第十二篇 歸國後の監督

第十二篇 歸國後の監督

一、橫濱出帆後及航海中の監督

 監督(かんとく)ウイリアムス師(し)の付添人(つきそひにん)として、師(し)に同行(どうかう)して歸米(きべい)したるガーデナー氏(し)は、明治(めいじ)四十一年(ねん)五月(ぐわつ)卅一日(にち)紐育發(にうようくはつ)にて、在(ざい)東京(とうきやう)の夫人(ふじん)の許(もと)に送(おく)られたる書状中(しよじやうちゆう)に橫濱(よこはま)出帆(しゆつぱんご)及(およ)び航海中(かうかいちゆう)の監督(かんとく)に就(つ)き、下(しも)の如(ごと)く記述(しる)された。

『余(よ)は過(すぐ)る月曜日(げつえうび)いよいよ監督(かんとく)をリツチモンド市(し)の從兄弟(いとこ)の手(て)に托(たく)し、一先(ひとまづ)大安心(だいあんしん)致候(いたしそろ)。
・・・・・橫濱(よこはま)を出帆(しゆつぱん)して卿等(けいら)の艀舟(はしけ)と相離(あひはな)るゝや、老監督(らうかんとく)は欄干(らんかん)に凭(もた)れつゝ、其手(そのて)を欄干(らんかん)の上(うへ)に擴(ひろ)げ、一同(どう)の爲(ため)に祈禱(きたう)をなし、祝福(しゆくふく)を宣(せん)せらるゝを見候(みそろ)。余(よ)は當時(たうじ)之(これ)を一見(けん)して只管(ひたすら)暗涙(あんるゐ)の下(くだ)るを禁(きん)ぜず又(また)其後(そのご)之(これ)を想起(おもひおこ)して涙(なみだ)ぐまぬこと無之候(これなくそろ)。其時(そのとき)余(よ)は此(この)老聖人(らうせいじん)の手(て)より、一種(しゆ)の祝福(しゆくふく)の祕光(ひくわう)の發(はつ)するを見(み)たる心地(ここち)いたし候(そろ)が、此(こ)は勿論(もちろん)余(よ)の想像(さうざう)に外(ほか)ならざるべく候(そろ)。やがて艀舟(はしけ)の見(み)へなくなると共(とも)に請(こ)はるゝ儘(まゝ)に甲板上(かんぱんじやう)の椅子(いす)に師(し)を伴(ともな)ひ行(ゆ)きしに、其眼(そのめ)は涙(なみだ)にて滿(み)ち居候(をりさふら)ひき。室(しつ)に行(ゆ)きたしとの事故(ことゆゑ)、伴(ともな)ひ下(くだ)りしに、靜(しづか)に獨(ひと)り居(ゐ)たしとの事故(ことゆゑ)、室外(しつぐわい)に出(い)で半時間程(はんじかんほど)經(へ)て歸(かへ)り行(ゆ)きしに、師(し)は兀然(こつぜん)跪座(きざ)して祈禱(きたう)に餘念(よねん)なし、よりて夕飯(ゆふはん)の予鈴(よりん)の鳴(な)るまで、待(ま)ちて室(しつ)に入(い)り候(そろ)。
豫(かね)てパートリツチ監督(かんとく)は、自分(じぶん)に航海中(かうかいちゆう)は室(しつ)に籠(こも)りて食事(しよくじ)にも、食堂(しよくだう)に出(い)でざるべしと言(い)はれたりと聞(き)きし故(ゆえ)、さならんと思(おも)ひ食事(しよくじ)に行(ゆ)き給(たま)ふべしやと問(と)ひしに、何事(なにごと)も全(まつた)く余(よ)に一任(にん)したれば、余(よ)が爲(な)せよと命(めい)することは何(なに)にても爲(な)すべしと申(まを)され候(そろ)。第(だい)二鈴(りん)の鳴(な)る頃(ころ)には用意(ようい)全(まつた)く整(とゝの)ひて、却(かへつ)て長(なが)き途(みち)を行(ゆ)きて食堂(しよくだう)に入(い)り候(そろ)。此後(こののち)着米迄(ちやくべいまで)は之(これ)を例(れい)といたし候(そろ)。予(よ)は腕(うで)を出(いだ)して師(し)を案内(あんない)して食堂(しよくだう)に行(ゆ)き、食卓(しよくたく)に就(つ)くときは自(みづか)ら食(しよく)すべきものゝ選擇(せんたく)を一切(さい)余(よ)に委(ゆだ)ねられ候(そろ)。食事(しよくじ)も大(おほい)に進(すゝ)み旅行中(りよかうちう)只(た)だ一回(くわい)、食事(しよくじ)を廢(はい)され候(そろ)のみに候(そろ)。此(こ)は或(あ)る晩(ばん)余(よ)に知(し)らさずして、自(みづか)ら食堂(しよくだう)に入(い)り、パイを食(しよく)せしに胃膓(ゐちやう)を害(がい)せられたる翌朝(よくてう)の事(こと)にて候(さふら)ひき。
