第十編 東京時代

第十編 東京時代

一、傳道道事業の發展

 監督(かんとく)の日本(日本)傳道(でんだう)の第(だい)三期(き)東京時代(とうきやうじだい)は、大阪(おほさか)より居(きよ)を東京(とうきやう)にうつされたる明治(めいぢ)六年(ねん)十一月(ぐわつ)より、日本聖公會(にほんせいこうくわい)が組織(そしき)せられし(明治(めいぢ)二十年(ねん))後(のち)、監督職(かんとくしよく)を退(しりぞ)き(明治(めいぢ)二十二年(ねん)十月(ぐわつ))、更(さら)に京都(きやうと)地方部(ちはうぶ)に於(おい)て、長老(ちやうらう)の職務(しよくむ)を執(と)らるゝことゝなりし明治(めいぢ)二十八年(ねん)二月(ぐわつ)に至(いた)る迄(まで)である。此期間(このきかん)には、本國(ほんごく)傳道(でんだう)會社(くわいしや)より多(おほ)くの男女(だんぢよ)宣敎師(せんけうし)を、我國(わがくに)に派遣(はけん)せられたれば、東京(とうきやう)、大阪(おほさか)に於(お)ける現在(げんざい)の諸敎會(しよけうくわい)は創立(さうりつ)せられ、或(あるひ)は其(その)基礎(きそ)を置(お)かれ、學校(がくかう)病院(びやうゐん)は設立(せつりつ)せられ、新(しん)傳道地(でんたうち)は開始(かいし)せられて、大(おほい)に米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)傳道(でんだう)會社(くわいしや)の我國(わがくに)に於(お)ける傳道(でんだう)事業(じげふ)は發展(はつてん)した。此期間(このきかん)の師(し)が監督(かんとく)として在職(ざいしよく)十六年間(ねんかん)(明治六年十一月より同二十二年十月まで)に、師(し)の管轄(くわんかつ)の下(もと)に創始(さうし)せられたる傳道(でんだう)事業(じげふ)を略述(りやくじゆつ)すれば、明治(めいぢ)七年(ねん)二月(ぐわつ)築地(つきぢ)に講義所(かうぎしよ)を設(まう)け、同(どう)九年(ねん)品川(しながは)、駿河臺(するがだい)、神田(かんだ)、湯島(ゆしま)、淺草(あさくさ)等(とう)に傳道所(でんだうぢやう)を開(ひら)き、同(どう)十年(ねん)深川(ふかがは)大橋(おほはし)三一敎會(けうくわい)、同(どう)十一年(ねん)神田基督(かんだきりすと)敎會(けうくわい)、同(どう)十一年(ねん)川越(かわごゑ)、同(どう)十三年(ねん)古河(こが)、館林(たてばやし)、行德(ぎやうとく)に傳道(でんだう)を試(こゝろ)み、同(どう)十六年(ねん)立敎(りつけう)敎會(けうくわい)を起(おこ)し、同(どう)十八年(ねん)北多摩(きたたま)、熊谷(くまがひ)、寄居(よりゐ)に傳道(でんだう)を開始(かいし)し、同(どう)二十一年(ねん)幸手(さつて)の傳道(でんだう)に着手(ちやくしゆ)し、同(どう)二十一年(ねん)熊谷(くまがひ)聖保羅(せいぽうろ)敎會(けうくわい)、同(どう)二十二年(ねん)川越基督(かわごゑきりすと)敎會(けうくわい)を建設(けんせつ)し、同(どう)年(ねん)東京(とうきやう)聖愛(せいあい)敎會(けうくわい)、前橋(まえばし)聖(せい)マツテヤ敎會(けうくわい)の基礎(きそ)を置(お)かれた。
明治(めいぢ)七年(ねん)築地(つきぢ)居留地(きよりうち)に一學校(がくかう)を開(ひら)き、同(どう)十五年(ねん)校舍(かうしや)を新築(しんちく)し、立敎(りつけう)學校(がくかう)と稱(しよう)し、同(どう)八年(ねん)湯島(ゆしま)に女學校(ぢよがくかう)を創設(さうせつ)し、後(の)ち立敎(りつけう)女學校(ぢよがくかう)と稱(しよう)して、築地(つきぢ)居留地(きよりうち)に新校舍(しんかうしや)を建(た)てられた。明治(めいぢ)十七年(ねん)築地(つきぢ)及(およ)び深川(ふかがは)に施療所(せれうじよ)を開設(かいせつ)した。以上(いじやう)は東京(とうきやう)及(および)其附近(そのふきん)であるが、更(さら)に是(これ)より先(さき)、明治(めいぢ)四年(ねん)大阪(おほさか)古川町(ふるかはまち)に講義所(かうぎしよ)を設(まう)け、後(のち)の聖提摩太(せいてもて)敎會(けうくわい)(現今(げんこん)の川口(かはぐち)基督(きりすと)敎會(けうくわい))の基礎(きそ)を置(お)かれた。明治(めいぢ)五年(ねん)大阪(おほさか)に學校(がくかう)を開設(かいせつ)し、同(どう)十四年(ねん)英和學舍(えいわがくしや)と名稱(めいしよう)して居留地(きよりうち)に校舍(かうしや)を建築(けんちく)し、同(どう)八年(ねん)照暗(せうあん)女學校(ぢよがくかう)を起(おこ)し、同(どう)十五年(ねん)聖慰主(せいゐしゆ)敎會(けうくわい)、同(どう)十九年(ねん)聖保羅(せいぱうろ)敎會(けうくわい)、同(どう)二十年(ねん)聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)を創設(そうせつ)せられた。大阪(おほさか)附近(ふきん)に於(おい)ては、明治(めいぢ)八年(ねん)堺(さかひ)に傳道(でんだう)を試(こゝろ)み、同(どう)十四年(ねん)郡山(こおりやま)、和歌山(わかやま)、同(どう)十五年(ねん)五條(てう)、同(どう)十六年(ねん)奈良(なら)、百濟(くだら)、高田(たかだ)、田原本(たはらもと)、同(どう)二十年(ねん)京都(きやうと)、同(どう)二十一年(ねん)櫻井(さくらゐ)、橋本(はしもと)、松山(まつやま)、上市(かみいち)、大津(おほつ)に傳道(でんだう)を開始(かいし)せられた。明治(めいぢ)六年(ねん)大阪(おほさか)に施療所(せれうしよ)を開(ひら)き、同(どう)十六年(ねん)病院(びやうゐん)を新築(しんちく)せられた、之(こ)れ聖(せい)バルナバ病院(びやうゐん)である。明治(めいぢ)二十二年(ねん)奈良(なら)には英和(えいわ)學校(がくかう)が建(た)てられた。

二、監督在職中の宣敎師

 此期間(このきかん)師(し)が監督(かんとく)在職中(ざいしよくちゆう)に、我國(わがくに)に來任(らいにん)し師(し)の管轄(くわんかつ)の下(もと)に働(はたら)きたる宣敎師(せんけうし)は、ウイリアム、ビー、クーパー氏(し)(明治六年十一月來着 同 十五年三月辭職)、クレメント、チ、ブランシエー氏(し)(明治六年十一月來着 同十九年歸國)、エレン、ヂ、エデー孃(じやう)(明治七年十一月來着 同三十四年四月歸國)、フロレンス、アール、ピツトマン(明治十二年十一月來着 ガーデナー夫人)、チ、エス、チング氏(し)夫妻(ふさい)(明治十一年十一月來着 同 三十八年歸米)、ジョン、マキム氏(し)夫妻(ふさい)(明治十二年三月來着 現在北東京地方部監督)、イ、アール、ウドマン氏(し)夫妻(ふさい)(明治十三年九月來着 同四十二年七月永眠)、ジエ、マクドナルド、ガーデナー氏(し)(明治十三年十月來着 現在北東京地方部)、ベル、チ、ミキ孃(じやう)(明治十四年十二月來着 後ちラニング夫人明治二十三年二月十一日永眠)、マーガレット、エル、ミード孃(じやう)(明治十四年六月來着 同 十六年六月歸國)、サラ、エル、リデツク孃(じやう)(明治十五年四月來着 同二十二年六月歸國)、エマム、フルベツキ孃(じやう)(明治十六年六月來着 テリー夫人)、宣敎醫師(せんけういし)ハレル氏(し)(明治十七年三月來着 同 二十年九月歸國)、フランセス、ジエ、シヨー孃(じやう)(明治十七年四月來着 同 十八年六月辭職)、リベカ、エス、フオールス孃(じやう)(明治十七年四月來着 同 十八年四月歸國)、メリー、メール孃(じやう)(明治十七年五月來着 同 二十四年歸米)、エムマ、ウイリアムソン孃(じやう)(明治十七年五月來着 永眠)、ヘンリー、ページ氏(し)夫妻(ふさい)(明治十七年五月來着 同 三十年歸米)、シヨン、エツチ、モリスー氏(し)夫妻(ふさい)(明治十八年三月來着 同 十九年九月辭職)、アドルフ、エム、リユイソン氏(し)(明治二十年三月來着 同二十一年四月辭職)、ジエー、タムソン、コール氏(し)夫妻(ふさい)(明治二十年八月來着 同 二十五年期米)、アイザツク、ドーマン氏(し)夫妻(ふさい)(明治二十一年二月來着 現在京都地方部長老)、宣敎(せんけう)醫師(いし)ヴイクトル、エム、ロー氏(し)夫妻(ふさい)(明治二十一年五月來着 同二十三年二月歸國)、サラ、エス、スプレーク孃(じやう)(明治二十一年五月來着 現在ミラー夫人)、リラ、ブール孃(じやう)(明治二十一年五月來着 現在京都地方部)、カリー、イー、パーマー孃(じやう)(明治二十一年九月來着 同 二十八年辭職)、マルタ、オルドリツチ孃(じやう)(明治二十一年十一月來着 現在京都地方部)、ジヨセフ、エム、フランシス氏(し)夫妻(ふさい)(明治二十二年二月來着 現在印度亞市監督)、 ジヨージ、サーザン孃(じやう)(明治二十二年四月來着 現在京都地方部長老)、リベカ、フオード、ピース孃(じやう)(明治二十二年四月來着)、ジヨン、アムブラー氏(し)夫妻(ふさい)(明治二十二年九月來着 現在京都地方部)の諸氏(しよし)にして、此期前(このきぜん)に來任(らいにん)し大阪(おほさか)に於(おい)て、既(すで)に傳道(でんだう)に從事(じゆうじ)しつゝありし宣敎師(せんけうし)は、アーサー、アル、モリス氏(し)(明治四年五月來着 大正二年永眠)、ジエ、エツチ、クヒンビー氏(し)夫妻(ふさい)(明治五年十二月來着 同八年十一月夫人永眠同十三年十二月歸國)、ジ、デ、ビ、ミラー氏(し)夫妻(ふさい)(明治五年十二月來着 同七年九月上海に轉任)、ヘンリー、ラニング氏(し)(明治六年七月來着 現在大阪聖バルナバ病院長)、チヤーレス、エイチ、ニユーマン氏(し)(明治六年九月來着 翌七年十二月歸國)の諸氏(しよし)である。此等(これら)の宣敎師(せんけうし)諸氏(しよし)が日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)創業(さうげふ)時代(じだい)に於(おい)て、幾多(いくた)の苦楚(くそ)を嘗(な)め困難(こんなん)と戰(たゝか)ひ、牧會(ぼくくわい)に傳道(でんだう)に敎育(けういく)に盡瘁(じんすゐ)し、多大(ただい)の貢獻(こうけん)をなしたることを記憶(きおく)せねばならぬ。

