第十一編 京都時代

第十一編 京都時代

一、京都時代に於ける活動

 明治(めいぢ)二十八年(ねん)二月(ぐわつ)、監督(かんとく)は京都(きやうと)地方(ちほう)に於(おい)て、長老(ちやうらう)の職務(しよくむ)を執(と)らるゝ事(こと)となり、同年(どうねん)二月(ぐわつ)中旬(ちゆうじゆん)東京(とうきやう)より京都(きやうと)に轉(てん)じ、同市(どうし)三本木(ぼんぎ)に日本(にほん)家屋(かをく)を借受(かりう)け、敎役者(けうえきしや)家族(かぞく)と同棲(どうせい)し、京都(きやうと)聖(せい)三一敎會(けうくわい)、五條(でう)講義所(後(の)ち聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい))大津(おほづ)基督(きりすと)敎會(けうくわい)、堺(さかひ)聖提摩手(せいてもて)敎會(けうくわい)の主任(しゆにん)長老(ちやうらう)となり、孜々(しゝ)として敎務(けうむ)に鞅掌(あうしやう)せられた。同年(どうねん)八月(ぐわつ)居(きよ)を大阪(おほさか)に移(うつ)し、三十一年(ねん)四月(ぐわつ)に至(いた)るまで、西區(にしく)川口町(かはぐちまち)に住(ぢゆう)された。前期(ぜんき)諸敎會(しよけうくわい)主任(しゆにん)長老(ちやうらう)の職(しよく)を執(と)らるゝと與(とも)に、當時(たうじ)大阪(おほさか)にありし傳道女館(でんだうぢよくわん)の校長(かうちやう)兼(けん)敎授(けうじゆ)として、祈禱書(きたうしよ)及(およ)び敎會(けうくわい)歴史(れきし)の二科(くわ)を擔任(たんにん)し、婦人(ふじん)敎役者(けうえきしや)の養成(やうせい)に努(つと)められた。又(ま)た此(この)頃(ころ)師(し)は、新傳道地(しんでんだうち)開始(かいし)の目的(もくてき)にて、越前(ゑちぜん)、丹波(たんば)、丹後(たんご)地方(ちほう)の視察(しさつ)に赴(おもむ)かれたるが、歸來(きらい)直(たゞち)に福井(ふくゐ)、舞鶴(まひづる)、宮津(みやづ)の傳道(でんだう)に着手(ちやくしゆ)し、自(みづか)ら舞鶴(まひづる)、宮津(みやづ)新傳道地(しんでんだうち)の任務(にんむ)を負(お)はれた。三十一年(ねん)四月(ぐわつ)、再(ふたゝ)び京都(きやうと)に居(きよ)を移(うつ)し、時(とき)には聖(せい)三一敎會(けうくわい)附屬室(ふぞくしつ)に假居(かきよ)し、時(とき)には京都(きやうと)地方部(ちほうぶ)監督(かんとく)事務所内(じむしよない)の一室(しつ)に起居(ききよ)せしが後(の)ち烏丸(からすまる)に粗造(そざう)の住宅(ぢゆうたく)を建(た)てられた。此(この)家(いへ)は三十三年(ねん)二月(ぐわつ)に落成(らくせい)したるが、師(し)が我國(わがくに)在留(ざいりう)五十年間(ねんかん)に於(おい)て、自己(じこ)のために建(た)てられた最初(さいしよ)の家(いへ)にして、また最後(さいご)の家(いへ)であった。 其(その)後(のち)之(これ)を五條(でう)なる聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)の傍(かたはら)に移(うつ)し、最後(さいご)まで其處(そこ)に住(すま)はれた。三十三年(ねん)三月(ぐわつ)、長老(ちやうらう)パツトン氏(し)聖(せい)三一敎會(けうくわい)主任(しゆにん)長老(ちやうらう)に任(にん)ぜられ、師(し)が同敎會(どうけうくわい)の任務(にんむ)は解(と)かれたるも、更(さら)に同年(どうねん)七月(ぐわつ)岸和田(きしわだ)に傳道(でんだう)を開始(かいし)し、定住(ていぢゆう)傳道師(でんだうし)を遣(つかは)し、師(し)自(みづか)ら日(ひ)を定(さだ)めて出張(しゆつちやう)する事(こと)にせられた。斯(か)くして師(し)は、前記(ぜんき)諸敎會(しよけうくわい)及(およ)び新傳道地(しんでんだうち)の主任(しゆにん)長老(ちやうらう)として、出(い)でゝは東奔西走(とうほんせいさう)、各地(かくち)の牧會(ぼくくわい)傳道(でんだう)に全力(ぜんりよく)を盡(つく)し、京都(きやうと)に在(あ)つては、聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)の敎務(けうむ)に盡瘁(じんすい)し、又(ま)た傳道女館(でんだうぢよくわん)(當時(たうじ)京都(きやうと)に移(うつ)りし)に熱心(ねつしん)敎鞭(けうべん)を執(と)られた。明治(めいぢ)三十年(ねん)より同(どう)三十八年(ねん)までは、師(し)が京都(きやうと)地方(ちほう)に於(おい)て牧會(ぼくくわい)に傳道(でんだう)に敎育(きよういく)に、全力(ぜんりよく)を傾注(けいちゆう)し最(もつと)も忙(いそが)しく活動(くわつどう)された時期(じき)であつて、是(これ)ぞ老後(らうご)の思出(おもひで)の一合戰(がつせん)、最後(さいご)の一大奮鬪(だいふんたう)であつた。

二、老衰

 然(しかし)ながら、師(し)の内(うち)なる人(ひと)は日々(ひゞ)に新(あらた)にして、剛(つよく)健(すこやか)なりしとはいへ、八十路(やそぢ)の坂(さか)に近(ちか)き老體(らうたい)の事(こと)とて、痛(いた)くも窶(やつ)れたまひ、衰弱(すゐじやく)は著(いちじる)しく人々(ひとびと)の憂慮(いうりよ)する所(ところ)となつたのも、此(この)頃(ごろ)からであつた。 三十二年中(ねんちゆう)に、師(し)は福知山(ふくちやま)から舞鶴(まひづる)に至(いた)る途中(とちゆう)にて、人車(じんしや)轉覆(てんぷく)し大負傷(だいふしやう)せられたことがあつたが、其(その)後(のち)屡(しばし)ば卒倒(そつたう)することがあるので、舞鶴(まひづる)、宮津(みやづ)の如(ごと)き、當時(たうじ)阪鶴線(はんかくせん)は漸(やうや)く福知山(ふくちやま)迄(まで)開通(かいつう)したばかりであつたから、かゝる遠隔(ゑんかく)の地(ち)に老體(らうたい)の師(し)を、獨(ひと)り赴(おもむ)かしむるは危險(きけん)なりと、パートリツチ監督(かんとく)及(およ)び其他(そのた)の人々(ひとびと)は、師(し)の身(み)を氣遣(きづか)ひて、他(た)の長老(ちやうらう)をして代(かは)つて巡回せしむるやうと、頻(しきり)に師(し)に勸(すす)めたれど、氣丈(きぢやう)の師(し)は頑(ぐわん)として聽(き)き容(い)れず、自己(じこ)の任務(にんむ)のために他人(たにん)を煩(わづら)はすは快(こゝろよ)からずと、僅(わづか)に冬季中(とうきちゆう)出張(しゆつちやう)を見合(みあは)せたるのみにて、相變(あひかは)らず老軀(らうく)を提(ひつさ)げて巡回(じゆんくわい)せられ、三十四年(ねん)十月(ぐわつ)先(さき)に歸國(きこく)されし長老(ちやうらう)グリンク氏(し)が、再(ふたゝ)び來朝(きてう)し新(あらた)に舞鶴(まひづる)に赴任(ふにん)を命(めい)ぜられ、茲(こゝ)に代(かは)つて該地方(がいちほう)の主任(しゆにん)長老(ちやうらう)の職(しよく)を執(と)らるゝ人(ひと)を得(え)し迄(まで)は、一回(くわい)も巡回(じゆんくわい)の定日(ていじつ)を缺(かゝ)さず、其(その)職責(しよくせき)を盡(つく)された。