其(それ)よりは決(けつ)して予(よ)の同意(どうい)を得(え)ずしては一物(ぶつ)も口(くち)にされ不申(まをさず)、此(か)くまで全然(ぜんぜん)余(よ)に身(み)を一任(にん)され候(そろ)さま、たゞたゞ見(み)るもいぢらしく候(さふら)ひき。只(たゞ)海上(かいじやう)又(また)ホノール及(および)友人(いうじん)の宅(たく)にて、旅行中(りよかうちう)數回(すうくわい)起(おこ)りしことなるが、師(し)は突然(とつぜん)仰氣樣(あふのけさま)に倒(たふ)れられ候時(そろとき)のみは、余(よ)には一切(さい)手(て)をつけさせられ不申候(まをさずそろ)。余(よ)は此(か)かる際(さい)勿論(もちろん)急(いそ)ぎ介抱(かいはう)せんと試(こゝろ)みしに、師(し)は仰臥(あふぐわ)のまゝに、手(て)を揮(ふ)り足(あし)を動(うごか)し(おそ)ろしき樣(さま)にて之(これ)を拒(こば)まれ殆(ほとん)ど正氣(しやうき)の沙汰(さた)と思(おも)はれず候(そろ)。幸(さいは)いに此(かゝ)る發作(ほつさ)は數日(すうじつ)に一回(くわい)起(おこ)るのみなれば、其(その)間(あひだ)可成(なんべく)短距離(たんきより)の散歩(さんぽ)を致(いた)さるゝやう相勸(あひすゝ)め申候處(まをしそろところ)、やがて大(おほひ)に力付(ちからつ)き音樂(おんがく)を聽(き)かんとて、終(つひ)に予(よ)を出(だし)ぬきて自(みづ)から談話室(だんわしつ)にゆき、諸所(しよしよ)搜索(そうさく)の後(のち)師(し)を圖(はか)らず見出(みいだ)せば、師(し)は滿面(まんめん)微笑(びせふ)を湛(たゝ)ゑ、予(よ)は卿(けい)の手(て)を籍(か)らず自(みづか)ら單獨(たんどく)にて、此處(こゝ)に來(きた)れりと言(い)ひて、其容(そのさま)我(わ)が欲(ほつ)する何物(なにもの)をか獲(え)て、非常(ひじやう)に喜(よろこ)び微笑(ほゝえ)む小兒(せうに)の如(ごと)く邪氣(じやき)なく候(そろ)。 またサンフランシスコ着(ちやく)二三日前(にちまへ)の事(こと)なりき。師(し)の言(い)はるゝやう。此度(このたび)の航海中(かうかいちゆう)予(よ)の如(ごと)き全(まつた)くの他人(たにん)に、何人(なんびと)も皆(み)な親切(しんせつ)なるは、實(じつ)に意外(いぐわい)の事(こと)なりと。予(よ)は師(し)に申候(まをしそろ)、人々(ひとびと)の師(し)に對(たい)して親切(しんせつ)なるは、今(いま)に始(はじ)まりしにあらず、たゞ師(し)が利己的(りこてき)に非利己的(ひりこてき)なるが爲(ため)に、何人(なんびと)も滿腔(まんこう)の意(い)を果(はた)すこと能(あた)はざりしなりと、時(とき)に師(し)は答(こた)へて言(い)はるゝやう、成程(なるほど)自分(じぶん)とても數人(すうにん)の親友(しんいう)を有(いう)せることを知(し)らざるにあらざれど、予(よ)の如(ごと)きものに誰(たれ)も彼(か)れも親切(しんせつ)を盡(つく)さるゝ事(こと)あるべしとは、實(じつ)に思(おも)ひ設(まう)けぬことにてありきと。その謙遜(けんそん)のほど人(ひと)をして轉(うた)た故監督(こかんとく)ブルツクス師(し)を憶(おも)ひ起(おこ)さしめ候(そろ)』。

