第十三編 監督の人格

第十三編 監督の人格

一、監督の品性

 監督(かんとく)は一身(しん)に衆德(しゆうとく)を集(あつ)められたと云(い)ふも敢(あえ)て過言(くわげん)ではあるまい。其(その)敬虔(けいけん)、其(その)忠誠(ちゆうせい)、其(その)克己(こつき)、其(その)忍耐(にんたい)、其(その)勇敢(ゆうかん)、其(その)温柔(をんじう)、其(その)慈愛(じあい)、其(その)確信(かくしん)、歴然(れきぜん)として印象(いんしやう)を吾人(ごじん)に銘刻(めいこく)し、師(し)を知(し)る者(もの)をして終生(しゆうせい)忘(わす)れんとして、忘(わす)る能(あた)はざらしめた。然(しか)れども、師(し)は自(みづか)ら謙虚(けんきよ)卑下(ひげ)して、苟(かりそめ)にも稱譽讃美(しようよさんび)の目標(もくへう)となるを避(さ)け、其(その)善行功績(ぜんかうこうせき)の知(し)らるゝを厭(いと)はれた。師(し)は街頭(がいとう)に聲(こゑ)を發(はつ)せず、講壇(かうだん)に卓見(たくけん)を吐露(とろ)せず、文筆(ぶんぴつ)に蘊蓄(うんちく)を披瀝(ひれき)せず、常(つね)に隱(かく)れて善(ぜん)を行(おこな)ひ、常(つね)に默(もく)して人(ひと)を敎(をし)へ、其(その)言行(げんかう)の知(し)らるゝを恐(おそ)るゝは、其(その)言行(げんかう)の知(し)られむを求(もと)むる人(ひと)よりも甚(はなはだ)しかつた。是(こ)れ全(まつた)く師(し)が己(おのれ)を基督(きりすと)の裡(うち)に沒(ぼつ)し、一切(さい)の榮譽(えゐよ)と功績(こうせき)を主(しゆ)に歸(き)せんとの、終始(しゆふし)一貫(くわん)の忠誠(ちゆうせい)自(おのづか)ら之(これ)を致(いた)したのである。されば五十年(ねん)の長(なが)き傳道(でんだう)の生涯(しやうがい)も、一見(けん)何等(なんら)の異觀(いくわん)なく、何等(なんら)の奇拔(きばつ)なく、何等(なんら)の演劇的(えんげきてき)のものはなかった。とはいへ、師(し)を自然界(しぜんかい)に譬(たとふ)れば、恰(あたか)も涓々(けんけん)たる淸流(せいりう)の、急轉直下(きふてんちよくか)飛躍奔流(ひやくほんりう)の壯觀(さうくわん)なく、轟々(ぐわうぐわう)の大鳴(たいめい)鼕々(たうたう)の鼓聲(こせい)はないが、靜(しづか)に田園(でんゑん)に灌漑(くわんがい)し、嘉禾(かくわ)を養(やしな)ひ靈苗(れいべう)を育(そだ)て、其往(そのゆ)く處(ところ)に花咲(はなさ)き穀稔(こくみの)らしめ、或(あるひ)は粉挽(こなひ)く老爺(らうや)の爲(ため)に隱(かく)れて水車(すゐしや)を轉(てん)し、疲(つか)れたる道者(だうしや)の渇(かつ)せる咽(のんど)を濕(うるほ)し、或(あるひ)は白屋(はくをく)の蔭(かげ)に賤女(しづのめ)の衣(ころも)を淸(きよ)め、茅門(ぼうもん)の前(まへ)に無邪氣(むじやき)なる小兒(せうに)を優遊(いういう)せしむる如(ごと)き趣(おもむき)があった。然(しか)り淸流(せいりう)盡(つ)きざる生命(いのち)の源泉(げんせん)より靜(しづか)に、晝夜(ちうや)わかたず流(なが)れ出(い)でたる高風聖德(かうふうせいとく)は、師(し)に敎(をし)へられ師(し)に接(せつ)せし多(おほ)くの心靈(しんれい)を靈活(れいくわつ)し聖化(せいくわ)した。而(そ)してまた師(し)の裡(うち)に、絶(た)へず炎(も)へ續(つゞ)きたる愛(あい)と犧牲(ぎせい)の焔(ほのを)が傳(つた)ふる聖感(せいかん)は、幾多(いくた)信仰(しんかう)の子女(しぢよ)が胸裡(きようり)に炎(も)へて、陽(やう)に陰(いん)に神國建設(しんこくけんせつ)に貢献(こうけん)せしめつゝある。斯(かく)の如(ごと)くして師(し)は、永遠(えいゑん)の嗣業(しげふ)を公會(こうくわい)に遺(のこ)し、其德化(そのとくくわ)また窮(きは)まる所(ところ)がないであらう。
 「それ掩(おほは)れて露(あらは)れさる者(もの)なく、隱(かく)れて知(し)れざる者(もの)はなし」。況(いは)んや一度(ひとたび)基督(きりすと)に依(よつ)て點火(てんくわ)されたる燈(ともしび)は、よしや斗(ます)の下(した)にありとも、何(なん)ぞ光(ひかり)を發(はな)たざらんや。師(し)逝(ゆ)きしより春秋去來(しゆんしうきよらい)早(はや)くも三たび、終生(しゆふせい)己(おのれ)を抹殺(まつさつ)したる師(し)の尊骸(そんがい)は、草葉(くさば)の下(した)に隱(かく)るゝとも、其(その)高德偉績(かうとくゐせき)は隱(かく)れんとして、永久(えいきう)に隱(かく)るゝことは出來(でき)ぬ。師(し)の崇高(すうかう)なる人格(じんかく)は、生前(せいぜん)にすら早(はや)くも既(すで)に世(よ)に知(し)られ、築地(つきぢ)の隱君子(いんくんし)を以(もつ)て稱(しよう)せられた。師(し)の訃音(ふいん)傳(つた)はるや、敎界(けうかい)の諸雜誌(しよざつし)を初(はじ)め、都市(とし)の新聞紙(しんぶんし)に至(いた)るまで、其(その)逝去(せいきよ)を悼(いた)みて吊意(てうい)を表(へう)し、或(あるひ)は肖像(せうぞう)を載(の)せ其(その)人格(じんかく)を紹介(せうかい)した。師(し)は師(し)の最愛(さいあい)の主(しゆ)の如(ごと)く、人(ひと)に知(し)られざらん事(こと)を欲(ねがひ)しが隱(かく)れ得(え)なかつた。師(し)は恰(あたか)も嚴冬(げんたう)の霜雪(さうせつ)を經(へ)たる梅花(ばいくわ)の如(ごと)く、其淸姿(そのせいし)暗夜(あんや)に包(つゝ)まれても、其芳香(そのはうかう)や猶(な)ほ四隣(りん)に薰(くん)したのである。さあれ吾人(ごじん)は、師(し)の淸姿芳香(せいしはうかう)が永久(えいきう)に、我(わ)が日本聖公會(にほんせいこうくわい)の榮光(えいくわう)且(か)つ無上(むじやう)の生命(せいめい)となれることを感謝(かんしや)せねばならぬ。

二、監督の生活  

 監督(かんとく)は、殆(ほと)んど全生涯(ぜんしやうがい)、禁慾(きんよく)に近(ちか)い儉勤克己(けんきんこくき)の生活(せいくわつ)をせられた。師(し)は、常人(じやうにん)の爲(な)し能(あた)はぬ克己(こつき)をなし、吝嗇(りんしよく)とも見(み)へたほどに儉勤(けんきん)をせられた。然(しか)し、其(その)克己儉勤(こつきけんきん)の生活(せいくわつ)は、師(し)が戒律(かいりつ)として守(まも)り、主義(しゆぎ)として操(と)られたのではなかつた。師(し)が且暮(あけくれ)只管(ひたすら)の願望(ねがひ)は、枕(まくら)する處(ところ)なかりし救主(すくひぬし)の御跡(おんあと)を踏(ふ)み、其(その)聖意(みこゝろ)を悅(よろこ)ばせ奉(たてまつ)ることであつた。師(し)は、專心(せんしん)一意(い)全力(ぜんりよく)を之(これ)に傾注(けいちう)し、世(よ)の毀譽褒貶(きよほうへん)の如(ごと)きは、毫(がう)も顧(かへりみ)なかつたのと、且(か)つ主(しゆ)を愛(あい)する赤誠(せきせい)、主(しゆ)に事(つか)へまつる喜悅(よろこび)内(うち)に充(み)ち足(た)り、外(そと)、肉(にく)の快樂安慰(くわいらくあんゐ)に待(ま)つところ寡(すくな)かりし爲(ため)であった、故(ゆゑ)に、師(し)は、淸貧生活(せいひんせいくわつ)に安(やす)んじられた、否(い)な安(やす)んじたと云(い)ふよりは、寧(むし)ろ之(これ)を愛(あい)し樂(たのし)んだと云(い)ふが適當(てきたう)であらう。 凡(およ)そ克己(こつき)といひ、儉勤(けんきん)といへば、何處(どこ)にか慘憺(さんたん)たる惡戰苦鬪(あくせんくたう)の状(さま)が、仄(ほ)の見(み)ゆるものであるが、監督(かんとく)に於(おい)ては、聊(いさゝ)かも之(これ)を見(み)ることが出來(でき)なかった。反(かへ)つて、我等(われら)の爲(ため)に貧(まづ)しくなりし人(ひと)の子(こ)の、胸懷(きようくわい)に宿(やど)りし天上(てん)の歡喜(よろこび)は、同(おな)じ淸貧生活(せいひんせいくわつ)に於(おい)て、最(もつと)も善(よ)く味(あぢは)ひ知(し)りしものゝ如(ごと)く、師(し)の顏(かほ)には、常(つね)に歡喜(よろこび)の光(ひかり)が輝(かゞや)いて居(を)つた。
 監督(かんとく)はまた、日本(にほん)の傳道(でんだう)に於(おい)ては、全然(ぜんぜん)西洋人(せいやうじん)たる自己(じこ)を沒了(ぼつれう)し、凡(すべ)ての事(こと)は日本敎役者(にほんけうえきしや)を標準(へうじゆん)とし、日本敎役者(にほんけうえきしや)の如(ごと)く生活(せいくわつ)し、自(みづか)ら其(その)模範(もはん)を示(しめ)して、神(かみ)の前(まへ)に淸(きよ)く日本(にほん)に於(お)ける傳道的(でんだうてき)生涯(しやうがい)を全(まつた)ふせんことを期(き)せられた。師(し)は之(これ)が爲(ため)に日本敎役者(にほんけうえきしや)と共(とも)に、日本家屋(にほんかをく)に住(ぢゆう)し、一切(さい)洋食(やうしよく)を廢(はい)して日本食(にほんしよく)のみを取(と)らるゝまでに至(いた)つた。師(し)が終生(しゆふせい)粗衣粗食(そいそしよく)に甘(あま)んじたのも、酷暑嚴冬(こくしよげんとう)の候(こう)も、未(いま)だ曾(かつ)て一回(くわい)も轉地休養(てんちきうやう)を取(と)らざりしことも、外人(ぐわいじん)の友(とも)多(おほ)き地(ち)に到(いた)るも、却(かへつ)て枯魚粗菜(こぎよそさい)の饗應(きやうおう)を日本敎友(にほんけういう)の宅(たく)に樂(たのし)まれた如(ごと)きも、皆(み)な此(この)精神(せいしん)より出(い)でしに外(ほか)ならぬのである。斯(かく)の如(ごと)くして、活(い)くるも死(し)ぬるも主(しゆ)の爲(た)めと信(しん)ずる師(し)は、基督(きりすと)の榮光(えいくわう)のために、淸貧生活(せいひんせいくわつ)に甘(あま)んぜられた、否(い)な寧(むし)ろ之(これ)を愛(あい)し樂(たのし)まれたのであつた。

三、監督の衣服  

 監督(かんとく)の衣服(いふく)は極(きは)めて質素(しつそ)で、一年中(ねんぢゆう)同(どう)一の黑羅紗(くろらしや)の制服(せいふく)を纏(まと)ひ、破帽(はほう)弊履(へいり)すこしも邊幅(へんぷく)を飾(かざ)らないところ、宛然(さながら)古聖(こせい)の遺風(ゐふう)があつた。監督(かんとく)在職中(ざいしよくちゆう)は、春夏秋冬(しゆんかしうとう)同(どう)一の黑衣(こくい)を着(き)て居(を)られたが、それも裏返(うらかへ)し、繕縫(つくろい)、補綴(つぎはぎ)の手(て)の懸(かゝ)つたものであった。監督職(かんとくしよく)を退(しりぞ)いてからは、縞服(しまふく)を着(つ)けられたが、時(とき)には上衣(うはぎ)と袴(づぼん)とは似(に)つかぬ服(ふく)を着(き)て居(を)られた。之(これ)は古洋服屋(ふるやうふくや)を漁(あさ)り回(まは)りて、恰好(かくかう)のものを購(あがな)ひ、或(あるひ)はそれを染(そ)め更(か)え、仕立直(したてなほ)して用(もち)ひられたのであつた。一日(じつ)某夫人(ぼうふじん)が、監督(かんとく)の外套(ぐわいとう)が餘(あま)りに古(ふる)びたるを見(み)、窃(ひそ)かに、「監督(かんとく)さん、失禮(しつれい)ですが、外套(ぐわいとう)を裏返(うらが)へされては、如何(いかゞ)です」と云(い)ふと、監督(かんとく)は微笑(びせふ)して曰(いは)く、「裏返(うらがへ)して以來(いらい)八年(ねん)經(た)ちました」。
 或時(あるとき)、神戸(かうべ)から東京(とうきやう)に歸(かへ)らるゝ時(とき)、橫濱(よこはま)まで米國船(べいこくせん)に乘(の)つた事(こと)があつたが、其船(そのふね)の船長(せんちやう)は、昔(むか)し監督(かんとく)が支那(しな)に赴任(ふにん)さるゝ時(とき)の、便船(びんせん)の乘組員(のりくみゐん)であつたので、思(おも)ひがけなき再會(さいくわい)に、互(たがひ)に驚(おどろ)かれたそうである。其時(そのとき)船長(せんちやう)は、四方山(よもやま)の話(はなし)の末(すへ)に、監督(かんとく)の容姿(すがた)を見(み)て、 「監督(かんとく)よ、失敬(しつけい)ながら貴下(きか)の服(ふく)は古(ふる)びたれば、裏返(うらが)へしたら經濟(けいざい)ならん」と、さも發明(はつめい)らしく敎(をし)へた。監督(かんとく)曰(いは)く、「然(しかり)り、君(きみ)の云(い)はるゝ如(ごと)く、此(こ)の通(とほ)り裏(うら)かへしが、更(さら)に又(また)素地(もと)に裏歸(うらがへ)りしなり」と云(い)つて、互(たがひ)に顏見合(かほみあは)せて笑(わら)はれたそうである。
 京都(きやうと)三本木(ぼんぎ)に、日本敎役者(にほんけうえきしや)と共(とも)に住(ぢゆう)した頃(ころ)、一日(じつ)下婢(かひ)が、いかにも得意(とくい)らしい顏(かほ)をして手(て)に雜誌(ざつし)を持(も)ち敎役者(けうえきしや)の部屋(へや)に來(き)て、「旦那(だんな)さん此(これ)は家(うち)の先生(せんせい)でせう」と雜誌(ざつし)を見(み)せた。見(み)ると、雜誌太陽(ざつしたいやう)で監督(かんとく)とフルベツキ、ヘボン三氏(し)の寫眞板(しやしんばん)が載(の)つて、監督(かんとく)の小傳(せうでん)が記載(かゝ)れてある。「此(これ)は家(うち)の先生(せんせい)だ、お前(まへ)は何處(どこ)から之(これ)を持(もつ)つて來(き)たか。」 下婢(かひ)は愈々(いよいよ)得意顏(とくいがほ)、「旦那(だんな)さん、斯(こ)うなんです聽(き)いて下(くだ)さい、私(わたし)がいつも裏(うら)に洗濯(せんたく)に行(ゆ)くと、近所(きんじよ)の奧(おく)さんや下女(げぢよ)さんが、お前(まへ)の所(ところ)の西洋人(せいやうじん)ね、彼(あれ)は乞食(こつじき)だらうと云(い)ふのです。どうしまして、彼(あ)のお方(かた)は大(たい)さう偉(えら)い人(ひと)ですと申(まを)せば、何(なに)が偉(えら)い?あの容姿(なり)をご覽(らん)な、恰(まる)で乞食(こつじき)よ、なんて云(い)はるゝので、私(わたし)は口惜(くやし)くて口惜(くやし)くて堪(たま)りませんでした。ですが旦那(だんな)さん、私(わたし)は嬉(うれ)しかつたです。今(い)ま裏(うら)に行(ゆ)くと、近所(きんじよ)の人等(ひとたち)が寄(よ)り集(あつま)つて、太陽(これ)を讀(よ)んで家(うち)の先生(せんせい)に感心(かんしん)し、いかにも偉(えら)いお方(かた)だ、かうとは知(し)らずいま迄(まで)、惡口(わるくち)ばかり云(い)つて濟(す)まなかつたと、私(わたし)に謝(あやま)るのです。それ見(み)た事(こと)か、如何(どう)です偉(えら)いでせうと云(い)つて遣(や)りました。家(うち)の先生(せんせい)は偉(えら)い、これで私(わたし)も胸(むね)がスーとしました」と平素(へいそ)の鬱憤(うつぷん)こゝに晴(は)れて、下婢(かひ)は大得意(だいとくい)であつた。
 監督(かんとく)が、曾(かつ)て丹後(たんご)の宮津(みやづ)に傅道(でんだう)に行(ゆ)かれた歸途(きと)、汽船(きせん)に乘(の)らうとして、待合所(まちあひしよ)に入(い)ると、事務員(じむゐん)は、破衣弊靴(はいへいくわ)、破(やぶ)れ提鞄(かばん)を携(たづさ)へた老監督(らうかんとく)を、乞食異人(こつじきいじん)と見(み)て、「オイオイ其處(そこ)に坐(すわ)つてはいかん、アツチに行(い)つて待(ま)つてろ」と叱(しか)つた。監督(かんとく)は叱(しか)らるゝまゝに、ハイハイと頭(かしら)を下(さ)げて隅(すみ)の方(はう)に、小(ちい)さくなつて居(を)られた。ところへ土地(とち)の牧師(ぼくし)や有志家達(いうしかたち)が、見送(みおく)りに來(こ)られ、下(した)にも置(お)かぬ待遇(もてなし)に、先(さき)の事務員(じむゐん)は、餘(あま)りの事(こと)に唯(た)だ啞然(あぜん)として居(を)つたが、後(あと)で、事(こと)の由(よし)を聞(き)いて、甚(いた)く恐(おそ)れ入(い)つたそうである。

