第九編 大阪時代

第九編 大阪時代

一、大阪傳道開始  

 監督(かんとく)の日本傳道(にほんでんだう)の第(だい)二期大阪時代(きおほさかじだい)は、支那(しな)武昌(ブシヤウ)より居(きよ)を大阪(おほさか)に移(うつ)せし明治(めいぢ)二年(ねん)十一月(ぐわつ)より、東京(とうきやう)に傳道(でんだう)の根據(こんきよ)を移(うつ)せし明治(めいぢ)六年(ねん)十一月(ぐわつ)迄(まで)である。第(だい)一期(き)長崎(ながさき)時代(じだい)は開墾(かいこん)の時代(じだい)であつて、第(だい)二期(き)大阪(おほさか)時代(じだい)は漸(やうや)く播種(はんしゆ)の時代(じだい)に入(い)つたのである。此(この)期間(きかん)に師(し)が曩(さき)に屢(しばし)ば熱切(ねつせつ)に要請(えうせい)せられた宣敎師(せんけうし)は、明治(めいぢ)四年(ねん)三月(ぐわつ)モリス氏の來任(らいにん)を第(だい)一に、次(つ)いでミラー、クインピー、宣敎醫師(せんけういし)ラニング、クーバー、ニユーマン、ブランシエー諸氏(しょし)派遣(はけん)せられ、俄(にはか)に勢力(せいりよく)を增加(ぞうか)した。茲(こゝ)に於(おい)て傳道(でんだう)事業(じげふ)は益々(ますます)多事(たじ)となりしが、師(し)は尚(な)ほ時々(ときどき)支那(しな)に出張(しゆつちやう)し、該地(がいち)の敎務(けうむ)をも執(と)られた。
 一千八百七十年(ねん)(明治(めいぢ)三年(ねん))三月(ぐわつ)十五日發(にちはつ)の師(し)の書簡(しよかん)には、「拙者(せつしや)は我(わ)が大阪(おほさか)の居宅(きよたく)の一部(ぶ)に小(ちい)さき禮拜堂(れいはいだう)を拵(こしら)え、日曜日毎(にちえうびごと)に英語(えいご)禮拜(れいはい)を行(おこな)ひ候(そろ)。此(この)禮拜(れいはい)を始(はじ)めしより以來(いらい)、拙者(せつしや)は四人(にん)の信徒(しんと)に按手(あんしゆ)致候(いたしそろ)。是(こ)れ大阪(おほさか)に於(お)ける第(だい)一回(くわい)の按手式(あんしゆしき)にして、我(わ)が働(はたら)きの初穂(はつほ)に御座候(ござそろ)。遠(とほ)からずして日本人(にほんじん)の按手(あんしゆ)の數(すう)を御報告(ごはうこく)可致候(いたすべくそろ)」とあれば師(し)は大阪(おほさか)に移(うつ)りし後(のち)、直(たゞち)に此(この)禮拜(れいはい)を開始(かいし)せしものと見(み)へる。師(し)はまた若干(じやくかん)の學生(がくせい)に英語(えいご)を敎授(けうじゆ)せられつゝありしが、明治(めいぢ)四年(ねん)三月(ぐわつ)モリス氏(し)來任(らいにん)したれば、一學校(がくかう)を組織(そしき)し氏(し)を之(これ)が主任者(しゆにんしや)とした。是(こ)れ聖(せい)提摩太(テモテー)學校(がくかう)(英和(えいわ)學舎(がくしや))の濫觴(はじまり)にして、聖公會(せいこうくわい)敎育(けういく)事業(じげふ)の端緒(たんちよ)である。モリス氏曰(しいは)く、「此等(これら)の生徒(せいと)は最年長者(さいねんちやうしや)も十五歳(さい)以上(いじやう)には無之(これなく)候得共(さふらえども)、銘々(めいめい)腰(こし)に一刀(たう)を帯(たい)し居(を)り、若(も)し敎師(けうし)と爭論(そうろん)をなせば、如何(いか)なる振舞(ふるまい)に及(およ)ぶやも計(はか)る可(べか)らず、されど昨今(さくこん)は左様(さやう)な氣勢(けはひ)を示(しめ)さず候(そろ)」と。明治(めいぢ)六年(ねん)六月末(ぐわつすへ)に至(いた)る過去(くわこ)一年間(ねんかん)の報告中(はうこくちゆう)、監督(かんとく)は曰(いは)く、「生徒(せいと)は漸次(しだい)に增加(ぞうか)し四十七名(めい)に達(たつ)し候(そろ)。九月(ぐわつ)始業(しげふ)の際(さい)は若(も)し適當(てきたう)なる家屋(かをく)を得(え)らるゝに於(おい)ては、寄宿生(きしゆくせい)を募集(ぼしふ)する計畫(けいくわく)に候(そろ)。而(しか)して現在(げんざい)まで然(し)か爲(な)せし如(ごと)く、今後(こんご)も學校(がくかう)は自給(じきふ)したき希望(きばう)に候(そろ)。宣敎師(せんけうし)諸氏(しよし)は何(いづ)れも一日(にち)一時間半(じかんはん)若(もし)くは二時間(じかん)敎鞭(けうべん)を執(と)られ、聖書(せいしよ)をも學校(がくかう)にて敎(おし)へ居(を)り候(そろ)。過(すぐ)る休暇後(きうかご)別(べつ)に聖書(せいしよ)研究會(けんきうくわい)を開始(かいし)いたし候(そろ)が、七八名(めい)の學生及(がくせいおよ)び敎師(けうし)出席(しゆつせき)致居(いたしを)り候(そろ)。之(これ)は我等(われら)の働(はたら)き中(ちゆう)の最(もつと)も有望(いうばう)なるものにて、かくも聖書(せいしよ)研究(けんきう)の爲(ため)に、一日(にち)一時間(じかん)を過(すご)すを心快(こゝろよ)しとする多(おほ)くの靑年(せいねん)なる敎師(けうし)及(およ)び學生(がくせい)を有(いう)することは、小生(せうせい)は支那(しな)に於(おい)て無之(これな)かりし事(こと)に候(そろ)」と。明治(めいぢ)五年末(ねんすへ)より外國人(ぐわいこくじん)の爲(ため)の英語(えいご)禮拜(れいはい)の外(ほか)に、毎(まい)日曜日(にちえうび)午前(ごぜん)及(およ)び午後(ごゞ)日本語(にほんご)の禮拜(れいはい)を執行(しつかう)し、師(し)が此頃(このごろ)譯了(やくれう)されたる早禱(さうたう)、詩頌(ししょう)、嘆願(たんぐわん)は使用(しよう)せられ、説敎(せつけう)講義(かうぎ)はなされた。而(しか)して此(こ)の禮拜(れいはい)出席者(しゆつせきしや)の數(すう)は次第(しだい)に增加(ぞうか)し、禮拜堂(れいはいだう)を增築(ぞうちく)する必要(ひつえう)を見(み)るに至(いた)つた。六年(ねん)三月(ぐわつ)十四日(か)モリス氏(し)の書簡(しよかん)の一節(せつ)には、「日本人(にほんじん)は大(だい)なる興味(きやうみ)を以(もつ)て禮拜(れいはい)に列(れつ)し説敎(せつけう)講義(かうぎ)を謹聽(きんちやう)いたし候(そろ)。彼等(かれら)は毎時(まいじ)同(どう)一人物(じんぶつ)に候(さふら)へば、少(すくな)くとも彼等(かれら)の或(あ)る者(もの)の心(こゝろ)に、善(よ)き種(たね)の蒔(まか)れたることを信(しん)ずるに足(た)る理由(りいう)有之候(これありそろ)。彼等(かれら)は聲(こゑ)を合(あは)せて詩(し)九十五篇(へん)を誦(しよう)し、日本語(にほんご)に譯(やく)されたる「Rock of Ages」を歌(うた)ひ申候(まをしそろ)」とある。明治(めいぢ)六年(ねん)十一月(ぐわつ)十六日(にち)、第(だい)一回(くわい)洗禮式(せんれいしき)は執行(しつかう)せられ監督(かんとく)に依(よ)り洗禮(せんれい)を授(さづ)けられたるもの六名(めい)あり、之(こ)れ大阪傳道(おほさかでんだう)の初穂(はつほ)であつた。更(さら)に翌年(よくねん)四月(ぐわつ)、第(だい)二回(くわい)の洗禮式(せんれいしき)に於(おい)ては、モリス氏(し)に依(よ)り洗禮(せんれい)を授(さづ)けられたるものが十四名(めい)あつた、かくの如(ごと)くにて、大阪(おほさか)に於(お)ける傳道(でんだう)事業(じげふ)は着々(ちやくちやく)進捗(しんちよく)し、前途甚(ぜんとはなは)だ有望(いうばう)となつた。
 明治(めいぢ)六年(ねん)は、基督敎(きりすとけう)禁制(きんせい)の高札(かうさつ)が撤去(てつきよ)せられ、基督敎(きりすとけう)嚴禁(げんきん)の時代(じだい)より黙許(もくきよ)の時代(じだい)に入(いり)し年(とし)にして我國(わがくに)傳道史上(でんだうしじやう)の第(だい)二期(き)を開(ひら)き、また此年(このとし)十一月(ぐわつ)監督(かんとく)は居(きよ)を東京(とうきやう)に移(うつ)し、師(し)の日本(にほん)傳道(でんだう)の第(だい)三期(き)に及(およ)ぶを以(もつ)て、茲(こゝ)に維新政府(いしんせいふ)の基督敎(きりすとけう)に對(たい)する政略(せいりやく)、及(およ)び基督敎(きりすとけう)禁制(きんせい)の高札(かうさつ)が徹廢(てつぱい)せらるゝに至(いた)る迄(まで)の顚末(てんまつ)に付(つ)き、以下(いか)聊(いさゝ)か叙述(ぢよじゆつ)することゝした。