二、ハリソン氏邸に於ける監督

 監督(かんとく)は歸國(きこく)の後(のち)は、リツチモンド市(し)の愛甥(あいせい)ハリソン氏(し)に身(み)を寄(よ)せ、靜(しづか)に老後(らうご)を養(やしな)はれた。然(しか)しながら、畢生(ひつせい)淸貧(せいひん)に馴(な)れたる師(し)は、其(その)生活(せいくわつ)の急(きふ)に變(へん)じて安樂(あんらく)となれるを感(かん)じ、斯(か)くもやんごとなき住居(すまひ)に起臥(きぐわ)するは、畏(おそ)れ多(おほ)しと訴(うつた)へらるゝ事が屡々(しばしば)であつたといふ。
 當時(たうじ)見學(けんがく)のため在米(ざいべい)せし長老(ちやうらう)名出(ないで)保太郞(やすたらう)氏(し)は、屡(しばしば)リツチモンド市(し)に師(し)を訪(と)ひたるが、其(その)通信(つうしん)の一節(せつ)に曰(いは)く、『却説(さて)生事(せいこと)樂(たの)しき記憶(きおく)をアレキサンドリアの丘上(きうしやう)に殘(のこ)して、四五の學生(がくせい)の故鄕(こきやう)に休養(きうやう)する者(もの)と同車(どうしや)して、十二月(ぐわつ)の二十三日(にち)神學校(しんがくかう)を辭(じ)して、リツチモントに參(まゐ)り、クリスチアン氏(し)とて小生(せうせい)の親友(しんいう)となりし一學生(がくせい)の宅(たく)に客(かく)となり、一週間(しゆうかん)樂(たの)しく相暮(あひくら)し、此間(このあひだ)第(だい)一の目的(もくてき)たる老監督(らうかんとく)を數回(すうくわい)訪問(はうもん)致候(いたしそろ)。小生(せうせい)の宿(やど)より半丁程(はんちやうほど)のハリソン氏(し)とて、立派(りつぱ)なる實業家(じつげふか)の宅(たく)に、廣(ひろ)やかなる一室(しつ)を占領(せんりやう)し起臥(きぐわ)致居(いたしを)られ候(そろ)。此(こ)は監督(かんとく)の甥(おひ)に候(そろ)。二十七日(にち)の日曜日(にちえうび)はハリソン氏(し)と三人(にん)同乘(どうじよう)して禮拜(れいはい)に出(い)で申候(まうしそろ)。敎會(けうくわい)は監督(かんとく)の子供(こども)の時(とき)に屬(ぞく)せしモニユメンタル、チヤーチに候(そろ)。師(し)は子供(こども)の歩(あゆ)み始(はじ)めの如(ごと)くにハリソン氏(し)右(みぎ)の手(て)、小生(せうせい)は左(ひだり)の手(て)を取(と)り、馬車(ばしや)よりベンチ迄(まで)連行(つれゆ)き候(そろ)。五十年(ねん)の昔(むかし)靑年(せいねん)血氣(けつき)勇氣(ゆうき)と信仰(しんかう)と、キリストの靈(れい)に充(みた)されて、極東(きよくとう)の一孤島(こたう)に其(その)全生涯(ぜんしやうがい)を捧(さゝ)げし偉人(ゐじん)、今(いま)は此老(このおひ)の境(さかひ)に在(あ)るを憶(おも)ひ轉々(うたゝ)無量(むりやう)の感慨(かんがい)を催(もよ)ふし候(そろ)。』又(ま)た曰(いは)く、『余(よ)が最後(さいご)の會見(くわいけん)の時(とき)(同年(どうねん)クリスマス)、其(そ)の愛甥(あいせい)ハリソン氏の廣々(ひろびろ)としたる一室(しつ)に、寢臺(ねだい)の傍(わき)の椅子(いす)に依(よ)りて書見(しよけん)し居(を)りたる其時(そのとき)、記憶(きおく)も既(すで)に衰(おとろ)へたる如(ごと)くなりしも、語(ご)一たび日本傳道(にほんでんだう)に及(およ)ぶや、口角(こうかく)沫(あは)を飛(と)ばして論(ろん)じ、余(よ)が同伴(どうはん)せる一神學生(いつしんがくせい)に日本(にほん)に行(ゆ)けよと、切(しきり)に相勸(あいすゝむ)る處(ところ)二十年前(ねんぜん)の監督(かんとく)を偲(しの)ばしめたり』と。