四、監督の食事

 日常(にちじやう)の食事(しよくじ)も極(きは)めて質素(しつそ)であつた。重(おも)に菜食(さいしよく)をなされ、馬齡薯(じやがいも)、胡蘿蔔(にんじん)のスチウの如(ごと)きは、尤(もつと)もよく食卓(しよくたく)に上(のぼ)るのであつた。一週(しう)たつた一度(ど)、日曜日(にちえうび)の晝食(ひるしよく)は、監督(かんとく)にとつては御馳走(ごちそう)で、夫(それ)とてもビステキ位(ぐらゐ)であつた。食事(しよくじ)には無頓着(むとんちやく)にて、料理(れうり)に就(つい)ては一言(ひとこと)も呟(つぶや)きしことはなかつたそうである。一日(じつ)食事(しよくじ)の時(とき)に、此日(このひ)に限(かぎ)り料理(れうり)を食(しよく)せず、其儘(そのまゝ)で去(さ)られた事(こと)があつた。料理人(こつく)は、自分(じぶん)の料理(れうり)がお氣(き)に召(め)さぬのであらうかと案(あん)じて、お下(さが)りを頂戴(ちやうだい)し甞味(やつ)てみると、此(これ)は大失策(おほしくじり)、不味(まづい)ので食(く)へぬ。全(まつた)く料理(れうり)の爲損(しそこなひ)であった。彼(かれ)は早速(さつそく)監督(かんとく)にお詫(わび)に出(で)ると、監督(かんとく)は少(すこ)しも不快(ふくわい)の樣子(やうす)なく、「謝(あやまる)ること要(い)りません、私(わたくし)あの料理(れうり)好(す)きませんから、食(た)べませんでした」、と温和(やさし)く言(い)はれたので、彼(かれ)はいよいよ恐縮(きようしゆく)したといふ事(こと)である。
 庖厨(だいどころ)の道具(だうぐ)といつても、それは簡單(かんたん)のものであつた。僅(わづ)かにイギリス鍋(なべ)一(ひと)ツ、混爐(こんろ)一(ひと)ツ、皿(さら)十二枚(まい)、スープ皿(ざら)十二枚(まい)、之等(これら)に附屬(ふぞく)した食器(しよくき)と、日常用(にちじやうよう)の器(うつは)の外(ほか)はなかった。或日(あるひ)の事(こと)來客(らいかく)があつて監督(かんとく)とも十三人前(にんまへ)の、食事(しよくじ)を仕度(したく)することとなつた。主客(しゆかく)とも十三人(にん)では、器具(きぐ)が一人前(にんまへ)不足(ふそく)であつたから、「監督(かんとく)さん、何處(どこ)ぞから一人前(にんまへ)借(か)りて來(き)ませうか」と問(と)ふと、 「他家(よそ)から借(かり)るのはいけません」と云(い)はるゝ、「それでは什麼(どう)しませうか」、監督(かんとく)は暫(しば)し考(かんが)へて居(を)られたが、一計(けい)を案(あ)んじた。「善(よ)い事(こと)あります。私(わたくし)を一番(ばん)最後(あと)になさい、それで足(た)ります」。そこで十二を以(もつ)て十三にあて、俺(わし)は目(め)の回(まは)る程(ほど)忙(せは)しかつたとは、當時(たうじ)師(し)に仕(つか)へた人(ひと)の懷舊談(くわいきうだん)の一節(せつ)である。
 監督(かんとく)は、敎友(けういう)や靑年(せいねん)など招(まね)いて、屢(しばし)ば馳走(ちさう)をされた。地方(ちはう)から敎役者(けうえきしや)が出(で)て來(く)ると、屹度(きつと)一度(ど)は食事(しよくじ)に招(よ)ばれた。而(そ)して平素(へいそ)の生活(せいくわつ)と違(ちが)つて、相當(さうたう)の馳走(ちさう)をなし、無邪氣(むじやき)なる珍談笑話(ちんだんせうわ)を以(もつ)て、食卓(しよくたく)を賑(にぎ)はされた。而(そ)して食卓上(しよくたくじやう)に、たとへ眞面目(まじめ)な宗敎道德(しうけうだうとく)の話(はなし)が、少(すこ)しも無(な)かつたにせよ、監督(かんとく)の客(きやく)となつた者(もの)は、言(い)ひ知(し)れぬ靈趣(れいしゆ)を味(あぢは)つて、來(き)た時(とき)にない新(あたら)しい感(かん)を懷(いだ)いて歸(かへ)つた。
 東京(とうきやう)から京都(きやうと)に轉(てん)じ、同市(どうし)三本木(ぼんぎ)、舊(もと)井筒屋(ゐづゝや)と稱(しよう)せし割烹店(かつぽうてん)跡(あと)の一部(ぶ)を、借(か)り住(ぢゆう)してから、敎役者(けうえきしや)と同居(どうきよ)し、全然(ぜんぜん)日本人(にほんじん)と同樣(どうやう)なる生活(せいくわつ)をなし、一切(さい)洋食(やうしよく)を廢(はい)して、同居(どうきよ)の敎役者(けうえきしや)家族(かぞく)と卓(たく)を圍(かこ)んで、日本食(にほんしよく)のみを食(しよく)された。之(これ)が爲(た)めか、監督(かんとく)の身體(しんたい)は甚(はなはだ)しく衰弱(すゐじやく)し、且(か)つ痼疾(こしつ)の脱腸(だつちやう)に惱(なや)まれたので、醫士(いし)は切(しき)りに洋食(やうしよく)に回復(くわいふく)するやう勸(すゝ)められたるが、監督(かんとく)は容易(ようい)に勸告(くわんこく)に從(したが)はなかつた。同居(どうきよ)の敎役者(けうえきしや)は、醫士(いし)の勸告(くわんこく)を聽(き)き、監督(かんとく)の健康(けんかう)を氣遣(きづか)ひ、其後(そののち)は、監督(かんとく)の膳部(ぜんぶ)には洋食(やうしよく)を供(きよう)する事(こと)にした。然(しか)し監督(かんとく)はそれには箸(はし)も觸(ふ)れず、何時(いつ)も敎役者家族(けうえきしやかぞく)のとらるゝ食(しよく)のみせらるゝので、一日(にち)敎役者(けうえきしや)は改(あらたま)つて忠告(ちゆうこく)した。監督(かんとく)曰(いは)く、「いま三日(か)待(ま)てよ、三日(か)經(た)てば百日(にち)になる。」それから三日(か)過(す)ぎて漸(やうや)く洋食(やうしよく)に回復(くわいふく)した。かうと決(けつ)したら頑(ぐわん)として動(うご)かぬ監督(かんとく)も、身體(しんたい)の衰弱(すゐじやく)と他人(たにん)の切(せつ)なる勸告(くわんこく)に、餘儀(よぎ)なくも百日間(にちかん)洋食斷(やうしよくだち)をした後(のち)、日本食(にほんしよく)を廢(はい)された。

五、監督の住宅 

 監督(かんとく)は、晩年(ばんねん)に至(いた)り京都(きやうと)烏丸(からすまる)に、粗造(そざう)なる住宅(ぢゆうたく)を建(た)つる迄(まで)は、自己(じこ)のために一軒(けん)の家(いへ)も建(た)てられなかつた。時(とき)には學生(がくせい)と共(とも)に寄宿舍(きしゆくしや)の一偶(ぐう)に起居(ききよ)し、時(とき)には神學校(しんがくかう)に假居(かきよ)し、時(とき)には狹(せ)ま苦(ぐる)しき會堂(くわいだう)の片偶(かたすみ)に棲居(せいきよ)せられた。室(へや)には敷物(しきもの)もなく、窓掛(まどか)けもなく、机(つくひ)、椅子(いす)、書籍(しよせき)、樂器(がくき)の外(ほか)には、何(なん)の裝飾(さうしよく)もなかつた。冬(ふゆ)にもストーブを燃(た)かなかつた。或人(あるひと)が、ストーブを燃(た)かれては如何(いかゞ)ですと云(い)つたら、「イエス樣(さま)の時代(じだい)には、さういふものはありませんでした」と答(こた)へられたさうである。粗造(そざう)の家屋(かをく)であるから、敷物(しきもの)のない床板(ゆかいた)の空隙(すきま)から、氷(こほり)のやうな冷(つめた)い風(かぜ)がやつて來(く)る、其處(そこ)にストーブも燃(た)かず、讀書(どくしよ)せらるゝ監督(かんとく)を見(み)て、或(あ)る敎役者(けうえきしや)が、監督(かんとく)さん、紙(かみ)で目張(めばり)をなさい、スルト寒(さむい)い風(かぜ)來(き)ませんと敎(をし)へた。監督(かんとく)は、有難(ありがた)う試(こゝろ)みませうと云(い)はれた。其後(そのご)再(ふたゝ)び同(どう)敎役者(けうえきしや)が訪問(はうもん)した時(とき)は、西洋(せいやう)新聞紙(しんぶんし)で張(は)つたのが、既(すで)に處々(ところどころ)破(やぶ)れて居(を)つたから、監督(かんとく)さん、これは日本紙(にほんし)でなければいけません、仙花(せんくわ)と云(い)つて、よい紙(かみ)がありますといへば、監督(かんとく)は、「それは高價(かうか)です、これ大(たい)そう廉(やす)い、無價(たゞ)です、破(やぶ)れたら何遍(なんべん)でも張(は)ります」と云(い)はれた。
 烏丸(からすまる)の住宅(ぢゆうたく)は、其後(そのご)五條(でう)に移(うつ)し、其處(そこ)に最後(さいご)の歸國(きこく)まで住居(ぢゆうきよ)せられた。監督(かんとく)は歸國(きこく)せらるゝ前(まへ)、京都(きやうと)地方部(ちはうぶ)常置委員(じやうちゐゐん)が訪問(はうもん)した時(とき)、云(い)はれたるに、予(よ)が歸國(きこく)に際(さい)し持(も)ち行(ゆ)くものは、予(よ)が愛(あい)する敎友(けういう)の寫眞(しやしん)のみ、此家(このいへ)も書籍(ほん)も器具(きぐ)も、一切(さい)を京都(きやうと)地方部(ちはうぶ)敎役者(けうえきしや)の爲(ため)に與(あた)ふべし、予(よ)が去(さ)りし後(のち)は自由(じいう)に使用(しよう)せられよと。かくて數日(すうじつ)の後(のち)に、漂然(へうぜん)京都(きやうと)を去(さ)り歸國(きこく)せられたるが、一着(ちやく)の衣服(いふく)、一枚(まい)の毛布(もうふ)、一册(さつ)の聖書(せいしよ)と二三の必要品(ひつえうひん)の外(ほか)は、何(なに)一物(もつ)も携(たづさ)へられず、室内(しつない)は舊(もと)のまゝにて監督(かんとく)の在(おは)せし時(とき)と、少(すこ)しも異(こと)ならず、これが再(ふたゝ)び歸(かへ)らぬ人(ひと)の後(あと)とは、何人(なんびと)にも思(おも)はれなかつた。其(その)無私(むし)、淸蒹(せいれん)、潔白(けつぱく)に驚(おどろ)かさるものはなかつた。

六、監督の節儉  

 身(み)監督(かんとく)といふ聖公會(せいこうくわい)最上位(さいじやうゐ)の榮職(えいしよく)にあつて、月(つき)に數(すう)百圓(ゑん)の報酬(はうしう)がありながら監督(かんとく)の一ヶ月(げつ)の生活費(せいくわつひ)は、僅(わづ)かに拾五圓(ゑん)位(ぐらゐ)であったといふ、以(もつ)てその質素儉勤(しつそけんきん)の生活(せいくわつ)のほどを察(さつ)すべきである。日常(にちじやう)の生活費(せいくわつひ)は出來(でき)る丈(だ)け節儉(せつけん)し、月末(げつまつ)に食料(しよくれう)其他(そのた)の雜費(ざっぴ)が少(すこ)しでも超過(てうくわ)すると、コックに其(その)理由(りいう)を尋(たづ)ねられ、以後(いご)の注意(ちゆうい)を與(あた)へられた。雜貨(ざつくわ)や日用品(にちようひん)を買(か)ふ時(とき)は、なかなか六ケ敷(し)い事(こと)をいはれた。此(これ)は高價(かうか)です、モツト安價(やす)いのとかへて來(こ)いと、毎度(まいど)命(めい)ぜらるゝので、コツクは之(これ)を厭(いと)ひて、吝嗇(りんしよく)爺(ぢゞ)めと陰口(かげぐち)を云(い)つて居(を)つた。然(しか)り、實(じつ)に師(し)の生活(せいくわつ)を表面(へうめん)からばかり見(み)るものには、殆(ほと)んど極端(きよくたん)な吝嗇家(りんしよくか)としか思(おも)はれなかつた。然(しかし)ながら、燕雀(えんじやく)安(いづく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志(こゝろざし)を知(し)らんや、師(し)が斯(か)く己(おのれ)の身(み)を節(せつ)したるは、神(かみ)より託(たく)せられたる此世(このよ)の財(たから)を、蠧(むし)くひ銹(さび)くさり、盜(ぬすみ)穿(うがつ)て竊(ぬすま)ざる所(ところ)の天(てん)に蓄(たくは)へ、かくして、憂(うれ)ふるに似(に)たれども常(つね)に喜(よろこ)び、貧(まづ)しきに似(に)たれども多(おほ)くの人(ひと)を富(とま)さんためであつた。
 傳道旅行(でんだうりよかう)をせらるゝに、汽車(きしや)はいつも三等(とう)のほかは乘(の)られなかつた。老年(らうねん)に及(およ)ばれても、汽車(きしや)など一、二等(とう)に乘(の)られたことはない、相變(あひかは)らず三等(とう)切符(きつぷ)で何處(いづこ)にても旅行(りよかう)せられた。人(ひと)あり、師(し)は何故(なにゆえ)に三等(とう)のほか乘(の)りたまはざるやと問(と)へば、曰(いは)く「已(やむ)を得(え)ざるなり」と、人(ひと)其(その)意味(いみ)を解(かい)せずして怪(あや)しみ尋(たづ)ぬれば、「四等(とう)がないからです。」
 傳道地(でんだうち)を巡回(じゆんくわい)せらるゝ際(さい)には、バタをつけたパンを幾個(いくつ)となく新聞紙(しんぶんし)に包(つゝ)んで、携帶(けいたい)せらるゝのが常(つね)であつたが、其(その)新聞紙(しんぶんし)を一々叮寧(ていねい)に皺(しわ)をのべて持返(もちかへ)り、三度(たび)も四度(たび)も用(もち)ゐるのが例(れい)であつた。來翰(らいかん)の餘白(よはく)や不要(ふえう)の刷物(すりもの)など、苟(いやしく)も白(しろ)い部分(ぶぶん)のある紙(かみ)は、原稿紙(げんかうし)代(がは)りや、説敎(せつけう)の下書(したがき)に用(もち)ひられた。