三、歸國休養

 明治(めいぢ)三十六年(ねん)十月(ぐわつ)三十日(にち)、師(し)は瓢然(へうぜん)として京都(きやうと)を去(さ)り、同(どう)三十一日(にち)橫濱(よこはま)を出帆(しゆつぱん)し歸米(きべい)の途(と)に就(つ)かれた。此(こ)は、パートリツチ監督(かんとく)が、師(し)の衰弱(すゐじやく)益々(ますます)甚(はなはだ)しきを憂(うれ)ひ、容易(ようい)に承諾(しようだく)がなかつた師(し)に強(し)ひて勸(すゝ)め、一年間(ねんかん)休養(きうやう)すべく歸米(きべい)せしめたのであつた。航海中(かうかいちゆう)師(し)は病(やまひ)を發(はつ)して、布哇(はわい)に上陸(じやうりく)し三週間(しゆうかん)程(ほど)療養(れうやう)せられたるが、幸(さひはい)に快復(くわいふく)し恙(つゝが)なく本國(ほんごく)に到着(たうちやく)し、カルホルニヤの親戚(しんせき)の許(もと)に在(あ)つて、靜養(せいやう)せられた。 滿(まん)一年(ねん)の後(のち)、三十七年(ねん)十月(ぐわつ)三十一日(にち)、米國(べいこく)より橫濱(よこはま)に歸着(きちやく)し、十一月(ぐわつ)一日(にち)再(ふたゝ)び瓢然(へうぜん)として京都(きやうと)に歸(かへ)り來(きた)られた。師(し)は其(その)去來(きよらい)を誰(だれ)にも知(し)らせなかつたから、人々(ひとびと)は唯(た)だ事(こと)の意外(いぐわい)に驚(おどろ)くばかりであつた。再(ふたゞ)び京都(きやうと)に歸(かへ)られた監督(かんとく)は、一年間(ねんかん)の休養(きうやう)に、稍(や)や健康(けんかう)を回復(くわいふく)したる如(ごと)く見(み)へたるが、そは暫(しば)しの間(あひだ)であつた。氣丈(きぢやう)にして容易(ようい)に屈(くつ)せぬ師(し)は、京都(きやうと)聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)、大津(おほつ)基督(きりすと)敎會(けうくわい)、岸和田(きしわだ)聖保羅(せいぱうろ)敎會(けうくわい)の主任(しゆにん)長老(ちやうらう)として、其(その)職(しよく)を勵(はげ)まれたるが、寄(よ)る歳波(としなみ)を如何(いか)にせん、三十八年(ねん)の末頃(すへごろ)には、一(ひと)しほ窶(やつ)れ果(は)てられ、次第(しだい)に視力(しりよく)は衰(おとろ)へ身體(しんたい)は自由(じいう)を失(うしな)ひ、悲(かな)しいかな、最早(もは)や當年(たうねん)の英姿健軀(えいしけんく)は、再(ふたゝ)び見(み)る影(かげ)だに無(な)くなつた。然(しか)しながら、師(し)はかくも老衰(らうすゐ)の身(み)を以(もつ)て、猶(な)ほ大津(おほつ)岸和田(きしわだ)に出張(しゆつちやう)し、或(あるひ)は聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)の敎務(けうむ)を執(と)り、餘暇(よか)には敎會(けうくわい)歴史(れきし)問答(もんだふ)編纂(へんさん)完成(くわんせい)を忙(いそ)がれた。

四、聖約翰敎會建設

 是(これ)より先(さき)、師(し)は聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)の聖堂(せいだう)建設(けんせつ)を希望(きばう)せられ、多年(たねん)力(ちから)を盡(つく)されたるが、遂(つひ)に同敎會(どうけうくわい)は師(し)の盡力(じんりよく)により、下京區(しもきやうく)寺町(てらまち)五條(でう)下(くだ)るに土地(とち)を購求(こうきう)し、三十九年(ねん)聖堂(せいだう)新築(しんちく)に着手(ちやくしゆ)するに至(いた)つた。此(この)年(とし)八月(ぐわつ)、師(し)は烏丸(からすまる)の自邸(じてい)を聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)新築(しんちく)地内(ちない)に移(うつ)した。明治(めいぢ)四十年(ねん)五月(ぐわつ)十六日(にち)師(し)が多年(たねん)の希望(きばう)なりし聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)新聖堂(しんせいだう)は竣工(しゆんこう)し、同日(どうじつ)午前(ごぜん)十時(じ)よりマキム監督(かんとく)司式(ししき)の下(もと)に、莊嚴(さうごん)なる献堂式(けんだうしき)は執行(しつかう)せらるゝに至(いた)つた。基督敎(きりすとけう)週報(しうほう)は、當日(たうじつ)の光景(くわうけい)を報(はう)じて、左(さ)の如(ごと)く記載(きさい)した。