三、ジヨンストンウイリス醫院に入院  

 明治(めいじ)四十二年(ねん)九月(ぐわつ)師(し)の病勢(びやうせい)重(おも)りたれば、愛甥(あいせい)ハリソン氏(し)は、師(し)を同市(どうし)ジヨンストンウイリス醫院(いゐん)に入院(にふゐん)せしめた。入院(にうゐん)の後(のち)は意識概(いしきおほむ)ね定(さだ)かならず、些少(させう)の苦痛(くつう)もなく、殆(ほと)んど常(つね)に昏睡(こんすい)の状態(じやうたい)にありしものゝごとく、然(し)かも精神恍惚(せいしんくわうこつ)の裡(うち)にも、眷々(けんけん)として(にほん)を忘(わす)れず、日本(にほん)に在(あ)る心(こゝろ)せしと見(み)へ、英語(えいご)を用(もち)ひず日本語(にほんご)を語(かた)りて、看護婦(かんごふ)を困(こま)らせ、日本語(にほんご)にて祈禱(きたう)を捧(さゝ)げたりといふ。
左(さ)に掲(かゝ)ぐる一篇(ぺん)は、明治(めいじ)四十三年(ねん)十一月(ぐわつ)七日(か)、即(すなは)ち監督就眠(かんとくしうみん)廿五日(にち)前(ぜん)、師(し)を病院(びやうゐん)に訪(と)ひたる博士(はかせ)元田作之進(もとださくのしん)氏(し)の通信(つうしん)より拔粹(ばつすゐ)せしものなるが、師(し)が當時(たうじ)如何(いか)に靜安(せいあん)に天父(てんふ)の御召(おんめし)を待(ま)ちつゝありしか、而(そ)して其(その)臨終(りんじゆふ)が落日(らくじつ)の美(うるは)しきが如(ごと)く、如何(いか)に美(うるは)しきものなりしかを想像(さうざう)し得(う)るのである。

『七日(にち)(十一月(ぐわつ))にウイリヤムス老監督(らうかんとく)を病院(びやうゐん)に訪(と)ふた。監督(かんとく)は過去(くわこ)一年(ねん)と三ケ月間(つきかん)、病院(びやうゐん)に居(を)らるゝとの事(こと)である。室内(しつない)に導(みちび)かれて其(その)病床(びやうしやう)の傍(そば)に立(た)つた。殆(ほと)んど天使(てんし)の病(や)めるが如(ごと)き有樣(ありさま)にて、平和(へいわ)に寢臺(ねだい)に橫(よこた)はり手足(てあし)を動(うご)かすことなく、聲(こゑ)を發(はつ)する事(こと)もなく、誰(た)れ彼(かれ)の識別(しきべつ)もつかず、多(おほ)くは目(め)を閉(と)ぢて安(やすら)かに眠(ねむ)り居(を)らるゝが如(ごと)し。 傍(かたはら)に立(た)ちて日本(にほん)の元田(もとだ)である、記憶(きおく)せらるゝやと、幾度(いくたび)か繰(く)り返(かへ)して問(と)ひしが、頻(しき)りに見(み)つめて、漸(やうや)く口(くち)を開(ひら)き忽(たちま)ち笑顏(えがほ)となり、右(みぎ)の手(て)を靜(しづ)かに出(だ)して握手(あくしゆ)を欲(ほつ)せられ、握手(あくしゆ)幾分(いくぶん)容易(やうい)に放(はな)つを好(この)まざるものゝ如(ごと)く見(み)へた。看護婦(かんごふ)が傍(かたはら)より「誰(たれ)か御記憶(ごきおく)ですか」と二度(ど)も三度(ど)も問返(とひかへ)せしが、それに對(たい)しては少(すこ)し顏(かほ)を左右(さいう)に振(ふ)られたるが如(ごと)く見(み)へたれども、笑顏(ゑがほ)と云(い)ひ握手(あくしゆ)と云(い)ひ、意志(いし)の疎通(そつう)したるは慥(たし)かである。嗚呼(あゝ)人生(じんせい)五十年(ねん)を我日本(わがにほん)に獻(けん)ぜられたる此(この)老監督(らうかんとく)、今(いま)は病床(びやうしやう)に橫(よこた)はりて神(かみ)の召(めし)を今(いま)か今(いま)かと待(ま)ちつゝある。善(よ)き戰(たゝかひ)をなしたる老將(らうしやう)、神(かみ)は必(かなら)ず最上(さいじやう)の榮冠(えいくわん)を彼(か)れに與(あた)へ給(たま)ふであらふ。』

