひし事業(じげふ)を實行(じつかう)するの責任(せきにん)を、一層(そう)深(ふか)く感(かん)ぜしめ給(たま)はんことを。』

 師(し)はかく本國(ほんごく)に向(むか)つて切(しきり)に日本(にほん)の爲(ため)に宣敎師(せんけうし)派遣(はけん)を要求(えうきう)し、自(みずか)らは支那(しな)武昌(ブシヤウ)より時々(ときどき)我國(わがくに)に來(きた)り傳道(でんだう)に從事(じゆうじ)せられたるが、後(の)ち日本(にほん)の形勢(けいせい)は師(し)をして此國(このくに)に定住(ていぢゆう)するの急務(きふむ)を感(かん)ぜしめ、また師(し)は傳道(でんだう)の根據(こんきよ)を大阪(おほさか)に据(すえ)るを得策(とくさく)とし、明治(めいぢ)二年(ねん)十一月(ぐわつ)、武昌(ブシヤウ)より居(きよ)を大阪(おほさか)に移(うつ)した。茲(こゝ)に於(おい)て、師(し)が日本傳道(にほんでんだう)の第(だい)一期(き)長崎(ながさき)時代(じだい)より、第(だい)二期(き)大阪(おほさか)時代(じだい)に移(うつ)るのである。