『五月(ぐわつ)十六日(にち)午前(ごぜん)十時(じ)、マキム監督(かんとく)司式(ししき)の下(もと)に執行(しつかう)せらる。參列(さんれつ)の聖職(せいしよく)は、ロイド、コルレル、グリング、ドーマン、カスバート、ライフスナイダー、近重(ちかしげ)、名出(ないで)、早川(はやかは)、多川(たがは)、山田(やまだ)、袋井(ふくろゐ)、山邊(やまべ)の諸長老(しよちやうらう)、菅(くわん)、曾根(そね)、大橋(おほはし)、尾形(をがた)、岡本(をかもと)、中村(なかむら)、村田(むらた)の諸執事(しよしつじ)にして、名出(ないで)長老(ちやうらう)は聖別書(せいべつしよ)を朗讀(らうどく)し、早禱(さうたう)は村田(むらた)執事(しつじ)、早川(はやかは)長老(ちやうらう)により捧(さゝ)げられ、第(だい)一日課(につくわ)は袋井(ふくろゐ)長老(ちやうらう)、第(だい)二日課(につくわ)は山田(やまだ)長老(ちやうらう)使徒書(しとしよ)と福音書(ふくいんしよ)は、山邊(やまべ)長老(ちやうらう)コルレル長老(ちやうらう)によりて讀(よま)れたり。此(この)日(ひ)の説敎者(せつけうしや)たる多川(たがは)長老(ちやうらう)は、謹肅莊重(きんしゆくさうちやう)の言(げん)を以(もつ)て、會堂(くわいだう)の神聖(しんせい)を説(と)き、最(もつと)も狹隘(けふあい)たるを以(もつ)て有名(いうめい)なりし會堂(くわいだう)が、此(か)く莊嚴(さうごん)なるものとなりしに就(つい)ての感慨(かんがい)を述(のべ)るや、敎會(けうくわい)の關係者(くわんけいしや)は何(いづ)れも感極(かんきはま)りて流涕(りうてい)を禁(きん)ずること能(あた)はざりき。此(この)日(ひ)聖餐(せいさん)に陪(ばい)せしものは、諸聖職(しよせいしよく)と敎會(けうくわい)委員(ゐゐん)、奧山(おくやま)、南(みなみ)、佐野(さの)、東(あづま)、安井(やすゐ)の五氏(し)に限(かぎ)られたり。會衆(くわいしゆう)は百七十有餘(いうよ)にして、式後(しきご)茶菓(さくわ)折詰(をりづめ)の饗應(きやうおう)ありき。老監督(らうかんとく)ウイリアムス氏(し)は、式前(しきぜん)忽(たちま)ち去(さ)りて、大津(おほつ)に瀕死(ひんし)の病者(びやうしや)を見舞(みま)はれ、式後(しきご)歸(かへ)り來(きた)りて、會員(くわいゐん)に滿腔(まんこう)の感謝(かんしや)と喜悅(きえつ)を表(あら)はされたり。』

五、博士ロイド氏の日本傳道視察談の一節

 當時(たうじ)我國(わがくに)の敎條視察(けうじやうしさつ)に來(きた)りし、米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)傳道(でんだう)會社(くわいしや)理事長(りじちやう)博士(はかせ)ロイド氏(し)は、此(こ)の献堂式(けんだうしき)に參列(さんれつ)せられたるが、本國(ほんごく)に歸(かへ)りし後(のち)、傳道(でんだう)會社(くわいしや)機關紙(きくわんし)上(じやう)に掲載(けいさい)したる日本(にほん)傳道(でんだう)視察談中(しさつだんちゆう)に、献堂式(けんだうしき)參列(さんれつ)の事(こと)を記(しる)し、且(か)つウイリアムス監督(かんとく)に就(つ)き左(さ)の如(ごと)く記述(きじゆつ)した。

『聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)の聖別(せいべつ)が、地方會(ちほうくわい)終結(しゆふけつ)の時(とき)に定(さだ)められたるは眞(しん)に滿足(まんぞく)の極(きはみ)なりき。建物(たてもの)は優(いう)に四百人(にん)を容(い)るべく、階下(かいか)を會館(くわいくわん)に用(もち)ひ得(う)るやう都合(つがふ)よく出來(でき)居(を)れり。相當(さうたう)の敎會堂(けうくわいだう)を得(え)たしとは、監督(かんとく)ウイリアムス師(し)の多年(たねん)の夢(ゆめ)なりしが、當日(たうじつ)此(この)夢(ゆめ)の實現(じつげん)の喜(よろこび)を同師(どうし)と供(とも)にせんとて、來會(らいくわい)せる人(ひと)は滿堂(まんだう)の樣(さま)なりき。然(しか)るに肝心(かんじん)のウイリアムス監督(かんとく)は缺席(けつせき)して、姿(すがた)を見(み)せざりしは同師(どうし)の特色(とくしよく)とも謂(い)ふべき歟(か)、師(し)は當日(たうじつ)早朝(さうてう)マキム監督(かんとく)に一書(しよ)を遺(のこ)し、式中(しきちゆう)己(おのれ)の事(こと)に一言(ごん)も言(い)ひ及(およ)ばぬ樣(やう)呉々(くれぐれ)懇願(こんぐわん)して行方(ゆくへ)知(し)れずになりぬ。説敎者(せつけうしや)は今(い)ま東京(とうきやう)聖(せい)三一敎會(けうくわい)の牧師(ぼくし)にして、嘗(かつ)て聖約翰(せいよはね)に於(おい)てウイリアムス師(し)を助(たす)けて働(はたら)きたる日本(にほん)敎役者(けうえきしや)、多川(たがは)幾造(いくざう)氏(し)なりき。氏(し)は成丈(なるた)け監督(かんとく)の希望(きばう)を尊重(そんちよう)されたれども、其(その)婉曲(ゑんきよく)に同師(どうし)の事(こと)を述(の)べたるところは、自(みづか)ら日本(にほん)敎會(けうくわい)の心(こゝろ)を導(みちび)きて、其(その)第(だい)一監督(かんとく)を想(おも)はしめざるを得(え)ざりき。
 余(よ)は憶(おも)ふ。凡(およ)そ人(ひと)、他人(たにん)の爲(た)めに働(はたら)きて、此(か)くも著(いちじる)しく人心(じんしん)を感動(かんどう)せしむるといふことは、洵(まこと)に稀(まれ)に人間(にんげん)の有(いう)する運命(うんめい)なりと、而(しかう)して其(その)感動(かんどう)や全(まつた)く生涯(しやうがい)と活動(くわつどう)に、專心(せんしん)一意(い)なるより來(きた)れるものなることは、日本人(にほんじん)にも米人(べいじん)にも共(とも)に幸(さいはひ)なることならずや。米國(べいこく)が日本(にほん)の爲(た)めに他(た)に何事(なにごと)を爲(な)すとも、(米國(べいこく)は文明(ぶんめい)の恩澤(おんたく)と共(とも)に隨分(ずゐぶん)ひどきものを與(あた)へつゝあり)、日本(にほん)の監督(かんとく)ウイリアムス師(し)を與(あた)へたること丈(だ)けは、いかにも滿足(まんぞく)の至(いた)りなり』(基督敎(きりすとけう)週報(しうはう)第(だい)十六卷(くわん)第(だい)五號(がう))