四、監督の永眠  

 死(し)の來(きた)るや何時(いつ)も森嚴(しんげん)である。然(しか)れども聖徒(せいと)の終(おはり)は地上(ちじやう)に於(おい)て聞(き)き得(う)る神(かみ)に捧(さゝ)ぐる歌(うた)である。五十年(ねん)の生涯(しやうがい)を神(かみ)に獻(けん)じ、心殘(こゝろのこ)りなく其業(そのげふ)を成(な)して靜(しづか)に死(し)の至(いた)るを待(ま)つ監督(かんとく)は、恰(あたか)も霜深(しもふか)ふして秋葉(しうえふ)の紅(くれなひ)益(ますます)鮮麗(せんれい)なる如(ごと)く、其終焉(そのしゆふえん)益(ますます)近(ちか)くなりて、愈(いよいよ)至純(しじゆん)至烈(しれつ)なる靈光(れいくわう)の赫灼(かくしやく)たるを思(おも)はしむるのである。死(し)よ汝(なんぢ)の刺(はり)は安(いづ)くに在(ある)や、陰府(よみ)よ汝(なんぢ)の勝(かち)は安(いづ)くに在(ある)や、吾主(わがしゆ)イエスキリストによりて勝(かち)を得(え)しむる神(かみ)に感謝(かんしや)す。夫(そ)は深痛(しんつう)なる悲哀(ひあい)の中(うち)にも一種(いつしゆ)の神聖(しんせい)の喜(よろこ)びを以(も)て、此(こ)の忠誠敬虔(ちうせいけいけん)の聖徒(せいと)の靈魂(れいこん)を、天父(てんぷ)の御手(みて)に委託(ゐたく)し得(う)る事(こと)を。蓋(けだ)し師(し)の如(ごと)き高潔偉大(かうけつゐだい)なる人格(じんかく)に於(おい)ては、死(し)は眞(まこと)に凱旋(がいせん)なり安息(あんそく)なり、希望(きばう)なり、向上(かうじやう)なりしと信(しん)ずるからである。今(いま)や其時(そのとき)は來(きた)つた。明治(めいぢ)四十三年(ねん)十二月(ぐわつ)一日(にち)の夜(よ)、時(とき)は刻(こく)一刻(こく)流(なが)れ行(ゆ)き、師(し)の周圍(しゆうゐ)には嚴(おごそか)なる沈默(ちんもく)があつた。凡(すべ)ての事(こと)は整(とゝの)へり。翼(つばさ)うちかはし迎(むか)への聖使(みつかひ)は、天降(あも)り來(き)つらん。やがて師(し)は何(なん)の苦痛(くつう)もなく、何(なん)の煩悶(はんもん)もなく溘焉(こうえん)として瞑(めい)ぜられた。時(とき)に二日(か)午前(ごぜん)三時(じ)。かくて天(てん)未(いま)だ明(あ)けやらざるに、早(はや)くも師(し)の靈(れい)は常(つね)に慕(した)ひし生命(いのち)の朝日(あさひ)照(て)る永遠(とこしへ)の故鄕(ふるさと)に歸(かへ)られた。

五、葬儀  

 永眠(えいみん)の翌日(よくじつ)、十二月(ぐわつ)三日(か)正午(しやうご)、リツチモンド市(し)のモニユメンタル、チヤーチに於(おい)て、質素(しつそ)なる葬儀(さうぎ)は執行(しつかう)された。此(この)葬儀(さうぎ)に參列(さんれつ)せられたる元田博士(もとだはかせ)の當時(たうじ)の通信(つうしん)に、其(その)模樣(もやう)が詳記(しやうき)されてある。