三、東京傳道

 監督(かんとく)が東京(とうきやう)に移(うつ)られたるは、明治(めいじ)六年(ねん)十一月(ぐわつ)であるが、傳道(でんだう)に着手(ちやくしゆ)せられたるは翌(よく)七年(ねん)二月(ぐわつ)からであつた。此間(このあいだ)は監督(かんとく)は旅館(りよくわん)の一室(しつ)を假(かり)住(すま)ひとして、適當(てきたう)なる家屋(かをく)を借受(かりう)けんと尋(たづ)ね求(もと)められたるが、當時(たうじ)外國人(ぐわいこくじん)に家(いへ)を貸(か)すを恐(おそ)れ或(あるひ)は厭(いと)ひたれば、之(これ)を得(う)るに非常(ひじやう)に困難(こんなん)せられた。監督(かんとく)より東京(とうきやう)在勤(ざいきん)の命(めい)を受けた新來(しんらい)の宣敎師(せんけうし)ニユーマン、クーパー、ブランシエー諸氏(しよし)も、家(いへ)を借(か)ることができぬので、來任(らいにん)當時(たうじ)は、英國(えいこく)エス、ピ、ヂの宣敎師(せんけうし)ライト氏(し)及(および)シヨウ氏(し)の住(ぢゆう)する一寺院(じゐん)(ヨウセンジ)に同居(どうきよ)した。當時(たうじ)監督(かんとく)及(および)諸氏(しよし)が不自由(ふじいう)なる假住(かりずま)ひをなしつゝあつたことは、ブランシエー氏(し)の書簡中(しよかんちゆう)に、「小生(せうせい)は英國(えいこく)の敎友(けういう)ライト及(および)シヨウ兩氏(りやうし)と共(とも)に、佛敎(ぶつけう)の一寺院内(じゐんない)に同居(どうきよ)致(いた)し居(お)ることを申上候(まをしあげそろ)が、此家(このいへ)は小生等(せうせいら)多人數(たにんず)には餘(あま)りに狹隘(けふあい)に有之候(これありそろ)。寒(さむ)き日(ひ)には暖爐(だんろ)を有(いう)する唯一(ゆゐいつ)の同室(どうしつ)を小生等(せうせいら)が、各々(おのおの)邦語(はうご)敎師(けうし)と共(とも)に、占領(せんりやう)せざるべからざれば、勉學上(べんがくじやう)に不便(ふべん)尠(すく)なからず候(そろ)」とあるを以(もつ)て察(さつ)すべく、またブランシエー氏(し)の書簡(しよかん)に、旅館(りよくわん)の一室(しつ)を假住(かりずま)ひとせられたる監督(かんとく)の事(こと)を記(き)して、「ニユーマン氏(し)、クーパー氏(し)及(および)小生(せうせい)の三人(にん)は、貸家(かしや)を探(さが)し求(もと)めながら、監督(かんとく)を訪問(はうもん)致(いた)し申候(まをしそろ)。旅館(りよくわん)に至(いた)り候所(そろところ)、椅子(いす)も卓(テーブル)も寢臺(ねだい)もなき、四疊半(でうはん)の一座敷(ざしき)に唯一(ゆゐいつ)の寢具(しんぐ)たる毛布(もうふ)をまるめて隅(すみ)に置(お)き、日本(にほん)家屋(かをく)唯一(ゆゐいつ)の暖爐(だんろ)なる火鉢(ひばち)と稱(しよう)する、灰(はい)と火(ひ)を容(い)れたる一尺(しやく)四方程(しようほど)の箱(はこ)を傍(かたはら)に控(ひか)へ、前(まへ)には書(しよ)を開(ひら)きて、獨(ひと)り床(ゆか)の上(うへ)に座(ざ)し居(を)らるゝ否(い)な寧(むし)ろ跪(ひざまづ)きつゝある師(し)に見(まみ)え申候(まをしそろ)。支那(しな)日本(にほん)傳道(でんだう)監督(かんとく)は、此(この)一小室(せうしつ)に靴(くつ)をも穿(は)かれず、靴下(くつした)のまゝにて在(あ)らせられ候(そろ)」とある。かゝる假住(かりずま)ひを三度(たび)かへて、明治(めいじ)七年(ねん)二月(がぐわつ)漸(やうや)く築地(つきぢ)に廣大(くわうだい)なる家屋(かをく)を借受(かりう)くることができた。此(この)家屋(かをく)の一部(ぶ)を監督(かんとく)及(および)宣敎師(せんけうし)の居宅(きよたく)とし、一部(ぶ)を禮拜室(れいはいしつ)、學校(がくかう)とし、日曜日(にちえうび)には二度(ど)の邦語(はうご)禮拜(れいはい)、一度(ど)の英語(えいご)禮拜(れいはい)を執行(しつかう)し、午後(ごご)日曜學校(にちえうがくかう)を開(ひら)かれた。學校(がくかう)は最初(さいしよ)五名(めい)の生徒(せいと)を以(もつ)て開校(かいかう)せられたるが、六ケ月(げつ)の後(のち)には、五十五名(めい)に增加(ぞうか)せりといふ。此(この)家屋(かおく)は舊(きう)大名(だいみやう)屋敷(やしき)にてもありしか、師(し)の記(き)する所(ところ)によれば、禮拜室(れいはいしつ)には、百五十人(にん)を座(ざ)せしめ、寢室(しんしつ)には四五十の學生(がくせい)を入(い)らしめ、敎室(けうしつ)は七八十の生徒(せいと)に使用(しよう)するに足(た)るものであつた。師(し)の按手式(あんしゆしき)記録(きろく)には、明治(めいぢ)八年(ねん)九月(ぐわつ)二十六日(にち)東京(とうきやう)に於(お)ける第(だい)三回(くわい)の按手式(あんしゆしき)は、「東京(とうきやう)入船町(いりふねちやう)チヤペル」に於(おい)て執行(しつかう)せられたることが記(しる)されてあるが、それ以前(いぜん)は、「東京(とうきやう)三十三番(ばん)向(むか)ひ敎室(けうしつ)」と記入(きにふ)せられたれば、此頃(このころ)入舟町(いりふねちやう)に移轉(いてん)したものと見(み)へる。 明治(めいぢ)七年(ねん)六月(ぐわつ)二十八日(にち)、東京(とうきやう)に於(お)る第(だい)一回(くわい)の洗禮式(せんれいしき)あり、師(し)は一名(めい)の靑年(せいねん)に洗禮(せんれい)を授(さず)け、同年(どうねん)九月(ぐわつ)十四日(か)此靑年(このせいねん)に按手(あんしゆ)せられた。之(こ)れ第(だい)二回(くわい)の按手式(あんしゆしき)であつた。是(これ)より先(さき)、此年(このとし)三月(ぐわつ)十一日(にち)に、「三十三番(ばん)向(むか)ひ敎室(けうしつ)」に於(おい)て第(だい)一回(くわい)の按手式(あんしゆしき)あり、師(し)は一名(めい)に按手(あんしゆ)せられた。翌(よく)八年(ねん)第(だい)二回(くわい)第(だい)三回(くわい)の洗禮式(せんれいしき)に十名(めい)の受洗者(じゆせんしや)あり、而(しか)して明治(めいぢ)九年(ねん)六月(ぐわつ)の師(し)の報告(はうこく)には、受洗者(じゆせんしや)十七名(めい)(大人(だいにん)十四、小兒(せうに)三)按手(あんしゆ)受領者(じゆりやうしや)十六人(にん)、受聖餐者(じゆせいさんしや)二十人(にん)とある、師(し)は之(これ)に附記(ふき)して、「此(これ)は江戸(えど)に於(お)ける唯一(ゐつい)の場所(ばしよ)にての我等(われら)の働(はからき)の結果(けつくわ)なり」とあれば、當時(たうじ)入舟町(いりふねちやう)以外(いぐわい)に講義所(かうぎしよ)のなかつたことは明(あきらか)である。後(の)ち(明治(めいぢ)九年中(ねんちゆう))駿河臺(するがだい)及(およ)び淺草(あさくさ)に講義所(かうぎしよ)を設(まう)け、明治(めいぢ)十一年(ねん)六月(ぐわつ)三十日(にち)駿河臺(するがだい)チヤペルに於(おい)て按手式(あんしゆしき)が執行(しつかう)せられた。明治(めいぢ)九年(ねん)十一月(ぐわつ)二十九日(にち)東京(とうきやう)に大火(たいくわ)あり、殆(ほと)んど一萬戸(まんこ)を烏有(ういう)に歸(き)し、五萬(まん)の人(ひと)が家(いへ)を失(うしな)つた。此(この)火災(くわさい)に監督(かんとく)の住宅(ぢゆうたく)、禮拜所(れいはいじよ)、敎室(けうしつ)も類燒(るゐせう)し、圖書(としよ)と家財(かざい)の大半(たいはん)を失(うしな)はれた。當時(たうじ)政府(せいふ)は居留地外(きよりうちぐわい)に外國人(ぐわいこくじん)の住居(ぢゆうきよ)を許(ゆる)さゞりしと、居留地(きよりうち)内(ない)に適當(てきたう)の家屋(かをく)なかりしために、當時(たうじ)五十五名(めい)の生徒(せいと)(四十六名(めい)寄宿生(きしゆくせい))を有(いう)したる學校(がくかう)を、火災後(くわさいご)は一時(じ)閉校(へいかう)し、禮拜(れいはい)講義(かうぎ)は假(かり)に師(し)の居宅(きよたく)に於(おい)てなされた。是(これ)より先(さき)、師(し)は居留地外(きよりうちぐわい)に敎會堂(けうくわいだう)を建設(けんせつ)せんと欲(ほつ)したるも、當時(たうじ)政府(せいふ)の敎會堂(けうくわいだう)建立(こんりふ)に對(たい)する態度(たいど)頗(すこぶ)る曖昧(あいまい)なりしかば、之(これ)が實行(じつかう)を猶豫(いうよ)せられたるが、大火後(たいくわご)師(し)は斷然(だんぜん)意(い)を決(けつ)し、深川(ふかゞは)西元町(にしもとまち)八番地(ばんち)に敎會堂(けうくわいだう)建築(けんちく)に着手(ちやくしゆ)し、明治(めいぢ)十年(ねん)四月(ぐわつ)、大火後(たいくわご)五ケ月(げつ)に工事(こうじ)を竣(を)へ、同年中(どうねんちゆう)に此(この)敎會(けうくわい)に於(おい)て、第(だい)一回(くわい)の洗禮式(せんれいしき)を執行(しつかう)し、翌(よく)十一年(ねん)七月(ぐわつ)四日(か)第(だい)一回(くわい)の按手式(あんしゆしき)を執行(しつかう)せられた。之(こ)れ三一敎會(けうくわい)(現今(げんこん)の眞光(しんくわう)敎會(けうくわい))である。三一敎會(けうくわい)設立後(せつりつご)は、牧會(ぼくくわい)傳道(でんだう)の中心(ちゆうしん)となりて、禮拜日(れいはいび)には市内(しない)遠近(ゑんきん)の信徒(しんと)求道者(きうだうしや)は此處(ここ)に參集(さんしふ)し、監督(かんとく)自(みづか)ら司牧(しぼく)の任務(にんむ)を執(と)られた。明治(めいぢ)十一年(ねん)神田(かんだ)基督(きりすと)敎會堂(けうくわいだう)を建設(けんせつ)し、十二年(ねん)六月(ぐわつ)一日(じつ)第(だい)一回(くわい)按手式(あんしゆしき)があつた。明治(めいぢ)十二年(ねん)十二月(ぐわつ)二十六日(にち)再(ふたた)び東京(とうきやう)に大火(たいくわ)あり、入舟町(いりふねちやう)の監督(かんとく)の住宅(ぢゆうたく)は再(ふたた)び火災(くわさい)に罹(かゝ)り、師(し)は家財(かざい)の大半(たいはん)を失(うしな)はれ、小田原町(おだはらちやう)に移(うつ)られた。明治(めいぢ)十五年(ねん)十二月(ぐわつ)立敎學校(りつけうがくかう)三一神學校(しんがくかう)の校舍(かうしや)新築(しんちく)落成(らくせい)したる後(のち)は、師(し)は同校(どうかう)寄宿舍(きしゆくしや)の一隅(ぐう)に移(うつ)り、之(これ)より監督職(かんとくしよく)を退(しりぞ)かるゝまで、學生(がくせい)と共(とも)に起居(ききよ)せられた。立敎學校(りつけうがくかう)新築(しんちく)成(な)りし後(のち)は、師(し)は附近(ふきん)の信徒(しんと)及(およ)び學生(がくせい)の爲(ため)に、同校(どうかう)講堂(かうだう)を禮拜場(れいはいぢやう)となし、三一敎會(けうくわい)より分離(ぶんり)して、後(のち)の立敎(りつけう)敎會(けうくわい)を設(まう)けられ、明治(めいぢ)十八年(ねん)四月(ぐわつ)五日(か)最初(さいしよ)の按手式(あんしゆしき)を執行(しつかう)せられた。是(こ)れ現今(げんこん)の聖(せい)三一敎會(けうくわい)の前身(ぜんしん)である。師(し)は監督(かんとく)在職中(ざいしよくちゆう)、前記(ぜんき)諸敎會(しよけうくわい)講義所(かうぎしよ)の傳道(でんだう)を助(たす)け、自(みづか)ら築地(つきぢ)立敎(りつけう)敎會(けうくわい)、深川(ふかがは)眞光(しんくわう)敎會(けうくわい)、淺草(あさくさ)講義所(かうぎしよ)の牧會(ぼくくわい)、傳道(でんだう)の任務(にんむ)を執(と)り、信徒(しんと)を訪問(はうもん)し求道者(きうだうしや)を敎訓(けうくん)し、愛(あい)に富(と)める牧師(ぼくし)、熱心(ねつしん)なる傳道(でんだう)師(し)として孜々(しし)として勤(つと)められた。