六、最後の巡回

 明治(めいぢ)四拾壹年(ねん)三月(ぐわつ)第(だい)四土曜日(どえうび)、師(し)は例(れい)により岸和田(きしわだ)に赴(おもむ)かれたるが、是(これ)ぞ師(し)が最終(さいしゆふ)の巡回(じゆんくわい)であつた。此(この)日(ひ)は岸和田(きしわだ)巡回(じゆんくわい)の定日(ていじつ)であつたので、同地(どうち)の菅(くわん)牧師(ぼくし)はいつもの如(ごと)く、師(し)を停車場(ていしやば)に出迎(でむか)へしに、意外(いぐわい)にも師(し)は車掌(しやしよう)に助(たす)けられ下車(げしや)せしかば、何(なに)か異變(いへん)にてもありしことかと、急(いそ)ぎ馳(は)せて手(て)を取(と)り參(まゐ)らせしに、師(し)は菅氏(くわんし)を見(み)らるゝや、菅(くわん)よ余(よ)は再(ふたた)び岸和田(きしわだ)に來(きた)る能(あた)ふまじと云(い)ひ、非常(ひじやう)に失望(しつばう)の體(てい)なりしゆへ、途中(とちゆう)病氣(びやうき)の起(おこ)りしかと尋(たづ)ぬれば、否(い)な少(すこ)し疲勞(ひらう)せしのみと云(い)ふ。人車(じんしや)にて菅氏(くわんし)宅(たく)に至(いた)りし後(のち)も、氣分(きぶん)勝(すぐ)れざるやうなれば、菅氏(くわんし)家族(かぞく)は大(おほい)に心痛(しんつう)された。然(しか)るに夕刻(ゆふこく)に至(いた)りて機嫌(きげん)平常(へいじやう)に復(ふく)し、何時(いつ)もの如(ごと)く子供等(こどもら)と戲(たはむ)れたれば、一同(どう)愁眉(しゆうび)を開(ひら)き、徐(おもむ)ろに途中(とちゆう)の樣子(やうす)を尋(たづね)たるに、此(この)日(ひ)梅田驛(うめだえき)にて下車(げしや)の際(さい)、烈(はげ)しく顛倒(てんだふ)して一時(じ)は人事不省(じんじふせい)に陷(おちゐ)つた。驛員(えきゐん)に助(たす)けられ休息(きうそく)の後(のち)、人車(じんしや)にて難波驛(なんばえき)に至(いた)り切符(きつぷ)を求(もと)めんとせしに、如何(いか)にしけん、何處(いづこ)に行(ゆ)くのか思(おも)ひ出(いだ)す能(あた)はず、驛夫(えきふ)や巡査(じゆんさ)が來(き)て親切(しんせつ)に沿線(えんせん)の驛名(えきめい)を順序(じゆんじよ)列擧(れつきよ)されしも、猶(な)ほ思(おも)ひ出(いだ)さず當惑(たうわく)せる折柄(をりから)、堺(さかひ)聖提摩手(せいてもて)敎會(けうくわい)の一靑年(せいねん)來合(きあは)せて、監督(かんとく)さん岸和田(きしわだ)に御越(おこし)ですか、と聲(こゑ)を掛(かけ)られたので、漸(やうや)く行先(ゆくさき)を知(し)つたといふ事(こと)である。
師(し)は仔細(しさい)を語(かた)り終(をは)り、痛(いた)く落膽(らくたん)の態(てい)にて、余(よ)は老(お)ひたり、余(よ)の爲(ため)には樂(たの)しきホームの岸和田(きしわだ)に、再(ふたゝ)び來(きた)る能(あた)ふまじと嘆(たん)じられたさうである。あゝ師(し)は老(お)ひ給(たま)へり、衰(おとろ)へ給(たま)へり。血氣(けつき)湧(わ)くが如(ごと)き少壯(せうさう)の當年(たうねん)より、八十路(やそぢ)の高齡(かうれい)に達(たつ)するまで、五十年(ねん)の生涯(しやうがい)を我國(わがくに)に献(さゝ)げ、牧會(ぼくくわい)に傳道(でんだう)に敎育(けういく)に、其(その)心血(しんけつ)を注(そゝ)ぎ盡(つく)し、其(その)體力(たいりよく)を使(つか)ひ枯(から)して、かくも老(お)ひたまひ、衰(おとろ)へ給(たま)ふた。思(おも)ふに、岸和田(きしわだ)最後(さいご)巡回(じゆんくわい)の此(この)事(こと)ありて、師(し)は私(ひそ)かに、最早(もはや)無用(むよう)爲(な)すなきの老體(らうたい)となりたれば、日本(にほん)に在(あ)りて敎友(けういう)を煩(わづらは)さんよりは、寧(むし)ろ廢殘(はいざん)の老軀(らうく)を故國(ここく)の親戚(しんせき)に托(たく)しに行(ゆ)くは、今(いま)や我身(わがみ)の取(と)るべき道(みち)なりとし、豫(かね)て決(けつ)せる歸國(きこく)の其(その)日(ひ)を、早(はや)むるに至(いた)つたであらう。とあれ斯(かく)の如(ごと)くにして、師(し)の牧會(ぼくくわい)傳道(でんだう)の任務(にんむ)は、茲(こゝ)に其(その)終局(しゆふきよく)を結(むす)んだ。

七、日本聖公會第九回總會の決議

 明治(めいぢ)四拾壹年(ねん)四月(ぐわつ)一日(にち)より六日(か)迄(まで)、大阪(おほさか)に於(おい)て開(ひら)きたる日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)第(だい)九回(くわい)總會(そうくわい)は、敎務局(けうむきよく)設置(せつち)、監督(かんとく)敎區(けうく)制定法(せいていはふ)等(とう)、最(もつと)も重要(ぢゆうえう)なる件々(けんけん)を議定(ぎてい)せしが、中(なか)に監督(かんとく)ウイリアムス師(し)に關係(くわんけい)ある左(さ)の二件(けん)は、滿場(まんぢやう)一致(ち)を以(もつ)て可決(かけつ)した。

◎日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)傳道(でんだう)開始(かいし)五十年(ねん)紀念(きねん)運動(うんどう)に關(くわん)する件(けん)。

(一)紀年(きねん)傳道(でんだう)
左(さ)の各地(かくち)に紀年(きねん)傳道(でんだう)大説敎會(だいせつけうくわい)を開(ひら)く事(こと)

(イ)長崎(ながさき) (福岡(ふくをか)、熊本(くまもと))
(ロ)大阪(おほさか) (廣島(ひろしま)、岡山(をかやま)、神戸(かうべ))
(ハ)京都(きやうと) (金澤(かなざは)、奈良(なら)、和歌山(わかやま))
(二)東京(とうきやう) (名古屋(なごや)、靜岡(しずをか)、橫濱(よこはま)、前橋(まへばし)、長崎(ながさき)、仙臺(せんだい)、靑森(あをもり))
(ホ)函館(はこだて) (小樽(をたる)、札幌(さつぽろ)、旭川(あさひがは))

 右(みぎ)の實行(じつかう)を日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)傳道局(でんだうきよく)に托(たく)し之(これ)に要(えう)する費用(ひよう)として北海道(ほくかいだう)地方(ちはう)より百圓(ゑん)他(た)の五地方(ちはう)より百五十圓(ゑん)づゝ出金(しゆつきん)すべき事(こと)但(たゞ)し其他(そのた)の費用(ひよう)は開會地(かいくわいち)の負擔(ふたん)とす。