二、維新政府の敎徒迫害

 幕府(ばくふ)を打破(だは)して王政復古(わうせいふくこ)を宣言(せんげん)したる維新(いしん)の政府(せいふ)は、外國(ぐわいこく)交際(かうさい)の止(や)むべからざるを看取(くわんしゆ)し、攘夷論(じやういろん)を抛(なげう)つたが、基督敎(きりすとけう)に對(たい)しては、依然(いぜん)として幕府(ばくふ)政策(せいさく)を墨守(ぼくしゆ)し、全國(ぜんこく)各地(かくち)に「邪宗門(じやしうもん)の儀(ぎ)は是迄(これまで)の通(とほ)り堅(かた)く禁制(きんせい)の事(こと)」てふ高札(かうさつ)を掲(かゝ)げ、禁令(きんれい)を嚴(げん)にして屢(しばし)ば基督(きりすと)敎徒(けうと)を迫害(はくがい)した。是(これ)より先(さき)、德川(とくがは)幕府(ばくふ)は島原亂(しまばららん)の後(のち)、禁敎(きんけう)の勵行(れいかう)に峻嚴(しゆんげん)を極(きは)めたるに關(かゝは)らず、猶(な)ほ文政(ぶんせい)十二年(ねん)に於(おい)てすら、京都(きやうと)に在(あり)て窃(ひそか)に天主敎(てんしゆけう)を信(しん)ずるものがあつた。思(おも)ふに幕府(ばくふ)の威力(ゐりよく)を以(もつ)ても、基督敎(きりすとけう)を一掃(いつさう)し全(まつた)く痕跡(こんせき)を勦滅(さうめつ)するは甚(はなは)だ難事(なんじ)たらざるを得(え)ぬ。況(いは)んや爾來(じらい)此敎(このをしへ)の巣窟(さうくつ)と稱(しやう)せられたる長崎(ながさき)附近(ふきん)に於(おい)てをや、此(この)地方(ちはう)には當初(たうしよ)から幾世(いくよ)を經(へ)て信仰(しんかう)を渝(か)へず、窃(ひそか)に家訓(かくん)を奉(ほう)じて天主敎(てんしゆけう)を信(しん)ずる人民(じんみん)があつた。而(しか)して彼等(かれら)は幕府(ばくふ)の勢力(せいりよく)既(すで)に衰(おとろ)へ、外國人(ぐわいこくじん)の去來(きよらい)漸(やうや)く繁(しげ)きに乗(じよう)じ、自(みづか)ら基督(きりすと)敎徒(けうと)たる事(こと)を告白(こくはく)するに至(いた)つた。慶応(けいおう)元年(ぐわんねん)三月(ぐわつ)、此徒(このと)の中(うち)にて浦上(うらかみ)に住(ぢゆう)する者(もの)は、不意(ふい)に長崎(ながさき)居留地(きよりうち)の天主(てんしゆ)敎會(けうくわい)に現(あら)はれた。佛僧(ぶつそう)は之(これ)を見(み)て直(たゞち)に長崎(ながさき)奉行(ぶぎやう)に訴(うつた)へたれば、浦上(うらかみ)の敎徒(けうと)は奉行所(ぶぎやうしよ)に呼出(よびだ)され、嚴重(げんぢゆう)なる取調(とりしらべ)を受(う)け、戸主(こしゆ)六十名(めい)は牢獄(らうごく)に投(とう)ぜられた。然(しか)るに此事(このこと)の未(いま)だ何等(なんら)の處置(しよち)を爲(な)さゞるに、早(はや)くも幕府(ばくふ)は顚覆(てんぷく)して明治(めいぢ)の新政府(しんせいふ)の世(よ)とはなつた。茲(こゝ)に於(おい)て新政府(しんせいふ)は直(たゞち)に此(この)國禁(こくきん)を破(やぶ)りて、勃發(ぼつはつ)したる天主(てんしゆ)敎徒(けうと)を處分(しよぶん)せざるべからざる任務(にんむ)を負(お)ふた。明治(めいぢ)元年(ぐわんねん)四月(ぐわつ)、明治(めいぢ)政府(せいふ)は、天主(てんしゆ)敎徒(けうと)の處分(しよぶん)に就(つ)き、左(さ)の文書(ぶんしよ)を發(はつ)して諸侯(しよこう)の意見(いけん)を諮問(しもん)した。

『長崎(ながさき)近傍(きんぼう)、浦上村(うらがみむら)の住民(ぢゆうみん)、先年來(せんねんらい)窃(ひそか)に耶蘇敎(やそけう)を奉(ほう)し候者(そろもの)有之哉(これあるや)に候(さふらふ)が、方今(はうこん)追々(おひおひ)繁茂(はんも)致(いた)し、一村(そん)舉(こぞつ)て右(みぎ)の教(をしへ)を奉戴(ほうたい)し、殆(ほと)んど三千人(にん)にも及(および)候様(そろやう)相成(あひなり)、不容易(よういならざる)大事(だいじ)の儀(ぎ)に付(つき)、長崎(ながさき)裁判所(さいばんしよ)より精々(せいぜい)申喩(まうしさと)し候由(そろよし)の處(ところ)、更(さら)に悔悟(くわいご)伏罪(ふくざい)無之趣(これなきおもむき)に候(そろ)、方今(はうこん)大政(たいせい)更始(かうし)の折柄(をりから)右様(みぎやう)追々(おひおひ)蔓延致(まんえんいた)し候(そろ)ては、實(じつ)に國家(こくか)の大害(だいがい)に相成(あいなり)、暫(しばらく)も難捨(すてがたき)事件(じけん)に候得者(さふらえば)、右(みぎ)巨魁之者(きよくわいのもの)相集(あひあつ)め、尚(なほ)懇々(こんこん)説諭(せつゆ)を加(くは)へ候上(そろうへ)、速(すみや)かに悔悟(くわいご)致(いた)し候者(そろもの)、右宗旨(みぎしうし) の畫像等(ぐわぞうとう)一切(さい)取毀(とりこは)ち、改(あらため)て神前(しんぜん)に於(おい)て誓約(せいやく)をなさしめ、若(も)し萬(まん)一悔悟(くわいご)不致(いたさゞる)節(せつ)は、不得止(やむをえず)斷然(だんぜん)巨魁(きよくわい)の者(もの)數人(すうにん)、斬罪(ざんざい)梟首(げうしゆ)致(いた)し、其餘(そのよ)の者(もの)は悉(ことごと)く他國(たこく)に移(うつ)し、夫々(それぞれ)夫役(ふえき)相用(あひもちゐ)、一時(じ)に根底(こんてい)を剿絶(さうぜつ)し、數年(すうねん)を經(へ)て悔悟(くわいご)の實(じつ)相顯(あひあら)はれ候上(そろうへ)、歸住(きぢゆう)相免(あひゆる)し候(そろ)外(ほか)有之間敷(これありまじ)く、實(じつ)に不容易(よういならざる)事件(じけん)に付(つき)、聊無腹臟(いさゝさかふくざうなく)、各(おのおの)見込(みこみ)の程(ほど)、言上(ごんじや)可有之(これあるべく)被仰出(おほせいだされ)候事(そろこと)』