『十二月(ぐわつ)二日(か)午前中(ごぜんちゆう)に種々(しゆじゆ)の用事(ようじ)をすまし、午後(ごゞ)書面(しよめん)を認(したゝ)め居(を)る時(とき)に電話(でんわ)が來(き)た、ロバート、ウイリアムス、ダニエルと云(い)ふ人(ひと)からであつた。同氏(どうし)とは曾(かつ)て或(ある)倶樂部(くらぶ)に於(おい)て食事(しよくじ)を共(とも)にした事(こと)もある、ウイリヤムス老監督(らうかんとく)の姪(めい)の子(こ)であつて、費府(ひふ)に於(おい)て銀行事業(ぎんかうじげふ)に從事(じゆうじ)して居(ゐ)る靑年(せいねん)である。其(その)老監督(らうかんとく)は日本(にほん)の恩人(おんじん)であるから、其傳記(そのでんき)を編輯(へんしふ)したき旨(むね)を述(の)べた所(ところ)が、大(おほい)に贊成(さんせい)し、出來(でき)る丈(だ)け其事業(そのじげふ)の成立(せいりつ)を補助(ほじよ)すべしとて、種々(いろいろ)打語(うちかた)らひて別(わか)れたのである。此人(このひと)から電話(でんわ)が來(きた)つた。ハツと思(おも)つて、電話機(でんわき)に耳(みゝ)と口(くち)をつけて其用向(そのようむき)を聞(き)けば、今朝(けさ)(二日(か))午前(ごぜん)三時(じ)ウイリアムス老監督(らうかんとく)は眠(ねむり)に(つ)かれた。葬儀(さうぎ)は明日(めうにち)(三日(か))正午(しやうご)リチモンドのモニユメンタル、チヤーチに於(おい)て行(おこな)はるべしとの事(こと)であつた。十一月(ぐわつ)七日(なぬか)即(すなは)ち二十五日前(にちぜん)に老監督(らうかんとく)を其(その)病床(びやうしやう)に訪問(はうもん)した時(とき)、既(すで)に半(なか)ば天國(てんごく)の人(ひと)であるかの如(ごと)く感(かん)じたゆへ、斯(か)くの如(ごと)き電話(でんわ)は稍々(やゝ)豫期(よき)した處(ところ)ではあつたが、しかし實際(じつさい)に就眠(しうみん)の報知(はうち)を受(う)けたときは、何(なん)とも云(い)へぬ感(かん)じがした。
 ダニエル氏(し)の電話(でんわ)をうけて、直(たゞち)に其葬儀(そのさうぎ)に列(れつ)せざるべからすとの感(かん)が起(おこ)つた。其(そ)れには傳道(でんだう)會社(ぐわいしや)の許可(きよか)を受(う)けねばならぬ。手紙(てがみ)も電報(でんぱう)も間(ま)に合(あ)はぬ、費府(ひふ)より紐育(にゆうようく)まで九十哩(まいる)三合(がふ)である、神學校(しんがくかう)より直接(ちよくせつ)に長距離(ちやうきより)電話(でんわ)を傳道會社(でんだうくわいしや)のウード氏(し)に掛(か)けた、行(ゆ)けとの返答(へんたふ)である。幸(さいはひ)に翌日(よくじつ)は何(なん)の約束(やくそく)もなかつたのである。暫(しばら)くするとオーガンツのゼ、トムソン、コール氏(し)より電話(でんわ)が來(き)た、傳道會社(でんだうくわいしや)の通知(つうち)に、マキム監督(かんとく)は明日(みやうにち)(三日)午前(ごぜん)十一時(じ)ホボコンを出帆(しゆつぱん)して歸任(きにん)の途(と)に就(つ)かる、葬式(さうしき)に列(れつ)し兼(か)ねる故(ゆゑ)自分(じぶん)に行(ゆ)けとの事(こと)である、命令(めいれい)がなくとも行(ゆ)く積(つも)りであるが、君(きみ)は行(ゆ)くかとの問合(とひあは)せであつた、行(ゆ)くと答(こた)へた。そこで其夜(そのよ)十二時(じ)十五分(ふん)費府發(ひふはつ)の汽車(きしや)に共(とも)に乘込(のりこむ)むことに相談(さうだん)した。費府(ひふ)より華盛頓(わしんとん)までは百三十五哩(まいる)二合(がふ)で三時間半(じかんはん)ほどかゝる、華盛頓(わしんとん)よりリッチモンドまでは百十六哩(まいる)で是(こ)れまた三時間近(じかんちか)くかゝるのである。會社(くわいしや)が異(こと)なるので是非(ぜひ)とも華府(くわふ)にて乘替(のりか)へねばならぬ、夜(よ)三時間餘(じかんあま)りの汽車旅行(きしやりよかう)、寢臺(ねだい)を買(か)ふには餘(あま)りに短(みぢか)く、買(かは)ずには餘(あま)りに長(なが)く、何(なん)としよふと思(おも)つたが、日本(にほん)汽車(きしや)旅行(りよかう)と思(おも)へば大(たい)したことでないから、寢臺(ねだい)なしに乘(の)り通(とほ)して、午前(ごぜん)八時(じ)にリツチモンドに着(ちやく)した。