七、献金と救恤 

 往々吝嗇(わうわうりんしよく)と誤(あやま)られたほどに、勤儉克己(きんけんこつき)の生活(せいくわつ)をした監督(かんとく)は、斯(か)くして貯蓄(たくはへ)られた金(かね)を、凡(すべ)て神(かみ)に捧(さゝ)げ、會堂(くわいどう)の建設(けんせつ)、學生(がくせい)の扶助(ふじよ)、病者(びやうしや)、寡婦(くわんふ)、孤兒(こじ)の救濟(きうさい)の爲(ため)に、惜(おしみ)なく費(つひや)された。
 監督(かんとく)が直接間接(ちよくせつかんせつ)に盡(つく)された敎會(けうくわい)は、東京(とうきやう)では築地(つきぢ)三一大會堂(だいくわいだう)、これは其當時(そのだうじ)四萬圓(まんゑん)を要(えう)したといふが、監督(かんとく)一人(にん)の出資(しゆつし)になったものである。其他(そのた)神田(かんだ)基督敎會(きりすとけうくわい)、淺草(あさくさ)聖的翰敎會(せいよはねけうくわい)、深川(ふかがわ)眞光敎會(しんくわうけうくわい)、麹町(かふぢまち)聖愛敎會(せいあいけうくわい)、關西地方(くわんさいちほう)では大津(おほつ)基督敎會(きりすとけうくわい)、岸和田(きしわだ)聖保羅敎會(せぽろけうくわい)、小濱(こはま)聖路加(せるか)敎會(けうくわい)等(とう)である。最後(さいご)の紀念(きねん)となったのは、京都(きやうと)聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)にて、これは三萬圓(まんゑん)を要(えう)したといふ。而(しか)して是等(これら)の會堂(くわいだう)は師(し)が日本(にほん)人の爲(ため)に獻(さゝ)げられたのであった。築地(つきぢ)の三一大會堂(だいくわいだう)が新築(しんちく)された當時(たうじ)、日本人(にほんじん)の禮拜(れいはい)と外人(ぐわいじん)の禮拜(れいはい)とが、同會堂(どうくわいだう)に執行(しつかう)せらるゝことゝなったが、何(いづ)れの禮拜(れいはい)を主(しゆ)とすべきか其處置(そのしよち)に就(つい)て、當時(たうじ)の牧師(ぼくし)が監督(かんとく)の意見(いけん)を尋(たづ)ねしに、監督曰(かんとくいは)く、私(わたくし)は日本人(にほんじん)の爲(ため)に會堂(くわいだう)を建(た)てました、彼(あれ)は日本人(にほんじん)の敎會(けうくわい)です。日本人(にほんじん)の禮拜(れいはい)に妨(さまた)げのない限(かぎ)りは外人(ぐわいじん)が使用(しよう)するも差支(さしつかへ)ありません、何事(なにごと)も日本人(にほんじん)が主(しゆ)ですと云(い)はれたさうである。
 監督(かんとく)が貧書生(ひんしよせい)を養(やしな)はれたのは實(じつ)に夥(おびたゞ)しい。然(しか)し監督(かんとく)は彼等自身(かれらじしん)にも己(おのれ)が學資(がくし)が、誰(たれ)から出(で)て居(を)るか知(し)らせなかった。多(おほ)くの書生(しよせい)が自身(じしん)の學費(がくひ)の出資者(しゆつししや)を確(たしか)めやうと、監督(かんとく)に尋(たづ)ぬると、心配(しんぱい)すな、或人(あるひと)喜(よろこ)んで出(だ)します、學生(がくせい)は勉強(べんきやう)が肝要(かんえう)ですと云(い)はれ、其或人(そのあるひと)とは誰(たれ)なるかを決(けつ)して漏(もら)されなかった。
 某高等學校(ぼうかうとうがくかう)の敎授(けうじゆ)であった人(ひと)が、危篤(きとく)であるとの電報(でんぱう)が來(き)た時(とき)に、監督(かんとく)は痛(いた)く心配(しんぱい)せられ、遠路(ゑんろ)の地(ち)に態々(わざわざ)某氏(ぼうし)を見舞(みまひ)に遣(つか)はされた。監督(かんとく)は某氏(ぼうし)が出發(しゆつぱつ)の際(さい)に、一通(つう)の書翰(しよかん)を托(たく)されたが、不幸(ふかう)病人(びやうにん)は其書翰(そのしよかん)を讀(よ)み終(をは)らぬ中(うち)に、妻(つま)と三人(にん)の子(こ)を殘(のこ)して沒(ぼつ)した。某氏(ぼうし)は未亡人(みぼうじん)のため監督(かんとく)の書翰(しよかん)を讀(よ)んで聽(き)かせたが、其中(そのうち)には、靈的(れいてき)慰籍(ゐせき)を與(あた)へ、信仰(しんかう)と忍耐(にんたい)を以(もつ)て終(をはり)まで、主(しゆ)に事(つか)ふべきことを懇切(こんせつ)に勸(すゝ)められ、最後(さいご)に、若(も)し貴下(きか)が天父(てんぷ)の御召(おめし)を蒙(かうむ)ることあらば後事(こうじ)を憂(うれ)ふる勿(なか)れ、三人(にん)の愛兒(あいじ)の敎育(けういく)は我之(われこれ)を引受(ひきう)くべし云々(うんうん)と、書(か)いてあったさうである。之(これ)は唯(た)だ一例(れい)であるが、這(こ)う云(い)ふやうな事情(じじやう)の下(もと)に、監督(かんとく)に援(たす)けられた人(ひと)が、人(ひと)の知(し)らぬ所(ところ)に幾人(いくにん)となくあつたと云(い)ふ事(こと)である。
 監督(かんとく)が敎務(けうむ)を帶(お)びて淸國(しんこく)に赴(おもむ)かれた不在中(ふざいちゆう)、遙々(はるばる)長崎(ながさき)から來(き)た人(ひと)があった。留守居(るすゐ)の某氏(ぼうし)が、之(これ)を迎(むか)へて來意(らいい)を問(と)ふと、此人(このひと)は監督(かんとく)が長崎(ながさき)に居(を)つた頃(ころ)、恩顧(をんこ)を蒙(かうむ)つたコックであった。監督(かんとく)が同地(どうち)から大阪(おほさか)に轉(てん)ずる際(さい)に、彼(かれ)は莫大(ばくだい)の金圓(きんゑん)を惠(めぐ)まれ、其(その)お蔭(かげ)で長崎(ながさき)で牛乳業(ぎうにふげふ)を開業(かいげふ)し、今(いま)では何(な)に不自由(ふじいう)なき生活(せいくわつ)を營(えとな)むやうになったので、此度(このたび)の上京(じやうきやう)を幸(さひはい)に先(ま)づ、御禮(おれい)の爲(た)め伺(うかが)つたといふ事(こと)であつた。監督(かんとく)は多年仕(たねんつか)へたコックに對(たい)しては、唯(た)だ現在(げんざい)に恩顧(をんこ)を與(あた)へて當人(たうにん)を喜(よろこ)ばせるよりは、彼(かれ)が將來(しやうらい)の事(こと)に思慮(しりよ)を用(もち)ひられ、窃(ひそか)に彼(かれ)が爲(ため)に圖(はか)られた。買物(かひもの)など六ケ敷(し)い事(こと)をいはれたが、幾分(いくぶん)でも安價(やす)いと思(おも)はれた時(とき)は、それを彼(かれ)のために貯蓄(たくはへ)て置(お)かれた。或(あ)るコックの如(ごと)きは、永(なが)い間(あひだ)奉公(ほうこう)して居(を)つたが、餘(あま)り買物(かひもの)にやかましいので、或日(あるひ)、私(わたし)は迚(とて)も貴下(あなた)のコックは勤(つと)まりませんから、お暇(ひま)を頂(いたゞ)きますと申出(まうしい)でた。監督(かんとく)はさうですか、ソレは致方(いたしかた)ありませんと、やがて二百何圓(なんゑん)と書(か)いた貯金通帳(ちよきんかよひちやう)を持(も)つて來(き)て、之(これ)はお前(まへ)が買(か)ひかへる時(とき)に、お前(まへ)の老後(らうご)のためにと貯蓄(ちよちく)したものだから、お前(まへ)のものであると、彼(かれ)の前(まへ)に差出(さしだ)した。之(これ)を見(み)て初(はじ)めて監督(かんとく)の深情(しんじやう)厚意(かうい)を知(し)つた彼(かれ)は、驚愕(きやうがく)其極(そのきよく)に達(たつ)し匇惶(そうくわう)お暇乞(いとまごひ)を撤回(てつくわい)して、益々(ますます)忠勤(ちゆうきん)を勵(はげ)んだ。思(おも)ふに長崎(ながさき)のコックも、同樣(どうやう)な恩澤(をんたく)に浴(よく)したのであらう。
 一夏(なつ)、監督(かんとく)は、丹後宮津(たんごみやづ)の澤邊(さはべ)別莊(べつさう)に、避暑(ひしよ)せられた事(こと)があつた。これは監督(かんとく)の衰弱(すゐじやく)甚(はなはだ)しかつたので、パートリツヂ監督(かんとく)は心配(しんぱい)せられ、容易(ようい)に聽(き)き容(い)れぬ監督(かんとく)を伴(ともな)ふて、強(し)いて保養(ほやう)せしめられたのであった。滯在中(たいざいちゆう)は別莊(べつさう)の留守番(るすばん)の老婆(らうば)が、食事(しよくじ)其他(そのた)雜用(ざつよう)を辨(べん)じたが、西洋人(せいやうじん)と謂(い)へば、贅澤(ぜいたく)な生活(くらし)をするものと心得(こゝろえ)へた此婆(このばあ)さんの眼(め)には、監督(かんとく)の質素勤儉(しつそきんけん)の生活(せいくわつ)は、吝嗇(りんしよく)としか見(み)なかつた。
 それに監督(かんとく)が他人(たにん)を煩(わづら)はすを好(この)まず、何事(なにごと)も努(つと)めて自(みずか)ら爲(な)さるゝのを、金錢(きんせん)を惜(をし)んで他人(たにん)の手(て)を借(か)りぬことゝ思(おも)ひ違(ちが)ひ、會(あ)ふ人(ひと)來(く)る人(ひと)に、あれは吝薔爺(りんしよくぢゞ)よ守錢奴(しゆせんど)よと、惡口(あくこう)をたゝいて居(を)つた。やがて酷暑(こくしよ)の候過(こうす)ぎ涼風立(れいふうた)ち初(そ)めたので、監督(かんとく)は京都(きやうと)に歸(かへ)らるゝ事(こと)となった、いよいよ出立(しゆつたつ)といふ際(さい)に、厚(あつ)く老婆(らうば)の勞(らう)を謝(しや)し、無言(むごん)にて何(なに)やら紙片(かみきれ)らしいものを手渡(てわた)された、後(あと)で披(ひら)いて見(み)ると、金(きん)拾圓紙幣(ゑんしへい)一枚(まい)あったので、老婆(らうば)の喜(よろこ)び譬(たと)ふるものなく、かヽる御方(おかた)とは知(し)らず、罵詈讒謗(ばりざんぼう)まことに濟(す)まなかったと前非(ぜんぴ)を悔(く)ひ、涙(なみだ)ながらに人(ひと)に語(かた)つたさうである。
 監督(かんとく)は眞(しん)に陰德(いんとく)の君子(くんし)であつた。右(みぎ)の手(て)の爲(なす)ことを左(ひだり)の手(て)に知(しら)する勿(なか)れてふ聖訓(せいくん)を、其(その)まゝに實行(じつかう)し、極(きは)めて隱密(いんみつ)に人(ひと)に施(ほどこ)し、其當人(そのたうにん)にすら知(し)らせぬ樣(やう)にした。貧(まづ)しき人(ひと)を訪(と)ひ病者(びやうしや)を見舞(みま)ふたりしては、先方(せんぱう)に知(し)れぬ樣(やう)にソツト物(もの)の陰(かげ)や床(とこ)の下(した)に、金(かね)を隱(かく)し置(お)かれた。人目(ひとめ)の多(おほ)い場合(ばあひ)には、傍人(そばびと)にも氣(き)が付(つ)かぬ樣(やう)に、握手(あくしゆ)の際(さい)などに、ソツト紙幣(しへい)を手移(てうつし)にされた。曾(かつ)て某(ぼう)が米國(べいこく)に留學(りうがく)する時(とき)監督(かんとく)は新橋(しんばし)に見送(みおく)り、最後(さいご)の握手(あくしゆ)の際(さい)に、餞別(せんべつ)として紙幣(しへい)を手渡(てわたし)された。ところがどう云(い)ふ間違(まちがひ)にや、夫(それ)は新聞紙片(しんぶんかみきれ)であった。某(ぼう)は監督(かんとく)の眞意(しんい)を謝(しや)せんがために友人(いうじん)に傳言(でんげん)した。 友(とも)は監督(かんとく)に面(めん)し某(ぼう)に代(かは)つて謝意(しやい)を表(へう)した。監督(かんとく)はソンナ事(こと)はないと知(し)らぬ顏(かほ)をせられたが、實(じつ)は斯(か)く斯(か)くと語(かた)るや、監督(かんとく)は驚(おどろ)かれ直(たゞち)にポケツトを探(さぐ)りしに、果(はた)して紙幣(しへい)は依然(いぜん)として殘(のこ)つて居(を)つたので、全(まつた)く右(みぎ)と左(ひだり)とを間達(まちが)ひての失策(しつさく)なりし事(こと)を物語(ものがた)られ、早速(さつそく)書(しよ)を送(おく)りて粗忽(そこつ)を謝(しや)し、送金(そうきん)の手筈(てはづ)をしたさうである。
 監督(かんとく)は、公(おほやけ)の寄附金(きふきん)や義捐金(ぎえんきん)の募集(ぼしふ)には、餘(あま)りに應(おう)じなかった。是(これ)は其名(そのな)の現(あらは)れん事(こと)を恐(おそ)れし故(ゆえ)である。かゝる場合(ばあひ)に金(かね)を出(いだ)さるゝ時(とき)は、自分(じぶん)の名(な)を出(だ)さぬやうと、嚴(きび)しく斷(ことは)られた。然(しか)し監督(かんとく)は 慈善事業(じぜんじげふ)に對(たい)して深厚(しんかう)なる同情者(どうじやうしや)であって、常(つね)に隱(かく)れて弧兒(こじ)救濟(きうざい)などに盡(つく)された。明治(めいじ)二十四年(ねん)立敎(りつけう)女學校(ぢよがくかう)の特志者(とくししや)が、救育院(きういくゐん)と命名(めいめい)して孤兒(こじ)救濟(きうさい)事業(じげふ)を興(おこ)した折(を)りに、監督(かんとく)は、誰(たれ)にも告(つ)げずに立派(りつぱ)なる家屋(かをく)を新築(しんちく)して、其用(そのよう)に供(きよう)せられた。其後(そのご)此(この)救育院(きういくゐん)は閉(と)ぢて、女子(ぢよし)は瀧(たき)の川(がわ)學園(がくゑん)に送(おく)り、男兒(だんじ)は博愛社(はくあいしや)に送(おく)られたるが、監督(かんとく)は、舊(もと)の救育院(きういくゐん)の家屋(かおく)を其儘(そのまゝ)博愛社(はくあいしや)に寄附(きふ)せられた。監督(かんとく)はまた博愛社(はくあいしや)に基本財産(きほんざいさん)として耕地(かうち)を備(そな)へんと心(こゝろ)を用(もち)ひられたるが、同社(どうしや)が數回(すうくわい)に購入(かうにふ)したる地所(ぢしよ)は、監督(かんとく)の助力(じよりよく)によるもの多(おほ)しといふ。
 明治(めいぢ)何年(なんねん)であったか確(しか)と分(わか)らぬが、日本橋(にほんばし)から京橋(きやうばし)にかけて大火(たいくわ)があった時(とき)、監督(かんとく)は金(きん)六百圓(ゑん)を懷(ふところ)にして、飢(うえ)と貧(ひん)に苦(くるし)める幾多(いくた)の罹災者(りさいしや)を訪(と)ふて、人知(ひとし)れずに施與(せよ)し、また外國人(ぐわいこくじん)を勸誘(くわんいう)して、金品(きんぴん)を募集(ぼしふ)し、罹災者(りさいしや)の貧困(ひんこん)なる者(もの)に、寢具(しんぐ)其他(そのた)の物品(ぶつぴん)を施與(せよ)せられたといふ。其後(そのご)十二年(ねん)再(ふたゝ)び大火(たいくわ)があった。日本橋(にほんばし)箱屋町(はこやちやう)から起(おこ)つた火(ひ)は、強風(きやうふう)に飜(あふ)られて同區方面(どうくはうめん)から、京橋(きやうばし)中通(なかどほり)を燒(や)き八丁堀(ちやうぼり)を舐(な)めて、火(ひ)の手(て)は一方(ぱう)靈岸島(れいがんじま)に、一方(ぱう)は築地(つきぢ)に及(およ)んだ。當時(たうじ)監督(かんとく)は築地(つきぢ)新榮町(しんさかえちやう)に住居(ぢゆうきよ)されたが、其家(そのいえ)も烏有(ういう)に歸(き)した。此大火(このたいくわ)に家(いえ)なく食(しよく)なく罹災者(りさいしや)の窮状(きゆじやう)は慘憺(さんたん)を極(きは)めた。此時(このとき)監督(かんとく)は、神學生(しんがくせい)其他(そのた)の人々(ひとびと)を派(は)し、最(もつと)も貧困(ひんこん)なる罹災者(りさいしや)を調査(てうさ)せしめ物品(ぶつぴん)と引替(ひきか)へにする切符(きつぷ)を渡(わた)し、斯(か)くして莫大(ばくだい)なる金錢(きんせん)物品(ぶつぴん)を施(ほどこ)された。
 監督(かんとく)は、慈善施與(じぜんせよ)せらるゝに、注意深(ちゆういぶか)かったことは、次(つぎ)の一小事(せうじ)を以(もつ)て知(し)ることができる。毎週(まいしう)築地(つきぢ)から深川(ふかがは)の敎會(けうくわい)に通(かよ)はるゝ途中(とちゆう)、いつも路傍(ろばう)に伏座(すわ)つて物乞(ものごひ)するものがあつた。監督(かんとく)は通(とほ)る毎(ごと)に何程(なにほど)かを惠(めぐ)んで行過(ゆ)かれた。或日(あるひ)同行(どうかう)の傳道者(でんだうしや)に問(と)はるゝに、御國(おくに)の乞食(こつじき)には借兒(かりご)して、人(ひと)の同情(どうじやう)に訴(うつた)へんとする不屈者(ふとゞきもの)はないかと、傳道者(でんだうしや)は知(し)らずと答(こた)へたが、其後(そのご)の事(こと)、監督(かんとく)は、一人(ひとり)の乞食(こつじき)に金(かね)を惠(めぐ)まれたが、他(た)の嬰兒(えいじ)を抱(だ)いた乞食(こつじき)には、何(なに)も與(あた)へられなかった。同行者(どうかうしや)怪(あやし)んで其理由(そのりいう)を尋(たづ)ねると、監督(かんとく)は、アレは嘘(うそ)です、あの嬰兒(えいじ)は先(せん)の嬰兒(えいじ)と違(ちが)ひます、借兒(かりご)です、彼(あ)の人(ひと)いけませんと答(こた)へられたそうである。

八、傳道者たる監督 

 監督(かんとく)は基督(きりすと)の大(だい)なる傳道者(でんだうしや)であった。血氣湧(けつきわく)が如(ごと)き靑春(せいしゆん)の時(とき)から、八十路(ぢ)の坂(さか)を越(こえ)て殆(ほと)んど枯(か)れたる冷(つめ)たき老衰(らうすゐ)の體(たい)を以(もつ)て、我國(わがくに)を去(さ)る迄(まで)五十年間(ねんかん)の生涯(しやうがい)を、福音宣傳(ふくゐんせんでん)の爲(ため)に獻(けん)じ、專心傳道(せんしんでんだう)の一事(じ)を努(つと)めて、毫(がう)も他(た)を顧(かへりみ)ざりし眞箇(しんこ)の傳道者(でんだうしや)であった。師(し)の同勞者(どうらうしや)フルべツキ、ヘボン兩氏(りやうし)の如(ごと)きは、或(あるひ)は政府(せいふ)の顧問(こもん)となり、政治(せいぢ)法律(はふりつ)敎育(けういく)に從事(じゆうじ)して、其功績(そのこうせき)は世人(せじん)に認(みと)められ、或(あるひ)は一世(せい)の國手(こくしゆ)と仰(あふ)がれ、英和(えいわ)辭典(じてん)と共(とも)に雷名天下(らいめいてんか)に轟(とどろ)きしが、師(し)は殆(ほと)んど敎會外(けうくわいぐわい)の人(ひと)には其名(そのな)だに知(し)られなかつた。師(し)は恰(あたか)も鋤(すき)に手(て)つけて左右(さいう)を、顧(かへり)みざる勤勉(きんべん)なる農夫(のうふ)の如(ごと)く、切支丹(きりしたん)邪宗門(じやしうもん)禁制(きんせい)の表札(へうさつ)は高(たか)く掲(かゝ)げられ、宣敎(せんけう)の途(みち)は容易(ようい)に開(ひら)けず、單身(たんしん)絶東(ぜつとう)に在(あ)りて語(かた)るに友(とも)なく、一人(にん)の改宗者(かいしうしや)をも得(え)ざりし盤根(ばんこん)錯節(さくせつ)の當時(たうじ)より、堂々(だうだう)たる日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)の建設(けんせつ)を見(み)るに至(いた)る迄(まで)、全精力(ぜんせいりよく)を傾盡(けいじん)し、弛(たゆ)まず倦(う)まず、心田(しんでん)を開拓(かいたく)して眞理(しんり)の種(たね)を播(ま)き、而(しか)して之(これ)が培養(ばいやう)助長(じよちやう)に努(つと)められた。監督職(かんとくしよく)を辭(じ)したる後(のち)は、愈々(いよいよ)專心(せんしん)基督(きりすと)を傳(つた)へんか爲(ため)に、京都(きやうと)地方部(ちはうぶ)監督(かんとく)の配下(はいか)に屬(ぞく)し、數(すう)ヶ所(しよ)の傳道地(でんだうち)の主任(しゆにん)長老(ちやうらう)の務(つとめ)を執(と)られ、東奔(とうほん)西走(さいさう)傳道(でんだう)に盡瘁(じんすゐ)し、老(おひ)の將(まさ)に至(いた)るを知(し)らざるものゝ如(ごと)くであつた。晩年(ばんねん)に及(およ)びて、福井(ふくゐ)傳道(でんだう)を開始(かいし)するに先(さきだ)ち、該地(がいち)に視察(しさつ)に赴(おもむか)れたるが、歸來(きらい)直(たゞち)にマキム監督(かんとく)に書(しよ)を送(おく)り、福井(ふくゐ)に宣敎師(せんけうし)を派遣(はけん)するの必要(ひつえう)を説(と)き、最後(さいご)に曰(いは)く、此處(こゝ)に老(お)ひて宰(ほふ)るべき牛(うし)一疋(ぴき)あり、之(これ)を遺(つかは)し給(たま)へと書(しょ)し、マキム監督(かんとく)をして感極(かんきはま)つて流涕(りうてい)せしめたといふ。いかに師(し)が、「主耶蘇(しゆいゑす)より受(うけ)し職(つとめ)すなはち神(かみ)の惠(めぐみ)の福音(ふくゐん)を證(あかし)する事(こと)を遂(とげ)ん爲(ため)に我(わが)生命(せいめい)をも重(おもん)ぜざる」、忠誠(ちうせい)熱烈(ねつれつ)なる傳道者(でんだうしや)であったかを想(おも)ふべきである。
 惟(おも)ふに傳道上(でんだうじやう)に於(おい)て、經綸(けいりん)百年(ねん)、畫策(くわくさく)縱橫(じゆうわう)、快刀亂麻(くわいたうらんま)を斷(た)つの手腕(しゆわん)を揮(ふる)ふが如(ごと)きは、師(し)の天職(てんしよく)ではなかつた。師(し)は篤信(とくしん)高德(かうとく)人(ひと)を自(おのづ)からにして化育(くわいく)する聖徒的(せいとてき)傳道者(でんだうしや)であった。心(こゝろ)より心(こゝろ)に、胸(むね)より胸(むね)に福音(ふくゐん)を傳(つた)へ、個人(こじん)の靈魂(れいこん)を救(すく)はねば止(や)まね人(ひと)であつた。故(ゆゑ)に其(その)傳道法(でんだうはふ)は所謂(いはゆる)個人傳道(こじんでんだう)訪問主義(はうもんしゆぎ)であった。華々(はなばな)しい社會的(しやくわいてき)事業(じげふ)や、時世(じせい)に投合(とうがふ)する仰々(ぎやうぎやう)しき運動(うんどう)を好(このま)ず、炎熱(えんねつ)の候(こう)も嚴冬(げんとう)の日(ひ)も孜々矻々(しゝこつこつ)として、信者(しんじや)求道者(きうだうしや)を訪問(はうもん)し、諄々(じゆんじゆん)道(みち)を説(と)いて倦(う)まず、聖保羅(せぽろ)か提摩太(てもて)に與(あた)へたる訓戒(くんかい)を實行(じつこう)し、「時(とき)を得(うる)も時(とき)を得(え)ざるも勵(はげ)みて之(これ)を努(つと)め、各樣(さまざま)の忍耐(しのび)と敎誨(をしへ)を以(もつ)て、人(ひと)を督(たゞ)し戒(いまし)め勸(すゝ)められた。而(しか)して師(し)が殊(こと)に屢(しばし)ば訪(と)ひたるは、貴顯(きけん)紳縉(ししん)に非(あら)ずして、貧民(ひんみん)病者(びやうしや)であった。其道(そのみち)を説(と)き敎(をしへ)を宣(の)ふる聲(こゑ)は、朱門(しゆもん)高堂(かうだう)の朝(あした)に非(あら)ずして、白屋(はくをく)茅門(ぼうもん)の夕(ゆうべ)であった。
 某傳道師(ぼうでんだうし)が、監督(かんとく)と倶(とも)に或(あ)る地(ち)に傳道(でんだう)に赴(おもむ)いた途次(とじ)、路傍(ろぼう)に石工(せきこう)が石(いし)をコツコツ刻(きざ)んで居(を)つた。監督(かんとく)顧(かへり)みて傳道師(でんだうし)に曰(いは)く、貴下(あなた)は彼(あれ)に何(なに)を學(まな)びましたか。傳道師(でんだうし)は其意(そのい)を解(かい)せず答(こた)ふることができなかつた。監督(かんとく)曰(いは)く、傳道(でんだう)の祕訣(ひけつ)も此(かく)の如(ごと)しと。
 監督(かんとく)は信徒(しんと)の家(いへ)を訪問(はうもん)すると、必(かなら)ず何(なに)か敎訓(けうくん)を遺(のこ)して歸(かへ)られた。細君(さいくん)などが、茶(ちや)よ菓子(くわし)よとマルタ的(てき)に馳走(ちさう)して心(こゝろ)を落(お)ち付(つ)け得(え)ないのは、甚(はなは)だ迷惑(めいわく)に感(かん)じられて、師(し)を煩(わずら)はしたやうであつたが、師(し)が慈眼愛膓(じがんあいちやう)より溢(あふれ)れ出(い)づる十數分(すうふん)の言葉(ことば)は、他人(たにん)一時間(じかん)の饒舌(げうぜつ)に優(まさ)つて能力(ちから)があった。
 師(し)は曾(かつ)て京都(きやうと)地方部(ちはうぶ)の敎役者會(けうえきしやくわい)にて、訪問傳道(はうもんでんだう)に就(つ)き下(しも)の如(ごと)く陳(の)べられた。「余(よ)は常(つね)に日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)の傳道(でんだう)の旺盛(わうせい)を切望(せつぼう)する、而(しか)して之(これ)が方法(はうはふ)は訪問傳道(はうもんでんだう)を以(もつ)て主要(しゆえう)と思(おも)ふ。今(いま)一二例(れい)を擧(あ)げると、英國(えいこく)非國敎派(ひこくけうは)の一敎師(けうし)の云(い)ふには、非國敎派(ひこくけうは)に成長(せいちやう)した靑年等(せいねんら)が國敎派(こくけうは)に轉(てん)ずる譯(わけ)は、其敎師(そのけうし)が訪問(はうもん)を勉勵(べんれい)し、又好(またこの)んで人(ひと)を引見(いんけん)するからであると。又(また)英國(えいこく)獨立敎派(どくりつけうは)の一敎師(けうし)の云(い)ふには、英國(えいこく)至(いた)る所(ところ)に於(おい)て非國敎派(ひこくけうは)の敎會(けうくわい)の衰微(すゐび)せる有樣(ありさま)は、殊更(ことさら)我敎派(わがけうは)に於(おい)て然(しか)りで、此事實(このじじつ)を掩(お)ふは無益(むえき)である。之(これ)に反(はん)して國敎派(こくけうは)は飛(と)び驅(かゝ)つて我等(われら)を追(お)ひ越(こ)した。其(その)理由(りいう)は多(おほ)いが中(うち)に、國敎派(こくけうは)の敎師(けうし)が、訪問(はうもん)を熱心(ねつしん)にするからである。然(しか)るに非國敎派(ひこくけうは)の敎師(けうし)は一般(ぱん)に之(これ)を厭(いと)ふの傾向(けいかう)がある。これで見(み)ると訪問(はうもん)傳道(でんだう)の切要(せつえう)が知(し)れる」云々(うんうん)。
 監督(かんとく)は洗禮(せんれい)志願者(しぐわんしや)には、先(ま)づ使徒信經(しとしんぎやう)、十誡(じつかい)、主祷文(しゆたふぶん)を學(まな)ばしめた。一週間(しうかん)内(ない)に日(ひ)を定(さだ)めて自(みづか)ら敎(をし)へらるゝか然(しから)ざれば人(ひと)をして敎(をし)へしめた。以上(いじやう)のものを終(をは)ると試驗(しけん)をなし、充分(じゆふぶん)敎理(けうり)を心得(こゝろえ)しと認(みと)めし後(のち)、洗禮(せんれい)を施(ほどこ)された。監督(かんとく)はこの規定(きてい)を實行(じつかう)するに嚴正(げんせい)で、如何(いか)なる情實(じやうじつ)や都合(つがふ)があっても、決(けつ)して變更(へんかう)し省略(しやうりやく)する事(こと)はなかつた。それ故(ゆゑ)に志願者(しぐわんしや)が洗禮(せんれい)を受(うけ)るまでには、少(すくな)くとも五六ケ月(げつ)以上(いじやう)一年(ねん)はかゝつた。信徒(しんと)按手式(あんしゆしき)志願者(しぐわんしや)にも同樣(どうやう)、其意義(そのいぎ)を學(まな)ばしめ、公會(こうくわい)問答(もんだふ)を敎(をし)へ、聖餐式文(せいさんしきぶん)を心得(こゝろえ)させ、後(の)ち試驗(しけん)の成績(せいせき)に由(よつ)て按手(あんしゆ)された。