明治(めいぢ)元年(ぐわんねん)七月(ぐわつ)、政府(せいふ)は浦上(うらかみ)及(およ)び長崎(ながさき)の信者(しんじや)百三十名(めい)を捕(とら)へ、敎(をしへ)を棄(す)てざる者(もの)は慘酷(ざんこく)なる栲門(がうもん)に掛(か)け、肥前(ひぜん)大村(おほむら)五島(たう)の端々(はしばし)まで布告(ふこく)し、頻(しきり)に信者(しんじや)を捕(とら)へ、四百餘人(よにん)を監獄(かんごく)に繫(つな)ぎ、食物(しよくもつ)を充分(じゆうぶん)に與(あた)へず、笞刑(ちけい)に處(しよ)した。大村(おほむら)の監獄(かんごく)に繫(つな)がれた百二十三名(めい)の信者(しんじや)の中(うち)、一年間(ねんかん)に飢(うえ)て死(しに)たる者(もの)四十五名(めい)あつたといふ。同年(どうねん)閏(うる)四月(ぐわつ)之等(これら)の信徒(しんと)は、加賀(かが)、薩摩(さつま)以下(いか)三十四藩(はん)に預(あづ)けられた。明治(めいぢ)二年(ねん)十一月(ぐわつ)政府(せいふ)は、大村(おほむら)藩士(はんし)渡邊昇(わたなべのぼる)を長崎(ながさき)に遣(つかは)し、信徒(しんと)を捕縛(ほばく)し禁令(きんれい)を嚴(げん)にせしめ、尋(つい)で議與(ぎよ)木戸(きど)準(じゆん)一郎(らう)を長崎(ながさき)に遣(つかは)し、敎徒(けうと)として逮捕(たいほ)したる三千七百餘人(よにん)を諸藩(しよはん)に配附(はいふ)し、之(これ)を説諭(せつゆ)して信仰(しんかう)を棄(す)てしめんと圖(はか)りしが、彼等(かれら)は皆(み)な刑(けい)を畏(おそ)れず、一人(にん)も説諭(せつゆ)に從(したが)ふものは無(な)かつた。
 新敎(しんけう)信徒(しんと)にして當時(たうじ)捕縛(ほばく)せられしは、英國(えいこく)聖公會(せいこうくわい)宣敎師(せんけうし)エンソー氏(し)より洗禮(せんれい)を受(う)けた二川(ふたかは)一騰(たう)(小島一騰と稱し今尚存命)氏(し)であつた。氏(し)は明治(めいぢ)三年(ねん)三月(ぐわつ)、入浴(にふよく)の歸路(きろ)、突然(とつぜん)逮捕(たいほ)せられ獄(ごく)に投(とう)ぜられ、在監(ざいかん)二年(ねん)の後(のち)漸(やうや)く放免(はうめん)された。また組合(くみあひ)敎会(けうくわい)宣敎師(せんけうし)ギユリキ氏(し)の邦語(はうご)敎師(けうし)、市川(いちかは)英之介(えいのすけ)氏(し)も捕(とら)へられ入牢(にふらう)を命(めい)ぜられた。氏(し)は在監中(ざいかんちゆう)病死(びやうし)したさうである。

三、邪宗門禁制の撤去

 是(これ)より先(さき)、明治(めいぢ)政府(せいふ)は幕府(ばくふ)の邪宗門(じやしうもん)禁制(きんせい)の高札(かうさつ)を繼承(けいしよう)して、全國(ぜんこく)各地(かくち)に掲示(けいじ)せしが、外國(ぐわいこく)公使(こうし)より、西洋(せいやう)一般(ぱん)の宗敎(しうけう)たる耶蘇敎(やそけう)に附(ふ)するに、邪(じや)の文字(もじ)を附(ふ)するは、不都合(ふつがふ)なりと難詰(なんきつ)せられたので、明治(めいぢ)三年閏(ねんうる)四月(ぐわつ)、僅(わづか)に其(その)法文(はふぶん)を改(あらた)めた、當時(たうじ)の布告(ふこく)に曰(いは)く、
 先般(せんぱん)御布告(ごふこく)有之候(これありそろ)切支丹(きりしたん)宗門(しうもん)は、年來(ねんらい)堅(かた)く御制禁(ごせいきん)に有之(これあり)候(そろ)處(ところ)、其他(そのほか)邪宗門(じやしうもん)の儀(ぎ)も總(すべ)て堅(かた)く被禁候(きんぜられそろ)に付(つ)きては、混淆(こうかう)いたし心得(こゝろえ)違(ちがひ)有之候(これありそろ)ては不宜(よろしからず)候(そろ)に付(つ)き、此度(このたび)別紙(べつし)の通(とほ)り相改(あひあらた)め候條(そろでう)、早々(さうさう)製本(せいほん)調替(しらべかへ)可有(あるべく)掲示(けいじ)候(そろ)事(こと)。

一、切支丹(きりしたん)宗門(しうもん)の儀(ぎ)は是迄(これまで)御制禁(ごせいきん)の通(とほ)り堅(かた)く可相守(あひまもるべき)事(こと)

一、 邪宗門(じやしうもん)の儀(ぎ)は堅(かた)く禁止(きんし)候事(そろこと)

然(しか)し是(これ)は唯(た)だ文字(もじ)を改(あらた)めたに過(す)ぎぬ。政府(せいふ)は依然(いぜん)として耶蘇敎(やそけう)を國禁(こくきん)とするの政策(せいさく)を墨守(ぼくしゆ)した。然(しかし)ながら浦上(うらかみ)の敎徒(けうと)逮捕(たいほ)の事(こと)ありてより、佛國(ふつこく)公使(こうし)を初(はじ)め英米(えいべい)公使等(こうしら)の異論(いろん)抗議(かうぎ)は、鋒鋩(はうぼう)甚(はなは)だ鋭(するど)くなつたので、遉(さすが)の耶蘇敎(やそけう)退治(たいぢ)に鋭意(えいい)なりし政府(せいふ)も、是(こゝ)に於(おい)て餘儀(よぎ)なくも方針(はうしん)を一變(ぺん)して寛和(くわんわ)政略(せいりやく)を取(と)るに至(いた)つた。明治(めいぢ)参年(ねん)正月(しやうぐわつ)十七日(にち)外務省(ぐわいむしやう)は左(さ)の布告(ふこく)を發(はつ)した。