四、地方巡回(ちはうじゆんくわい)と按手式(あんしゆしき)

 監督(かんとく)は東京(とうきやう)に移(うつ)られし後(のち)も、支那(しな)監督(かんとく)として同國(どうこく)に趣(おもむ)き、上海(しやんはい)、北京(ぺきん)武昌(ぶしやう)、漢口(かんこう)、蘇州(そしう)の各地(かくち)を巡回(じゆんくわい)せられた。明治(めいぢ)七年(ねん)八月(ぐわつ)米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)總會(そうかい)は、監督(かんとく)が前年(ぜんねん)の請願(せいがん)を許容(きよゝう)し、師(し)を日本(にほん)專任(せんにん)監督(かんとく)とした。茲(ここ)に於(おい)て師(し)が支那(しな)の任務(にんむ)は解(と)かれたるも、其後(そのご)支那(しな)ミツシヨン常置(じやうち)委員(ゐゐん)の請願(せいがん)により、幾度(いくたび)か同國(どうこく)に赴(おもむ)かれたことがあつた。明治(めいぢ)十一年(ねん)英派(えいは)エス、ピ、ヂより、香港(ほんこん)監督(かんとく)が日本(にほん)に不在中(ふざいちう)、監督(かんとく)の任務(にんむ)代理(だいり)を委託(いたく)せられ、以來(いらい)明治(めいぢ)十八年(ねん)八月(ぐわつ)まで、同派(どうは)所屬(しよぞく)敎會(けうくわい)の信徒(しんと)按手式(あんしゆしき)を執行(しつかう)し、代理(だいり)任務(にんむ)を執(と)られた。明治(めいぢ)八九年(ねん)頃(ころ)、東京(とうきやう)附近(ふきん)の數(すう)ヶ所(しよ)に三度(たび)傳道(でんだう)旅行(りよかう)をせられた、當時(たうじ)之等(これら)の地(ち)に十五名(めい)の求道者(きうだうしや)があつたといふ。
之(こ)れ監督(かんとく)が地方(ちはう)を巡回(じゆんくわい)せられたる最初(さいしよ)であらう。明治(めいぢ)十一年(ねん)川越(かはごえ)に神學生(しんがくせい)を遣(つかは)し、同(どう)十三年(ねん)古河(こか)、館林(たてばやし)、行德(ぎやうとく)に神學生(しんがくせい)を派(は)して傳道(でんだう)を試(こゝろ)みたるが、當時(たうじ)邦人(ほうじん)敎役者(けうえきしや)は一人(ひとり)もなかつたから、傳道師(でんだうし)を定住(ていじゆう)せしむるに至(いた)らなかつた。師(し)は千八百八十二年(ねん)の報告(ほうこく)に曰(いは)く。

『東京(とうきやう)以外(いぐわい)に我等(われら)の働(はたらき)を推進(おしすゝ)むるは困難(こんなん)なり其(その)理由(りいう)は、一は我等(われら)が傳道(でんだう)せんとする地(ち)に定住(ていぢゆう)せしむべき適當(てきたう)の敎養(けうやう)を受(う)けたる日本(にほん)敎役者(けうえきしや)のなきと、二は、宣敎師(せんけうし)が地方(ちはう)に住(ぢゆう)するの不可能(ふかのう)なるにあり、條約(でうやく)に制限(せいげん)せられたる區域(くゐき)外(ぐわい)には外國人(ぐわいこくじん)は旅行(りよかう)免状(めんじやう)なくしては行(い)くことを許(ゆる)されず、而(しか)して其(その)旅行(りよかう)免状(めんじやう)なるものは唯(た)だ二つの理由(りいう)、一は健康上(けんかうじやう)のため、二は學術研究(がくじゆつけんきう)の目的(もくてき)にて旅行(りよかう)する者(もの)に下附(かふ)せらるゝものなり。されば多(おほ)くの宣敎師(せんけうし)はかゝる免状(めんじやう)を以(もつ)て地方(ちはう)に出(い)で傳道(でんだう)に從事(じゆうじ)するは、正當(せいたう)にあらずと思惟(しゐ)せり」と。