コール氏(し)と共(とも)に直(たゞち)にゼツフアソン旅館(りよくわん)に行(ゆ)き。休息(きうそく)して、同氏(どうし)は親戚(しんせき)の許(もと)に赴(おもむ)き予(よ)は旅館(りよくわん)にて朝食(あさめし)をすまし、共(とも)にギブソン監督(かんとく)の許(もと)に赴(おもむ)いて、到着(たうちやく)の挨拶(あひさつ)をした。ギブソン監督(かんとく)はウ監督(かんとく)の就眠(しうみん)と共(とも)に、傳道會社(でんだうくわいしや)宛(あて)予(よ)に電信(でんしん)を發(はつ)せられたとの事(こと)である。葬儀(さうぎ)は正午(しやうご)であるから一同(どう)十一時(じ)三十分迄(ぷんまで)にモニユメンタル、チヤーチに參集(さんしふ)すべしとの命令(めいれい)であつた、多少(たせう)の時間(じかん)もまだあるから予(よ)は老監督(らうかんとく)の眠(ねむ)られたジヨンストンウイリス醫院(いゐん)に至(いた)つて、老監督(らうかんとく)を看護(かんご)した看護婦(かんごふ)に面會(めんくわい)し、就眠(しうみん)當時(たうじ)の樣子(やうす)を聽取(ちやうしゆ)した。實(じつ)に穩(おだや)かにて何(なん)の苦痛(くつう)もなく、未(いま)だ曾(かつ)て斯(かく)の如(ごと)くの平和(へいわ)の就眠者(しうみんしや)を見(み)たことがないと述(の)べた。十一時前(じぜん)にギブソン監督(かんとく)の邸(やしき)に歸(かへ)り、同監督(どうかんとく)と同車(どうしや)にてモニユメンタル敎會(けうくわい)に赴(おもむ)いた。同敎會(どうけうかい)の位置(ゐち)は固(も)と劇場(げきぢやう)であつたが、開演中(かいえんちゆう)に失火(しつくわ)し、多(おほ)くの見物人(けんぶつにん)を燒(や)いた、其跡(そのあと)に紀念(きねん)として敎會堂(けうくわいだう)が建(た)てられたとの事(こと)である。遺體(ゐたい)は就眠後(しうみんご)直(たゞち)に老監督(らうかんとく)の甥(おひ)に當(あた)るジヨン、ダブリユー、ハリソン氏(し)の家(いへ)に引取(ひきと)られ、葬儀(さうぎ)の當時(たうじ)、其家(そのいへ)より敎會(けうくわい)に送(おく)られた。
 十二時(じ)には列席(れつせき)の牧師(ぼくし)も會衆席(くわいしゆうせき)の來會者(らいくわいしや)もコアイアも皆揃(みなそろ)つて、遺棺(ゐくわん)は會堂(くわいだう)の前(まへ)に到着(たうちやく)した。棺持(くわんもち)はアーチ、デイーコン、モリキユアー氏(し)、聖(せい)三一敎會(けうくわい)牧師(ぼくし)グラヴアト博士(はかせ)、聖愛敎會(せいあいけうくわい)牧師(ぼくし)メーリン氏(し)、聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)牧師(ぼくし)グードウイン氏(し)、エムマニユエル敎會(けうくわい)牧師(ぼくし)オスグート氏(し)、アンデレ敎會(けうくわい)牧師(ぼくし)センメス氏(し)、其(そ)の他(た)イーグル及(およ)びタイラーの兩聖職(りやうせいしよく)であつた。チヤンセルにはギブソン監督(かんとく)を始(はじ)め、當敎會(たうけうくわい)牧師(ぼくし)モーリス博士(はかせ)、雅各敎會(やこぶけうくわい)牧師(ぼくし)クラーク博士(はかせ)、諸聖徒(しよせいと)敎會(けうくわい)牧師(ぼくし)ダウンマン博士(はかせ)、コール氏(し)及(および)予(よ)の六人(にん)であつた。會衆席(くわいしゆうせき)には六十人計(にんばか)り見受(みう)けたが、其中(そのうち)には老監督(らうかんとく)の甥(をひ)なるハリソン氏(し)夫婦(ふうふ)子供(こども)、姪(めい)なるダニエル夫人(ふじん)、親友(しんいう)のジヨン、エル、ウイリヤムス氏(し)、親戚(しんせき)であり又(また)同窓(どうさう)の學友(がくいう)であつたハンスブロー氏(し)とであつた。 葬式文(さうしきぶん)の始(はじ)めはギブソン監督(かんとく)とモーリス博士(はかせ)と交々(こもごも)朗讀(らうどく)して進行(しんかう)し、クラーク博士(はかせ)は隔節(かくせつ)詩篇(しへん)を朗讀(らうどく)して、コアイアー其(その)次節(じせつ)を歌(うた)ひ、ダウンマン博士(はかせ)聖書(せいしよ)を朗讀(らうどく)し、予(よ)は使徒信經(しとしんぎやう)を導(みちび)き唱(とな)へ、ギブソン監督(かんとく)の祈禱(きたう)を以(もつ)て式(しき)を終(をは)り、遺體(ゐたい)をハレーウード墓地(ぼち)に送(お)くり、予(よ)は監督(かんとく)と同車(どうしや)して隨行(ずゐかう)し、墓地(ぼち)の式(しき)は監督(かんとく)とモーリス博士(はかせ)とコール氏(し)に依(より)て行(おこな)はれた。 此墓地(このぼち)は多(おほ)くの監督(かんとく)を葬(ほうむ)り、多(おほ)くの大統領(だいとうりやう)を葬(ほうむ)れる有名(いうめい)なるものにて、多(おほ)くの小山(こやま)より成(な)り、小池(こいけ)を有(いう)し、樹木(じゆもく)を巡(めぐ)らし、如何(いか)にも幽邃(ゆうすゐ)なる仙區(せんく)である。老監督(らうかんとく)の遺骸(ゐがい)は其兄弟(そのきやうだい)と其母公(そのぼこう)の傍(かたは)らに埋(うづ)められた。予(よ)は老監督(らうかんとく)の生前(せいぜん)に於(おい)て最後(さいご)に其(その)温顏(をんがん)に接(せつ)し、其(その)音聲(おんせい)を耳(みゝ)にしたる日本人(にほんじん)である。今又(いまま)た其(その)葬式(さうしき)に列(れつ)するを得(え)たのは誠(まこと)に幸福(かうふく)であつた。』