『長崎(ながさき)近傍(きんばう)、浦上村(うらかみむら)之(の)者共(ものども)、外國(ぐわいこく)敎師(けうし)の蜜々(みつみつ)の勸誘(くわんいう)するに迷(まよ)ひ、切支丹(きりしたん)宗(しう)信仰(しんかう)致(いた)し、追々(おひおひ)多人數(たにんず)に及(およ)び漸(やうや)く不法(ふはふ)之(の)所爲(しよゐ)有之(これある)に由(よ)り、同縣(どうけん)へ更(さら)に御下命(ごかめい)有之(これあり)、右(みぎ)切支丹(きりしたん)宗(しう)に迷(まよ)ひ候(そろ)者共(ものども)を各藩(かくはん)へ御分配(ごぶんぱい)相成(あひなり)候(そろ)、抑(そもそも)右(みぎ)に付(つい)ては、是迄(これまで)各國(かくこく)公使(こうし)と文書(ぶんしよ)の往復(わうふく)、且(かつ)應接(おうせつ)も數回(すうくわい)に及(およ)び其(その)趣意(しゆい)は、彼(かれ)より我(わが)政府(せいふ)に於(おい)て、今度(こんど)専(もつぱ)ら嚴酷(げんこく)之(の)沙汰(さた)を以(もつ)て宗徒(しうと)を所置(しよち)し、子(こ)をも同様(どうやう)移轉(いてん)せしめ候(そろ)ては、一昨年來(さくねんらい)の約束(やくそく)に相違(さうゐ)し、寛恕(くわんじよ)之(の)所分(しよぶん)に無之(これなく)、左候(さそろ)ては全(ぜん)外國(ぐわいこく)一般(ぱん)信仰(しんかう)之(の)敎宗(けうしう)を侮辱(ぶじよく)するに近(ちか)く、互(たがひ)に宗旨(しうし)の論(ろん)に渉(わたり)候(そろ)様(やう)云々(うんうん)申立(まをしたて)、彼我(ひが)の見込(みこみ)大(おほい)に相違(さうゐ)致(いた)し居(をり)、外國(ぐわいこく)の交際(かうさい)是(これ)より敗(やぶ)れ、國家(こくか)の御爲(おんため)不容易(よういならざる)大事(だいじ)をも可引興(ひきおこすべき)場合(ばあひ)に立至(たちいたり)候間(そろあひだ)、我(われ)よりは事緒(じちよ)萬端(ばんたん)切(せつ)に辯解(べんかい)し、且(かつ)宗民共(しうみんとも)其儘(そのまゝ)難差置(さしおきがたき)次第(しだい)は、他邦(たはう)の敎(をしへ)を信仰(しんかう)し我(わが)神明(しんめい)を侮辱(ぶじよく)し、政府(せいふ)之(の)命(めい)に背叛(はいはん)致(いた)し、官員(くわんいん)に對(たい)し暴動(ぼうどう)の振舞(ふるまひ)に及(および)候事(そろこと)一も許(ゆる)すべからず、從來(じゆうらい)の法典(はふでん)に依(よつ)て所置(しよち)致(いた)し候得者(さふらえば)、重(おも)き刑科(けいくわ)にも可處(しよすべき)之(の)処(ところ)、兼(かね)て各國(かくこく)公使(こうし)へ切支丹(きりしたん)宗門(しうもん)の儀(ぎ)に付(つい)ては、約束(やくそく)の趣(おもむき)も有之(これあり)候(そろ)間(あひだ)、御交際(ごかうさい)上(じやう)に取(とり)格別(かくべつ)の寛典(くわんてん)を以(もつ)て刑外(けいぐわい)之(の)處置(しよち)を施(ほどこ)し、住居(ぢゆうきよ)を移(うつ)し幾重(いくへ)にも誨導(くわいだう)説諭(せつゆ)し、尊上(そんじやう)改善(かいぜん)之(の)道(みち)に遷(かへ)らしめんとす、尤(もつと)も無罪(むざい)之(の)妻子(さいし)云々(うんうん)之(の)儀(ぎ)は、是亦(これまた)我(わが)政府(せいふ)に於(おい)ては別段(べつだん)着意(ちやくい)埀憐(すゐれん)致(いた)し、一家(か)別離(べつり)之(の)患(うれひ)なからしめんとする所(ところ)にて、舊來之(きうらいの)國法(こくはふ)を守(まもり)候時(そろとき)は右様之儀(みぎやうのぎ)は無之(これなく)、此上(このうへ)藩々(はんはん)預置(あづけおき)候所(そろところ)にて、其者(そのもの)相當(さうたう)の産業(さんげふ)に就(つか)しめ、田盧(でんろ)を與(あた)へ苦難(くなん)の患(うれひ)なく活計(くわつけい)不差支(さしつかへざる)様(やう)可致旨(いたすべきむね)、反覆(はんぷく)説明(せつめい)致候處(いたしそろところ)、各公使(かくこうし)に於(おい)ても初(はじ)めて了解(れうかい)致候旨(いたしそろむね)申立候(まをしたてそろ)間(あひだ)、敎諭(けうゆ)之(の)儀(ぎ)は太政官(だじやうくわん)より御布告(ごふこく)之(の)通(とほ)り、一轍(てつ)可相成(あひなるべく)候得共(さふらえども)、右(みぎ)應接(おうせつ)の趣意(しゆい)は、諸藩(しよはん)にても相違(さうゐ)不致(いたさゞる)様(やう)可被相心得(あひこゝろえらるべく)候事(そろこと)』

明治(めいぢ)四年(ねん)十二月(ぐわつ)、歐米(おうべい)の文物(ぶんぶつ)制度(せいど)視察(しさつ)及(および)條約(でうやく)改正(かいせい)談判(だんぱん)の爲(た)め、橫濱(よこはま)を出帆(しゆつぱん)したる特命(とくめい)全權(ぜんけん)公使(こうし)岩倉具視(いはくらともみ)の一行(かう)は、歐米(おうべい)至(いた)る所(ところ)に於(おい)て、日本(にほん)は信敎(しんけう)自由(じいう)を與(あた)へざるざる野蠻國(やばんこく)なり、日本(にほん)政府(せいふ)が無罪(むざい)の基督(きりすと)敎徒(けうと)を迫害(はくがい)するは、沒(ぼつ)人道(じんだう)の行爲(かうゐ)なりとの輿論(よろん)の痛棒(つうぼう)に逢(あ)ひ、基督敎(きりすとけう)を國禁(こくきん)にすることは對等(たいとう)條約上(でうやくじやう)に不利(ふり)と認(みと)め、匇惶(そうくわ)留守(るす)の政府(せいふ)に電報(でんぽう)を發(はつ)し、基督敎(きりすとけう)禁制(きんせい)の高札(かうさつ)を撤去(てつきよ)し、各藩(かくはん)に預(あづ)けある基督(きりすと)敎徒(けうと)を放免(はうめん)すべしと通達(つうたつ)した。明治(めいぢ)六年(ねん)、基督敎(きりすとけう)禁制(きんせい)の高札(かうさつ)は撤去(てつきよ)せられた。また各藩(かくはん)にありし基督(きりすと)敎徒(けうと)を赦免(しやめん)し、其(その)歸村(きそん)を許(ゆる)し、且(かつ)金(かね)を與(あた)へて家屋(かをく)及(および)田地(でんぢ)を修復(しうふく)するの料(れう)に供(きよう)せしめ、各國(かくこく)公使(こうし)に基督敎(きりすとけう)解禁(かいきん)の事(こと)を通告(つうこく)した。是(こ)れ實(じつ)に明治(めいぢ)六年(ねん)參月(ぐわつ)の事(こと)であった。斯(かく)の如(ごと)くにして、明治(めいぢ)政府(せいふ)は基督敎(きりすとけう)に對(たい)する迫害(はくがい)に就(つ)き、創業(さうげふ)より未(いま)だ數年(すうねん)ならざるに、初心(しよしん)を飜(ひるがへ)して緩和(くわんわ)政略(せいりやく)を取(と)るに至(いた)つた。當時(たうじ)政府(せいふ)は、曾(かつ)て公然(こうぜん)天下(てんか)に布告(ふこく)して嚴禁(げんきん)したる基督敎(きりすとけう)を、解禁(かいきん)したる事(こと)の何等(なんら)の布告(ふこく)を下(くだ)さず、陰然(いんぜん)たる默許(もくきよ)の方法(はうはふ)によりたるが、明治(めいぢ)二十二年(ねん)發布(はつぷ)の憲法(けんぱふ)に依(よつ)て確證(かくしよう)せられたる信敎(しんけう)の自由(じいう)は、既(すで)に此時(このとき)に於(おい)て獲得(くわくとく)せられたるものと云(い)ふべく、而(しか)して此(この)自由(じいう)を獲(と)るに至(いた)りしは、監督(かんとく)ウイリアムス師(し)の陰然(いんぜん)たる運動(うんどう)、また與(あづか)つて力(ちから)ありしことは、左(さ)の事實(じじつ)にりより知(し)らるゝのである。