(二)紀年(きねん)禮拜(れいはい)
 明治(めいぢ)四拾貳年(ねん)七月(ぐわつ) 日(か)乃(すなは)ち退職(たいしよく)監督(かんとく)ウイリアムス師(し)到着(たうちやく)の日(ひ)を以(もつ)て傳道(でんだう)紀年(きねん)禮拜日(れいはいび)となし各(かく)敎會(けうくわい)及(および)各(かく)講義所(かうぎしよ)に於(おい)て紀年(きねん)禮拜(れいはい)を行(おこな)ひ日本(にほん)傳道(でんだう)に關(くわん)する説敎(せつけう)をなし當日(たうじつ)に用(もち)ふべき特禱(とくたう)の制定(せいてい)及(およ)び當日(たうじつ)の説敎(せつけう)の題詞(だいし)の選定(せんてい)は諸監督(しよかんとく)に依賴(いらい)する事(こと)。
 當日(たうじつ)信施(しんせ)を紀年(きねん)傳道(でんだう)の爲(た)め寄附(きふ)する事(こと)。

◎ウイリアムス監督(かんとく)に謝意(しやい)を表(へう)する件(けん)

 退職(たいしょく)監督(かんとく)ウイリアムス師(し)の傳道(でんだう)五十年間(ねんかん)の功勞(こうらう)に對(たい)し、謝意(しやい)を表(へう)すること其(その)實行(じつかう)方法(はうはふ)を日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)敎務(けうむ)局員(きよくゐん)に依囑(いしよく)する事(こと)。

 日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)が、將(まさ)に日本(にほん)傳道(でんだう)開始(かいし)五十年(ねん)を迎(むか)へんとするに當(あた)り、第(だい)九回(くわい)總會(そうくわい)に於(おい)て、過去(くわこ)五十年間(ねんくわん)の神恩(しんおん)を記臆(きをく)し、感謝(かんしや)の祭(まつり)として、ウイリアムス監督(かんとく)の最初(さいしよ)の上陸地(じやうりくち)なる長崎(ながさき)より初(はじ)め、北海道(ほくかいだう)に至(いた)る迄(まで)、全國(ぜんこく)大都市(だいとし)に於(おい)て傳道(でんだう)運動(うんどう)をなす事(こと)を決議(けつぎ)し、且(か)つ聖公會(せいこうくわい)傳道(でんだう)事業(じけふ)の開始者(かいししや)日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)第(だい)壹の監督(かんとく)たる師(し)に對(たい)し、斯(かく)の如(ごと)く、日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)全體(ぜんたい)の敬意(けいい)と感謝(かんしや)を表(へう)せられたるは、最(もつと)も恰當(かうとう)なる處置(しよち)であつて、また正(まさ)に爲(な)すべき義務(ぎむ)であつた。

八、五十年の回顧

 回顧(くわいこ)すれば、安政(あんせい)六年(ねん)、師(し)が日本(にほん)に於(お)ける新敎(しんけう)の第(だい)壹宣敎師(せんけうし)として、長崎(ながさき)に上陸(じやうりく)してより、五十年後(ねんご)の明治(めいぢ)四拾貳年(ねん)には、日本(にほん)の新敎(しんけう)は八百八十五人(にん)の外國(ぐわいこく)宣敎師(せんけうし)と、四百六十三人(にん)の日本(にほん)牧師(ぼくし)と、五百六十二人(にん)の男(をとこ)傳道師(でんだうし)と、三百五十四人(にん)の女(をんな)傳道師(でんだうし)を有(いう)し、五百二十九の敎會(けうくわい)と、六萬(まん)有餘(いうよ)の信徒(しんと)を有(いう)する一大勢力(だいせいりよく)となつた。師(し)か唯(た)だ一人(にん)、日本(にほん)に於(お)ける聖公會(せいこうくわい)の宣敎師(せんけうし)として、七年間(ねんかん)長崎(ながさき)に在留(ざいりう)したるも、一人(にん)の改宗者(かいしうしや)も得(え)ざりし當時(たうじ)よりは、五十年(ねん)に足(た)らぬ明治(めいぢ)四十二年(ねん)には、六十九人(にん)の外國(ぐわいこく)宣敎師(せんけうし)と七十八人(にん)の邦人聖職(はうじんせいしよく)と、二百四人(にん)の男女(だんぢよ)傳道師(でんだうし)と、一萬二千八百七十人(にん)の信徒(しんと)を有(いう)する、堂々(だうだう)たる日本聖公會(にほんせいこうくわい)となった。此(この)半世紀前(はんせいきぜん)傳道(でんだう)を開始(かいし)し、此(この)半世紀間(はんせいきかん)努力(どりよく)奮鬪(ふんたう)し、而(しか)して、此(この)半世紀後(はんせいきご)の進歩(しんぽ)を目撃(もくげき)せられたる師(し)は、第(だい)九回(くわい)總會(そうくわい)開會(かいくわい)の當時(とうじ)、其(その)老衰(らうすゐ)の體(たい)を京都(きやうと)五條(でう)の隱棲(いんせい)に橫(よこ)たへながらも、遙(はる)かに心(こゝろ)を日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)第(だい)九回(くわい)總會(そうくわい)に通(かよ)はしめて、今昔(こんじやく)の感(かん)に堪(た)へず、その言(い)ひ知(し)れぬ滿足(まんぞく)と喜悅(きえつ)に、幾度(いくたび)か感謝(かんしや)讚美(さんび)を神(かみ)に捧(さゝ)げたであらう。

九、米國聖公會監督會議の決議  

 日本(にほん)に於(おい)て第(だい)九回(くわい)總會(そうくわい)が監督(かんとく)ウイリアムス師(し)に關(くわん)する如上(ぢよじやう)の決議(けつぎ)をした此年(このとし)の十月(ぐわつ)、米國(べいこく)に於(おい)てボストン市(し)に開會(かいくわい)せし監督(かんとく)會議(くわいぎ)は、師(し)に對(たい)し勳功(くんこう)承認(しようにん)の左(さ)の決議(けつぎ)をした。

千九百四年(ねん)監督會議(かんとくくわいぎ)の決議(けつぎ)

 總會開會(そうくわいかいくあい)の第(だい)三日(か)、即(すなは)ち十月(ぐわつ)七日(か)に於(おい)て、ミズーラ敎區(けうく)の監督(かんとく)なる總會議長(そうくわいぎちやう)は、左(さ)の議案(ぎあん)を提出(ていしゆつ)し、會議(くわいぎ)は之(これ)を可決(かけつ)し、同時(どうじ)に監督(かんとく)ウイリアムス師(し)に傳達(でんたつ)せんことを命(めい)じたり。