九、勤勉精勵

 監督(かんとく)の勤勉精勵(きんべんせいれい)には驚(おどろ)かぬ者(もの)はなかつた。朝(あさ)は五六時(じ)から夜(よる)は十二時(じ)まで、殆(ほと)んど寧日(ねいじつ)なく牧會傳道(ぼくくわいでんだう)を努(つと)められ、在邦(ざいはう)五十年間(ねんかん)二度(ど)の歸國(きこく)を除(のぞ)いては、一度(ど)も休養(きうやう)などしたことはなかつた。
 會(かつ)て或人(あるひと)が、監督(かんとく)さん、貴下(あなた)はナゼ結婚(けつこん)しませんかと問(と)へば、監督(かんとく)曰(いは)く、私(わたし)忙(いそが)しいので其暇(そのひま)がありませんと答(こた)へられた。師(し)は牧會傳道(ぼくくわいでんだう)に專(もつぱ)らならんため、甘(あま)んじて獨身生活(どくしんせいくわつ)を送(おく)らたれのであるが、しかしまた師(し)は早(はや)くより日本(にほん)に渡來(とらい)し、結婚(けつこん)の機會(きくわい)もなかつたほどに、職務(しよくむ)に專心(せんしん)一意(い)精勵(せいれい)し、他(た)を顧(かへりみ)る暇(ひま)がなかったのである。東京(とうきやう)に居(を)られた時(とき)、督監(かんとく)として内外(ないぐわい)の敎務多忙(けうむたばう)の身(み)でありながら神學校(しんがくかう)敎授(けうじゆ)として常に二三の學課(がくくわ)を受持(うけも)たれ、更(さら)に當時(たうじ)邦人(はうじん)の聖職(せいしよく)は僅(わづか)に二人(にん)しかなかつたので、築地(つきぢ)三一、深川(ふかゞわ)眞光(しんくわう)、神田(かんだ)基督(きりすと)の三敎會(けうくわい)と、淺草(あさくさ)講義所(かうぎしよ)の牧會(ぼくくわい)傳道(でんだう)の任務(にんむ)を、自(みづか)ら執(と)られ或(あるひ)は補助(ほじよ)せられた。日曜日(にちえうび)などは、全日殆(ぜんじつほと)んど寸暇(すんか)なく働(はたら)かれた。早朝(さうてう)築地(つきぢ)立敎學校(りつけうがくかう)講堂(かうだう)(後(のち)は三一大會堂(だいくわいだう))にて禮拜説敎(らいはいせつけう)せられ、夫(それ)より直(たゞち)に徒歩(とほ)にて、深川眞光(ふかゞはしんくわう)敎會(けうくわい)に至(いた)り、十時(じ)より禮拜説敎(らいはいせつけう)し、二時(じ)より聖書(せいしよ)を講(かう)ぜられ、夜(よる)は淺草(あさくさ)講義所(かうぎしよ)か神田基督(かんだきりすと)敎會(けうくわい)にて禮拜説敎(らいはいせつけう)し、築地(つきぢ)に歸(かへ)つて休(やす)まれたるは、大抵(たいてい)十二時過(じす)ぎであつた。
 京都地方部(きやうとちはうぶ)に轉(てん)じてからは、京都(きやうと)五條(でう)講義所(かうぎしよ)(後(のち)は聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい))、大津(おほつ)基督數會(きりすとけうくわい)岸和田(きしわだ)聖保羅(せいぽうろ)敎會(けうくわい)、及(およ)び舞鶴(まひづる)宮津(みやづ)傳道地(でんだうち)の主任長老(しゆにんちやうらう)として働(はたら)かれ、又(ま)た傳道女館(でんだうぢよくわん)の校長(かうちやう)兼(けん)敎授(けうじゆ)として、婦人(ふじん)敎役者(けうえきしや)の養成(やうせい)に努(つと)められた。晩年(ばんねん)に至(いた)り身體(しんたい)の衰弱(すゐじやく)に餘儀(よぎ)なく、大津(おほつ)岸和田(きしわだ)五條(でう)の敎會(けうくわい)の外(ほか)は、長老(ちやうらう)の執務(しつむ)を辭(じ)したるも、餘暇(よか)には孜(し)々として著述(ちよじゆつ)に從事(じゆうじ)せられた。而(しか)して終(つひ)に身體(しんたい)自由(じいう)を失(うしな)ひ、最早(もはや)や老朽(らうきう)爲(な)すなしと自(みづか)ら感(かん)ぜらるゝや、空(むな)しく椅子(ゐす)に座(ざ)するを好(この)まず、我歸國(われきこく)せば代(かは)りに好(よ)き人物(じんぶつ)を送(おく)らるべしと、涙(なみだ)を揮(ふる)つて其愛(そのあい)する第(だい)二の故鄕(こきやう)を去(さ)られた。
 師(し)が職務(しよくむ)に精勵(せいれい)された事(こと)は、下(しも)の事實(じじつ)を以(もつ)て知(し)ることができる。未(いま)だ坂鶴(はんかく)鐵道(てつだう)完成(くわんせい)せず、漸(やうや)く福知山(ふくちやま)迄(まで)開通(かいつう)した頃(ころ)、宮津(みやづ)巡回(じゆんくわい)の定日(ていじつ)であつた或日(あるひ)、此日(このひ)は朝(あさ)から暴風雨(ぼうふうう)であつたので、老體(らうたい)の師(し)此天候(このてんこう)では巡回(じゆんくわい)はあるまいと、同地(どうち)定住(ていぢゆう)の敎役者(けうえきしや)家族(かぞく)が噂(うわさ)して居(ゐ)ると、薄暮(はくぼ)、突然玄關(とつぜんげんくわん)に御免(ごめん)なさいと監督(かんとく)の聲(こえ)がした。それ監督(かんとく)が御出(おいで)だと、家族何(かぞくいづ)れも出迎(でむか)ふれば、這(こ)はいかに、師(し)の半面(はんめん)は怖(おそろし)くも腫(は)れ上(あ)つて、血潮(ちしほ)は淋漓(りんり)として流(なが)れて居(を)つた。監督(かんとく)は、私(わたし)一寸(ちよつと)怪俄(けが)しました、モウ痛(いた)い事(こと)ありませんといふ。 座敷(ざしき)に請(しやう)じ徐(おもむろ)に仔細(しさい)を尋(たづぬ)ると、此日(このひ)正午(しやうご)福知山(ふくちやま)から舞鶴(まひづる)までの途中(とちゆう)、只(たゞ)さへ險惡(けんあく)なる山道(やまみち)を、暴風雨(ぼうふうう)を冒(おか)し來(き)た人車(じんしや)が顛覆(てんぷく)し、師(し)は眞逆(まつさか)さまに投出(なげだ)され、顏面(がんめん)を酷(はげ)しく打(う)たれた。
 「私(わたし)一時(じ)は暗黑(まつくら)で何事(なにごと)も、サツパリ解(わか)りませんでしたが、神樣(かみさま)の御惠(おめぐみ)で暫(しばら)くで氣(き)が付(つ)きました」と平氣(へいき)で云(い)はれた。全(まつた)く人事不省(じんじふせい)に陷(おちゐ)つたが、車夫(しやふ)の介抱(かいはう)でやうやう氣(き)が付(つ)かれたのである。氣(き)が付(つ)くと直(す)ぐ氣丈(きぢやう)な監督(かんとく)は、其儘(そのまゝ)で舞鶴(まひづる)の信徒(しんと)を訪問(はうもん)せられ、休息(きうそく)もなくまた直(たゞち)に宮津(みやづ)に向(むか)ひ、平時(へいじ)よりも一時間餘(じかんよ)遲れる(おく)れて同地(どうち)に着(ちやく)せられた。而(しか)して例(れい)の如(ごと)く、翌日(よくじつ)は聖餐式(せいさんしき)を執行(しつかう)し、説敎(せつけう)もせられて京都(きやうと)に歸(かへ)られた。
 宮津(みやづ)から京都(きやうと)に歸(かへ)られた翌日(よくじつ)は、例(れい)の如(ごと)く傳道女館(でんだうぢよくわん)に敎授(けうじゆ)に行(ゆ)かれた。餘(あま)りの大負傷(だいふしやう)なれば、苦痛(くつう)の事(こと)と察(さつ)した幹事(かんじ)某女史(ぼうぢよし)は、今日(こんにち)は敎授(けうじゆ)をやめ休息(きうそく)せらるゝやうと、強(し)いて云(い)ふと。監督(かんとく)は嚴(おごそ)かに唯(た)だ一言(ごん)、「敎授(けうじゆ)は私(わたし)の責任(せきにん)です」と云(い)つて、平素(へいそ)の如(ごと)く心快(こゝろよ)く敎授(けうじゆ)を濟(すま)された。
 大負傷後(だいふしやうご)の巡回(じゆんくわい)の時(とき)の事(こと)であった。其日(そのひ)は土曜日(どえうび)で其夜(そのよ)は集會(しふかい)を催(もよほ)す豫定(よてい)であったが、師(し)は頭痛(づつう)がするとて、大(おほい)に惱(なや)み居(を)らるゝ樣(やう)であつたから、翌朝(よくてう)の聖餐式(せいさんしき)執行(しつかう)もあれば、敎役者(けうえきしや)は師(し)の身(み)を氣遺(きづか)ひ、無理(むり)に請(こ)ふて休會(きうくわい)することにした。然(しか)るに其夜(そのよ)宮津(みやづ)を去(さ)る四里(り)の僻村(へきそん)から、二人(にん)の靑年(せいねん)が態々(わざわざ)監督(かんとく)の敎(をしへ)を聽(き)かんとして來(き)た。師(し)は大(おほひ)に悅(よろこ)ばれ懇切(こんせつ)に二人(にん)を迎(むか)へ、諄々(じゆんじゆん)として十誡(かい)を説明(せつめい)せられ、更(さら)に苦痛(くつう)を感(かん)ぜざるものゝ如(ごと)くであったが、堪(こら)へ堪(こら)へた苦痛(くつう)は其極(そのきよく)に達(たつ)せしものか、俄然座(がぜざ)ながら倒(たふ)れ伏(ふ)した。居合(ゐあは)せたる人々(ひとびと)は驚駭(きやうがい)一方(ひとかた)ならず、冷水(れいすゐ)を似(もつ)て頭部(とうぶ)を冷(ひや)すなど介抱(かいはう)の後(のち)、靜(しづか)に臥床(ぐわしよう)を請(こ)ふたが、師(し)は聽容(きゝい)れず尚(な)ほ二人(にん)の靑年(せいねん)に道(みち)を説(と)いて、深更(しんかう)までに及(およ)んだ。

十、説 敎 

 監督(かんとく)は支邦(しな)に赴任(ふにん)してから、彼(か)の地(ち)に在留(ざいりう)僅(わづか)に壹年(ねん)有餘(いうよ)の間(あひだ)に、はや支那語(しなご)に熟達(じゆくたつ)し、單身(たんしん)各地(かくち)に巡回(じゆんくわい)傳道(でんだう)を試(こゝろ)むるに至(いた)つた。其(そ)の語學(ごがく)の進歩著(しんぽいちじる)しかつたには、人々(ひとびと)驚嘆(きやうたん)したそうである。然(しか)るに殆(ほと)んど其(その)全生涯(ぜんしやうがい)を我國(わがくに)に過(すご)された割(わり)には、日本語(にほんご)は餘(あま)りに巧妙(こうめう)とは云(い)へなかった。國文(こくぶん)を解(かい)し漢籍(かんせき)を讀(よ)まれたが、會話(くわいわ)は寧(むし)ろ拙劣(せつれつ)であった。それゆへ師(し)は美(うつく)しい舌(した)を以(もつ)て語(かた)る講壇(かうだん)の人(ひと)ではなかった。それにも拘(かゝ)はらず、師(し)の説敎(せつけう)は人(ひと)を動(うご)かす力(ちから)があって、何人(なんびと)も深(ふか)い感(かん)に打(う)たれた。あの銀線(ぎんせん)を束(たば)ねた樣(やう)な光澤(くわうたく)のある白鬚(はくぜん)をゆるがしつゝ、敬虔(けいけん)温雅(をんが)な態度(たいど)で、諄々(じゆんじゆん)として神(かみ)の恩寵(をんちやう)と眞理(しんり)を説(と)かるゝ時(とき)は、何人(なんびと)も思(おも)はず知(し)らず襟(えり)を正(ただ)し首(かうべ)を垂(た)れた。基督(きりすと)の膝下(しつか)に坐(ざ)して唇頭(しんとう)より洩(も)るゝ、聖語(せいご)を聽(き)く心地(こゝち)して、會衆(くわいしゆう)は一言(ごん)一句(く)も漏(もら)さじと謹聽(きんちやう)した。 其時(そのとき)は語句(ごく)の拙劣(せつれつ)も咄辯(とつべん)も念頭(ねんとう)にはない、唯(た)だ畏敬(ゐけい)の念(ねん)壯嚴(さうごん)の氣(き)が堂内(だうない)に充(み)ちた。故(ゆゑ)に未信者(みしんじや)にして師(し)の一回(くわい)の説敎(せつけう)に打(う)たれて求道心(きうだうしん)を起(おこ)したものは、決(けつ)して少(すくな)くなかった。
 監督(かんとく)は説敎中(せつけうちゆう)に、深遠な(しんゑん)なる哲理(てつり)を講(かう)ずるとか、神學上(しんがくじやう)の意見(いけん)を披瀝(ひれき)するとか云(い)ふやうなことは、毫(がう)も無(な)かった。さりとて人(ひと)の情感(じやうかん)を激勵(げきれい)して、熱狂(ねつきやう)せしむる樣(やう)なこともなかった。單純(たんじゆん)に、明白(めいはく)に、而(し)かも確信(かくしん)に充(み)ち、力強(ちからつよ)く、神(かみ)の恩寵(おんちよう)、基督(きりすと)の救(すくひ)、聖靈(せいれい)の賜(たまもの)を説(と)く外(ほか)はなかった。説敎(せつけう)の組織(そしき)も、殆(ほと)んど千變(ぺん)一律的(りつてき)に、題詞(だいじ)の聖句(せいく)を三四に分解(ぶんかい)して説(と)かるゝのみで、何等(なんら)の奇拔(きばつ)なる所(ところ)なく、何等(なんら)の感興(かんきよう)を深(ふ)からしむるものはなかった。然(しか)るに、師(し)が敎壇(けうだん)に凭(もた)れかゝつて會衆(くわいしゆう)を指(ゆび)さし、徐(おもむ)ろに悔改(くひあらため)を促(うなが)さるゝや、人(ひと)をして自(みづか)ら省(かへり)み痛悔(つうくわい)せざるを得(え)ざらしめた。鐵拳(てつけん)を振(ふる)ひ敎壇(けうだん)を叩(たた)き、聲(こゑ)を勵(はげま)して、警戒(けいかい)を加(くは)へらるゝや、何人(なんびと)も駭然(がいぜん)として覺醒(めざ)め、肅然(しゆくぜん)として容(かたち)を正(たゞ)した。熱誠(ねつせい)に充(み)ち充(み)ちた、而(そ)してやゝ顫(ふる)へた語調(ごてう)で、神(かみ)の惠(めぐみ)、基督(きりすと)の愛(あい)を説(と)かるゝや、會衆(くわいしゆう)は感恩(かんをん)の涙(なみだ)に咽(むせ)んだ。師(し)の説敎(せつけう)は機智妙想(きちめうさう)を以(もつ)て人(ひと)をして感嘆(かんたん)せしめなかったが、人格(じんかく)の底(そこ)より流(なが)れ出(いづ)る一種(しゆ)の魔力(まりよく)を、人(ひと)の肺肝(はいかん)に浸(し)み込(こ)ました。あゝ是(こ)れ何故(なにゆゑ)であらうか、他(た)なし、尤(もつと)も單純(たんじゆん)なる福音(ふくゐん)が力強(ちからつよ)く舌端(ぜつたん)より落(お)ち、其(その)一言(ごん)一句(く)には、不可測(ふかそく)の生命(せいめい)の源泉(げんせん)より湧(わ)き出(いづ)る、聖徒(せいと)の個人的(こじんてき)感化(かんくわ)の力伴(ちからともな)ひたるが故(ゆゑ)である。
 監督(かんとく)は、説敎(せつけう)を準備(じゆんび)せらるゝ時(とき)は、一室(しつ)に閉(と)ぢ籠(こも)つて内錠(うちぢやう)を下(おろ)し、普通(ふつう)の來客(らいきやく)には面會(めんくわい)せられず、草稿(さうこう)は例(れい)の用紙(ようし)に細字(さいじ)に記載(きさい)し、毎週(まいしう)二回(くわい)の説敎(せつけう)を決(けつ)して缺(か)かさず準備(じゆんび)された。而(しか)して既(すで)に今週(こんしう)の説敎(せつけう)が準備(じゆんび)されつゝあるに、他(た)の敎師(けうし)に敎壇(けうだん)を讓(ゆづ)つた場合(ばあひ)とか、或(あるひ)は巡回(じゆんくわい)其他(そのた)の都合(つがふ)で、其準備(そのじゆんび)した説敎(せつけう)が不用(ふよう)となりし時(とき)は、それを次週(じしう)に使(つか)はず、其(その)まゝ筐底(きやうてい)に葬(ほうむ)つて、更(さら)に次週(じしう)は新(あたら)しく準備(じゆんび)せられた。或年(あるとし)の夏(なつ)、一敎師(けうし)が師(し)の説敎(せつけう)草稿(さうかう)を整理(せいり)した事(こと)があつたが、其中(そのうち)に使用(しよう)された草稿(さうかう)には年月日(ねんぐわつぴ)が記入(きにふ)してあつたが、準備(じゆんび)して使用(しよう)せられなかつた草稿(さうかう)が、數(すう)十篇(ぺん)あつたそうである。
 師(し)は、自身司式(じしんししき)も説敎(せつけう)もせぬ時(とき)は、會衆席(くわいしゆうせき)の隅(すみ)の方(はう)に坐(ざ)し、いかにも敬虔(けいけん)の態度(たいど)にて、何人(なんびと)の説敎(せつけう)も熱心(ねつしん)に謹聽(きんちやう)せられた。或時(あるとき)、靑年牧師(せいねんぼくし)が、監督(かんとく)さん誠(まこと)につまらぬ説敎(せつけう)で、御迷惑(ごめいわく)で御座(ござ)いませうと云(い)ふたら、「いや誰(たれ)の説敎(せつけう)でも注意(ちゆうい)して聽(き)きますと、其中(そのうち)に神(かみ)の御聲(みこゑ)が聽(き)かれます」と云(い)はれた。
 監督(かんとく)の最後(さいご)の説敎(せつけう)は、歸國(きこく)せらるゝ前(まえ)、四月(ぐわつ)二十六日(にち)復活後(ふくくわつご)第(だい)壹主日(しゆにち)、京都(きやうと)聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)にて、晩禱(ばんたう)説敎(せつけう)がすんだ後(のち)の、一場(ぢやう)の奬勵(しやうれい)であつた。師(し)は牧師(ぼくし)の説敎(せつけう)が濟(す)むと、私(わたし)一言(ごん)と、よろめく腰(こし)を起(た)てゝ敎壇(けうだん)に上(のぼ)つた。其夜(そのよ)は生懀(あいにく)會衆(くわいしゆう)は少數(せうすう)であつたが、監督(かんとく)が私(わたし)一言(ごん)と云(い)つて起(たゝ)るゝや、何(いづ)れも先(さき)を競(きそ)ふて敎壇(けうだん)の前(まえ)に進(すゝ)み近(ちか)づき、一言(ひとこと)をも聽漏(きゝも)らさじと待(ま)ち構(かま)へた。其時師(そのときし)は身(み)を敎壇(けうだん)の欄(らん)に凭(もた)れかけて居(を)られたが、兩手(りやうて)を張(は)り伸(のば)したり、高(たか)く揚(あ)げたり、或(あるひ)は鐵拳(てつけん)を以(もつ)て敎壇(けうだん)を叩(たた)いたりして、非常(ひじやう)な勢(いきほひ)を以(もつ)て勸(すゝ)められた。其(その)奬勵(しようれい)の一節(せつ)に、信者(しんじや)大變少(たいへんすく)ない、いかで敎會(けうくわい)に來(き)ません、會衆(くわいしゆう)少(すく)ない。敎師失望(けうししつばう)します、説敎力(せつけうりよく)ありません。あなた方(がた)一人(ひとり)びとり、信者(しんじや)連(つ)れて來(き)ますよろしい。さすれば一人(ひとり)ふたり、三人(にん)四人(よつたり)、而(そ)して會堂(くわいだう)一杯(ぱい)滿(み)ちませう。牧師(ぼくし)勵(はげ)みます、基督喜(きりすとよろこ)びます、聖約翰(せいよはね)天(てん)に於(おい)て喜(よろこ)びます…‥………と熱烈(ねつれつ)に語(かた)られた。