四、基督敎解禁と監督の盡力

 是(これ)より先(さき)、監督(かんとく)が米國(べいこく)に歸(かへ)るや、當時(たうじ)我國(わがくに)にありし外國人(ぐわいこくじん)は、監督(かんとく)に託(たく)して米國(べいこく)合衆國(がつしゆうこく)政府(せいふ)に向(むか)ひ、英國(えいこく)政府(せいふ)と協力(けふりよく)し、日本(にほん)政府(せいふ)に勸告(くわんこく)して、基督敎(きりすとけう)禁制(きんせい)の法律(はふりつ)を撤去(てつきよ)せしめんことの陳情(ちんじやう)をなさんとした。監督(かんとく)は慶應(けいおう)二年(ねん)十一月(ぐわつ)、米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)外國傳道(ぐわいこくでんだう)委員(ゐゐん)と謀(はか)り、陳情書(ちんじやうしよ)を携(たづさ)へてワシントン府(ふ)に至(いた)り、同市(どうし)現(げん)異邦(いはう)敎會(けうくわい)牧師(ぼくし)ホール博士(はかせ)と倶(とも)に、之(これ)を政府(せいふ)に提出(ていしゆつ)した。此(これ)に對(たい)し米國(べいこく)政府(せいふ)の答辯(たふべん)は、國務卿(こくむきやう)より送(おく)り來(きた)つた、其文(そのぶん)に、「此(この)件(けん)に關(くわん)して我(わが)政府(せいふ)は何等(なんら)活動的(くわつどうてき)の處置(しよち)に出(い)づるには、時期(じき)尚早(なほはや)しと認(みと)むれども、速(すみや)かに日本(にほん)在留(ざいりう)の公使(こうし)に訓令(くんれい)して、此(この)問題(もんだい)を調査(てうさ)せしむべく、而(しかう)して我(わが)公使(こうし)が其(その)目的(もくてき)を達(たつ)するの見込(みこみ)ありと認(みと)むるに於(おい)ては、英國(えいこく)女皇(ぢよわう)陛下(へいか)の代表者(だいへうしや)と力(ちから)を戮(あは)せて、日本(にほん)に於(お)ける基督敎(きりすとけう)の禁令(きんれい)を撤去(てつきよ)せしむるに努力(どりよく)せんことを命(めい)ずべし」と云(い)ふにあつた。
 左(さ)に掲(かゝ)ぐるものは、監督(かんとく)が支那(しな)日本(にほん)傳道(でんだう)監督(かんとく)として、支那(しな)に歸(かへ)られた後(のち)に認(したた)められた書簡(しよかん)であつて、中(うち)に日本(にほん)駐在(ちゆうざい)米國(べいこく)公使(こうし)ヴアン、ヴハルケンボルグ[#ハは小文字]將軍(しやうぐん)が、監督(かんとく)の書状(しよじやう)に對(たい)して送(おく)られた答書(たふしよ)が記載(きさい)されてある。此(この)問題(もんだい)に關(くわん)する消息(せうそく)を知(し)るに足(た)るものである。

『余(よ)は我(わが)公使(こうし)に向(むか)つて、曩(さき)に大統領(だいとうりやう)に提出(ていしゆつ)せられたる情願(せいがん)の結果(けつくわ)として、日本(にほん)に於(おい)て執(と)られたる處置(しよち)如何(いかん)を問(と)ひ、且(かつ)同國(だうこく)に於(おい)て傳道(でんだう)事業(じげふ)の活動(くわつどう)を始(はじ)むるの可否(かひ)に關(くわん)して、公使(こうし)の意見(いけん)を求(もと)めしに公使(こうし)は十二月(ぐわつ)廿八日(にち)(千八百六十八年(ねん))附(つけ)を以(もつ)て、左(さ)の如(ごと)き返信(へんしん)を送(おく)られたり。

「汽船(きせん)コスタリカにて御手紙(おてがみ)正(まさ)に受取(うけとり)候(そろ)、御尋(おたづ)ねの事柄(ことがら)に就(つ)きては、余(よ)は貴下(きか)の御申越(おんまうしこし)の傳道(でんだう)會社(くわいしや)の請願(せいがん)を載(の)せたる、セワード氏(し)の手紙(てがみ)を受(う)くるに先(さきだ)ちて、既(すで)に日本(にほん)の先帝(せんてい)陛下(へいか)の政府(せいふ)に對(たい)して、基督敎(きりすとけう)迫害(はくがい)の問題(もんだい)及(および)基督敎(きりすとけう)を禁(きん)ずる法令(はふれい)に關(くわん)して一書(しよ)を致(いた)し、爾來(じらい)今日(こんにち)に至(いた)る迄(まで)、數回(すうくわい)此國(このくに)の官憲(くわんけん)と商議(しやうぎ)し、更(さら)に近日(きんじつ)は新政府(しんせいふ)に向(むか)つて、此(この)問題(もんだい)の協商(けふしやう)を開(ひら)き居候(をりそろ)。最近(さいきん)の會見(くわいけん)は余(よ)が貴下(きか)の書(しよ)を受(う)けたる僅(わず)か二日(か)前(まへ)に有之候(これありそろ)。余(よ)は今日(こんにち)迄(まで)此(この)問題(もんだい)に對(たい)して數通(すうつう)の書(しよ)を日本政府(にほんせいふ)に致(いた)し、以(もつ)て彼等(かれら)の偏見(へんけん)を解(と)く爲(た)めになし得(え)たる處(ところ)、既(すで)に少(すくな)からずと信(しん)じ候(そろ)。彼等(かれら)は甚(はなは)だ公平(こうへい)なる約束(やくそく)をなし、愈々(いよいよ)茲(こゝ)數日(すうにち)の中(うち)に最後(さいご)の回答(くわいたふ)を送(おく)るべく同意致候(どういゝたしそろ)。余(よ)は其(その)結果(けつくわ)の良好(りやうかう)ならんことを希望致(きばういたし)候得共(そうらえども)、彼等(かれら)の偏見(へんけん)と頑冥(ぐわんめい)に打勝(うちか)つことの困難(こんなん)なるは、何人(なにびと)も知(し)る能(あた)はざる所(ところ)に候(そろ)。余(よ)は此(この)努力(どりよく)に於(おい)て大(おほひ)に我(わ)が同輩(どうはい)なる諸外國(しよぐわいこく)公使(こうし)の援助(えんじよ)を得候(えそろ)、諸氏(しよし)亦(また)等(ひと)しく此事件(このじけん)に關心(くわんしん)せられ候(そろ)。
若(も)し夫(そ)れ貴下(きか)の滯在地(たいざいち)に於(おい)て、何等(なんら)かの新(あたら)しき事件(じけん)生(しやう)ずる時(とき)は、其事實(そのじじつ)を拙者(せつしや)に御報道(ごほうだう)相成度(あいなりたく)、余(よ)は事實(じじつ)に基(もとづ)いて談判(だんぱん)致(いた)さんと欲(ほつ)し候(そろ)(氏(し)が斯(か)く云(い)はるゝは余(よ)を長崎(ながさき)に滯在(たいざい)すと信(しん)ぜられしに由(よ)る)差當(さしあた)りては各地(かくち)に於(おい)て、貴下(きか)の所謂(いはゆる)傳道(でんだう)事業(じげふ)の活動(くわつどう)を始(はじ)むることは、安全(あんぜん)ならずと信(しん)じ候(そろ)。此(この)問題(もんだい)の解決(かいけつ)せざる間(あひだ)は、進撃的(しんげきてき)傳道(でんだう)は偶々(たまたま)以(もつ)て焔(ほのほ)に油(あぶら)を添(そ)ゆる如(ごと)きものに可有之候(これあるべくそろ)、且(か)つ恐(おそら)らくは人民(じんみん)をして、信敎(しんけう)の全(まつた)き自由(じいう)を得(え)せしむる希望(きばう)有之候(これありそろ)に付(つ)き、其時(そのとき)こそ貴下等(きから)の働(はたらき)をせらるべき時(とき)と存候(ぞんじそろ)。此(この)最(もつと)も望(のぞ)ましき状態(じやうたい)に至(いた)らしめんが爲(た)めには、余(よ)は有(あ)らゆる方法(はうはふ)を盡(つく)すに吝(やぶさか)ならざることを御信用(ごしんよう)被下度候(くだされたくそろ)」