地方(ちほう)に敎役者(けうえきしや)を在勤(ざいきん)せしめたるは明治(めいぢ)十八年(ねん)からであつた。
 此年(このとし)より北多摩(きたゝま)、熊谷(くまがひ)、寄居(よりゐ)、川越(かはごえ)、幸手(さつて)に敎役者(けうやくしや)を在勤(ざいきん)せしめた。而(しか)して之等(これら)の地方(ちはう)に監督(かんとく)が最初(さいしよ)に巡錫(じゆんしやく)せられたるは、明治(めいぢ)二十年(ねん)であつた。此年(このとし)北多摩(きたたま)(一月十五日)、熊谷(くまがひ)(八月二十一日)、寄居(よりゐ)(八月二十二日)、松山(まつやま)(八月二十四日)、川越(かはごえ)(八月二十五日)に於(おい)て按手式(あんしゆしき)を執行(しつかう)し、同(どう)二十二年(ねん)八月(ぐわつ)、大宮(おほみや)(八月二十三日)、寄居(よりゐ)(八月二十七日)、川越(かはごえ)(八月二十五日)、熊谷(くまがひ)(八月二十九日)、幸手(さつて)(八月三十日)等(とう)を巡回(じゆんくわい)し、洗禮(せんれい)按手(あんしゆ)を施(ほどこ)された。大阪(おほさか)及(および)其附近(そのふきん)に於(おい)て按手式(あんしゆしき)を執行(しつかう)せられたることを記(しる)せば、先(ま)ず大阪(おほさか)に於(おい)ては、明治(めいぢ)六年(ねん)十一月(ぐわつ)第(だい)一回(くわい)の洗禮式(せんれいしき)を執行(しつかう)し、現存(げんぞん)する師(し)の記録(きろく)によれば、翌(よく)七年(ねん)三月(ぐわつ)古川町(ふるかはちやう)禮拜所(れいはいじよ)にて、最初(さいしよ)の按手式(あんしゆしき)を執行(しつかう)せられた。
明治(めいぢ)十七年(ねん)四月(ぐわつ)聖提摩太(せいてもて)敎會(けうくわい)の最初(さいしよ)の按手式(あんしゆしき)を行(おこな)ひ、同(どう)十九年(ねん)五月(ぐわつ)聖慰主(せいゝしゆ)敎會(けうくわい)聖保羅(せいぱうろ)敎會(けうくわい)の第(だい)一の按手(あんしゆ)を施(ほどこ)し、同(どう)二十一年(ねん)五月(ぐわつ)聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)第(だい)一回(くわい)の按手式(あんしゆしき)を執行(しつかう)せられた。地方(ちほう)に於(おい)ては、明治(めいぢ)二十一年(ねん)一月(ぐわつ)和歌山(わかやま)、同年(どうねん)四月(ぐわつ)堺(さかひ)に於(おい)て最初(さいしよ)の按手(あんしゆ)を行(おこな)はれた、明治(めいぢ)七年(ねん)三月(ぐわつ)より同(どう)二十二年(ねん)十一月(ぐわつ)に至(いた)るまで、師(し)が東京(とうきやう)及(および)大阪(おほさか)並(ならび)に其附近(そのふきん)に於(おい)て按手(あんしゆ)せし信徒(しんと)は、九百二十九名(めい)、英派(えいは)諸敎會(しよけうくわい)に於(おい)て按手(あんしゆ)せし信徒(しんと)は二百五十三名(めい)、合計(ごうけい)一千百八十二名(めい)であつた。
 監督(かんとく)が在職中(ざいしよくちう)(千八百六八年より、千八百八十九年まで)、按手(あんしゆ)を授(さづ)けて聖職(せいしよく)に任(にん)じたるものは、支那(しな)に於(おい)て長老(ちやうらう)十人(にん)(支那人八外國人二)、執事(しつじ)四人(にん)(支那人二外國人二)にして、日本(にほん)に於(おい)ては長老(ちやうらう)四人(にん)(日本人一外國人三)執事(しつじ)三人(にん)であつた。我國(わがくに)に於(おい)て最初(さいしよ)に執行(しつかう)せられたる聖職(せいしよく)按手式(あんしゆしき)は、明治(めいぢ)七年(ねん)五月(ぐわつ)三十一日(にち)、執事(しつじ)クーパー氏(し)及(および)ブランシエー氏(し)に按手(あんしゆ)して、長老(ちやうらう)の職(しよく)に任(にん)じたことである。此(この)按手式(あんしゆしき)はYosenji(養禪寺(やうせんじ)[#陽泉寺の誤])という寺院(じゐん)に於(おい)て行(おこな)われた。此(この)寺院(じゐん)は英國(えいこく)宣敎師(せんけうし)シヨウ氏(し)が邦語(ほうご)敎師(けうし)の名義(めいぎ)を以(もつ)て借(か)り受(う)け居宅(きよたく)としたるものであつた。當日(たうじつ)の式(しき)にはシヨウ氏(し)、ライト氏(し)、バイバー氏(し)(シ、エム、エス宣敎師)、クインビ氏(し)が列席(れつせき)した。第(だい)二の聖職(せいしよく)按手式(あんしゆしき)は執事(しつじ)ウツドマン氏(し)の長老(ちやうらう)按手(あんしゆ)にして、明治(めいぢ)十五年(ねん)六月(ぐわつ)四日(か)三位(ゐ)一體(たい)主日(しゆじつ)、深川(ふかゞは)三一敎會堂(けうくわいだう)に於(おい)て行(おこな)われた。第(だい)三は明治(めいぢ)十六年(ねん)三月(ぐわつ)十八日(にち)復活前(ふくゝわつぜん)主日(しゆじつ)、深川(ふかゞは)三一敎會堂(けうくわいどう)に於(おい)て、神學校(しんがくかう)卒業生(そうつげふせい)金井登(かみゐのぼる)及(およ)び田井正一(たゐまさかづ)兩氏(りやうし)の執事(しつじ)按手式(あんしゆしき)である。日本人(にほんじん)にて聖職(せいしよく)の按手(あんしゆ)を受(う)けたるは、兩氏(りやうし)が嚆矢(かうし)である。
第(だい)四は明治(めいぢ)十八年(ねん)二月(ぐわつ)二十四日(か)聖馬太(せいまたい)日(じつ)、牛込(うしごめ)昇天(しようてん)敎會(けうくわい)に於(おい)て、山縣(やまがた)與根二(よねじ)氏(し)に執事(しつじ)按手(あんしゆ)を授(さづ)けられた、最後(さいご)は明治(めいじ)二十二年(ねん)十二月(ぐわつ)二十一日(にち)、築地(つきぢ)三一敎會(けうくわい)に於(おい)て、執事(しつじ)田井(たゐ)正一(まさかづ)氏(し)の長老(ちやうらう)按手式(あんしゆしき)である。

五、監督(かんとく)と敎育(けういく)

 監督(かんとく)は傳道(でんだう)の當初(たうしよ)より夙(つと)に、基督敎(きりすとけう)主義(しゆぎ)の高等(かうとう)學校(がくかう)を設立(せつりつ)し、日本(にほん)靑年(せいねん)をして基督敎(きりすとけう)の感化(かんか)に浴(よく)せしめ、また靑年(せいねん)の中(うち)に進(すゝ)んで神學(しんがく)を研究(けんきう)し、敎役者(けうえきしや)たらんとする人物(じんぶつ)を要請(やうせい)するの必要(ひつえう)を感知(かんち)せられ、斯(かゝ)る學校(がくかう)の設立(せつりつ)を最大(さいだい)重要(ぢゆうえう)と見(み)られた。されば大阪(おほさか)、東京(とうきやう)の傳道(でんだう)を開始(かいし)するや、師(し)は先(ま)づ學校(がくかう)を開(ひら)き靑年(せいねん)の敎育(けういく)に力(ちから)を盡(つく)された。東京(とうきやう)に開設(かいせつ)せられたる學校(がくかう)は、開校(かいかう)以來(いらい)生徒(せいと)の數(すう)次第(しだい)に增加(ぞうか)し、五十五名(めい)(寄宿(きしゆく)四十六名(めい))に達(たつ)し、學生(がくせい)の受洗(じよせん)せし者(もの)も尠(すくな)からず、前途(ぜんと)愈々(いよいよ)有望(いうぼう)なりしが、明治(めいぢ)九年(ねん)の大火(たいくわ)に校舍(かうしや)燒失(せうしつ)し、居留地内(きよりうちない)に恰當(かふたう)の家屋(かおく)なかりしために、閉鎖(へいさ)するの止(や)むを得(え)ざるに至(いた)つたことは、師(し)が痛(いた)くも遺憾(ゐかん)とせられたる所(ところ)であつた。
其後(そのご)(明治(めいぢ)十一年(ねん))クインビー氏(し)は、自宅(じたく)に學校(がくかう)を開(ひら)きたるに、忽(たちま)ち生徒(せいと)は二十五名(めい)の多數(たすう)となり、猶(な)ほ益々(ますます)發展(はつてん)の見込(みこみ)ありて、專任(せんにん)敎師(けうし)と校舍(かうしや)の必要(ひつえう)が迫(せま)つた、當時(たうじ)監督(かんとく)は本國(ほんごく)に向(むか)つて、屡々(しばしば)熱切(ねつせつ)に日本(にほん)に於(お)ける敎育(けういく)事業(じげふ)を等閑(とうかん)にすべからざるを論(ろん)じ、スペンサー哲學(てつがく)を最高(さいかう)の福音(ふくいん)とし、ミル、バツクル、ハツクスレー、チンダルを新信仰(しんしんかう)の大使徒(だいしと)と仰(あふ)ぐ無神(むしん)唯物主義(ゐぶつしゆぎ)なる、現下(げんか)日本(にほん)の敎育(けういく)に對抗(たいかう)すべき、基督敎(きりすとけう)敎育(けういく)の急務(きうむ)を訴(うつた)へ、靑年(せいねん)敎育(けういく)に適良(てきりやう)なる人物(じんぶつ)の派遣(はけん)と、校舍(かうしや)建築(けんちく)を要請(えうせい)せられた。
明治(めいぢ)十三年(ねん)七月(ぐわつ)、我國(わがくに)在留(ざいりう)の米國(べいこく)ミツシヨンの宣敎師會(せんけうしくわい)に於(おい)ては、敎育問題(けういくもんだい)に關(くわん)し大(おほい)に協議(けふぎ)する所(ところ)ありしが、其結果(そのけつくわ)は、日本(にほん)に於(おけ)る傳道事業(でんだうじげふ)を完成(くわんせい)するには、四人(よにん)の外國(ぐわいこく)敎授(けうじゆ)と數名(すうめい)の宣敎師(せんけうし)を加(くわ)へて、速(すみやか)に完備(くわんび)せる大學(だいがく)を設立(せつりつ)するの必要(ひつえう)を認(みと)むと決議(けつぎ)した。
師(し)は此決議(このけつぎ)を報(はう)じて切(せつ)に訴(うつた)ふる所(ところ)ありしが、遂(つひ)に師(し)の熱心(ねつしん)なる請求(せいきう)は、傳道會社(でんだうくわいしや)に許容(きよよう)せられ、此年(このとし)十月(ぐわつ)ガーデナー氏(し)は、立敎學校(りつけうがくかう)(英名(えいめい)セントポールススクール)專任(せんにん)敎師(けうし)として來(きた)り、同氏(どうし)の設計(せつけい)により校舍(かうしや)新築(しんちく)に着手(ちやくしゆ)し、十五年(ねん)の春(はる)竣工(しゆんこう)し、米國(べいこく)大學(だいがく)の制度(せいど)に類(るい)したる高等學校(かうとうがくかう)が、開始(かいし)せらるゝに至(いた)つた、之(こ)れ現今(げんこん)の立敎學院(りつけうがくゐん)の前身(ぜんしん)にして、此(この)校舍(かうしや)は、明治(めいぢ)二十七年(ねん)の大震(たいしん)に崩壞(ほうくわい)したるが、創立(さうりつ)以來(いらい)此校(このかう)に敎育(けういく)を受(う)けし人々(ひとびと)にして、今日(こんにち)牧會(ぼくくわい)傳道(でんだう)に從事(じゆうじ)するもの、令聞(れいぶん)ある信徒(しんと)として社會(しやくわい)の各方面(かくはうめん)に活動(くわつどう)するものは甚(はなは)だ多(おほ)い。
 是(これ)より先(さき)、明治(めいぢ)十一年(ねん)十月(ぐわつ)より、英米(えいべい)兩(りやう)ミツシヨン共同(きようどう)の神學校(しんがくかう)は開設(かいせつ)せられ、監督(かんとく)は校長(かうちやう)兼(けん)敎授(けうじゆ)として敎鞭(けうべん)を執(と)らるゝことゝなつた。此(この)共同(きようどう)神學校(しんがくかう)を開設(かいせつ)するに至(いた)つたのは、同年(どうねん)五月(ぐわつ)東京(とうきやう)に於(おい)て開(ひら)きたる英米(えいべい)宣敎師(せんけうし)會議(かいぎ)の結果(けつか)であつた。此會議(このかいぎ)には師(し)と香港(ほんこん)の監督(かんとく)及(およ)び英米(えいべい)宣敎師(せんけうし)十五名(めい)來會(らいくわい)したるが、議題(ぎだい)の重(おも)なるものは、日本語(にほんご)祈祷書(きたうしよ)を一定(てい)する事(こと)と、日本(にほん)敎役者(けうえきしや)の選定(せんてい)及(およ)び養成(やうせい)の件(けん)であつた。祈祷書(きたうしよ)を一定(いつてい)する件(けん)は、既(すで)に師(し)が翻譯(ほんやく)せられたる早晩祷文(さうばんたうぶん)及(およ)び嘆願文(たんぐわんぶん)を認定(にんてい)し、更(さら)に聖餐(せいさん)、聖洗(せいせん)、信徒(しんと)按手(あんしゆ)式文(しきぶん)、公會(こうくわい)問答(もんだふ)を委員(ゐゐん)に托(たく)して、翻譯(ほんやく)出版(しゆつぱん)する事(こと)に決(けつ)した。
敎役者(けうえきしや)養成(やうせい)の件(けん)に關(くわん)しては、共同(きようどう)神學校(しんがくかう)設置(せつち)の議(ぎ)もありしが、シ、エム、エスは、此(この)計畫(けいくわく)に贊同(さんどう)せざりしとの報告(はうこく)ありたれば、議題(ぎだい)とはならなかつた。然(しか)し香港(ほんこん)の監督(かんとく)とエス、ピー、ヂーの宣敎師(せんけうし)は、監督(かんとく)及(およ)び米派(べいは)宣敎師(せんけうし)と、此(この)問題(もんだい)に就(つい)て協議(けふぎ)し、兩(りやう)ミツシヨン共同(きようどう)の神學校(しんがくかう)を開設(かいせつ)し、學生(がくせい)は監督(かんとく)(ウイリアムス師(し))と同棲(どうせい)し、英米(えいべい)宣敎師(せんけうし)の薰陶(くんたう)を受(う)くる事(こと)に決定(けつてい)した。此決議(このけつぎ)の結果(けつくわ)共同(きようどう)神學校(しんがくかう)を開設(かいせつ)するに至(いた)つたのである。開校(かいかう)の當時(たうじ)生徒(せいと)は十四名(めい)にして、監督(かんとく)は、共觀(きようくわん)福音書(ふくいんしよ)、シヨウ氏(し)は内面的(ないめんてき)證據論(しようころん)クインビー氏(し)は舊約(きうやく)預言(よげん)、道德學(だうとくがく)、説敎學(せつけうがく)、ブランシエー氏(し)は敎會(けうくわい)歴史(れきし)、ライト氏(し)は祈祷書(きたうしよ)の敎授(けうじゆ)を擔任(たんにん)せられた。監督(かんとく)が此頃(このごろ)の書簡中(しよかんちゆう)に、敎役者(けうえきしや)養成(やうせい)の必要(ひつえう)を論(ろん)じ、最後(さいご)に次(つぎ)の如(ごと)く記述(しる)されてある。「日本(にほん)國民(こくみん)を敎化(けうくわ)せんとする我等(わらら)が唯一(ゐいつ)の願望(ぐわんばう)は、日本(にほん)敎役者(けうえきしや)の力(ちから)に依(よ)らざるべからず、されば外國(ぐわいこく)宣敎師(せんけうし)たるものは、其(その)時間(じかん)と勢力(せいりよく)の大部分(だいぶぶん)を、適當(てきたう)なる人物(じんぶつ)を養成(やうせい)する爲(ため)に費(つひや)すべきなり」と。是(これ)より後(のち)師(し)は孜(し)々として神學(しんがく)敎育(けういく)に力(ちから)を盡(つく)された。明治(めいぢ)十五年(ねん)立敎(りつけう)學校(がくかう)三一神學校(しんがくかう)の校舍(かうしや)成(な)りし後(のち)は、神學校(しんがくかう)寄宿舍(きしゆくしや)に學生(がくせい)と共(とも)に起居(ききよ)し、内外(ないぐわい)の敎務(けうむ)多忙(たばう)の身(み)を以(もつ)て、なほ二三學科(がくくわ)を擔當(たんたう)し、熱誠(ねつせい)敎鞭(けうべん)を執(と)られ、其(その)高潔(かうけつ)なる人格(じんかく)により、盡(つ)きざる感化(かんくわ)を與(あた)へられた。