十一、祈禱の人 

 祈禱(きたう)は監督(かんとく)の生命(せいめい)であった。師(し)が凡(すべ)ての活動力(くわつどうりよく)の源泉(げんせん)であった。其高潔(そのかうけつ)なる生涯(しやうがい)の祕訣(ひけつ)であった。監督(かんとく)の崇高(すうかう)なる人格(じんかく)、其偉大(そのゐだい)なる精根氣魄(せいこんきはく)は、其内部(そのないぶ)の生命(せいめい)が絶(た)へず密(ひそ)かに、祈禱(きたう)によりて養(やしな)はれ強(つよ)められ、溢(あふ)れ漲(みなぎ)つて外面(ぐわいめん)に醗酵(はつかう)したるに外(ほか)ならぬ。師(し)こそ眞(しん)に祈禱(きたう)の人(ひと)であった。師(し)の祈禱(きたう)の態度(たいど)、語聲(ごせい)が、いかにも敬虔(けいけん)に莊重(さうちよう)に眞率(しんりつ)にして、能(よ)く人(ひと)を動(うごか)したるは、是(こ)れ實(じつ)に師(し)が、隱(かく)れたる時(とき)と所(ところ)に於(おい)て、至誠(しせい)以(もつ)て絶(た)へず祈(いの)る人(ひと)であったからである。繁劇(はんげき)多忙(たばう)而(しか)して勤勉(きんべん)精勵(せいれい)寸陰(すんいん)をも惜(を)しまれた師(し)は、屡(しばし)ば一室(しつ)に閉(と)ぢ籠(こも)つて靜(しづ)かに暫(しば)し時(とき)を過(すご)された。其時(そのとき)こそ師(し)に取(と)りて、最(もつと)も樂(たの)しき時(とき)、最(もつ)も嚴肅(げんしゆ)なる時(とき)、最(もつと)も大事(だいじ)が爲(な)さるゝ時(とき)であった。凡(およ)そ何事(なにごと)か計畫(けいくわく)され、實行(じつかう)され、着手(ちやくしゆ)さるゝ前(まえ)には、必(かな)らす師(し)は一室(しつ)に退(しりぞ)いて祈念(きねん)獸想(もくさう)に時(とき)を過(すご)された。
 監督(かんとく)を知(し)るものゝ、恐(おそ)らく生涯(しやうがい)忘(わす)るゝことの出來(でき)ぬのは、あの靈氣(れいき)に溢(あふ)れ力(ちから)に滿(み)ちた祈禱(きたう)であらう。師(し)が恭(うやうや)しく跪(ひざまづ)き兩手(りやうて)を組(く)み合(あは)せ、天(てん)を仰(あふ)いだ、いかにも、神(かみ)を愛(あし)する子供(こども)らしい態度(たいど)、一言(げん)一句(く)靜(しづ)かに嚴(おごそ)かに肺肝(はいかん)より湧(わ)き出(い)で、而(し)かも信任(しんにん)に滿(み)ち滿(み)ち、恰(あたか)も五六歳(さい)の子供(こども)が、親(をや)に甘(あま)へるやうな語調(ごてう)、ゆかしとは云(い)はんか、崇高(すうかう)とは云(い)はんか、若(も)し神(かみ)と親(した)しく物語(ものがた)る祈禱(きたう)ありとせば、是(これ)ぞ碓(たし)かにそれであると思(おも)はれた。
 監督(かんとく)が祈禱書(きたうしよ)を用(もち)ひて祈(いの)らるゝときも、其態度(そのたいど)といひ其語聲(そのごせい)といひ、迚(とて)も之(これ)を祈禱書(きたうしよ)によりて、祈(いの)らるゝとは思(おも)はれなかった。師(し)の説敎(せつけう)に感(かん)じないものでも、其嚴肅(そのげんしゆく)な莊重(さうちよう)な敬虔(けいけん)な、而(しか)して力(ちから)に滿(み)ちた祈禱(きたう)には動(うご)かされた。奧野(おくの)昌網(まさつな)翁(をう)、監督(かんとく)を訪問(はうもん)した時(とき)、談(だん)偶(たまた)ま祈禱書(きたうしよ)のことに及(およ)んだ事(こと)があつた。翁(をう)は監督(かんとく)に向(むか)つて、祈禱書(きたうしよ)によりて祈禱(きたう)するは、形式的(けいしきてき)で誠實(せいじつ)を缺(か)ぐと批難(ひなん)した。監督(かんとく)は滔々(たうたう)其然(そのしか)らざる所以(ゆゑん)を答辯(たふべん)せられたが、最後(さいご)に監督(かんとく)は祈(いの)りませうと云(い)つて、椅子(いす)を離(はな)れ跪(ひざまづ)いて、例(れい)の謙遜(けんそん)な態度(たいど)、敬虔(けいけん)の語氣(ごき)を以(もつ)て、祈禱(きたう)を捧(さゝ)げられた。續(つゞ)いて翁(をう)も祈禱(きたう)をせられたが、後(あと)で、監督(かんとく)さん、只今(たゞいま)貴下(あなた)のお祈(いのり)には實(じつ)に感(かん)じました。私(わたし)は今日(こんにち)までこんな靈的(れいてき)の祈禱(きたう)を聽(き)いた事(こと)はありませんと云(い)ふと、監督(かんとく)は只(た)だ一言(ごん)、これが貴下(あなた)のお嫌(きらい)な祈禱書(きたうしよ)の祈禱(きたう)でありますと答(こた)へられた。翁(をう)はそれ以來(いらい)聖公會(せいこうくわい)祈禱書(きたうしよ)を尊重(そんちよう)し、常(つね)に座右(ざいう)に備(そな)へて、公私新禱(こうしきたう)の模範(もはん)とせられたそうである。
 神學校(しんがくかう)を卒業(そつげふ)した一靑年(せいねん)が、監督(かんとく)が指定(してい)した傳道地(でんだうち)を嫌(きら)つて赴任(ふにん)を肯(かへん)ぜず、切(しき)りに任地(にんち)の變更(へんかう)を監督(かんとく)に請願(せいぐわん)した。監督(かんとく)は彼(かれ)に.種々(しゆじゆ)説諭(せつゆ)して決心(けつしん)を促(うなが)されたが、彼(かれ)は容易(ようい)に決(けつ)せず空(むな)しく時日(じじつ)を延(の)ばして居(を)つた。或日(あるひ)、監督(かんとく)はまた彼(かれ)に懇々(こんこん)説諭(せつゆ)を加(くは)へた後(のち)に、私(わたし)は今晩(こんばん)貴下(あなた)が決心(けつしん)の出來(でき)るやうに祈(いの)ります、貴下(あなた)も祈(いの)つて決心(けつしん)して下(くだ)さいと云(い)はれたので、ハイとは答(こた)へたが、彼(かれ)は内心(ないしん)監督(かんとく)が何(なん)と云(い)つても承諾(しようたく)せぬと頑張(ぐわんば)つて居(を)つた。其夜深更(そのよしんかう)に彼(かれ)は不圖(ふと)監督(かんとく)の部屋(へや)の前(まへ)を通(とほ)ると、内(うち)から祈禱(きたう)の聲(こゑ)が洩(も)れ聽(きこ)へた。嚴(おごそか)な而(しか)して如何(いか)にも天父(てんぷ)と物語(ものがた)るやうな祈禱(きたう)の聲(こゑ)、あゝ監督(かんとく)は今(い)ま私(わたし)の爲(ため)に天父(てんぷ)に訴(うつた)へて居(ゐ)るのではあるまいか、彼(かれ)はこう思(おも)ふと祈禱(きたう)の聲(こゑ)は全身(ぜんしん)に染々(しみじみ)と應(こた)へて、我意(がい)は折(を)れ執拗(しつあう)は碎(くだ)けて、唯(た)だはらはらと悔悟(くわいご)の涙(なみだ)に呉(く)れた。翌朝(よくてう)彼(かれ)は監督(かんとく)の許(もと)に至(いた)り、前非(ぜんぴ)を謝(しや)し赴任(ふにん)の決心(けつしん)を告(つ)げ、勇(いさ)んで任地(にんち)に向(むか)つた。
 監督(かんとく)は祈禱書(きたうしよ)の忠實(ちゆうじつ)なる愛用者(あいようしや)であった。祈禱書(きたうしよ)の規定(きてい)は嚴格(げんかく)に守(まも)り、如何(いか)なる情實(じやうじつ)や都合(つがふ)があっても、決(けつ)して之(これ)を變更(へんかう)省略(せいりやく)する事(こと)はなかった。然(しか)し祈禱書(きたうしよ)に何等規定(なんらきてい)のない事(こと)は、殆(ほと)んど無用視(むようし)した。例(れい)せば、期節(きせつ)に從(したが)つてストール或(あるひ)は禮拜(れいはい)に於(お)ける彩色(さいしき)を變(か)へることや、聖卓(せいたく)に十字架(じか)を安置(あんち)したり、花(はな)を供(そな)へ香(かう)を焚(た)くことなどは、一種(しゆ)の裝飾(さうしよく)に過(す)ぎずとして、決(けつ)して爲(せ)られなかつた。師(し)は所謂(いはゆる)低公會員(ローチヤーチマン)であつた。常(つね)に云(い)はるゝに、「祈禱書(きたうしよ)を忠實(ちうじつ)に使(つか)つて居(ゐ)るならば、議論(ぎろん)も混雜(こんざつ)もない、又(ま)た自他(じた)の利益(りえき)である。然(しか)るに自分(じぶん)の好(この)みによつて加除(かぢよ)するは宜(よろ)しくない」と。
 監督(かんとく)は、會堂(くわいだう)は嚴格(げんかく)なる意味(いみ)に於(おい)て、聖別(せいべつ)されたものであるとし、禮拜(れいはい)以外(いぐわい)の事(こと)には、例令(たとへ)ば、演説會(えんぜつくわい)、祈禱會(きたうくわい)、日曜學校(にちえうがくかう)などに用(もち)ひる事(こと)を許(ゆる)さなかった。禮拜堂(れいはいだう)は、人(ひと)か誠(まこと)に、「主は(しゆ)その聖(きよ)き殿(みや)に在(い)ませり」と感(かん)じ、畏敬(ゐけい)と謙遜(けんそん)を以(もつ)て祈禱讃美(きたうさんび)を捧(さゝ)ぐる外(ほか)は、唯(た)だ其聖前(そのせいぜん)に默(もく)して、神(かみ)の榮光(えいくわう)と聖德(せいとく)を仰(あふ)ぎ、其(その)聖聲(みこゑ)を聽(き)く聖所(せいしよ)であるから、堂内(だうない)に入(い)つては、努(つと)めて嚴肅(げんしゆく)に沈默(ちんもく)を保(たも)ち、苟(かりそめ)にも輕操(けいさう)なる振舞(ふるまひ)あるペからず、雜談挨拶(ざつだんあひさつ)など交(まじ)ゆる勿(なか)れとは、師(し)の敎訓(けうくん)であった。
 監督(かんとく)が禮拜以外(れいはいいぐわい)に會堂(くわいだう)を用(もち)ひる事(こと)を許(ゆる)さなかつた爲(ため)に、靑年(せいねん)敎役者(けうえきしや)は屢(しばし)ば監督(かんとく)と衝突(しようとつ)した事(こと)があつた。彼等(かれら)は、苟(いやし)くも神(かみ)の爲(ため)になす事業(じげふ)に、禮拜堂(れいはいだう)を用(もち)ゆるとも、何(なん)の不可(ふか)あらん、「われ矜恤(あはれみ)を欲(このみ)て祭祀(まつり)を欲(このま)ず」とは如何(いか)なる意味(いみ)なるかと、聖句(せいく)までも引用(いんよう)して、勢鋭(いきほいするど)く詰問(きつもん)した。時(とき)に監督(かんとく)は容(かたち)を正(ただ)し最(い)と嚴(おごそ)かに、「われ衿恤(あはれみ)を欲(このみ)て祭祀(まつり)を欲(このま)ず」と聖語(せいご)を誦(じゆ)し、固(かた)く拳(こぶし)を握(にぎ)り占(し)めて力強(ちからつよ)く前(まへ)に振(ふり)り下(おろ)すと同時(どうじ)に、此(これ)は我(わが)が主義(しゆぎ)なりと一喝(かつ)し、更(さら)に曰(いは)く、會堂(くわいだう)以外(いぐわい)に建物(たてもの)がなければ致(いた)し方(かた)ありません、然(しか)し別(べつ)に會館(くわいくわん)といふものがあるに、ナゼ禮拜堂(れいはいだう)以外(いぐわい)の所(ところ)ではいけませんかと、逆(さかさ)まに詰問(きつもん)された。
 一牧師(ぼくし)の話(はなし)に、或時(あるとき)信徒(しんと)按手式(あんしゆしき)前(ぜん)、式服(しきぶく)を着(ちやく)して後(のち)、規定(きてい)に從(したが)ひ受領者(じゆりやうしや)の姓名(せいめい)受洗(じゆせん)及(および)年齡(ねんれい)を提出(ていしゆつ)したが、其中(そのうち)に一人(にん)の年齡(ねんれい)不明(ふめい)の爲(た)め記入(きにふ)して無(な)かつたら、師(し)は嚴然(げんぜん)として規定(きてい)を示(しめ)して之(これ)を返(かへ)し、式場(しきぢやう)に出(で)られない。乃(そこ)で俄(にわか)に式服(しきふく)を脱(だつ)し奔走(ほんさう)稍(やうや)く記入(きにふ)して、式(しき)を濟(すま)したことがあるが、余(よ)は此時(このとき)隨分(ずゐぶん)苦(くる)しく感(かん)じたが、其後(そのご)此事(このこと)に就(つい)て嚴正(げんせい)にやつたばかりでなく、此精神(このせいしん)が余(よ)の執務上(しつむじやう)に大(だい)なる影響(えいきやう)を受(う)けたことを滲々(しみじみ)と感(かん)じたと。此(これ)は一例(れい)に過(す)ぎぬが、以(もつ)て監督(かんとく)が如何(いか)に一小事(せうじ)たりとも、公會(こうくわい)の規定(きてい)を忠實(ちゆうじつ)に嚴守(げんしゆ)せられた事(こと)を知(し)ることができる。
 監督(かんとく)が歸國(きこく)せらるゝと聞(き)いて、或人(あるひと)が切(しきり)に我國(わがくに)に止(とゞま)るやう嘆願(たんぐわん)せしに、監督(かんとく)曰(いは)く、余(よ)は此地(このち)にありて空(むな)しく椅子(いす)に坐(ざ)するを好(この)まず。寧(むし)ろ歸國(きこく)して日本(にほん)の爲(ため)に盡(つく)す可(べ)し。何處(いづこ)にありても神(かみ)は余(よ)の祈禱(きたう)を聽(き)き給(たな)ふ。日本(にほん)に在(あ)りて祈(いの)るも、米國(べいこく)に在(あ)りて祈(いの)るも同(おな)じ、天(てん)の高(たか)さは何處(いづこ)にても異(ことな)ることなしと。また或人(あるひと)、惜別(せきべつ)の情(じやう)を洩(もら)したるに、監督(かんとく)は、祈(いの)る心(こゝろ)と心(こゝろ)には距離(きより)はない、何處(いづこ)に居(を)るも、神(かみ)と吾々(われわれ)の間(あひだ)は同(おな)じであると云(い)はれた。
 監督(かんとく)は、復(ふたた)び歸(かへ)らぬ歸國(きこく)に、將(まさ)に橫濱(よこはま)を去(さ)らんとする際(さい)、見送(みおく)れる數人(すにん)の兄弟(けいてい)が、ランチに移(うつ)つた時(とき)、遙(はる)かに本船甲板上(ほんせんかんぱんじやう)から、神(かみ)の祝福(しゆくふく)を祈(いの)られたが、之(これ)ぞ師(し)が日本(にほん)に於(お)ける最終(さいしゆふ)の祈禱(きたう)であった。
 歸國後(きこくご)は、愛甥(あいせい)ハリソン氏邸(してい)に靜養(せいやう)せられたるが、師(し)は日(ひ)として日本(にほん)を忘(わす)れ給(たま)はず、其通信(そのつうしん)に曰(いは)く我(わ)が毎日(まいにち)の日課(につくわ)は日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)の爲(ため)に祈(いの)ることなりと。病床(びやうしよう)に橫(よこた)はりて神(かみ)の召(めし)を今(いま)か今(いま)かと待(ま)ちつゝある時(とき)も、身(み)は日本(にほん)に在(あ)る心(こゝろ)せしと見(み)へ、英語(えいご)を用(もちひ)ず日本語(にほんご)を語(かたり)り、日本語(にほんご)にて祈禱(きたう)を捧(さゝ)げられたといふ。