右(みぎ)の次第(しだい)なるを以(もつ)て、久(ひさ)しからずして日本(にほん)に於(お)ける基督敎(きりすとけう)の解禁(かいきん)を得(え)べきことを望(のぞ)むに、最(もつと)も有力(いうりよく)なる根據(こんきよ)有之(これあり)、我(わ)が公使(こうし)が之(これ)が爲(た)めに努力(どりよく)せらるゝことは、確(たし)かに全(ぜん)基督(きりすと)敎徒(けうと)の感謝(かんしや)を受(う)くるに値(あたひ)することに候(そろ)、我(わ)が公使(こうし)は此(この)協商(けふしやう)に於(おい)て必(かなら)ず成功(せいこう)せらるべし』

監督(かんとく)は斯(か)く前途(ぜんと)の有望(いうばう)を報(ほう)じ、更(さら)に熱烈(ねつれつ)の語(ことば)を以(もつ)て日本(にほん)傳道(でんだう)を訴(うつた)へられた。

『乍去(さりながら)、解禁(かいきん)の曉(あかつき)に於(おい)て日本(にほん)に渡(わた)り、十字架(じか)の旗(はた)を其土(そのど)に立(た)て、我等(われら)の主(しゆ)の名(な)に於(おい)て此國(このくに)を占領(せんりやう)する爲(ため)に、往(ゆ)くべき人(ひと)は果(はた)して誰(たれ)なりや、我(わ)が敎會(けうくわい)は此(この)善(よ)き働(はたら)きを助(たす)くる爲(た)めに、何(なん)の爲(な)す所(ところ)なかるべきか、我(わ)が外國(ぐわいこく)傳道(でんだう)委員(ゐゐん)は、有力(いうりよく)なる奬勵(しようれい)の檄(げき)を發(はつ)して、一個(こ)或(あるひ)は數個(すうこ)の敎會(けうくわい)が、日本(にほん)に於(お)ける一宣敎師(せんけうし)を支持(しぢ)することを企(くはだつ)るを奬(すゝ)めざるべきや、一人(ひとり)の宣敎師(せんけうし)及(および)一人(ひとり)の醫師(いし)にして、妻子(さいじ)なき人(ひと)を支持(しぢ)する如(ごと)きは、何等(なんら)の苦痛(くつう)をも感(かん)ぜざる敎會(けうくわい)尠(すくな)からず、否(い)な斯(かく)の如(ごと)きは紐育(ニユヨーク)の富豪(ふがう)に取(と)りても、極(きは)めて些(さ)々たることにあらずや。願(ねがは)くは此(この)最(もつと)も興味深(きやうみふか)き國民(こくみん)の爲(た)めに、爲(な)し得(え)べきことあらば、次便(じべん)の書簡(しよかん)にて余(よ)に申越(まうしこ)されんことを。』

更(さら)に師(し)は一千八百七十年(ねん)(明治(めいぢ)三年(ねん))一月(ぐわつ)、此(この)問題(もんだい)に就(つ)いて大阪(おほさか)に於(おい)て、英國(えいこく)公使(こうし)パークス氏(し)と會談(くわいだん)せられた。

『我(わ)が傳道(でんだう)會社(くわいしや)最近(さいきん)の會議(くわいぎ)に採用(さいよう)せられたる決議(けつぎ)の條項中(でうこうちう)に、「日本(にほん)政府(せいふ)が公然(こうぜん)基督敎(きりすとけう)を信(しん)ずる者(もの)を死罪(しざい)に處(しよ)することに關(くわん)する法律(はふりつ)の撤回(てつくわい)せられんが爲(た)め、日本(にほん)に於(お)ける合衆國(がつしゆうこく)の代表者(だいへうしや)を通(つう)じて、適當(てきたう)と認(みと)むる方法(はうはふ)を執(と)らんことを、外國(ぐわいこく)傳道(でんだう)委員(ゐゐん)に要求(えうきう)す」との一項(こう)あるを見(み)て、拙者(せつしや)は喜(よろこ)び禁(きん)ぜざる思(おも)ひに候(そろ)。必(かなら)ずや我(わが)外國(ぐわいこく)傳道(でんだう)委員(ゐゐん)は、此(この)勸告(くわんこく)を容(い)れて該(がい)法律(はふりつ)の廢棄(はいき)の爲(た)めに、再(ふたゝ)び請願(せいがん)を我(わが)大統領(だいとうりやう)に致(いた)し、或(あるひ)は更(さら)に適當(てきたう)と認(みと)むる方策(はうさく)を執(と)らるゝことゝ信(しん)じ候(そろ)。曩(さき)に提出(ていしゆつ)せられたる請願(せいがん)は必(かなら)ず善(よ)き效果(こうくわ)を有(いう)したりとは信(しん)じ候得共(そうらえども)、我等(われら)は其儘(そのまゝ)にて止(や)むべきに非(あら)ず、我等(われら)は更(さら)に現政府(げんせいふ)に請願(せいがん)して、 日本(にほん)に於(を)ける排(はい)基督敎(きりすとけう)の法律(はうりつ)の廢棄(はいき)を日本(にほん)政府(せいふ)に要求(えうきう)することを繼續(けいぞく)する樣(やう)、我(わ)が新公使(しんこうし)に訓令(くんれい)せられんことを請(こ)ふべきにて候(そろ)。拙者(せつしや)は前週(ぜんしゆう)英國(えいこく)公使(こうし)パークス氏(し)が大阪(おほさか)に來(こ)られし際(さい)之(これ)を訪問(ほうもん)し、日本(にほん)に於(お)ける外敎(ぐわいけう)寬容(くわんよう)の問題(もんだい)に就(つい)て、同氏(どうし)と凡(およ)そ一時間(じかん)の最(もつと)も興味(きようみ)ある會談(くわいだん)を致候(いたしそろ)。パークス氏(し)の云(い)ふ所(ところ)によれば、日本(にほん)の現政府(げんせいふ)は、之(これ)を以(もつ)て其處理(そのしより)すべき最大(さいだい)難問(なんもん)の一と思惟(しゐ)する樣子(やうす)に候(そろ)。即(すなは)ち日本人(にほんじん)中(ちゆう)外人(ぐわいじん)及(およ)び外國(ぐわいこく)貿易(ばうえき)に對(たい)して厚意(こうい)を有(いう)する人々(ひとびと)すらも、基督敎(きりすとけう)に對(たい)しては痛(いた)く反感(はんかん)を抱(いだ)き居候(をりそろ)、勿論(もちろん)、彼等(かれら)の反對(はんたい)は理由(りいう)なきことには候得共(そうらえども)、彼等(かれら)は今尚(いまなほ)第(だい)十六世紀(せいき)に於(おい)て、羅馬(ろうま)得力(カトリツク)敎徒(けうと)が此國(このくに)の政治(せんぢ)に干渉(かんせう)したるが爲(た)めに、此國(このくに)より驅逐(くちく)せられし顛末(てんまつ)を昨日(さくじつ)の如(ごと)くに考(かんが)へ居候(をりそろ)。彼等(かれら)の基督敎(きりすとけう)を嫌惡(けんあく)するは、全(まつた)く傳説的(でんせつてき)のものなれども、而(しか)も甚(はなは)だ強(つよ)き反感(はんかん)に有之候(これありそろ)。パークス氏(し)は或(ある)日本人(にほんじん)の出版(しゆつぱん)したる一小書子(せうしよし)を有(いう)し居(を)られ、其(その)著者(ちよしや)は主義(しゆぎ)に於(おい)ては自由(じゆう)貿易論者(ぼうえきろんしや)たり、外國(ぐわいこく)との交際(こうさい)に反對(はんたい)せざるものなれども、只(ただ)茲(こゝ)に一事(じ)の好(この)まざるものあり、他(ほか)なし外國人(ぐわいこくじん)が彼等(かれら)の宗敎(しうけう)を持(も)ち來(きた)らんことなり、之(こ)れ我(わ)が全力(ぜんりよく)を以(もつ)て反對(はんたい)せんとする處(ところ)にして我(われ)は決(けつ)して外敎(ぐわいけう)の此國(このくに)に入(はい)ることを許(ゆる)す可(べか)らざるなりと申居候(まうしをりそろ)。
 パークス氏(し)の意見(いけん)にては、未(いま)だ公然(こうぜん)此(この)敎(をしへ)を宣傳(せんでん)せざるを可(か)とし、只(たゞ)靜(しづか)に此國語(このこくご)を學(まな)び、且(か)つ議論(ぎろん)にて佛敎僧(ぶつけうそう)に會(くわい)するの準備(じゆんび)をなすに止(とゞ)まるを得策(とくさく)とすとのことに候(そろ)。然(しか)れば吾人(ごじん)は此國人(このこくじん)の精神(せいしん)が基督敎(きりすとけう)に對(たい)して、好意(かうい)を有(いう)するに至(いた)る迄(まで)には、更(さら)に若干(じやくかん)の時日(じゞつ)を假(か)さゞる可(べか)らず。パークス氏(し)の意見(いけん)にては茲(こゝ)一二年(ねん)を出(いで)ずして、政府(せいふ)は基督敎(きりすとけう)を寬容(くわんよう)するに至(いた)るべき見込(みこみ)に候(そろ)。而(しか)して又(また)一方(ぱう)に於(おい)て、吾人(ごじん)は聖書(せいしよ)其他(そのた)の書籍(しよせき)を頒布(はんぷ)して、彼等(かれら)の心(こゝろ)を醒覺(せいかく)し得(え)べく、且(か)つ我等(われら)に接觸(せつしよく)し來(きた)る人々(ひとびと)を竊(ひそ)かに敎訓(けうくん)し得(え)べく候(そろ)。十人(にん)二十人(にん)の日本人(にほんじん)の怩懇者(ぢつこんしや)を拙者(せつしや)の宅(たく)に招(まね)きて、禮拜(れいはい)をなし、且(か)つ彼等(かれら)に敎(をし)ふることは、何(なん)の差支(さしつかへ)も無(な)かるべしとのことに候(そろ)。パークス氏(し)は去(さ)るに臨(のぞ)みて、此(この)問題(もんだい)に最(もつと)も深(ふか)き關心(くわんしん)を有(いう)することを告(つ)げられ、且(か)つ基督敎(きりすとけう)の寛容(くわんよう)を得(え)んが爲(た)めに、自己(じこ)の權内(けんない)に於(おい)て有(あ)らゆる手段(しゆだん)を盡(つく)すべきことを、其後(そののち)書面(しよめん)にて申來(まうしきた)られ候(そろ)。然(しか)ればパークス氏(し)の盡力(じんりよく)にして若(も)し合衆國(がつしうこく)公使(こうし)の援助(えんじよ)あらば、更(さら)に成功(せいかう)の見込(みこみ)多(おほ)かるべしと存候(そんじそろ)』