 ボストン市(し)に開(ひら)かれたる總會(そうくわい)に集(あつ)まれる監督等(かんとくら)は、茲(ここ)に其(その)年長議員(ねんちやうぎゐん)が立法部(りつぽふふ)より退隱(たいゑん)せしと雖(いへど)も、今日(こんにち)ヴアジニヤ州(しゆう)の故山(こざん)を訪(とは)れつゝあることを認(みと)めんことを希望(きぼう)す。監督博士(かんとくはかせ)チヤンニング、ムアー、ウイリアムス師(し)が、江戸監督(えどかんとく)の職(しょく)を辭(じ)して以來(いらい)十五ケ年(ねん)を經過(けいくわ)したれども、此(この)星霜(せいさう)は決(けつ)して退隱無爲(たいいんむゐ)の時(とき)にあらずして、活發(くわつぱつ)なる成功的(せいこうてき)傳道(でんだう)の日月(じつげつ)なり。監督(かんとく)職衣(しよくい)は之(これ)を脱(だつ)したれども、聖(せい)なる説敎家(せつけうか)、愛(あい)に富(と)める牧師(ぼくし)、熱心(ねつしん)なる傳道者(でんだうしや)としての生涯(しやうがい)は、瞬間(しゆんかん)だにも休(やす)みたることなし。
 監督(かんとく)ウイリアムス師(し)は、一千八百六十六年(ねん)支那日本(しなにほん)の傳道監督(でんだうかんとく)となり、一千八百七十四年(ねん)に江戸(えど)傳道監督(でんだうかんとく)となれり。師(し)は實(じつ)に日本(にほん)に於(お)ける我(わ)がミツシヨンの父(ちゝ)なり。其(その)生涯(しやうがい)の聖(きよ)く其(その)事業(じけふ)の利己心(りこしん)を脱(だつ)せる、將(は)た又(また)傳道心(でんだうしん)の旺盛(わうせい)なる、氏(し)の生靈(せいれい)に對(たい)する善事業(ぜんじげふ)をして、實(じつ)に歴史上(れきしじやう)の聖人(せいじん)の其(そ)れの如(ごと)く有力(いうりやく)ならしめたり。殊(こと)に此(か)かる偉生涯(ゐしやうがい)が支那(しな)日本(にほん)以外(いぐわい)に聞(きこ)へざるは其(それ)をして一層深(そうふか)く一層(そう)高潔(かうけつ)に、一層(そう)強健(きやうけん)に一層(そう)感深(かんふか)からしむるものなり。
 監督會議(かんとくくわいぎ)は謹(つゝし)みて、監督(かんとく)ウイリアムス師(し)の外國(ぐわいこく)傳道地(でんだうち)に於(お)ける半世紀(はんせいき)の間(あひだ)の忠實(ちゆうじつ)なる働(はたらき)を認(みと)むるの光榮(くわうえい)を有(いう)す。會議(くわいぎ)は其(その)友愛(いうあい)を師(し)に呈(てい)す。會議(くわいぎ)は感謝(かんしや)の念(ねん)を以(もつ)て師(し)を歡迎(くわんげい)す。蓋(けだ)し師(し)は地(ち)に戰(たゝか)ふ敎會(けうくわい)の率先者(そつせんしや)として、又(また)は兵卒(へいそつ)として、我等(われら)の主(しゆ)の克己(こくき)の足跡(あしあと)を踏(ふ)むの規範(きはん)を我等(われら)に示(しめ)したり。會議(くわいぎ)は人(ひと)としてこの祝福(しゆくふく)を師(し)に呈(てい)し、又(また)今後(こんご)師(し)の働(はたらき)の上(うへ)に聖靈(せいれい)の恩寵(おんてう)の加(くは)へられ、其(その)首(かうべ)に神(かみ)の平和(へいわ)の降(くだ)らんことを祈(いの)り、且(か)つ今(いま)や師(し)の晩年(ばんねん)に於(おい)て、其(その)夕暮(ゆふぐれ)の化(くわ)して光輝(くわうき)ある天(てん)の故鄕(こきやう)の朝(あさ)とならんことを熱望(ねつぼう)す。

監督會議長(かんとくくわいぎちやう) ダニエル・タツトル
書記(しよき)    サミユエル・ハート

十、最後の歸國  

 日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)第(だい)九總會(そうくわい)が成功(せいこう)を以(もつ)て終(をは)りし後(のち)の三週目(しうめ)、明治(めいぢ)四拾壹年(ねん)四月(ぐわつ)貳拾九日(にち)、師(し)は瓢然(へうぜん)として京都(きやうと)を去(さ)り、同(どう)參拾日(にち)橫濱出帆(よこはましゆつぱん)のサイベリヤ號(がう)に乘船(じようせん)して、五十年(ねん)献身精勵(けんしんせいれい)の地(ち)、其愛(そのあい)する日本(にほん)の國土(こくど)を後(あと)にし、光榮(くわうえい)ある生涯(しやうがい)の餘命(よあい)を故國(ここく)に送(おく)らんがために、米國(べいこく)に向(むか)つて出發(しゆつぱつ)せられた。
 師(し)はいつかは歸國(きこく)すべしとの意(い)を洩(も)らしたれど、いよいよ出發(しゆつぱつ)の時日(じじつ)に就(つい)ては、パートリツヂ監督(かんとく)及(およ)び一二人(にん)の外(ほか)には、誰(だれ)にも告(つ)げず、多年(たねん)事(つか)へしコックの友吉(ともきち)は嚴(きび)しく口外(こうぐわい)を戒(いまし)められた。中(なか)には之(これ)を傳(つた)へ聞(き)きて暇乞(いとまごひ)に行(い)つた人(ひと)もあつたが、師(し)は歸國(きこく)に就(つい)ては決(けつ)して一言(ごん)も語(かた)られなんだ。貳拾九日(にち)午前(ごぜん)八時(じ)、師は(し)はパートリツヂ監督(かんとく)及(および)コックの友吉(ともきち)に伴(ともな)はれ七條(でう)停車場(ていしやぢやう)より、神戸發(かうべはつ)富山行(とやまゆき)列車(れつしや)に乘(の)り込(こ)み、馬場驛(ばんばえき)に下車(げしや)し、同驛(どうえき)にて更(さら)に神戸發(かうべはつ)新橋行(しんばしゆき)急行(きふかう)列車(れつしや)を待受(まちう)け、十時(じ)同驛(どうえき)出發(しゆつぱつ)橫濱(よこはま)に向(むか)ひ、其夜(そのよ)橫濱(よこはま)ホテルに一泊(ぱく)し、翌(よく)參拾日(にち)午後(ごご)出帆(しゆつぱん)せられたのである。

十一、歸國の理由  

 師(し)が出發(しゆつぱつ)の二日(か)前(まへ)師(し)を京都(きやうと)に訪(と)ひたる某氏(ばうし)は、當時(たうじ)の事情(じじやう)を沈痛悲壯(ちんつうひさう)なる語調(ごてう)にて語(かた)つて曰(いは)く、