十二、温和厚情 

 監督(かんとく)は柔和(にんわ)謙遜(けんそん)寬容(くわんよう)の德(とく)に兼(か)ねて、嚴正(げんせい)潔白(けつぱく)勇敢(ゆうかん)剛毅(がうき)の武士的(ぶしてき)性格(せいかく)を有(いう)せられた。師(し)は温厚(をんかう)の君子(くんし)にして而(しか)も又(また)一個(こ)血性(けつせい)の男兒(だんじ)であつた。一面(めん)處女(しよぢよ)の如(ごと)く柔(やさ)しき情(じやう)の人(ひと)にして、一面(めん)剛健(がうけん)なる意志(いし)の人(ひと)であった。其(その)厚情(かうじやう)は藹然(あいぜん)として掬(きく)すべく、其(その)寬宏(くわんこう)にして吝(やぶさか)なき愛(あい)は、眞(しん)に崇高(すうかう)の域(ゐき)に達(たつ)したるが、其(その)所信(しよしん)を貫(つらぬ)くためには死(し)も亦辭(またじ)せず、其(その)主義(しゆぎ)を固(かた)く執(と)つて動(うご)かざること、寧(むし)ろ頑固(ぐわんこ)と云(い)ふも敢(あえ)て失當(しつたう)ではなかつた。
 日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)の錚々(さうさう)たる牧師(ぼくし)が、未(いま)だ神學校(しんがくかう)に在學中(ざいがくちゆう)の頃(ころ)であつた、當時(たうじ)監督(かんとく)は三一神學校(しんがくかう)に佳(すま)はれ、二階(かい)の三室(しつ)の一を書齋(しよさい)兼(けん)客間(きやくま)とし、一を寢室(しんしつ)とし、一を食堂(しよくだう)として用(もち)ひられたが、未來(みらい)の大牧師(だいぼくし)たる彼(かれ)の部屋(へや)は、三階(がい)の北側(きたがは)にある丸窓(まるまど)の小暗(をぐら)き室(へや)であるのが、頗(すこぶ)る不滿足(ふまんぞく)で、或(あ)る日(ひ)監督(かんとく)の室(へや)を訪(と)ふて、我儕(われら)は神(かみ)の爲(ため)に身命(しんめい)を捧(さゝ)げた前途(ぜんと)有望(いうばう)の靑年(せいねん)である。然(しか)るにあんな不衞生(ふえいせい)な室(へや)に居(を)つては、健康(けんかう)を害(がい)するから、速(すみやか)に完全(くわんぜん)なる寄宿舍(きしゆくしや)を設(まう)けるか、然(しか)らざれば外(そと)に下宿(げしゆく)せしむるか、二者(しや)其(その)一を許(ゆる)されたしと談判(だんぱん)した。監督(かんとく)はさうですか考(かんが)へてをきませうと云(い)つて其場(そのば)は濟(す)んだ。翌日(よくじつ)彼(かれ)が外出(ぐわいしゆつ)して歸(かへ)つて見(み)ると、小使(こづかひ)は既(すで)に彼(かれ)の部屋(へや)を掃除(さうぢよ)し、監督(かんとく)の荷物(にもつ)を大半(たいはん)運(はこん)び込(こ)んでをつたので、彼(かれ)は驚愕(おどろい)て何事(なにごと)ぞと訊(たづ)ぬれば、監督(かんとく)さんが、寢室(しんしつ)を三階(がい)に移(うつ)し、三階(がい)の二室(しつ)四人(にん)の者(もの)を自己(じこ)の寢室(しんしつ)と食堂(しよくだう)に移(うつ)らしめんとするなりといふ。彼(かれ)は尚更(なほさら)に驚(おどろ)き早速(さつそく)監督(かんとく)の許(もと)に行(ゆ)き、前(まへ)の失言(しつげん)を謝(しや)し、許容(ゆるし)を請(こ)ひ、現状(げんじやう)に甘(あまん)ずべし決(けつ)して監督(かんとく)を苦(くるし)むる心(こゝろ)に非(あら)ずと、低頭(ていとう)平身(へいしん)謝罪(しやざい)せしに、監督(かんとく)は彼(かれ)の肩(かた)を叩(たゝ)いて莞爾(くわんじ)として薇笑(ほゝえ)み、心配(しんぱい)いりません、私(わたし)自分(じぶん)の便宜(べんぎ)の爲(ため)にいたしました。私(わたし)は六七時間(じかん)夜寢(よるね)るだけです、寢(ね)むる時(とき)は光線(くわうせん)入(い)りません。貴下方(あなたがた)學生(がくせい)は勉強(べんきやう)自修(じしう)の爲(た)め、多(おほ)くの時間(じかん)部屋(へや)に居(を)りますから、光線(くわうせん)空氣(くうき)のよい處(ところ)を望(のぞ)みます當然(たうぜん)であります、と云(い)つて聽容(きゝい)れなかつた。遂(つひ)に學生(がくせい)抽鬮(ちうせん)せしに、彼(かれ)は監督(かんとく)の寢室(しんしつ)であつた室(しつ)が當(あた)り、其處(そこ)に移(うつ)る事(こと)となつた。
 三一神學校(しんがくかう)の生徒(せいと)に、腦病(なうびやう)を惱(なや)んだ者(もの)があった。彼(かれ)は之(これ)がために日々(ひゞ)の學課(がくくわ)も思(おも)はしく勉強(べんきやう)ができぬので、獨(ひとり)り自(みづか)らの身(み)を悲(かなし)んで居(を)つた。監督(かんとく)は非常(ひじやう)に此(この)生徒(せいと)に同情(どうじやう)し、種々(いろいろ)と親切(しんせつ)に心(こゝろ)を添(そ)へられた。殊(こと)に彼(かれ)が安眠(あんみん)を得(え)ぬのを氣遣(きづか)ふて、毎夜(まいよ)十一時頃(じころ)には必(かなら)ず彼(かれ)の室(しつ)を見舞(みま)はれ、お寢(やすみ)ですかと問(と)ひ試(こゝろ)み、若(も)し彼(かれ)が起(お)き居(を)ると、能(よ)く眠(ねむ)らぬといけませんと注意(ちゆうい)を與(あた)へられた。かくして殆(ほと)んど一年間(ねんかん)斗(ばかり)は一夜(や)も缺(かゝ)さず彼(かれ)を見舞(みま)はれたさうである。
 監督(かんとく)が築地(つきぢ)の小田原町(をだはらちやう)に佳(ぢゆう)した頃(ころ)、當時(たうじ)來朝(らいてう)して日(ひ)尚(ま)だ淺(あさ)かつたガァデナー氏(し)が、其(その)居所(きよしよ)の日本家屋(にほんかをく)が氏(し)と他(た)の宣敎師(せんけうし)の家族(かぞく)の爲(ため)には、間數(まかず)少(すくな)く殊(こと)に寢室(しんしつ)が不便(ふべん)であるから、他(た)の適當(てきたう)の所(ところ)に移(うつ)り度(たい)と申出(まをしいで)た。すると監督(かんとく)はそれならば私(わたし)の家(いへ)に貴下(あなた)の寢室(しんしつ)になるやうな、良(よ)い部屋(へや)があるから來(き)ては什麼(どう)かと云(い)はれた。そこで早速(さつそく)ガァデナー氏(し)は、監督(かんとく)の住家(ぢゆうか)の一室(しつ)を自分(じぶん)の寢部屋(ねべや)とする事(こと)にした。四五日經(にちた)つて日曜日(にちえうび)、監督(かんとく)が深川(ふかがは)の敎會(けうくわい)に行(ゆ)かれた留守(るす)、ガァデナー氏(し)は家(いえ)の樣子(やうす)を能々見(よくよくみ)ると書齋(しよさい)、晝間(ひるま)は敎室(けうしつ)に用(もち)ひらるゝ食堂(しよくだう)、書生部屋(しよせいべや)、コツク部屋(べや)、寢室(しんしつ)一ツであつて、其(その)一の寢室(しんしつ)を自分(じぶん)が占領(せんりやう)したから、監督(かんとく)は何處(どこ)に寢(ね)るのであらう、と氣(き)が付(つ)いたガァデナー氏(し)は家内(かない)を探(さが)して見(み)たが、他(ほか)に寢室(しんしつ)となるやうな所(ところ)がない。コツクに尋(たづ)ぬると、初(はじめ)は知(し)らぬと云(い)つたが、嚴(きびし)く訊(たつ)ねたところが、コツクの云(い)ふに、「監督(かんとく)さんから堅(かた)く口外(こうぐわい)を禁(きん)じられたから、極内密(ごくないみつ)のお話(はなし)ですが、實(じつ)は貴下(あなた)がお出(いで)になつてからは、監督(かんとく)さんは食堂(しよくだう)の卓(テーブル)の上(うへ)にお寢(やす)みです」。驚(おどろ)いたガァデナー氏(し)は、自分(じぶん)の爲(ため)に不自由(ふじいう)を忍(しの)ぶ監督(かんとく)の厚意(かうい)を謝(しや)し、強(し)いて辭退(じたい)して他(た)に移(うつ)つた。
 神學校(しんがくかう)の樓上(ろうじやう)に學生(がくせい)と共(とも)に起臥(きぐわ)した頃(ころ)も、來客(らいきやく)があれば、客(きやく)を自分(じぶん)の寢室(しんしつ)に臥(ふ)させ、自分(じぶん)は食卓(しよくたく)の上(うへ)か、床(ゆか)に寢(ね)た事(こと)は度々(たびたび)であつた。或時(あるとき)、米國(べいこく)の學校(がくかう)を卒業(そつげふ)して歸國(きこく)の序(つひで)に、日本(にほん)を訪(おとづ)れた支那人(しなじん)が、監督(かんとく)の客(きやく)となつた事(こと)があつた。監督(かんとく)は客(きやく)を一個(こ)しかない寢臺(ねだい)に休(やす)ませ、自分(じぶん)は書齋(しよさい)の机(つくへ)の上(うへ)に損料(そんれう)貸蒲圍(かしぶとん)二枚(まい)を借(か)りて寢(ね)られた。翌朝(よくてう)客(きやく)なる支邦人(しなじん)は、部屋(へや)の入口(いりくち)を間違(まちが)ひ、書齋(しよさい)の戸(と)を開(ひら)き、圖(はから)ずも監督(かんとく)の此樣(このさま)を發見(はつけん)して、恐縮(きやうしゆく)したさうである。
 某々(ぼうぼう)の兩長老(りやうちやうらう)を同伴(どうはん)し.上武地方(じやうぶちはう)の傳道地(でんだうち)を巡回(じゆんくわい)した時(とき)、雨後(うご)の田舍道路(ゐなかみち)、人車(じんしや)も通(とほ)らぬ泥濘(でいねい)に、靴(くつ)もヅボンも泥汚(どろ)だらけ、やうやう前橋(まへばし)の一旅館(りよくわん)に着(つ)いた。翌日(よくじつ)早朝(さうてう)兩長老(りやうちやうらう)が目醒(めさ)めると、監督(かんとく)は早(は)や起(お)き出(い)で、何處(いづこ)に行(ゆ)かれたか姿(すがた)が見(み)へぬ。一長老(ちやうらう)は尋(たづ)ねに玄關(げんくわん)まで出(で)て見(み)ると、監督(かんとく)は傍(わき)の方(はう)で切(しき)りに靴(くつ)を磨(みが)いてをられた。監督(かんとく)さん貴下(あなた)の靴(くつ)は私(わたし)が磨(みが)きますと云(い)ふと、此(これ)は〇〇さんの靴(くつ)です。私(わたし)のはあれです。御自分(ごじぶん)の靴(くつ)を磨(みが)くまへに、長老(ちやうらう)の靴(くつ)を磨(みが)いて居(を)られたのであつた。
 人(ひと)の爲(ため)に親切(しんせつ)であつた監督(かんとく)は、自分(じぶん)の爲(ため)に人(ひと)を煩(わづらは)すことを非常(ひじやう)に恐(おそ)れられた。地方(ちはう)を巡回(じゆんくわい)せらるゝ時(とき)に、敎役者(けうえきしや)や信者(しんじや)が停車場(ていしやぢやう)に出迎(でむか)へて、其靴(そのかばん)を持(も)ちませうと何程云(なにほどい)つても、決(けつ)して持(も)たせなかつた。他人(たにん)の世話(せわ)になるのを辭退(じたい)し、敎會(けうくわい)や講義所(かうぎしよ)の片隅(かたすみ)に宿泊(しゆくはく)し、成(な)る可(べ)く信徒(しんと)の家(いへ)には泊(と)まられなかつた。偶(たまた)ま敎役者(けうえきしや)や信徒(しんと)の宅(たく)に泊(とま)つても、家人(かじん)が何(なに)かと待遇(たいぐう)せんとするのに、遠慮(ゑんりよ)せられて家人(かじん)の邪魔(じやま)にならぬやう力(つと)められた。饗應(きやうおう)は決(けつ)して受(う)けられず、白湯(さゆ)を貰(もら)つて持參(じさん)のパン辨當(べんたう)を食(しよく)せられた。
 自分(じぶん)のため送迎會(そうげいくわい)を開(ひら)く事(こと)などは固(かた)く辭(じ)せられ、見送(みおく)りとか出迎(でむかひ)とかいふために、貴重(きちよう)の時間(じかん)を他人(たにん)に費(つひや)させ、また之(これ)が爲(た)め迷惑(めいわく)を懸(か)けるを恐(おそ)れて、出發(しゆつぱつ)や歸宅(きたく)の時間(じかん)は決(けつ)して人(ひと)に知(し)らせなかつた。監督職(かんとくしよく)を退(しりぞ)いてから、久(ひさ)し振(ぶ)りで歸國(きこく)し、一年間斗(ねんかんばかり)在米(ざいべい)せられたが、其(その)往復(わうふく)の際(さい)も、其後(そのご)京都(きやうと)に轉(てん)じてから、一度(ど)歸國(きこく)した其際(そのさい)も、誰(だれ)にも出發(しゆつぱつ)歸宅(きたく)の時日(じじつ)を告(つ)げず、瓢然(へうぜん)として去(さ)り瓢然(へうぜん)として歸(かへ)り來(きた)られた。

十三、忍耐寬容  

 監督(かんとく)は自(みづか)ら是(ぜ)ど信(しん)じた事(こと)は、直情(ちよくじやう)徑行(けいかう)し、一旦(たん)意見(いけん)を定(さだ)むるや、固(かた)く執(とつ)て溶易(ようい)に動(うご)かず、頑(ぐわん)として飽(あ)くまでも、其(その)所信(しよしん)は貫(つらぬ)かれた。師(し)と共(とも)に働(はたら)いた幾多(いくた)の敎役者(けうえきしや)は、幾度(いくたび)か監督(かんとく)の頑固(ぐわんこ)には困(こま)るとの歎聲(たんせい)を洩(もら)した。併(しか)しこの頑固(ぐわんこ)は師(し)が神前(しんぜん)に幾度(いくたび)か專念(せんねん)默想(もくさう)し、聖旨(せいし)と信(しん)じた事(こと)を決行(けつかう)せんとせしものにて、師(し)に取(と)りては、讓渉(じようほ)は良心(りやうしん)問題(もんだい)であつた。 之(これ)が爲(ため)に師(し)と激論(げきろん)せしものは寡(すくな)くなかつた、時(とき)には侮辱(ぶじゆく)の言動(げんどう)を敢(あえ)てしたるものさへあつた。然(しかし)ながら、監督(かんとく)は甚(はなはだ)侮辱(ぶじゆく)を加(くは)へられし時(とき)は、猛然(まうぜん)たる意志(いし)を以(もつ)て自(みづか)ら己(おのれ)を制(せい)し、默然(もくぜん)として唇(くちびる)を緘(と)ちて一語(ご)をも發(はつ)せす、詈(のゝし)られて詈(のゝし)らね主(ぬし)に倣(なら)ひ、其(その)瞬間(しゆんかん)既(すで)に其人(そのひと)を赦(ゆる)された。曾(かつ)て或(あ)る敎會(けうくわい)で何(なに)かの相談會(さうだんくわい)が開(ひら)かれた時(とき)、監督(かんとく)の意見(いけん)と他(た)の人達(ひとたち)の意見(いけん)が衝突(しようとつ)して、痛(いた)く激論(げきろん)に及(およ)んだ事(こと)があつた。或人(あるひと)は遂(つひ)に監督(かんとく)に向(むか)つて貴下(あなた)は日本(にほん)傳道(でんだう)の邪魔者(じやまもの)です御歸國(ごきこく)なさい、とまで暴言(ぼむげん)した。然(しか)し監督(かんとく)は始終(しじゆふ)ニコニコして居(を)られたが、侮辱(ぶじゆく)も甚(はなはだ)しきに至(いた)つた時(とき)は、默然(もくぜん)として唇(くちびる)を緘(と)ぢ、更(さら)に一言(ごん)をも發(はつ)せず、云(い)ふがまゝに任(まか)された。斯(か)くの如(ごと)き監督(かんとく)の忍耐(にんたい)と寬容(くわんよう)には、此(か)かる侮辱(ぶじゆく)の言動(げんどう)を敢(あえ)てしたる者(もの)も、一旦(たん)其(その)座(ざ)を去(さ)るや、憤怒(ふんど)の情(じやう)何時(いつ)しか消(き)えて、痛(いた)く自己(じこ)の失言(しつげん)妄動(もうどう)を後悔(こうくわい)し、景慕(けいぼ)尊敬(そんけい)の念(ねん)再(ふたゝ)び切(しき)りに湧(わ)くを禁(きん)ずる能(あた)はざらしめた。
 立敎學校(りつけうがくかう)の一生徒(せいと)が、幾度(いくたび)か監督(かんとく)に注意(ちゆうい)せられたるに拘(かゝは)らず、二階(かい)の窓(まど)から表(おもて)に啖(たん)を吐(は)いた。所(ところ)が間(ま)の惡(わる)いことには、其時(そのとき)下(した)を監督(かんとく)が通(とほ)りかゝられたので、其(その)穢(きたな)い啖(たん)は監督(かんとく)の帽子(ぼうし)の上(うへ)に落(お)ちた。監督(かんとく)は夫(そ)れを拭(ぬぐ)ひながら、見上(みあ)げやうともせず其儘(そのまゝ)部屋(へや)に這入(はい)られた。此(この)生徒(せいと)は校中(かうちゆう)評判(へうばん)の腕白者(わんぱくもの)で、平素(へいそ)基督敎(きりすとけう)に反對(はんたい)し、其(その)辯論(べんろん)巧(たくみ)にして校中(かうちゆう)のものゝ手(て)におへぬ人物(じんぶつ)であつたが、この餘(あま)りの失態(しつたい)には耐(たま)りかねて、監督(かんとく)の室(へや)に至(いた)り恐(おそ)る恐(おそ)る其(その)粗忽(そこつ)を陳謝(ちんしや)した。 時(とき)に監督(かんとく)は全(まつた)ぐ與(あづか)り知(し)らざる者(もの)の如(ごと)く、「人(ひと)が通(とほ)りますから氣(き)を付(つ)けなさい」と、唯(た)だ一言(ごん)。温乎(おんこ)たる其(その)容(よう)、屬乎(どくこ)たる其(その)言(げん)、遉(さすが)の腕白者(わんぱくもの)も崇高(すうかう)の感(かん)に打(う)たれた。此事(このこと)以來(いらい)彼(かれ)は全(まつた)く其人物(そのじんぶつ)が一變(ぺん)し、熱心(ねつしん)忠實(ちゆうじつ)なる基督者(きりすとしや)となつた。