明治(めいぢ)六年(ねん)二月(ぐわつ)十九日(にち)、政府(せいふ)は基督敎(きりすとけう)禁制(きんせい)の高札(かうさつ)を撤去(てつきよ)し、同(どう)三月(ぐわつ)各藩(かくはん)にありし基督(きりすと)敎徒(けうと)を赦免(しやめん)したるが、此(これ)は政府(せいふ)當局者(たうきよくしや)が基督敎(きりすとけう)に對(たい)する偏見(へんけん)誤解(ごかい)が氷解(ひようかい)したるが爲(ため)ではなく、全然(ぜんぜん)國際的(こくさいてき)政治的(せいぢてき)の意味(いみ)よりかゝる緩和(くわんわ)政略(せいりやく)を取(と)るに至(いた)つたのである。當時(たうじ)政府(せいふ)は外國(ぐわいこく)に對(たい)しては、日本(にほん)は基督敎(きりすとけう)を寬容(くわんよう)したるものゝ如(ごと)く修飾(つくろ)ひ、基督敎(きりすとけう)其(その)ものに對(たい)しては、依然(いぜん)として邪宗門(じやしうもん)禁制(きんせい)の心(こゝろ)を有(いう)したのである。さればかく基督敎(きりすとけう)に對(たい)し口是(こうぜ)腹非(ふくひ)の政略(せいりやく)を取(と)つた政府(せいふ)は、當時(たうじ)基督敎(きりすとけう)公認(こうにん)の何等(なんら)の布告(ふこく)も發(はつ)せず、極(きわ)めて曖昧(あいまい)糢糊(もこ)のうちに、禁制(きんせい)の高札(かうさつ)を撤去(てつきよ)した、明治(めいぢ)六年(ねん)八月(ぐわつ)の報告中(ほうこくちう)、師(し)は當時(たうじ)の事(こと)に就(つい)て記(しる)して曰(いは)く。

『日本(にほん)に於(お)ける宗敎(しうけう)寬容(くわんよう)は、我等(われら)が福音(ふくいん)を宣傳(せんでん)するに全(まつた)く自由(じゆう)ならざる故(ゆへ)に、願望(がんばう)せし所(ところ)のものにあらず候(さふら)へ共(ども)、なほ前年(ぜんねん)に比較(ひかく)せば、人意(じんい)を強(つよ)うするに足(た)るもの多(おほ)く有之候(これありそろ)。去(さ)る三月中(ぐわつちう)、橫濱(よこはま)よりの電報(でんぱう)は、政府(せいふ)は基督敎(きりすとけう)を解禁(かいきん)し寬容(くわんよう)したりと報(ほう)じ來(きた)り、又(ま)た同(どう)一の通信(つうしん)は本國(ほんごく)の諸(しよ)新聞紙(しんぶんし)に發表(はつぺう)せられ、此國(このくに)に於(おい)ても本國(ほんごく)に於(おい)ても大(だい)なる歡喜(くわんき)を喚起(くわんき)致(いた)し候(そろ)。乍併(しかしながら)此(これ)は大(だい)早計(そうけい)の事(こと)と存候(ぞんじそろ)。かゝる通信(つうしん)は政府(せいふ)が彼(か)の邪宗門(じやしうもん)信奉(しんほう)を嚴禁(げんきん)したる基督敎(きりすとけう)に對(たい)する法令(ほふれい)中(ちゆう)、最(もつと)も顯著(けんちよ)なる舊(ふる)き禁制(きんせい)の高札(かうさつ)を撤去(てつきよ)したるより、由來(ゆらい)したるものに候(そろ)。禁制(きんせい)の高札(かうさつ)を撤去(てつきよ)したることは之(こ)れ正當(せいたう)なる方向(はうこう)に一歩(ぽ)を進(すゝ)めたる事(こと)に候得共(そうらえども)、信敎(しんけう)自由(じゆう)を公認(こうにん)することゝは全然(ぜんぜん)異(こと)なるものに候(そろ)。然(しかし)ながら其後(そのご)間(ま)もなく政府(せいふ)は他(た)の布達(ふたつ)を發(はつ)して、制札(せいさつ)を撤去(てつきよ)したる理由(りゆう)を公示(こうし)したるには人々(ひとびと)驚(おどろ)き入(い)り申候(まうしそろ)。該(がい)布達(ふたつ)によれば、禁令(きんれい)は長(なが)き間(あひだ)公示(こうし)せられ、今(いま)や人民(じんみん)の熟知(じゆくち)する所(ところ)なれば、最早(もはや)掲示(けいし)の必要(ひつえう)なしと云(い)ふ事(こと)に候(そろ)。
 或(あるひ)る人々(ひとびと)は、政府(せいふ)は基督敎(きりすとけう)奉信(ほうしん)自由(じいう)を許(ゆる)す第(だい)一歩(ぽ)として、禁制(きんせい)の高札(かうさつ)を撤去(てつきよ)したるが、後(の)ち佛敎家(ぶつけうか)及(および)反基督敎家(はんきりすとけうか)の反對(はんたい)攻撃(こうげき)を恐(おそ)れて、更(さら)に第(だい)二の布達(ふたつ)を發(はつ)して、反對家(はんたいか)の要求(えうきう)を滿足(まんぞく)せしめ、彼等(かれら)に對(たい)する恐怖(きやうふ)を安(あ)んぜんとしたるなりと思惟(しい)致(いた)し候(そろ)。また他(た)の人々(ひとびと)は、彼(か)の嫌惡(けんあく)すべき禁制(きんせい)の高札(かうさつ)を撤去(てつきよ)したるは、之(これ)を以(もつ)て外國(ぐわいこく)公使(こうし)の心(こゝろ)を動(うご)かし、日本人(にほんじん)が最(もつと)も切望(せつばう)する條約(でうやく)を改正(かいせい)して日本(にほん)在住(ざいぢゆう)の外國人(ぐわいこくじん)は日本(にほん)の法律(はうりつ)に服從(ふくじゆう)すべしとの件(けん)に、同意(どうい)せしめんとする策略(さくりやく)にあらずやと、深(ふか)く疑念(ぎねん)を懷(いだ)き居候(おりそろ)。
基督敎(きりすとけう)に對(たい)する舊(ふる)き禁令(きんれい)は效力(かうりよく)を有(いう)すと布告(ふこく)しつゝ、同時(どうじ)に外國(ぐわいこく)使臣(ししん)をして日本(にほん)の法律(はうりつ)の下(もと)に外國民(ぐわいこくみん)を置(お)かんとの彼等(かれら)の要求(えうきう)に、同意(どうい)せしめんと望(のぞ)むも、到底(たうてい)能(あた)はざる事(こと)に候(そろ)。然(しかし)ながら是等(これら)は何(いづ)れも臆説(おくせつ)に外(ほか)ならず候(そろ)。何(なん)となれば政府(せいふ)は其(その)閣議(かくぎ)を秘密(ひみつ)にし、此件(このけん)に於(お)ける信據(しんきよ)すべき説明(せつめい)を與(あた)ふるを、至當(したう)と思考(しかう)せざる故(ゆへ)に候(そろ)。去(さ)りながら、其(その)説明(せつめい)は如何(いか)にあれ、その取(と)られたる政略(せいりやく)は、寧(むし)ろ日本(にほん)政府(せいふ)の善(よ)き信用(しんよう)を毀傷(きしやう)するものに候(そろ)。禁制(きんせい)の高札(かうさつ)を撤去(てつきよ)したることは、政府(せいふ)は、基督敎(きりすとけう)を奉信(ほうしん)するを以(もつ)て、大罪(たいざい)と見做(みな)す法律(はうりつ)を廢棄(はいき)する意向(いこう)ありと、人々(ひとびと)に思(おも)はしめ、而(しか)して第(だい)二の布達(ふたつ)は、政府(せいふ)の善意(ぜんい)に於(お)ける或(あ)るものゝ信任(しんにん)を、尠(すくな)からず損(そん)じ申候(まうしそろ)。』