六、日本聖公會の組織

 日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)が組織(そしき)せらるゝ以前(いぜん)は、日本(にほん)に於(おい)て監督(かんとく)敎會(けうくわい)と稱(しよう)せられたるものは、英國(えいこく)のシ、エム、エス及(およ)びエス、ピ、ヂ二會社(くわいしや)と、米國(べいこく)の監督(かんとく)敎會(けうくわい)傳道(でんだう)會社(くわいしや)が、各々(おのおの)獨立(どくりつ)の傳道(でんだう)をなしたるものにして、純然(じゆんぜん)たる外國(ぐわいこく)傳道(でんだう)會社(くわいしや)の事業(じげふ)であつた。然(しか)るに此(この)三會社(くわしや)は、其(その)主義(しゆぎ)綱領(かうりやう)を同(おなじ)ふせるに拘(かゝ)わらず、各自(かくじ)獨立(どくりつ)の運動(うんどう)をなし、何等(なんら)統(とう)一の方針(はうしん)に出(い)でざるは、傳道(でんだう)の擴張(くわくちやう)、敎會(けうくわい)の發展(はつてん)を妨(さまた)ぐるものなれば、三會社(くわいしや)が共同(きようどう)の働(はたらき)をなし、日本(にほん)に於(おい)て具體的(ぐたいてき)一致(ち)の行動(かうどう)を取(と)るは、強固(きやうこ)なる日本(にほん)敎會(けうくわい)を建設(けんせつ)するに必要(ひつえう)なりとは、監督(かんとく)の夙(つと)に感知(かんち)せられし所(ところ)なりしが、此(この)思想(しさう)は日本(にほん)信徒(しんと)の間(あいだ)にも外國(ぐわいこく)宣敎師(せんけうし)間(かん)にも、漸次(ぜんじ)熟成(じゆくせい)して終(つひ)に明治(めいぢ)二十年(ねん)日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)の組織(そしき)とはなつた、是(これ)より先(さき)、明治(めいぢ)十九年(ねん)五月(ぐわつ)、大阪(おほさか)に於(おい)て開催(かいさい)したるシ、エム、エスの年會(ねんくわい)は、英米(えいべい)三傳道(でんだう)會社(くわいしや)の共同(きようどう)一致(ち)に關(くわん)し、三傳道(でんだう)會社(くわいしや)の連合(れんがふ)會議(くわいぎ)を開(ひら)かんことを希望(きばう)すとの決議(けつぎ)をなしたるが、ウイリヤムス監督(かんとく)及(およ)びビカステス監督(かんとく)も、大(おほい)いに此(この)決議(けつぎ)を歡迎(くわんげい)し、快諾(くわいたく)を表(へう)したれば、同年(どうねん)同月(どうげつ)英米(えいべい)傳道(でんだう)會社(くわいしや)の聯合會(れんがふくわい)が開(ひら)かるゝに至(いた)つた。此(この)聯合會(れんがふくわい)は師議長(しぎちやう)となりて議事(ぎじ)を司(つかさ)とり、來(きた)る七月(ぐわつ)各(かく)傳道(でんだう)會社(くわいしや)の代表者(だいへうしや)を招集(せうしふ)して、組織(そしき)草案(さうあん)を附議(ふぎ)する事(こと)に決(けつ)した。此(こゝ)に於(おい)て師(し)及(およ)びビカステス兩(りやう)監督(かんとく)は、組織(そしき)草案(さうあん)の起稿(きかう)に着手(ちやくしゆ)し、古代敎會(こだいけうくわい)の慣例(くわんれい)を參考(さんかう)し、又(ま)た近代(きんだい)に發達(はつたつ)せる米國(べいこく)及(および)ニユージーラント敎會(けうくわい)の法憲(はふけん)法規(はふき)等(とう)を參酌(さんしやく)して草案(さうあん)を作(つく)り、又(ま)たカンターベリー大監督(だいかんとく)ベンソン博士(はかせ)にも報告(はうこく)して其(その)賛同(さんどう)を求(もと)め、七月(ぐわつ)開會(かいくわい)の代表者會(だいへうしやくわい)に之(これ)を提出(ていしゆつ)された。代表者會(だいへうしやくわい)は之(これ)を可決(かけつ)し、翌年(よくねん)即(すなは)ち明治(めいぢ)二十年(ねん)二月(ぐわつ)八日(か)、英米(えいべい)傳道(でんだう)會社(くわいしや)聯合(れんがふ)總會(そうくわい)に之(これ)を提出(ていしゆつ)する事(こと)に決(けつ)した。監督(かんとく)は當時(たうじ)の敎勢(けうせい)を本國(ほんごく)傳道(でんだう)會社(くわいしや)に報告(はうこく)して、左(さ)の如(ごと)く云(い)はれた。

『日本人(にほんじん)が自國(じこく)に於(お)ける傳道事業(でんだうじげふ)に關係(くわんけい)せんと欲(ほつ)するは、自然(しぜん)の情(じやう)にして、當局者(たうきよくしや)は須(すべか)らく之(こ)れに應(おう)ずる處置(しよち)を講(かう)ぜざるべからず。こは漸(やうや)く人々(ひとびと)の確信(かくしん)する所(ところ)となりたる現下(げんか)の趨勢(すうせい)なり。事業(じげふ)益々(ますます)旺盛(わうせい)に趣(おもむ)き、信徒(しんと)の數(すう)益々(ますます)多(おほ)きを加(くは)ふるに從(したが)ひ、此(こ)の感情(かんじやう)の層(そう)一層(そう)に強大(きやうだい)を致(いた)さん事(こと)は蓋(けだ)し蔽(お)ふべからず、日本信徒(にほんしんと)が同(おな)じく基督(きりすと)の旨(むね)を奉(ほう)する者(もの)にして、傳道(でんだう)の方針(はうしん)には豪末(がうまつ)の權勢(けんせい)なく、常(つね)に他(た)の指揮(しき)制肘(せいちう)を蒙(かうむ)るは、最(もつと)も不愉快(ふゆくわい)とする所(ところ)にして、己(おの)れ亦(また)其(その)事業(じげふ)方法(はうはふ)に參與(さんよ)せんことを請(こ)ふに至(いた)るは、情(じやう)に於(おい)ても理(り)に於(おい)ても當(まさ)に然(しか)るべき所(ところ)なり。日本人(にほんじん)の此(この)願望(ぐわんばう)は決(けつ)して之(これ)を輕視(けいし)すべからざるなり。且(か)つ傳道會社(でんだうくわいしや)の爲(た)めに之(これ)を計(はか)るに、日本人(にほんじん)をして一日(にち)も早(はや)く、自國傳道(じこくでんだう)の事(こと)は自(みづか)ら之(こ)れに當(あた)らざるべからざる事(こと)を覺悟(かくご)せしめ、彼等(かれら)をして其(その)責任(せきにん)の重(おも)さを感(かん)ぜしむるの方針(はうしん)を取(と)るを以(もつ)て、策(さく)の得(え)たるものとなさゞるべからず。是(これ)を以(もつ)て在日本(ざいにほん)三傳道會社(でんだうくわいしや)の監督(かんとく)は、明治(めいぢ)十九年(ねん)七月(ぐわつ)各(かく)傳道(でんだう)會社(くわいしや)より代表者(だいへうしや)を出(いだ)さしめ、三會社(くわいしや)の協力(けふりよく)と日本信徒(にほんしんと)の團結(だんけつ)とをして、一層(そう)親近(しんきん)密接(みつせつ)ならしめんが爲(ため)に、其(その)法案(はうあん)を熟議(じゅくぎ)せしめたりしが、議事(ぎじ)頗(すこぶ)る圓滿(ゑんまん)にしに假(か)りに用(もち)ゆべき法憲法規(はふけんはふき)を議了(ぎれう)せり。英米敎會(えいべいけうくわい)が此(この)擧(きよ)を贊助(さんじよ)し、日本敎會(にほんけうくわい)が自(みづか)ら法規(はふき)を造(つく)るに至(いた)る迄(まで)、假(か)りに之(これ)を實施(じつし)するの權能(けんのう)を在日本(ざいにほん)監督(かんとく)に與(あた)へられんことを希望(きばう)す』と。