十四、勇敢剛毅  

 萬延(まんえん)から文久(ぶんきう)年間(ねんかん)は、我(わ)が國内(こくない)は攘夷(じようい)熱(ねつ)の最(もつと)も激烈(げきれつ)なる時(とき)であつた。頑迷(ぐわんめい)無謀(むぼう)なる攘夷派(じよういは)の武士(ぶし)橫行(わうかう)し、外國人(ぐわいこくじん)を敵視(てきし)して往々(わうわう)殺害(さつがい)を加(くは)へ、襲撃(しふげき)を謀(はか)ること頻(しきり)にして、實(じつ)に殺伐(さつばつ)の氣(き)は天下(てんか)に充(み)ちみちた。當時(たうじ)長崎(ながさき)に在(あ)つて、米國(べいこく)の間諜(かんてふ)とまで疑(うたが)はれた監督(かんとく)の危險(きけん)と困難(こんなん)は、到底(たうてい)今(いま)より想像(さうざう)するだに及(およ)ばぬことであつた。文久(ぶんきう)三年間(ねんかん)に於(おい)ては、監督(かんとく)より一回(くわい)も本國(ほんごく)に通信(つうしん)がなかつたので、本國(ほんごく)に於(おい)ては、危險(きけん)を避(さ)けて支那(しな)に退却(たいきやく)せしものと想像(さうざう)したが、實(じつ)は、此(この)頃(ころ)も師(し)は、通信(つうしん)もできぬ程(ほど)の危險(きけん)と困難(こんなん)に圍(かこ)まれながら、獨(ひと)り長崎(ながさき)に踏(ふ)み止(とま)り、泰然(たいぜん)として動(うご)かず、靜(しづか)に翻譯(ほんやく)に從事(じゆうじ)して、時(とき)の來(き)たるを待(ま)つて居(を)られた。當時(たうじ)の長崎(ながさき)奉行(ぶぎやう)は在留(ざいりう)の外人(ぐわいじん)を出島(でじま)に移居(いきよ)せしめた。外人(ぐわいじん)は皆(みな)其(その)厚意(かうい)を謝(しや)して轉居(てんきよ)したが、監督(かんとく)は、自分(じぶん)は福音(ふくゐん)の大命(たいめい)を奉(ほう)じて來(き)たものなれば、身(み)の安危(あんき)のため任地(にんち)を一歩(ぽ)も去(さ)る事(こと)を欲(ほつ)しないと云(い)つて、移轉(いてん)せられなかつた。奉行(ぶぎやう)は監督(かんとく)の風丯(ふうぼう)と、職(しよく)に忠(ちゆう)なる決心(けつしん)に接(せつ)しては、又(また)一言(げん)も出(い)です、默許(もくきよ)したと云(い)ふことである。
 監督(かんとく)或人(あるひと)に語(かた)つて云(い)はるゝに、私(わたし)が長崎(ながさき)に居(を)つた頃(ころ)には、攘夷論(じよういろん)の最(もつと)も烈(はげ)しい時(とき)であつたから、外人(ぐわいじん)は外出(ぐわいしゆつ)するには命懸(いのちがけ)であつた。夫(そ)れ故(ゆえ)皆(み)なピストルを携(たづさ)へて居(を)つたと。其時(そのとき)或人(あるひと)が貴下(あなた)もピストルを携帶(けいたい)になりましたかと問(と)ふと、監督(かんとく)は容(かたち)を正(たゞ)し嚴然(げんぜん)として、私(わたし)は神(かみ)を畏(おそ)れますが、人(ひと)を懼(おそ)れませんと云(い)はれた。

十五、嚴正謹直  

 條約(でうやく)改正前(かいせいぜん)までは、外國人(ぐわいこくじん)は居留地(きよりうち)以外(いぐわい)十里(り)を出(で)ることは出來(でき)なかつた。併(しか)し之(これ)は表面(へうめん)の規則(きそく)で實(じつ)は病氣(びやうき)保養(ほやう)とか、學術(がくじゆつ)研究(けんきう)とかいふ事(こと)で、族行(りよかう)免状(めんじやう)の下附(かふ)を願(ねが)ひ、皆(みな)それそれ欲(ほつ)する所(ところ)に出掛(でか)けたものである。宣敎師(せんけうし)が地方(ちはう)に傅道(でんだう)に出張(しゆつちやう)する時(とき)も、病氣(びやうき)保養(ほやう)か學術(がくじゆつ)研究(けんきう)の名目(めいもく)であつた。然(しか)し監督(かんとく)は、此(この)規定(きてい)が解(と)けて、公然(こうぜん)何處(いづこ)へも傳道(でんだう)旅行(りよかう)ができる迄(まで)は、唯(た)だの一回(くわい)と雖(いへど)も、所定(しよてい)の地域(ちゐき)以外(いぐわい)に出(で)られたことはなかつた。他(た)の宣敎師(せんけうし)が學術(がくじゆつ)研究(けんきう)、病氣(びやうき)保養(ほやう)の名目(めいもく)を以(もつ)て地方(ちはう)に出張(しゆつちやう)しても、監督(かんとく)のみは、政府(せいふ)が默許(もくきよ)した事(こと)とはいへ、この僞名目(ぎめいもく)を用(もち)ゆるを快(こゝろよし)とせず、區域外(くゐきぐわい)には、頑(ぐわん)として出(で)られなかつた。
 條約(でうやく)改正前(かいせいぜん)に、監督(かんとく)が傅道(でんだう)以外(いぐわい)の事(こと)で地方(ちはう)に行(ゆ)かれたのは、明治(めいぢ)二十年頃(ねんころ)中仙道(なかせんだう)の某地(ぼうち)に行(ゆ)かれた一事(じ)であつた。之(これ)は稀有(けう)の日蝕(につしよく)を觀察(くわんさつ)すべく、同地(どうち)が觀測上(くわんそくじやう)の最好點(さいかうてん)であつたから行(ゆ)かれたのであつた。監督(かんとく)は自然科學(しぜんくわがく)には深(ふか)い興味(きやうみ)を有(も)つてをられたので、純然(じゆんぜん)たる學術(がくじゆつ)研究(けんきう)のためであつた。此時(このとき)監督(かんとく)は出張(しゆつちやう)の序(つひて)に、同地(どうち)の敎會(けうくわい)を訪(と)はれたるが、珍(めづら)しき監督(かんとく)の來訪(らいはう)とて、信徒(しんと)の歡喜(よろこび)は一方(ひとかた)でなかつた。定住(ていぢゆう)傅道師(でんだうし)は監督(かんとく)に請(こ)ふて、貴下(あなた)が御出張(ごしゆつちやう)になれば、地方(ちはう)の信徒(しんと)は此(この)の通(とほ)り喜(よろこ)びます、何卒(なにとぞ)以來(いらい)度々(たびたび)御出張(ごしゆつちやう)下(くだ)さいと云(い)へば、監督(かんとく)は微笑(ほゝゑ)みながら曰(いは)く、さうですか、どうか日蝕(につしよく)をこしらへて下(くだ)さい、私(わたし)また參(まゐ)ります。
 一牧師(ぼくし)曰(いは)く、「明治(めいぢ)廿九年(ねん)の夏(なつ)であつたと思(おも)ふ。僕(ぼく)は所用(しよよう)があつて江州(かうしゆう)の大津(おほつ)へ往(い)つた。當時(たうじ)老監督(らうかんとく)には京都(きやうと)に在住(ざいぢゆう)せられ、大津(おほつ)は其(その)受持(うけもち)傅道地(でんだうち)であつた。偶(たまたま)老監督(らうかんとく)には敎務上(けうむじやう)東京(とうきやう)へ赴(おもむ)かれ、その歸途(きと)此處(こゝ)へ立寄(たちよ)られ聖餐式(せいさんしき)を執行(しつかう)せらるゝとの事(こと)で、僕(ぼく)は久振(ひさしぶ)りにて老監督(らうかんとく)より聖奠(せいてん)を受(う)くることを嬉(うれ)しぐ感(かん)じた。監督(かんとく)は東京(とうきやう)より直行列車(ちよくかうれつしや)で午後(ごご)到着(たうちやく)せられたが、翌日(よくじつ)は日曜日(にちえうび)で琵琶湖(びはこ)で全國(ぜんこく)學生(がくせい)の端艇(ボート)競爭(きやうさう)があると云(い)ふので、市中(しちゆう)の旅館(りよくわん)は何(いづ)れも空室(くうしつ)かないと云(い)ふ有樣(ありさま)であつた。老監督(らうかんとく)は宿(やど)の主婦(しゆふ)にドンナ處(ところ)でも構(かま)はぬ、寢(ね)る事(こと)さへできれば宜(よろ)しいと云(い)つて、例(れい)の小(ちい)な竹行李(たけがうり)一つを預(あづ)けて一晝夜(ちゆうや)汽車(きしや)で旅行(りよかう)して來(き)た七十餘(よ)の老人(らうじん)が、一休(ひとやす)みもせずに其儘(そのまゝ)傳道師(でんだうし)の許(もと)を訪(たづ)ねられた。すると信者(しんじや)は其前(そのまへ)に、明日(あす)は端艇(ボート)競爭(きやうさう)見物(けんぶつ)のため、大抵(たいてい)の家(いへ)には來客(らいかく)もあり、自分等(じぶんら)も見物(けんぶつ)したいから、聖餐(せいさん)を早朝(さうてう)に執行(しつかう)して頂戴(いたゞ)きたいと、相談(さうだん)が決(けつ)しておつたので、傅道師(でんだうし)が早速(さつそく)その事(こと)を述(の)べて許可(きよか)を請(こ)ふた。 監督(かんとく)は、神(かみ)の敎會(けうくわい)に於(おい)て定(さだ)めた大切(たいせつ)なる聖典(せいてん)の執行(しつかう)時間(じかん)を、遊戲事(いうぎごと)のために變更(へんかう)する事(こと)はできぬから、矢張(やはり)いつもの時刻通(じこくどほ)りに皆々(みなみな)準備(じゆんび)して出席(しゆつせき)する樣(やう)、勸(すゝ)めなさいと云(い)はれて、自分(じぶん)も又(また)其足(そのあし)で受聖餐者(じゆせいさんしや)の人々(ひとびと)を一々訪問(はうもん)して、其旨(そのむね)を諄々(じゆんじゆん)と諭(さと)され、日暮(ひぐれ)て遲(おそ)く旅館(りよくわん)に歸(かへ)られ、室(へや)がないとて下女部屋(げぢよべや)のやうな小(ちい)さな汚(きた)ない室(へや)をあてがはれて、毫(がう)も不足(ふそく)らしい顏(かほ)もせずに、いそいそと明朝(みやうてう)の聖用(せいよう)のパンを手(て)づから調製(てうせい)して居(を)られた」。
 一週(しう)二度(ど)づゝ洗禮(せんれい)の準備(じゆんび)のために、監督(かんとく)の居室(ゐま)に來(きた)りし或人(あるひと)が、一日(にち)定(き)められた時間(じかん)よりは約(やく)卅分(ぷん)ほど後(おく)れしに、監督(かんとく)は不機嫌(ふきげん)にて、今日(こんにち)は出來(でき)ませんと斷(ことは)られた。それでは來週(らいしう)三時頃(じころ)參(まゐ)ります、といふて室外(しつぐわい)に出(い)でしに、監督(かんとく)は呼(よ)び止(や)めて曰(いは)く、貴下(あなた)頃(ごろ)はいけません、丁度(ちやうど)三時(じ)よろしいです。
 神學校(しんがくかう)の生徒(せいと)にして、或(あ)る敎會(けうくわい)の役員(やくゐん)を勤(つと)めた某氏(ぼうし)が、一夜(や)敎會(けうくわい)の役員會(やくゐんくわい)に列(れつ)して、門限(もんげん)時刻(じこく)を遲(おく)れて歸校(きかう)した。翌朝(よくてう)監督(かんとく)は某氏(ぼうし)を呼(よ)び詰問(きつもん)されたので、彼(かれ)は充分(じゆうぶん)なる辯解(べんかい)として、敎會(けうくわい)の役員會(やくゐんくわい)に列(れつ)し、要務(えうむ)のために遲刻(ちこく)しましたと臆面(おくめん)なく答(こた)へた。すると監督(かんとく)は嚴(おごそか)に、學生(がくせい)は校則(かうそく)を守(まも)ることが大事(だいじ)である。若(も)し之(これ)が妨(さまたげ)とならば役員(やくゐん)を辭(じ)すべしど云(い)はれた。
 監督(かんとく)は、一人(にん)にて決(けつ)して婦人(ふじん)を訪問(はうもん)されなかつた。必(かなら)ず同伴者(どうはんしや)を連(つ)れるか、若(も)し同伴者(どうはんしや)が無(な)いときは門前(もんぜん)にて立談(たちばなし)して別(わか)れた。大阪(おほさか)に居(を)つた頃(ころ)、ブール女史(ぢよし)を折々(をりをり)要事(えうじ)の爲(ため)に訪(と)はれたが、常(つね)にラニング氏(し)と倶(とも)に來(きた)り、亦(また)一人(にん)の時(とき)は家(いへ)に入(い)らす、玄關(げんくわん)で立談(りつだん)せられた。或人(あるひと)其(その)理由(りいう)を問(と)ひしに、ブールさんは御孃(おじよう)さん(老孃(らうじよう))私(わたし)はムスコであるからと答(こた)へられた。師(し)の嚴正(げんせい)なりしことは、此事(このこと)でも察知(さつち)せらるゝのである。