『監督(かんとく)ウイリアムス師(し)は、遠(とほ)からず歸國(きこく)せらるゝと聞(き)き、余(よ)は四月(ぐわつ)貳拾七日(にち)師(し)を京都(きやうと)の隱棲(いんせい)に訪(と)ひぬ。時(とき)に師(し)は忠僕(ちゆうぼく)秋山夫婦(あきやまふうふ)と共(とも)に、書齋(しよさい)に於(おい)て朝禱(てうたう)を捧(さゝ)げんとしつゝありき。余(よ)は師(し)の依賴(いらい)により代(かはつ)て式(しき)を司(つかさど)りぬ。師(し)は視力(しりよく)衰(おとろ)へ日課(につくわ)祈禱書(きたうしよ)の朗讀(らうどく)すらなすに堪(た)へざりき。噫(あゝ)、さても衰(おとろ)へ給(たま)へる哉(かな)。
 朝禱後(てうたうご)余(よ)は師(し)と暫時(ざんじ)會談(くわいだん)の機(き)を得(え)たり。余(よ)は第(だい)九總會(そうくわい)に於(おい)ては、明年(みやうねん)聖公會(せいこうくわい)傳道(でんだう)開始(かいし)五十年(ねん)に相當(さうたう)するを以(もつ)て、之(これ)を紀念(きねん)せん爲(ため)に傳道運動(でんだううんどう)をなす事(こと)を決議(けつぎ)し、又(また)貴下(きか)の長崎上陸(ながさきじやうりく)の日(ひ)を卜(ぼく)して、全日本(ぜんにほん)聖公會(せいこうくわい)は紀念(きねん)禮拜式(れいはいしき)を執行(しつかう)する事(こと)に定(さだ)めたりと語(かた)りしに、師(し)は非常(ひじゃう)に滿足(まんぞく)の樣子(やうす)にて之(これ)に贊同(さんどう)せられたり。然(しか)れども、日本最初(にほんさいしよ)の宣敎者(せんけうしや)は自分(じぶん)に非(あら)ず、ジヨン,リギンス氏(し)なれば、同氏(どうし)上陸(じやうりく)の日(ひ)を以(もつ)て禮拜日(れいはいび)となすが可(か)ならん、自分(じぶん)の名(な)の如(ごと)きは顯(あらは)すべからずと語(かた)りたまひぬ。余(よ)は貴下(きか)近日(きんじつ)歸國(きこく)せらると聞(き)きしが如何(いか)にと問(と)ひしに、師(し)は人(ひと)はさう申(まを)します。一人(にん)が言(い)へばだんだん擴(ひろま)つて來(き)ます。私(わたし)歸(かへ)らうと思(おも)へば直(す)ぐ歸(かへ)りますと答(こた)へられしのみ、竟(つひ)に歸國(きこく)の時日(じじつ)を洩(もら)されざりき。余(よ)は去(さ)るに臨(のぞ)み永別(えいべつ)と知(し)りつゝ別(わかれ)を告(つげ)る能(あた)はず、師(し)も亦(また)無言(むごん)に余(よ)が手(て)を取(と)り余(よ)が身(み)に其(その)老軀(らうく)をさゝへつゝ、余(よ)を玄關(けんくわん)に送(おく)り暫(しば)し佇(たゝず)みて余(よ)の去(さ)るを目送(もくさう)されぬ。あゝ其(そ)の温乎(をんこ)たる容(よう)、崇高(すうかう)なる風姿(ふうし)、地上(ちじやう)再(ふたゝ)び接(せつ)するの機會(きくわい)ありやを思(おも)へば、余(よ)は低徊顧望(ていくわいこぼう)去(さ)るに忍(しの)びざりき。當時(たうじ)の感(かん)余(よ)は到底(たうてい)筆舌(ひつぜつ)に堪(た)えざるなり。
 翌日(よくじつ)師(し)は瓢然(へうぜん)京都(きやうと)を去(さ)りぬ。師(し)の歸國(きこく)を聞(き)きて私(ひそ)かに告別(こくべつ)に來(きた)りし三四の敎役者(けうえきしや)に送(おく)られ、橫濱(よこはま)よりサイベリア號(がう)に乘船(じようせん)し、茲(こゝ)に日本宣敎(にほんせんけう)五十年(ねん)の大使命(だいしめい)を全(まつた)く終(を)へ、其(その)光榮(くわうえい)ある生涯(しやうがい)の餘命(よめい)を鄕里(きやうり)に過(すご)さんために出發(しゆつぱつ)せられぬ。
 我(わ)が日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)が師(し)の如(ごと)き聖徒(せいと)を、最初(さいしよ)の宣敎師(せんけうし)、第(だい)壱の日本監督(にほんかんとく)として與(あた)へられしは、主(しゆ)の特殊(とくしゆ)なる恩寵(おんてう)として感謝(かんしや)すると共(とも)に、斯(かゝ)る聖徒(せいと)を遣(おく)りし母敎會(ぼけうくわい)なる米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)に感謝(かんしや)せざるべからず。吾人(ごじん)は師(し)の活(い)ける生涯(しやうがい)のみならず、其(その)尊體(そんたい)をも我(わ)が聖公會(せいこうかい)の重寶(ちやうほう)として、與(あた)へられんことを希望(きばう)したりしに、米國(べいこく)にある師(し)の親族(しんぞく)は切(しき)りに歸國(きこく)を促(うなが)し、師(し)若(も)し生前(せいぜん)歸國(きこく)せざるに於(おい)ては、遺骸(ゐがい)は必(かなら)ず本國(ほんごく)に移(うつ)して埋(うづ)むべしとの議(ぎ)を決(けつ)したりと。されば師(し)は永眠後(えいみんご)かゝる手數(てすう)を煩(わづらは)さんことを恐(おそ)れて、終(つひ)にいつかは歸國(きこく)すべしと決心(けつしん)しつゝありしに、近來(きんらい)益々(ますます)衰弱(すゐじやく)は加(くは)りたれば、最早(もはや)老朽(らうきう)爲(な)すなしと自(みづか)ら感(かん)ぜられ、此上(このうへ)は一日(にち)も早(はや)く己(おの)れ歸國(きこく)せば、代(かは)りて一人(にん)の新(しん)宣敎師(せんけうし)を送(おく)らるべき餘地(よち)を生(しやう)ずべしと、さてこそ斯(か)く吾人(ごじん)が期(き)せしよりも早(はや)く、涙(なみだ)を揮(ふる)つて其(その)愛(あい)する我國(わがくに)を去(さ)るに至(いた)りしなりといふ。あゝ何等(なんら)の無私(むし)、何等(なんらの)の献身(けんしん)、何等(なんら)の忠誠(ちうせい)ぞ』。(惠(めぐみ)の音所載(おとづれしよざう))

十二、橫濱出帆  

 師(し)が橫濱出帆(よこはましゆつぱん)の際(さい)、私(ひそ)かに永別(えいべつ)の情(じやう)を表(へう)せん爲(ため)に至(いた)りし兄弟(きやうだい)は、當時(たうじ)の事(こと)を左(さ)の如(ごと)く基督敎(きりすとけう)週報(しゆうはう)紙上(しじやう)に記載(きさい)した。