 明治(めいぢ)二十年(ねん)二月(ぐわつ)八日(か)、豫定(よてい)の如(ごと)く聯合總會(れんがふそうくわい)は開(ひら)かれ、代表者會(だいへうしやくわい)提出(ていしゆつ)の草案(さうあん)を可決(かけつ)し、三日(か)の後(のち)即(すなは)ち二月(ぐわつ)十一日(にち)日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)第(だい)一總會(そうくわい)は、大坂(おほさか)に於(おい)て開催(かいさい)せらるゝに至(いた)つた。

七、日本聖公會第一總會

 日本聖公會(にほんせいこうくわい)第(だい)一總會(そうくわい)は、英米(えいべい)宣敎師會(せんけうしくわい)に於(おい)て議決(ぎけつ)せられたる編制(へんせい)並(ならび)に法規(はふき)草案(さうあん)を議(ぎ)せんが爲(た)めに、監督(かんとく)、宣敎師(せんけうし)及(およ)び日本(にほん)信徒(しんと)代表者(だいへうしや)の會合(くわいがふ)であつた。此(この)總會(そうくわい)は明治(めいぢ)二十年(ねん)二月(ぐわつ)十一日(にち)、大阪(おほさか)川口(かはぐち)三一神學校(しんがくかう)講堂(かうだう)に開會(かいくわい)し、當日(たうじつ)及(およ)び、十二日(にち)、十四日(か)の三日間(かかん)、討論(たうろん)熟議(じゆくぎ)を重(かさ)ね、日本聖公會(にほんせいこうくわい)法憲法規(はふけんはふき)を議定(ぎてい)した。
第(だい)一總會(そうくわい)に出席(しゆつせき)したる内外(ないぐわい)の敎役者(けうえきしや)及(およ)び信徒(しんと)代表者(だいへうしや)は左(さ)の諸氏(しよし)であつた。

監督ウヰリアムス、監督ビカステス、シヤウ、フアイソン、エピントン、マキム、ポール、ベージ、ウドマン、アンデルス、ブランドラム、ハツチンソン、エドモンズ、チヤプマン、ダン、ガルドナル、ヒユース、ラニン、ハレル、東京飯田榮次郞、大阪生島英太郞、東京今井壽道、東京乾緝、東京泰呑舟、和歌山林虎之助、淡路新家舖三郞、不見西浦康定、大阪細見信太郞、東京貫元介、大阪大塚惟明、函館小川淳、佐賀渡邊保治、長崎洪恒太郞、和歌山川島敬造、熊谷金井登、大阪橫田如水、大阪高橋敬、淡路高田倉藏、奈良田中宇喜智、東京田中正、東京多治見十郞、大和名出保太郞、大阪中西義之、大阪中川藤四郞、長崎中村龜三郞、東京中島虎次郞、神戸村山次郞、大阪桑田澄作、東京山縣與根二、出雲山田善次郞、大阪山田淸風、大阪山下有任、德島牧岡鐵彌、熊本古閑武平、長崎木庭孫彦、大阪小林圭三、淡路餌取勝太郞、函館寺田藤太郎、石見野島忠、備後延藤重太郎、大阪寺澤久吉、和歌山有井龍雄、函館荒砥琢哉、大阪左乙女豐秋、橫濱木原寅吉、大阪衣笠景德、神戸水野功、東京平岡吉五郞、大阪森貞次、大阪淸田海一郞、大阪杉之原茂。

英米(えいべい)宣敎師(せんけうし)等(ら)の議會(ぎくわい)に提出(ていしゆつ)せる公會(こうくわい)編制(へんせい)及(および)法規(はふき)草案(さうあん)は、提出(ていしゆつ)理由(りいう)として左(さ)の序文(じよぶん)を付加(ふか)せられた。

『大阪(おほさか)に開設(かいせつ)せる敎會(けうくわい)々議(くわいぎ)に集會(しふくわい)したる我儕(われら)英米(えいべい)宣敎師等(せんけうしら)、この編制(へんせい)并(ならび)に法規草按(はふきさうあん)を總會(そうくわい)に提(てい)するに當(あたつ)て、我等(われら)が此(この)擧(きよ)ありし理由(りいう)を簡短(かんたん)に説明(せつめい)せんとす。
 抑々(そもそも)我等(われら)三傳道會社(でんだうくわいしや)に附屬(ふぞく)する日本信徒(にほんしんと)諸君(しよくん)が、尚(なほ)一層(そう)親密(しんみつ)なる一致(ち)結合(けつがふ)を求(もと)むる一般(ぱん)の希望(きばう)あることは、數年前(すうねんぜん)より我等(われら)の既(すで)に認知(にんち)する處(ところ)なり。然(しか)り而(しかう)して今日(こんにち)は即(すなは)ち曩(さき)に實施(じつし)に適(てき)し居(ゐ)たるよりも、尚(なほ)完全(くわんぜん)なる組織(そしき)を始(はじ)むる時機(じき)の到來(たうらい)せしことは、我等(われら)感悟(かんご)する處(ところ)なり。我等(われら)は此(この)希望(きばう)を充分(じゆうぶん)に議定(ぎてい)するに、大(だい)なる補益(ほえき)たるべき智識(ちしき)を有(いう)する者(もの)なることは、敎育(けういく)と經驗(けいけん)とに因(よつ)て自(みずか)ら知(し)り信(しん)ずる處(ところ)なり。故(ゆえ)に我等(われら)は同胞(どうほう)なる日本(にほん)信徒(しんと)諸君(しよくん)に、毫(がう)も嚴格(げんかく)なる方法(はうはふ)を命(めい)ずることを願(ねが)はざれども、我等(われら)先(ま)づ商議會(しやうぎくわい)を開(ひら)き、日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)の現今(げんこん)と未來(みらい)との平安(へいあん)に、最(もつと)も裨益(ひえき)なりと思考(しかう)する方法(はうはふ)を議定(ぎてい)せり。之(こ)れ我等(われら)が共(とも)に希望(きばう)する此(この)目的(もくてき)を成就(じようじゆ)するに、最(もつと)も便(べん)ならんと信(しん)じたるが故(ゆゑ)なり。
 我等(われら)は成(な)るべく速(すみや)かに、我邦(わがくに)に於(おい)て獨立(どくりつ)にして、悉(ことごと)く日本人(にほんじん)を以(もつ)て成(な)れる基礎(きそ)に、聖公會(せいこうくわい)を建(た)つべきの必要(ひつえう)を深(ふか)く感(かん)ずるなり、然(しか)れども我等(われら)の同胞(どうほう)日本(にほん)信徒(しんと)諸君(しよくん)の現今(げんこん)敎職(けうしよく)の位階(ゐかい)を受繼(うけつ)ぎ居(ゐ)るは、我等(われら)に因(よ)ること及(およ)び今日(こんにち)に在(あつ)て、聖公會(せいこうくわい)の事務(じむ)を行(おこな)ふには、全(まつた)く我等(われら)を離(はな)るゝ能(あた)はざることを記憶(きおく)せざるべからずと思考(しかう)せり。
 我等(われら)思(おも)ふに、此(この)編制(へんせい)并(ならび)に法規(はふき)の如(ごと)き基礎(きそ)を採用(さいよう)するは、我等(われら)三傳道會社(でんだうくわいしや)に附屬(ふぞく)する者(もの)が、一致(ち)するに最(もつと)も便(べん)にして、且(か)つ他(た)の基督敎會(きりすとけうくわい)に屬(ぞく)する同胞信徒(どうほうしんと)との一致(ち)をも成就(じようじゆ)すべき階梯(かいてい)ならん。之(こ)れ即(すなは)ち我等(われら)皆(み)な切(せつ)に希望(きばう)し、只管(ひたすら)に祈禱(きたう)する所(ところ)なり。斯故(このゆゑ)に此(この)草按(さうあん)を總會(そうくわい)に呈(てい)し、注意(ちうい)深(ふか)き考察(かうさつ)を願(ねが)ふと云(しか)爾(いふ)。』

而(しか)して提出(ていしゆつ)せられたる草案(さうあん)は、編制(へんせい)九ヶ條(でう)と法規(はふき)十五章(しよう)なりしが、議決(ぎけつ)せられたる憲法法規(けんぱふはふき)の序文(じよぶん)及(および)法憲(はふけん)の條項(でうこう)は左(さ)の如(ごと)くであつた。

救主紀元(きうしゆきげん)千八百八十七年(ねん)二月(ぐわつ)在(ざい)日本(にほん)英米(えいべい)ノ監督(かんとく)敎職(けうしよく)信徒(しんと)並(ならび)ニ内國(ないこく)ノ敎職(けうしよく)及(およ)ビ信徒(しんと)代議員(だいぎゐん)大阪(おほさか)ニ集會(しふくわい)シテ會議(くわいぎ)ヲ開(ひら)キ本會(ほんくわい)自治(じち)ノ整備(せいび)ニ至(いた)ル迄(まで)假(か)リニ制定(せいてい)スル所(ところ)ノモノ

法憲(はふけん)

第(だい)一條(でう) 本會(ほんくわい)ハ新舊約(しんきうやく)聖書(せいしよ)ヲ以(もつ)テ救(すくひ)ヲ得(う)ルノ要道(えうだう)ヲ悉(ことごと)ク載(の)セタル神(かみ)ノ默示(もくし)ナリト信(しん)ジ且(か)ツ「ニケア」信經(しんきやう)及(およ)ビ使徒(しと)信經(しんきやう)ニ纂約(さんやく)セル信仰(しんかう)ノ道(みち)ヲ公認(こうにん)ス

第(だい)二條(でう) 本會(ほんくわい)ハ主(しゆ)基督(きりすと)ノ命(めい)ジ給(たま)へル義理(ぎり)「サクラメント」(バプテスマ、聖晩餐(せいばんさん))及(およ)ビ訓戒(くんかい)ヲ施行(しかう)シ且(か)ツ監督(かんとく)會長(くわいちやう)會吏(くわいり)の三聖職(せいしよく)ヲ固(かた)ク守(まも)ルベシ

第(だい)三條(でう) 本會(ほんくわい)ハ救主紀元(きうしゆきげん)千八百八十七年(ねん)ヨリ毎(まい)二年(ねん)ニ總會(そうくわい)ヲ開(ひら)クベシ(其(その)時日(じじつ)會場(くわいぢやう)ハ當時(たうじ)日本(にほん)ニ在留(ざいりう)スル監督(かんとく)ノ定(さだ)ムル所(ところ)ニ據(よ)ル)但(ただ)シ監督(かんとく)ハ常置委員(じやうちゐゝん)ト商議(しやうぎ)ノ上(うへ)臨時總會(りんじそうくわい)ヲ開(ひら)クコトヲ得(う)ベシ