五 日本專任監督

 基督敎(きりすとけう)禁制(きんせい)の高札(かうさつ)を撤廢(てつぱい)したるは、政府(せいふ)が外交(ぐわいかう)上(じやう)の政略(せいりやく)に由(よ)るものなりとはいへ、實際(じつさい)に於(おい)て茲(こゝ)に嚴禁(げんきん)の時代(じだい)終(をは)り、自由(じいう)に福音(ふくいん)を宣傳(せんでん)し得(う)る時期(じき)となりたれば、日本(にほん)の基督敎(きりすとけう)傳道(でんだう)に取(と)つては、正(まさ)に一新紀元(しんきげん)を開(ひら)かれたのである。是(これ)より、各派(かくは)の外國(ぐわいこく)傳道(でんだう)會社(くわいしや)は續々(ぞくぞく)男女(だんぢよ)の宣敎師(せんけうし)を我國(わがくに)に派遣(はけん)した。安政(あんせい)六年(ねん)より明治(めいぢ)五年(ねん)迄(まで)の十四年間(ねんかん)に、來任(らいにん)せし宣敎師(せんけうし)の總數(さうすう)は三十一名(めい)なりしが、基督敎(きりすとけう)解禁(かいきん)の此年中(このとしぢゆう)に、新(あらた)に來着(らいちやく)したる男女(だんぢよ)宣敎師(せんけうし)の總數(さうすう)は、十九名(めい)の多數(たすう)であつた。米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)傳道(でんだう)會社(くわいしや)よりは、五年(ねん)十二月(ぐわつ)ミラー、クインピー、六年(ねん)七月(ぐわつ)宣敎醫師(せんけういし)ラニング、六年(ねん)九月(ぐわつ)ニユーマン、同(どう)十二月(ぐわつ)クーバー、ブランシエー諸氏(しよし)を派遣(はけん)せられ、是等(これら)の諸氏(しよし)は大阪(おほさか)或(あるひ)は東京(とうきやう)に於(おい)て傳道(でんだう)に從事(じゆうじ)せらるゝことゝなつた。
基督敎(きりすとけう)嚴禁(げんきん)の時代(じだい)は已(すで)に去(さ)り、日本(にほん)の傳道界(でんだうかい)は色(いろ)づきて利鎌(とがま)を俟(ま)てり、而(しか)して美(うつく)しき成果(せいくわ)を收穫(しうくわく)するの希望(きばう)洋々(やうやう)たる際(さい)、新(あらた)に働(はたら)き人(びと)の來(きた)り加(くは)はりたれば、今(いま)や此(この)好機(かうき)を逸(いつ)せず、全力(ぜんりよく)を傾注(けいちゆう)して日本(にほん)傳道(でんだう)の爲(ため)に盡(つく)さゞるべからずとは、ウイリアムス監督(かんとく)が當時(たうじ)切(せつ)に感(かん)じたる所(ところ)である。故(ゆゑ)に師(し)は、此年(このとし)九月(ぐわつ)本國(ほんごく)に致(いた)したる報告(はうこく)と共(とも)に、此時(このとき)に當(あた)り日本(にほん)支那(しな)兩國(りやうごく)の諸敎會(しよけうくわい)を管轄(くわんかつ)せんとせば、徒(いたづら)に時日(じじつ)を長距離(ちやうきより)の旅行(りよかう)に費(つひや)し、而(し)かも何(いづ)れの職責(しよくせき)をも全(まつた)ふする能(あた)はざれば、宜(よろ)しく傳道(でんだう)管轄區(くわんかつく)を分割(ぶんかつ)して、日本(にほん)專任(せんにん)監督(かんとく)とし、支那(しな)の爲(ため)に新(あらた)に監督(かんとく)を任命(にんめい)すべしとの意見(いけん)を具陳(ぐちん)し、切(しきり)に傳道(でんだう)委員(ゐゐん)に訴(うつた)へられた。然(しか)るに本國(ほんごく)に於(おい)ても、此年(このとし)十月(ぐわつ)の傳道局(でんだうきよく)會議(くわいぎ)は、「日本(にほん)支那(しな)兩國(りやうこく)の傳道(でんだう)管轄區(くわんかつく)分割(ぶんかつ)の便宜(へんぎ)に關(くわん)し、外國(ぐわいこく)傳道(でんだう)委員(ゐゐん)と商議(しやうぎ)の上(うへ)、次會(じくわい)に報告(はうこく)せしむるために、委員(ゐゐん)を擧(あ)ぐる事(こと)」を決議(けつぎ)した。之(これ)は監督(かんとく)の請願(せいぐわん)に全(まつた)く關係(くわんけい)なく決議(けつぎ)されたのであつた。斯(か)くて監督(かんとく)は愈々(いよいよ)專心(せんしん)日本(にほん)傳道(でんだう)に從事(じゆうじ)すべく、明治(めいぢ)六年(ねん)十一月(ぐわつ)居(きよ)を東京(とうきやう)に移(うつ)された。翌年(よくねん)米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)總會(さうくわい)は、監督(かんとく)の請願(せいぐわん)を容(い)れ、傳道(でんだう)敎區(けうく)を分割(ぶんかつ)し、江戸監督(えどかんとく)の名稱(めいしよう)を以(もつ)て、師(し)を日本(にほん)專任(せんにん)監督(かんとく)とした。

 

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