『監督(かんとく)チヤニング、ムーア、ウイリアムス先生(せんせい)は、去月(きよげつ)廿九日(にち)いよいよ復(ふたゝ)び歸(かへ)らざる覺悟(かくご)を以(もつ)て故國(ここく)北米(ほくべい)合衆國(がつしゆうこく)に向(むか)つて橫濱(よこはま)を出發(しゆつぱつ)されたり。元來(がんらい)先生(せんせい)は日本(にほん)を以(もつ)て墳墓(ふんぼ)の地(ち)と定(さだ)められたるものゝ如(ごと)く、主(しゆ)に對(たい)する忠勤(ちゆうきん)の殘軀(ざんく)をば、久(とこし)へに日本(にほん)の一片(ぺん)の土(つち)と化(くわ)し了(をは)らんことを素志(そし)とせられしよう見(み)へしが、如何(いか)なる事情(じじやう)ありけん、俄(には)かに最終(さいしゆふ)の歸鄕(ききやう)を爲(な)すべく決意(けつい)せられ、内外(ないぐわい)友人(いうじん)の切(せつ)なる懇願(こんぐわん)あるにも關(かゝわ)らず、先生(せんせい)の特質(とくしつ)として一旦(たん)決定(けつてい)したることを動(うご)かさるべくもあらずして愈々(いよいよ)出發(しゆつぱつ)に決(けつ)したり。先生(せんせい)の明言(めいげん)せらるゝ理由(りいう)としては、余(よ)は最早(もはや)無用(むよう)爲(な)すなきの老體(らうたい)となりたれば、此(この)廢殘(はいざん)の老軀(らうく)を故國(ここく)にありて歸國(きこく)を切望(せつぼう)する姪(めい)の手(て)に托(たく)しに行(ゆ)くなり、且(か)つ余(よ)歸國(きこく)せば余(よ)の代(かは)りに好(よ)き人物(じんぶつ)を送(おく)らるべし、祈禱(きたう)は米國(べいこく)にありても日本(にほん)の爲(た)めに献(さゝ)げ得(う)べしと。左(さ)れど此(この)老軀(らうく)は日本(にほん)の土(つち)とせぬには餘(あま)りに貴重(きちよう)なるものを、遺憾(ゐかん)極(きはま)りなしと謂(い)ふべし。豫(かね)ての氣質(きしつ)なれば先生(せんせい)は出發(しゆつぱつ)の際(さい)の送別(さうべつ)見送(みおくり)を厭(いと)ひ、歸國(きこく)といふ(こと)を一切(さい)祕密(ひみつ)に附(ふ)し、突然(とつぜん)四月(ぐわつ)二十九日(にち)午前(ごぜん)八時(じ)二十三分(ぷん)纔(わづ)かにバートリツヂ監督(かんとく)及(および)忠僕(ちゆうぼく)秋山(あきやま)友次郞(ともじらう)に伴(ともな)はれて、多年(たねん)住馴(すみな)れし京都(きやうと)を發(はつ)し、同夜(どうや)橫濱(よこはま)に一泊(ぱく)し翌(よく)三十日(にち)十一時(じ)半(はん)ボートにて本船(ほんせん)サイベリヤ號(がう)に移(うつ)られたり。
祕密(ひみつ)歸國(きこく)の素志(そし)を尊敬(そんけい)して略々(ほゞ)先生(せんせい)の出發(しゆつぱつ)を聞知(ぶんち)せるものも敢(あえ)て來(きた)る者(もの)なかりしが、しかも多年(たねん)の敎導(けうだう)感化(かんくわ)を受(う)けたる三四の日本人(にほんじん)は、先生(せんせい)の同行人(どうかうにん)世話人(せわにん)なるガーデナー氏(し)見送(みおくり)の名(な)の下(もと)に、橫濱(よこはま)埠頭(ふとう)に先生(せんせい)を待受(まちう)けて、せめて其(その)後影(うしろかげ)なりとも見送(みおく)らんと企(くはだ)つるを禁(きん)ぞざりき。十一時(じ)二十五分(ふん)早(はや)くも先生(せんせい)は、ガーデナー氏(し)及(および)橫濱(よこはま)の英國(えいこく)牧師(ぼくし)リウスチン二氏(し)の肩(かた)に双手(さうしゆ)をかけ、殆(ほと)んど吊下(つりさが)らんばかりになりて石階(いしだん)を下(お)り乘込棧橋(のりこみさんばし)に來(きた)る。當年(たうねん)の颯爽(さつさう)健脚(けんきやく)今安(いまいづ)くぞさても衰(おとろ)へ給(たま)へる哉(かな)、見送(みおく)る者(もの)暗涙(あんるゐ)あるのみ。特(とく)に賃(ちん)したる西洋形(せいやうがた)ボートは橋(はし)に附(ふ)して橫(よこたは)れり。ボート長(ちやう)は前兩氏(ぜんりやうし)に力(ちから)を合(あは)せて辛(から)ふじて艀船(はしけぶね)に移(うつ)す。先生(せんせい)初(はじ)めて橋上(けうじやう)の人(ひと)に正面(せいめん)す。舊容(きうよう)依然(いぜん)たりといへども、高齡(かうれい)と共(とも)に枯(か)れ行(ゆ)きたる血(ち)を奈何(いか)にせん、淸姿(せいし)ひたすら白(しろ)くして大理石(だいりせき)の如(ごと)く、色(いろ)は浦(うら)の春風(はるかぜ)に吹(ふ)き亂(みだ)さるゝ銀色(ぎんしよく)の鬚髮(しゆはつ)を欺(あざむ)く。五十年(ねん)献身精勵(けんしんせいれい)の地(ち)、今(いま)や足趾(そくし)長(なが)く其土(そのど)を離(はな)る、豈(あ)に無限(むげん)の感慨(かんがい)なからんや。帽(ぼう)を脱(だつ)し、首(くび)を上(あ)げ、視力(しりよく)衰(おとろ)へたる兩眼(りやうがん)を以(もつ)て橋上(けうじやう)の(ひと)を頻(しき)りに打眺(うちなが)め給(たま)ふ。見送人等(みおくりにんら)此(こゝ)に於(おい)て帽(ぼう)を脱(だつ)し聲(こえ)をあげ訣別(けつべつ)の辭(じ)を述(の)ぶ。やがて艀舟は漕ぎ出でぬ。見送人中(みおくりにんちゆう)の數名(すうめい)は本船迄(ほんせんまで)別(べつ)のボートにて漕(こ)ぎ附(つ)けぬ。幸(さいはひ)に舟房(せんぼう)に歡迎(くわんげい)されて懷舊(くわいきゆう)の談(だん)、感謝(かんしや)の陳述(ちんじゆつ)、訣別(けつべつ)の感(かん)など長時間(ちやうじがん)打語(うちかた)らふを得(え)たりしは羨(うらや)ましきことゝ謂(い)うふべし。午後(ごご)三時(じ)、無情(むじやう)の火船(くわせん)は汽笛(きてき)と共(とも)に此無價(このむか)の分捕(ぶんどり)を載(の)せて、東(ひがし)の方(かた)茫々(はうばう)たる潮(しほ)の八重路(へぢ)に上(のぼ)りぬ。』