第(だい)四條(でう) 總會(そうくわい)ハ監督(かんとく)及(およ)ビ其(その)認可状(にんかじやう)ヲ有(いう)スル諸敎職(しよけうしよく)(懲戒中(ちようかいちう)ノ者(もの)ヲ除(のぞ)ク)並(ならび)ニ各地方會(かくちほうくわい)ニテ選擧(せんきよ)シタル信徒(しんと)代議員(だいぎゐん)ヲ以(もつ)テ組織(そしき)スルモノトス(地方會(ちほうくわい)ノコト法規(はふき)第(だい)十章(しよう)ニ在(あ)リ)但(ただ)シ敎職(けうしよく)ノ人員增加(じんゐんぞうか)シタルトキハ敎職(けうしよく)モ信徒(しんと)ト同(おな)ジク代議員(だいぎゐん)ヲ出(いだ)スベキモノトス

第(だい)五條(でう) 會議(くわいぎ)ニ於(おい)テ監督(かんとく)ハ其(その)可否(かひ)ノ數(すう)ヲ別(べつ)ニスベシ、敎職(けうしよく)及(およ)ビ信徒代議員(しんとだいぎゐん)ハ之(こ)レヲ共(とも)ニシ又(また)ハ別(べつ)ニスルコトヲ得(う)ベシ、而(しか)シテ會議(くわいぎ)ノ可否(かひ)ハ監督(かんとく)ノ多數(たすう)ト敎職(けうしよく)及(およ)ビ信徒(しんと)代議員(だいぎゐん)ノ多數(たすう)ニ據(よ)ル但(たゞ)シ監督(かんとく)ノ數(すう)二名(めい)而巳(のみ)ナルトキハ若(も)シ其(その)一名(めい)敎職(けうしよく)信徒(しんと)ノ多數(たすう)ニ加(くは)ハレバ之(これ)ヲ議決(ぎけつ)セシ者(もの)トス

第(だい)六條(でう) 正當(せいたう)ニ召集(せうしふ)セル總會(そうくわい)ノ議權(ぎけん)ハ左(さ)ノ如(ゴト)シ
(一)本會(ほんくわい)ノ平安(へいあん)進歩(しんぽ)ニ係(かゝ)ル事件(じけん)ヲ議(ぎ)スルコト
(二)内外(ないぐわい)傳道會社(でんだうくわいしや)ヲ設立(せつりつ)シ之(これ)ヲ管理(くわんり)スルコト
(三)法規(はふき)ヲ改正(かいせい)スルコト
(四)法憲(はふけん)ヲ改正(かいせい)スルコト、但(ただ)シ其(その)改正案(かいせいあん)ヲ定期總會(ていきそうくわい)ニ提出(ていしゆつ)シ其(その)承認(しようにん)ヲ得(え)テ次(つぎ)ノ定期總會(ていきそうくわい)ニ於(おい)テ三分(ぶん)ノ二以上(いじやう)ノ同意(どうい)ヲ得(う)ルヲ要(えう)ス

第(だい)七條(でう) 總會議長(そうくわいぎちやう)ハ臨席(りんせき)スル先任(せんにん)ノ監督(かんとく)タルベシ

 提出(ていしゆつ)せられたる法規(はふき)草案(さうあん)十五章(しやう)中(ちゆう)、第(だい)一章(しやう)聖職(せいしよく)志願者(しぐわんしや)許可(きよか)の件(けん)、第(だい)二章(しやう)許可(きよか)を得(え)たる志願者(しぐわんしや)の件(けん)、第(だい)三章(しやう)命職試驗(めいしよくしけん)(聖職試驗(せいしよくしけん))の件(けん)、第(だい)四章(しやう)命職(めいしよく)(聖職(せいしよく)按手式(あんしゆしき))の件(けん)、第(だい)六章(しやう)監督(かんとく)の件(けん)、第(だい)八章(しやう)懲戒(ちようかい)(聖職懲戒(せいしよくちようかい))の件(けん)は其(その)審議(しんぎ)を延期(えんき)し、第(だい)十四章(しやう)結婚(けつこん)並(ならび)に離婚(りこん)の件(けん)は始(はじめ)より章(しやう)のみを置(おい)て其(その)内容(ないよう)の條項(でうこう)を示(しめ)さゞりしを以(もつ)て次回(じくわい)總會(そうくわい)に讓(ゆづ)り、其他(そのた)は改正(かいせい)增補(ぞうほ)して憲法(けんぱふ)と共(とも)に其(その)年(とし)九月(ぐわつ)より實施(じつし)する事(こと)になった。即(すなは)ち第(だい)五章(しやう)通則(つうそく)に於(おい)て敎職(けうしよく)(聖職(せいしよく))の心得(こゝろえ)に關(くわん)すること、第(だい)七章(しやう)命職(めいしよく)なき役員(やくゐん)即(すなは)ち傳道師(でんだうし)の心得(こゝろえ)に關(くわん)すること、第(だい)九章(しやう)常置委員(じやうちゐゐん)の選擧(せんきよ)及(および)資格(しかく)に關(くわん)すること、第(だい)十章(しやう)地方會(ちほうくわい)に關(くわん)すること、其(その)附則(ふそく)第(だい)一に於(おい)て東京(とうきやう)、大阪(おほさか)、熊本(くまもと)、函館(はこだて)を以(もつ)て地方會(ちほうくわい)の中央(ちゆうわう)と定(さだ)められた。第(だい)十一章(しやう)敎會委員(けうくわいゐゐん)に關(くわん)すること、第(だい)十二章(しやう)傳道會社(でんだうくわいしや)、第(だい)十三章(しやう)聖成(せいせい)せる建物(たてもの)、第(だい)十五章(しやう)會議(くわいぎ)の定數(ていすう)に關(くわん)する件(けん)を議決(ぎけつ)した。而(しか)して最後(さいご)の議題(ぎだい)は、公會(こうくわい)の名稱(めいしよう)であつた。此(これ)が確定(かくてい)を得(う)る迄(まで)には、諸説粉々(しよせつふんふん)として、從來(じうらい)呼(よ)び來(きた)りし監督(かんとく)敎會(けうくわい)の名稱(めいしよう)を維持(ゐぢ)すべしと云(い)うものあり、日本(にほん)基督(きりすと)敎會(けうくわい)と稱(しよう)すべしと主張(しゆちやう)せしものありしが、結局(けつきよく)多數(たすう)により、日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)と稱(しよう)する事(こと)に確定(かくてい)した。
 斯(かく)の如(ごと)くして茲(こゝ)に日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)は組織(そしき)せらるゝに至(いた)つた。是(こ)れ實(じつ)に日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)の誕生(たんじやう)にして、公會(こうくわい)の歴史(れきし)に特筆(とくひつ)大書(たいしよ)すべき大事件(だいじけん)であつた。而(しか)して茲(こゝ)に新(あらた)に誕生(たんじやう)したる日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)が、永久(えいきう)に記憶(きおく)して忘(わす)るべからるものは、此(この)總會(そうくわい)の議長(ぎちやう)にして、日本(にほん)に於(お)ける基督敎會(きりすとけうくわい)の基礎(きそ)を据(すゑ)ることを許(ゆる)さるゝを以(もつ)て、天下(てんか)またと無(な)き喜(よろこび)とし、多年(たねん)産(うみ)の劬勞(くるしみ)をなしたる師父(しふ)、監督(かんとく)ウイリアムス師(し)其(そ)の人(ひと)である。

八、信敎(しんけう)の自由(じいう)

 監督(かんとく)が我(わ)が政府(せいふ)をして、基督敎(きりすとけう)禁制(きんせい)の法令(はふれい)を撤廢(てつぱい)し、信仰(しんかう)の自由(じいう)を許容(きよよう)するに至(いた)らしめんが爲(た)めに、隱然(いんぜん)力(ちから)を盡(つく)されたることは、先(さき)に述(の)べたるが、明治(めいぢ)六年(ねん)政府(せいふ)は基督敎(きりすとけう)禁制(きんせい)の高札(かうさつ)を撤去(てつきよ)し、爾來(じらい)基督敎(きりすとけう)に對(たい)し緩和(くわんわ)政略(せいりやく)を取(と)るに至(いた)りたれば、師(し)は將來(しやうらい)必(かな)らず日本政府(にほんせいふ)は、更(さら)に進(すゝ)んで信敎(しんけう)自由(じいう)を公許(こうきよ)するに至(いた)るべしと信(しん)じ、我國(わがくに)の前途(ぜんと)に幾多(いくた)の希望(きばう)を懷(いだ)いて、愈々(いよいよ)直接(ちよくせつ)傳道(でんだう)に全力(ぜんりよく)を傾注(けいちう)せられた。明治(めいぢ)八九年(ねん)頃(ごろ)の師(し)の書簡(しよかん)には、今後(こんご)十年(ねん)には日本(にほん)の宗敎界(しうけうかい)に大變革(だいへんかく)あるべしと、屡(しばし)ば記述(きじゆつ)されたるが、師(し)の期待(きたい)せし如(ごと)く、明治(めいぢ)二十二年(ねん)二月(ぐわつ)憲法(けんぱふ)は發布(はつぷ)せられ、日本國民(にほんこくみん)は信敎(しんけう)の自由(じいう)を有(いう)することゝなつた。此(この)年(とし)の報告中(ほうこくちゆう)に、師(し)は曰(いは)く、