 我等(われら)が敬愛(けいあい)する監督(かんとく)神學博士(しんがくはかせ)チヤニング、ムアー、ウイリアムス師(し)の尊體(そんたい)は、今(いま)や北米(ほくべい)合衆國(がつしゆうこく)ヴアヂニヤ州(しゆう)リチモンド市(し)の、幽邃閑雅(ゆうすゐかんが)なるハレーウードの仙境(せんきやう)に、「主(しゆ)に在(あ)りて眠(ねむ)れるものゝ卑(いや)しき身(からだ)を變(か)へ、その榮光(えいくわう)の身體(からだ)に肖(かたど)らしめ給(たま)ふ」時(とき)を俟(ま)ちて、靜(しづか)に眠(ねむ)らる。 師(し)が愛(あい)せし我(わ)が日本(にほん)の邦土(はうど)は、師(し)の安息所(あんそくしよ)として其(そ)の一小隅(せうぐう)を與(あた)ふの榮(えい)を拒(こば)まれたるは遺憾(ゐかん)極(きはま)リなしと謂(い)ふべきである。然(しか)れども又(また)其(その)無形(むけい)の感化(かんくわ)は幾多(いくた)の心靈(しんれい)の裡(うち)に生(い)き、子々孫々(しゝそんそん)に傳(つた)はり行(ゆ)きて窮(きは)まる所(ところ)なきを思(おも)ふて、師自身(しじしん)の御手(みて)を以(もつ)て、黑(すみ)に非(あら)ず活神(いけるかみ)の靈(みたま)にて、大理石(だいりせき)ならぬ心(こゝろ)の肉碑(にくひ)に記(しる)されたる、永遠(えいゑん)にして光榮(くわうえい)ある紀念碑(きねんひ)を有(いう)する至幸(しかう)を、神(かみ)に感謝(かんしや)せねばならぬ。神(かみ)よ、吾儕(われら)各(おのおの)をして彼(かれ)の此(こ)の貴(とうと)き活(い)ける紀念碑(きねんひ)たる光榮(くわうえい)を得(え)しめ給(たま)へ。

全能(ぜんのう)の神(かみ)よ、主(しゆ)は擇(えら)びたまひし者(もの)を結(むす)び合(あ)はせ、聖子(みこ)われらの主(しゆ)イエスキリストの身體(からだ)なる公會(こうくわい)に連(つら)ねたまへり、願(ねがは)くは我(われ)らに恩寵(めぐみ)をあたへ、主(しゆ)の聖徒(せいと)の模範(てほん)に從(したが)ひて常(つね)に純潔(きよ)きことを行(おこな)ひ、終(つひ)に主(しゆ)を愛(あい)する者(もの)のために備(そな)へ給(たま)ひし大(おほい)なる歡喜(よろこび)に與(あづか)ることを得(え)させ給(たま)へ、主(しゆ)イエスキリストによりて希(こひねが)ひたてまつる、アーメン。

(日本聖公會祈禱書一二六頁諸聖徒日特禱)

 

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