『世界(せかい)の歴史上(れきしじやう)に特筆大書(とくひつたいしよ)す可(べ)き一大事件(だいじけん)は起(おこ)りたり、其(その)關(くわん)する所(ところ)、日本帝國(にほんていこく)の前途(ぜんと)に繋(つなが)り、成果(せいか)の見(み)る可(べ)きもの頗(すこぶ)る多(おほ)かる可(べ)し。日本國(にほんこく)皇帝(くわうてい)は去(さ)る二月(ぐわつ)十一日(にち)を以(もつ)て、完美(くわんび)なる憲法(けんぱふ)を發布(はつぷ)し給(たま)へり。蓋(けだ)し數年前(すうねんぜん)の勅詔(ちよくせう)を履行(りかう)し玉(たま)ひたるなり(中略(ちゆうりやく))此(この)憲法(けんぱふ)の發布(はつふ)により、日本帝國(にほんていこく)は一躍(やく)して專制國(せんせいこく)より、立憲(りつけん)君主國(くんしゆこく)に進歩(しんぽ)し、議會(ぎくわい)を召集(せうしう)して、法律(はふりつ)を制定(せいてい)し、貴賤(きせん)を問(と)はず貧富(ひんふ)を論(ろん)せず、全國民(ぜんこくみん)をして悉(ことごと)く之(こ)れに服從(ふくじゆ)せしむるに至(いた)れり。
  此(この)憲法(けんぱふ)を閲(けみ)するに、我等(われら)此(この)國(くに)の傳道(でんだう)に從事(じゆうじ)するものに取(と)りて、重大(ぢゆうだい)なる影響(えいきやう)を及(およ)ぼすべき箇條(かでう)あり、同(どう)二十八條(でう)に曰(いは)く、日本(にほん)臣民(しんみん)は(中略(ちゆうりやく))信敎(しんけう)の自由(じいう)を有(いう)すと、是(こ)れ即(すなは)ち將來(しやうらい)に於(おい)て、基督敎(きりすとけう)を寬容(くわんよう)すと公言(こうげん)するものと云(い)ふべし。何(なん)となれば佛敎(ぶつけう)神道(しんだう)の如(ごと)きは、從來(じゆうらい)自由(じいう)に放任(ほうにん)せられ、之(これ)に就(つい)て寬容(くわんよう)問題(もんだい)の起(おこ)りたること未(いま)だ曾(かつ)てあらざればなり。抑々(そもそも)此(この)箇條(かでう)の精神(せいしん)たるや、幾多(いくた)の基督敎徒(きりすとけうと)を招致(せうち)し、奮(ふる)つて基督(きりすと)の宗敎(しうけう)を此(この)日出(ひので)の國(くに)に傳播(でんぱん)せしめんとするものに外(ほか)ならず、而(しか)して各派(かくは)の宣敎師(せんけうし)は今(いま)や來(きた)りて群(ぐん)をなすに至(いた)れり。昨年末(さくねんまつ)の統計(とうけい)によれば、新敎(しんけう)宣敎師(せんけうし)の此(この)國(くに)に在留(ざいりう)する者(もの)四百四十三名(めい)にして、内(うち)既婚者(きこんしや)百五十名(めい)、未婚者(みこんしや)男(をとこ)二十七名(めい)女(をんな)百二十四名(めい)なり。天主(てんしゆ)敎會(けうくわい)は監督(かんとく)二名(めい)、敎職(けうしよく)八十名(めい)、婦人(ふじん)傳道者(でんだうしや)四十名(めい)にして、希臘(ぎりしや)敎會(けうくわい)は監督(かんとく)一名(めい)、敎師(けうし)二名(めい)により代表(だいへう)せられたり。翻(ひるがへつ)て我(わ)が敎會(けうくわい)を見(み)るに、既婚者(きこんしや)男(をとこ)九人(にん)、未婚者(みこんしや)男(をとこ)二人(にん)、未婚(みこん)婦人(ふじん)九人(にん)、合(あは)せて其(その)數(すう)僅(わづか)に二十九名(めい)に過(すぎ)ざるなり。
  我(わ)が敎會(けうくわい)は此(この)興味(きようみ)ある國民(こくみん)を導(みちび)きて、主(しゆ)耶蘇(えいす)を知(し)らしめ、之(これ)を信仰(しんかう)せしむる大事業(だいじげふ)をなさんとするに、豫(あらかじ)め其(その)取(と)るべき方針(はうしん)と、爲(な)すべき事業(じけふ)を決定(けつてい)せざるべからず、而(しかう)して其(その)所決(しよけつ)は神速(じんそく)に之(これ)を斷行(だんかう)せざる可(べ)からず。然(しか)るに我(わ)が敎會(けうくわい)は、從來(じゆうらい)其(その)責任(せきにん)を盡(つく)して毫(がう)も遺憾(ゐかん)なしと云(い)ふこと能(あた)はざるを如何(いかん)せん。畢竟(ひつきやう)敎會(けうくわい)が今(いま)に至(いた)るまで、敎役者(けうえきしや)の數(すう)に多(おほ)きを加(くは)ふることに努(つと)めざりしは、其(その)職責(しよくせき)を全(まつた)ふする能(あた)はざる一原因(げんいん)にして、今(いま)や新條約(しんでうやく)實施(じつし)の結果(けつくわ)、日本全國(にほんぜんこく)を擧(あ)げて之(これ)を外人(ぐわいじん)の自由(じいう)に開放(かいはう)するに至(いた)りたれば、外國(ぐわいこく)宣敎師(せんけうし)は何處(いづこ)に旅行(りよかう)するも何處(いづこ)に住居(ぢゆうきよ)するも、何等(なんら)の拘束(かうそく)を得(う)ることなきの好時機(かうじき)に際會(さくわい)して、此(この)欠乏(けつぼう)の彌々(いよいよ)明白(めいはく)なるを知(し)るなり』と。

 明治(めいぢ)二十二年(ねん)の報告(はうこく)は、師(し)が監督(かんとく)としての最後(さいご)の報告(はうこく)であつた。切支丹(きりしたん)邪宗門(じゆしうもん)禁制(きんせい)の法令(はふれい)が嚴重(げんぢゆう)に行(おこな)はれたる當時(たうじ)來任(らいにん)し、監督職(かんとくしよく)に就(つ)きし明治(めいぢ)初年(しよねん)に、禁敎(きんけう)撤廢(てつぱい)に盡力(じんりよく)せられたる師(し)は、退職(たいしよく)の其(その)年(とし)而(し)かも最後(さいご)の報告中(はうこくちゆう)に、憲法(けんぱふ)の發布(はつぷ)、信敎(しんけう)自由(じいう)の喜報(きはう)を本國(ほんごく)に致(いた)すことができたは、いかに監督(かんとく)の喜悅(よろこび)と滿足(まんぞく)であつたらう。憲法(けんぱふ)發布(はつぷ)の當日(たうじつ)、師(し)は新聞(しんぶん)の號外(がうぐわい)を讀(よ)んで、喜色(きしよく)滿面(まんめん)に溢(あふ)れ、殆(ほと)んど手(て)の舞(ま)ひ足(あし)の踏(ふ)むを知(し)らざるものゝ如(ごと)く、歡喜(よろこ)ばれたさうであるが、過去(くわこ)四十年間(ねんかん)の生涯(しやうがい)を我國(わがくに)に献(さゝ)げ、自(みづか)ら所謂(いはゆる)、此(この)興味(きようみ)深(ふか)き國民(こくみん)敎化(けうくわ)のために、心血(しんけつ)を注(そゝ)ぎたる師(し)が、當時(たうじ)の歡喜(よろこび)、察(さつ)するに餘(あま)りあることである。

九、監督の退職

 明治(めいぢ)二十二年(ねん)四月(ぐわつ)、東京(とうきやう)立敎(りつけう)大學(だいがく)に於(おい)て開かれたる日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)第(だい)二總會(そうくわい)が、師(し)を議長(ぎちやう)として重要(ぢゆうえう)なる諸件(しよけん)を決議(けつぎ)し、成功(せいこう)を以(もつ)て終(をは)りし後(のち)、師(し)は一宣敎師(せんけうし)か米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)總會(そうくわい)に參列(さんれつ)する爲(ため)に、歸國(きこく)するに際(さい)し、監督院(かんとくゐん)に呈出(ていしゆつ)すべく、一書(しよ)を託(たく)された。當時(たうじ)何人(なんびと)も其(その)書(しよ)の内容(ないよう)を知(し)らざりしが、此(この)年(とし)十月(ぐわつ)突如(とつぢよ)として、監督(かんとく)は辭表(じへう)を呈出(ていしゆつ)せりとの報(ほう)が我國(わがくに)に傳(つたは)つた。師(し)が辭表(じへう)を呈出(ていしゆつ)せられたるは、特別(とくべつ)なる理由(りいう)があつたのではない。駸々(しんしん)として文明(ぶんめい)に其(その)歩(ほ)を進(すゝ)めつゝある日本(にほん)に於(おい)ては、敎會(けうくわい)の首腦者(しゆなうしや)なるものは、新進氣鋭(しんしんきえい)の人物(じんぶつ)たらざるべからず。豫(よ)は老躯(らうく)此(この)大任(たいにん)に堪(た)へずと云(い)ふにあつたさうである。惟(おも)ふに日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)は既(すで)に組織(そしき)せられ、公會(こうくわい)の經營(けいえい)益々(ますます)多事(たじ)となり、條約(でうやく)改正(かいせい)の實施(じつし)、憲法(けんぱふ)の發布(はつぷ)は日本(にほん)傳道(でんだう)の好時機(かうじき)となりたれば、此(この)秋(とき)に際(さい)し内(うち)は經綸(けいりん)あり、學識(がくしき)ある敏腕(びんわん)の首腦者(しゆなうしや)を要(えう)し、外(そと)は專心(せんしん)基督(きりすと)を傳(つた)ふる眞箇(しんこ)の傳道者(でんだうしや)を要(よう)すとは、師(し)の深(ふか)く感知(かんち)せられたことであらう。而(しかう)して師(し)は前者(ぜんしや)を以(もつ)て其(その)器(うつは)にあらずとし、自(みづか)ら監督(かんとく)の職衣(しよくい)を脱(だつ)して、後者(こうしや)たらんことを欲(ほつ)したのであらう。監督院(かんとくゐん)に於(おい)ては熟議(じゆくぎ)の上(うへ)、師(し)か多年(たねん)の功勞(こうらう)に對(たい)し謝意(しやい)を表(へう)し十月(ぐわつ)十八日(にち)を以(もつ)て、師(し)の辭職(じしよく)を承認(しようにん)した。
 師(し)が監督職(かんとくしよく)を退(しりぞ)かるゝや、米國(べいこく)傳道局(でんだうきよく)本部(ほんぶ)は後任者(こうにんしや)の選定(せんてい)に苦(くる)しみ、數年間(すうねんかん)そのまゝ缺位(けつゐ)となりをりたれば、其(その)間(かん)師(し)は常置委員(じやうちゐゐん)の請願(せいぐわん)により、監督(かんとく)の敎務(けうむ)を行(おこな)はれた。後(の)ち傳道局(でんだうきよく)本部(ほんぶ)より、臨時(りんじ)監督(かんとく)職務(しよくむ)執行(しつかう)の爲(た)めに、南(みなみ)タコタの傳道(でんだう)監督(かんとく)ヘヤー博士(はかせ)を派遣(はけん)されたれば、それより師(し)は東京(とうきやう)地方(ちはう)に於(おい)て、長老(ちやうらう)の職務(しよくむ)を執(と)られた。明治(めいぢ)二十六年(ねん)三月(ぐわつ)、ジヨン、マキム師(し)日本(にほん)傳道(でんだう)監督(かんとく)に選擧(せんきよ)せられ、同年(どうねん)七月(ぐわつ)十四日(か)監督(かんとく)の按手(あんしゆ)を受(う)けて、我國(わがくに)に歸任(きにん)せらるゝに及(およ)び、師(し)は瓢然(へうぜん)去(さ)つて暫時(ざんじ)本國(ほんごく)に於(おい)て休養(きうやう)せられたるが、後(の)ち再(ふたゝ)び瓢然(へうぜん)として來(きた)り、マキム監督(かんとく)の管下(くわんか)に在(あ)つて、京都(きやうと)地方(ちはう)に於(おい)て長老(ちやうらう)の職務(しよくむ)を執(と)らるゝことゝなられた。