十六、威風温容  

 或(あ)る學者(がくしや)は品性(ひんせい)を二大(だい)種類(しゆるゐ)に區分(くぶん)し、一は畏敬(ゐけい)を催(もよほ)すもの、他(た)は愛(あい)を促(うなが)すものとし、前者(ぜんしや)は偉大(ゐだい)崇高(すうかう)を以(もつ)て其(そ)の特色(とくしよく)とし、後者(こうしや)は優美(いうび)を以(もつ)て其(その)の長所(ちやうしよ)となすと云(い)つたが、監督(かんとく)の品性(ひんせい)は此(こ)の二種(しゆ)を最(もつと)も美(うるは)しく調和(てうわ)したものであつた。師(し)の容貌(ようぼう)には何處(どこ)となく、犯(をか)す可(べ)からざる威嚴(ゐげん)があつて、其(その)前(まへ)に出(い)づれぱ何人(なんびと)も肅然(しゆくぜん)襟(えり)を正(たゞ)した。とはいへ窮屈(きゆうくつ)にして親(したし)み難(にく)い感(かん)を與(あた)へるやうなことはなかつた。師(し)には子供(こども)も臆(おく)せず馴(な)れ親(したし)み、誰(たれ)も遠慮(えんりよ)なく胸中(きようちゆう)の祕密(ひみつ)を打明(うちあ)けることができた。之(こ)れ藹然(あいぜん)たる厚情(かうじやう)、私(わたくし)なき愛(あい)は温容(をんよう)に表現(あらは)れて、人(ひと)をして愛着(あいちやく)の情(じやう)を起(おこ)さしめたからである。
 有名(いうめい)なる漢學者(かんがくしや)が、或(あ)る學校(がくかう)の生徒(せいと)に、史記(しき)列傅(れつでん)の君子(くんし)盛德(せいとく)容貌(ようぼう)如愚(ぐなるがごとし)ど云(い)ふ語(ご)を講義(かうぎ)するに際(さい)し左(さ)の如(ごと)く語(かた)つた。「我(われ)曾(かつ)て築地(つきぢ)の耶蘇(やそ)學校(がくかう)に居(を)りしウイリアムスと云(い)ふ宣敎師(せんけうし)を訪(たづ)ねた。當時(たうじ)自分(じぶん)は屢(しばし)ば西洋人(せいやうじん)に會(くわい)し、孔孟(こうもう)の道(みち)を説(と)き、耶蘇敎(やそけう)を攻撃(こうげき)し、大(おほい)に破邪(はじや)顯正(けんせい)の議論(ぎろん)をやつたものである。夫(そ)れで今日(けふ)こそは大(おほい)に彼(かれ)を説破(せつば)してやらんと思(おも)ふて、傲然(がうぜん)としてやつて行(い)つた。然(しか)るに一度(ひとたび)其(そ)の西洋人(せいやうじん)と對座(たいざ)するや、彼(かれ)の一見(けん)愚(ぐ)なるが如(ごと)く、然(しか)も神々(かうがう)しき溶姿(ようし)に接(せつ)し、其(その)敬虔(けいけん)敦厚(とんかう)な言辭(げんじ)を以(もつ)て、貴下(あなた)神樣(かみさま)を信(しん)じなさい、何(なに)もかも皆(み)な了解(わかつ)て參(まゐ)りますと云(い)はれたには、例(れい)の如(ごと)く滔々(とうとう)と議論(ぎろん)する事(こと)もできず、おめおめと引退(ひきさが)つた事(こと)があつた。これ畢竟(ひつきやう)其人物(そのじんぶつ)の力(ちから)にして、高德(かうとく)優雅(いうが)の態度(たいど)は、我(われ)を威壓(ゐあつ)して云(い)はんとしても云(い)ふ能(あた)はざらしめたのであらう。君子(くんし)の德(とく)には洋(やう)の東西(とうざい)はない、司馬遷(しばせん)眞(しん)に人(ひと)を欺(あざむ)かすと云(い)ふべきである」と。
 聖公會(せいこうくわい)古老(ころう)の一長老(ちやうらう)は、監督(かんとく)の秀姿(しうし)淸容(せいよう)に就(つい)て語(かた)つて曰(いは)く、「曾(かつ)て築地(つきぢ)の新榮敎會(しんさかえけうくわい)に於(おい)て、聖書(せいしよ)全部(ぜんぶ)の日本譯(にほんやく)が完成(くわんせい)した感謝(かんしや)會(くわい)が開(ひら)かれた時(とき)、余(よ)も行(いつ)て見(み)たが、會衆中(くわいしゆうちゆう)に獨(ひと)り師(し)の風貌(ふうぼう)が異彩(いさい)を放(はな)つと云(い)ふ評(へう)が起(おこ)ると、余(よ)の側(そば)に居(ゐ)た一致敎會(ちけうくわい)の某(ぼう)老實業家(らうじつげふか)が、アー群雀(ぐんじやく)中(ちゆう)の白鶴(はくかく)だ、偉品性(ゐひんせい)だアノ品性(ひんせい)があれば口(くち)は開(ひら)かれずとも雄辯(いうべん)だ、基督敎(きりすとけう)の説敎(せつけう)は師(し)獨(ひとり)一で爲(な)し居(を)られると、余(よ)は然(しか)りと默頭(うなづ)いた。其後(そのご)比企郡(ひきごほり)寄居(よりゐ)町(まち)へ巡回(じゆんくわい)せられた時(とき)、余(よ)は先發(せんぱつ)し寄居(よりゐ)にて待合(まちあは)す事(こと)となつて同所(どうしよ)に着(ちやく)し二三の信徒(しんと)集(つど)ひ來(きた)りたれば師(し)を迎(むか)へがてら、近郊(きんかう)を散策(さんさく)し荒川(あらかは)の渡船場(とせんば)に來(く)ると、渡守(わたしもり)の老爺(らうや)は、今(いま)此處(こゝ)を神樣(かみさま)のやうな御方(おかた)が通(とほ)りました、と云(い)つたので一同(どう)はそら監督(かんとく)さんが御着(おつき)だと解(かい)して、族舍(りよしや)に向(むかつ)て歩(ほ)を速(はや)めた」。
 現今(げんこん)築地(つきぢ)聖路加(せるか)病院(びやうゐん)のある地(ち)に、昔(むかし)は聖(せい)三一神學校(しんがくかう)と立敎(りつけう)學校(がくかう)の三階(がい)煉瓦石(れんぐわせき)の建築物(けんちくぶつ)があつた。築地(つきぢ)聖(せい)三一敎會(けうくわい)は、大會堂(だいくわいだう)が建設(けんせつ)せらるゝまでは、此(こ)の立敎(りつけう)學校(がくかう)の敎室(けうしつ)の一部(ぶ)を使用(しよう)し、主日(しゆにち)其他(そのた)の禮拜(れいはい)を執行(しつかう)した。監督(かんとく)は該(がい)敎會(けうくわい)の牧師(ぼくし)として、常(つね)に長老(ちやうらう)の禮服(れいふく)を着(ちやく)して、禮拜(れいはい)を司(つかさど)られた。 粗造(そぞう)の聖卓(せいたく)と敎壇(けうだん)の外(ほか)は、何(なん)の設備(せつび)も裝飾(さうしよく)もない此(この)の敎室(けうしつ)代用(だいよう)の敎會(けうくわい)も、其處(そこ)に監督(かんとく)が、崇高(すうかう)なる容姿(ようし)、敬虔(けいけん)の態度(たいど)を以(もつ)て、禮拜(れいはい)説敎(せつけう)せらるゝ時(とき)は、莊嚴(そうごん)なる堂宇(だうう)の中(うち)にある如(ごと)き感(かん)を與(あた)へたることは、當時(たうじ)を知(し)る者(もの)の深(ふか)く心(こゝろ)に銘(めい)ずる所(ところ)である。其頃(そのころ)の事(こと)、或(あ)る主日(しゆにち)に一老媼(らうをう)來(きた)りしが、敎壇(けうだん)に立(た)たれた師(し)の、温容(おんよう)に如何(いか)にも威嚴(ゐげん)を備(そな)へたる神々(かうかう)しき風姿(ふうし)を見(み)て、頻(しき)に合掌(がつしよう)禮拜(れいはい)したさうである。
 千八百六十一年(ねん)(文久元年(ぶんきうぐわんねん))七月(ぐわつ)十日(か)の日記(につき)(漸(やうや)く保存(ほぞん)するを得(え)たる師(し)の日記(につき)の斷片(だんぺん))中(ちゆう)に、師(し)は記(しる)して曰(いは)く、一向宗(かうしう)に屬(ぞく)する一僧侶(そうりよ)の來訪(らいはう)を受(う)く、予(よ)は彼(かれ)と肉慾(にくよく)に耽(ふけ)りて、更(さら)に良心(りやうしん)の制裁(せいさい)を顧(かへり)みざる人々(ひとびと)の行爲(かうゐ)に關(くわん)して論(ろん)じ、予(よ)を圍繞(ゐねう)する人々(ひとびと)の如(ごと)き生涯(しやうがい)を欲(ほつ)せざる予(よ)が理由(りいう)を述(の)べたるに、彼(かれ)は汝(なんぢ)は正(たゞし)き人(ひと)なりと云(い)ひつゝ、恰(あだか)も神(かみ)を拜(はい)する如(ごと)く、合掌(がつしよう)して予(よ)を禮拜(れいはい)せり。予(よ)は固(もと)より神(かみ)を禮拜(れいはい)すべしと答(こた)へたりきと。これ皆(み)な師(し)の人格(じんかく)の力(ちから)にして、其(その)崇高(すうかう)温雅(をんが)の態度(たいど)は、人(ひと)を威壓(ゐあつ)したものである。
 監督(かんとく)職(しよく)を辭(じ)した後(のち)、師(し)が歸國(きこく)せられた頃(ころ)、三一大會堂(だいくわいだう)の牧師(ぼくし)が、療養(れうやう)のため伊豆(いづ)の某地(ぼうち)に在(あ)つたが、監督(かんとく)のコツクであつた某(ぼう)も、同時(どうじ)に同所(どうしよ)に滯在(たいざい)した。或(ある)早朝(さうてう)某(ぼう)は牧師(ぼくし)の許(もと)に來(き)て、いかにも心配(しんぱい)で堪(たま)らぬといふ樣子(やうす)で、どうか私(わたし)の爲(ため)に祈(いの)つて下(くだ)さいといふ。仔細(しさい)を問(と)へば、某(ぼう)は云(い)ふに、私(わたし)は多年(たねん)監督(かんとく)さんの恩顧(おんこ)を蒙(かうむ)りながら、いつも不平(ふへい)不足(ふそく)ばかり云(い)つて、あのキリスト樣(さま)のやうな聖(きよ)いお方(かた)の、思召(おぼしめし)に背(そむ)いた事(こと)が屢(しばしば)でありました。昨夜(さくや)監督(かんとく)さんの人格(じんかく)の高(たか)く淸(きよ)い事(こと)を染々(しみじみ)と思(おも)ふと、あの神々(かうがう)しい御姿(おすがた)が眼前(がんぜん)に浮(うか)び來(きた)り、良心(りやうしん)が責(せ)めて終夜(しゆふや)眠(ねむ)る事(こと)ができませんでした。それ故(ゆゑ)に、私(わたし)の罪過(ざいくわ)の赦(ゆる)さるゝやう、祈(いの)つて戴(いたゞ)きたいと思(おも)ひまして、かく早朝(さうてう)に參(まゐ)りました次第(しだい)ですと、懺悔(ざんげ)と感恩(かんをん)の涙(なみだ)に咽(むせ)んださうである。
 監督(かんとく)は非常(ひじやう)に子供(こども)を愛(あい)せられた。また子供(こども)に愛慕(あいぼ)せられた。道(みち)を行(ゆ)く時(とき)も子供(こども)が遊(あそ)んで居(ゐ)ると、近(ちか)よつて金米糖(こんぺいとう)の二三粒(りふ)を與(あた)へ、其(その)頭(かうべ)を撫(ぶ)し笑顏(わらひがほ)を見(み)せて行(ゆ)かれた。訪問(はうもん)せらるゝ時(とき)は、監督(かんとく)さんがお出(いで)よと、先(ま)つ子供(こども)に歡迎(くわんげい)せられた。監督(かんとく)は子供(こども)を膝(ひざ)に抱(だ)き上(あ)げ、接吻(せつぷん)せんばかりに撫愛(ぶあい)し、時計(とけい)を出(いだ)して見(み)せたり、覺束(おぼつか)ない日本語(にほんご)を交換(かうくわん)したりして、此上(このうへ)なき慰(なぐさ)めとせられた。時々(ときどき)町(まち)を歩(ある)いて居(ゐ)ると、ツト菓子屋(くわしや)に這入(はい)つて金米糖(こんぺいとう)を仕入(しい)れられた。店員(てんゐん)は美髯(びせん)の西洋人(せいやうじん)、必(かな)らず多額(たがく)の買物(かいもの)をなすならんと迎(むか)ふれば、何(なん)ぞ圖(はか)らん、大枚(だいまへ)貳錢(せん)銅貨(どうくわ)一個(こ)を出(いだ)されんとは。
 某(ぼう)聖職(せいしよく)が英國(えいこく)に滯在(たいざい)中(ちゆう)、一日(にち)倫敦(ロンドン)の某公園(ぼうこうゑん)にて、圖(はか)らず一人(にん)の英國(えいこく)婦人(ふじん)に呼(よ)び止(と)められ、ウィリアムス監督(かんとく)の安否(あんぴ)を問(と)はれた。此(この)婦人(ふじん)は曾(かつ)て良人(をつと)と倶(とも)に東京(とうきやう)に住(ぢゆう)したりといふ。其頃(そのころ)、監督(かんとく)は屢(しばし)ば同家(どうけ)を訪(と)はれたるが、二人(ふたり)の間(あひだ)に生(で)きた當時(たうじ)まだ幼(おさ)なき小兒(せうに)を、監督(かんとく)は寵愛(てうあい)し訪問(はうもん)の度(たび)に、其(その)兒(こ)の頭(かうべ)を撫(ぶ)して、善(よ)き子(こ)よ將來(しやうらい)聖職(せいしよく)になれよと語(かた)り聽(きか)したさうである。彼(か)の婦人(ふじん)は語(かた)つて曰(いは)く、監督(かんとく)の高風(かうふう)淸姿(せいし)と其(その)語(ご)とは、我(わ)が子(こ)の幼(おさ)な心(ごゝろ)に深(ふか)く印刻(いんこく)せられて、成長(せいちやう)の後(のち)も忘(わす)れざりしが、幸(さひはい)に今(いま)は聖職(せいしよく)に列(つらな)りて、身(み)を聖業(せいげふ)に委(ゆだ)ねつゝありと。

十七、諧謔滑稽  

 監督(かんとく)は何時(いつ)何處(いづこ)にても、常(つね)に眞面目(まじめ)腐(くさ)つて、宗敎(しうけう)や道德(だうとく)の話(はなし)ばかりして、唯(た)だ人(ひと)をして窮屈(きゆうくつ)の感(かん)を起(おこ)させるやうな、世事(せじ)に疎(うと)く人情(にんじやう)を解(かい)せぬ偏屈人(へんくつじん)ではなかつた。時(とき)には意外(いぐわい)の諧謔(かいぎやく)、無邪氣(むじやき)なる滑稽(こつけい)を弄(ろう)して、破顏(はがん)哄笑(こせふ)を禁(きん)ずる能(あた)はざらしめた。
 現今(げんこん)は日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)の先輩(せんぱい)と仰(あふ)がるゝ諸氏(しよし)が、まだ神學生(しんがくせい)時代(じだい)の事(こと)であつた。寄宿舍内(きしゆくしやない)に、鼠群(そぐん)大(おほい)に跋扈(ばつこ)して橫暴(わうぼう)を極(きは)め、未來(みらい)の牧師(ぼくし)諸氏(しよし)の本城(ほんじやう)を犯(おか)し、侵害(しんがい)掠奪(りやくだつ)を加(くは)ふること頻(しきり)なりければ、諸氏(しよし)は攻守(こうしゆ)同盟(どうめい)して、大(おほい)に征討(せいたう)の策(さく)を講(かう)せざるを得(え)ざるに至(いた)つた。茲(こゝ)に於(おい)て一日(にち)、參謀(さんぼう)會議(くわいぎ)は開(ひら)かれ、作戰(さくせん)計畫(けいくわく)は凝(こら)されたるが、時(とき)に某氏(ぼうし)一策(さく)を案(あん)じて曰(いは)く、吾(われ)聞(き)く白鼠(しろねづみ)を放(はな)たば群鼠(ぐんそ)退去(たいきよ)すと、請(こ)ふ之(これ)を試(こゝろ)みたまへと、監督(かんとく)に上申(じやうしん)した。監督(かんとく)は微笑(びせふ)しつゝ、然(しか)るか、さらば試(こゝろ)みんと云(い)はれたれば、衆議(しゆうぎ)こに一決(けつ)して散(さん)した。翌日(よくじつ)監督(かんとく)は密(ひそか)にコツクに、鼠(ねずみ)一疋(ぴき)生捕(いけど)るべく命(めい)ぜられた。コツクは怪(あやし)みながら唯(ゆ)々として命(めい)を奉(ほう)じ、俄(にはか)に庖厨(くりや)を探索(たんさく)して一鼠(そ)を得(え)、之(これ)を持參(じさん)せしに、監督(かんとく)は更(さら)に命(めい)じて、全身(ぜんしん)に胡粉(ごふん)を塗(ぬ)らしめ之(これ)を寄宿舍(きしゆくしや)内(ない)に放(はな)たしめた。荒(あ)れ狂(くる)ひたる鼠(ねづみ)は、四方(はう)八方(ぱう)をかけ廻(まは)り、終(つひ)に白鼠(はくそ)策(さく)提出者(ていしゆつしや)の室内(しつない)に亂入(らんにふ)し書籍(しよせき)器具(きぐ)及(およ)び衣服(いふく)に至(いた)るまで、凡(およ)そ彼(かれ)が觸(ふ)るゝものに悉(ことごと)く胡粉(ごふん)を擦附(すりつ)け、追(お)へば盆々(ますます)狂(くる)ひ、狂(くる)へば愈々(いよいよ)その亂暴(らんぼう)狼藉(らうぜき)を逞(たくまし)くするに、流石(さすが)の白鼠(はくそ)策(さく)提出者(ていしゆつしや)も、此(こ)の新案(しんあん)の白鼠(しろねづみ)には僻易(へきいき)して、味方(みかた)の援軍(えんぐん)を切(しき)りに叫(さけ)びければ、聲(こゑ)聽(き)き付(つ)け馳(は)せ參(さん)じたる同士(どうし)の面々(めんめん)も、この爲體(ていたらく)を見(み)て抱腹(はうふく)絶倒(ぜつたう)したといふ。
 また此頃(このころ)の事(こと)一夜(や)五六名(めい)の學生(がくせい)、一室(しつ)に集合(しふがふ)し、各々(おのおの)得意(とくい)の辯(べん)を振(ふる)つて、神學(しんがく)を講(かう)じ時事(じじ)を論(ろん)じ、古今(ここん)の人物(じんぶつ)を評(へう)する等(とう)、盛(さな)んに談論(だんろん)に花(はな)を咲(さ)かせ、深更(しんかう)に至(いた)るも猶(な)ほ止(や)む景色(けしき)はなかつた。隣室(りんしつ)に臥(ふ)されたる監督(かんとく)は、定(さだ)めて安眠(あんみん)を妨(さまた)げられたであらう。いつか起(お)き出(い)でゝスリツパの音(おと)靜々(しづしづ)と、學生(がくせい)の室(へや)にやつて來(こ)られた。ソレ監督(かんとく)が來(き)たぞと、學生(がくせい)は一時(じ)に靜(しづ)まりかへつて、各々(おのおの)室隅(しつぐう)に蹲踞(うづくま)り呼吸(いき)を凝(こら)して居(を)つた。監督(かんとく)は戸(と)を叩(たゝ)き御免(ごめん)なさいといふ。誰(たれ)も沈默(ちんもく)して應(こた)ふる者(もの)がない。此時(このとき)某氏(ぼうし)は生憎(あいにく)感冒(かぜ)にて頻(しき)りに咳嗽(せき)をせられたので、監督(かんとく)は某氏(ぼうし)の名(な)を呼(よ)んで、御免(ごめん)なさいといふ。名指(なざし)された某氏(ぼうし)は、ハイと據(よんどころ)なき返事(へんじ)をした。監督(かんとく)は、貴下(あなた)大(たい)そう咳嗽(せき)が出(で)ます、これを食(あが)つて早(はや)くお寢(やす)みなさいと、何(なに)やら入(い)れた器(うつは)を置(お)いて去(さ)られた。學生(がくせい)は隅(すみ)の方(はう)から、這(は)ひ寄(よ)つて同(おな)じやうに、甚麼(どんな)御馳走(ごちさう)だらうと、器(うつは)を見(み)ると、バタに砂糖(さたう)がふりかけてあつた。一同(どう)顏(かほ)見合(みあは)せて唖然(あぜん)、これで談論(だんろん)中止(ちゆうし)となつて、一同(どう)ソコソコ各自(かくじ)の室(へや)に散(さん)じ歸(かへ)つた。
 監督(かんとく)の司式(ししき)で結婚(けつこん)した新夫婦(しんふうふ)が、歸省(きせい)するので暇(いとま)乞(ごひ)に行(い)つた。其時(そのとき)某(ぼう)は妙齡(めうれい)の妹(いもをと)を同伴(どうはん)したるが、餘談(よだん)に入(い)つてから監督(かんとく)は、やがて又(また)結婚式(けつこんしき)がありますと眞面目(まじめ)くさつて話(はな)し出(だ)した。某(ぼう)は夫(それ)は結構(けつかう)です何誰(どなた)ですかと尋(たづ)ぬれば監督(かんとく)は側(そば)に坐(ざ)した妹(いもをと)を指(ゆびさ)して、此方(このかた)ですと云(い)つて哄笑(こせふ)せられた。

十八、雀を養ふ  

 昔(むかし)、聖(せい)フランシスが、歡喜(くわんき)に充(み)ちて道(みち)を進(すゝ)む時(とき)、行手(ゆくて)に鳥(とり)の群(むれ)が居(ゐ)たので、道(みち)を轉(てん)じて之(こ)れを避(さ)けしに彼等(かれら)は飛(と)び去(さ)らざるのみならず、恰(あだか)も彼(かれ)を歡迎(くわんげい)するが如(ごと)く、彼(かれ)の周圍(しゆうゐ)に群(むら)がり來(き)たので、フランシスは彼等(かれら)に向(むか)つて、兄弟(けうだい)鳥(どり)よと呼(よ)び、人(ひと)に言(い)ふごとく神(かみ)の惠(めぐみ)と愛護(あいご)を語(かた)りたるに、鳥(とり)は其(そ)の頸(くび)を昂(あ)げ其(その)翼(つばさ)を擴(ひろ)げ、其(その)嘴(くちばし)を開(ひら)き、恰(あだか)も彼(かれ)に謝(しや)するが如(ごと)く彼(かれ)を見詰(みつ)めしが、手(て)を擧(あ)げて祝福(しゆくふく)を與(あた)ふるに至(いた)つて飛(と)び去(さ)れりと云(い)ひ、又(ま)た駒鳥(こまどり)の一眷族(けんぞく)は賓客(ひんかく)の如(ごと)く遇(ぐう)せられ、 雛鳥(ひなどり)は食卓(しよくたく)を往來(わうらい)して卓上(たくじやう)の食物(しよくもつ)を啄(つひば)みたりと云(い)ひ、一小兎(こうさぎ)を捕(とら)へてフランシスに携(たづさ)へ來(きた)るものあるや、彼(かれ)は來(きた)れ兄弟(けうだい)小兎(こうさぎ)と呼(よ)び、さも愛(いと)しげに之(これ)を撫(な)で、軈(やが)て地上(ちじやう)に置(お)きて去(さ)らしめんとすれば、兎(うさぎ)は幾度(いくたび)も彼(かれ)に歸(かへ)り來(きた)りたれば、遂(つひ)に自(みづか)ら之(これ)を近隣(きんりん)の森(もり)に携(たづさ)へ行(ゆ)きて放(はな)ち遣(や)れりと云(い)ふ。 是等(これら)の事(こと)は甚(はなは)だ奇(き)なる如(ごと)くであるが、亦(また)必(かなら)ずしも其事(そのこと)無(な)しと言(い)ふべからず。其(その)愛(あい)禽獸(きんじゆう)に及(およ)べる者(もの)は、亦(また)禽獸(きんじゆう)に愛慕(いぼ)せらるゝは寧(むし)ろ當然(たうぜん)なりと謂(い)ふべきである。動物(どうぶつ)に對(たい)する同情(どうじやう)甚(はなは)だ深(ふか)かつた監督(かんとく)に就(つい)ても、之(これ)に酷似(に)たる事實(じじつ)があつた。京都(きやうと)烏丸(からすまる)に住(ぢゆう)した頃(ころ)、毎朝(まいあさ)澤山(たくさん)の雀(すゞめ)が師(し)の書齋(しよさい)の窓(まど)ガラスを打(う)つて鳴(な)きさゞめき、監督(かんとく)を呼(よ)ぶ合圖(あひづ)をした。窓(まど)が明(あか)つてをると雀(すゞめ)は、臆(おく)せず室内(しつない)に入(い)り、遠慮(えんりよ)なく卓上(たくじやう)を往來(わうらい)した。後(のち)には監督(かんとく)の掌上(しようじやう)のものを爭(あらそ)ひ啄(つひば)むやうになつた。 是(これ)は監督(かんとく)が平素(へいそ)毎朝(まいあさ)、パン屑(くづ)や飯(めし)の殘物(ざんぶつ)を雀(すゞめ)に與(あた)へ、彼等(かれら)を深(ふか)く愛(あい)し彼等(かれら)を養(やしな)ふを樂(たのしみ)とせられたからであつた。監督(かんとく)が歸國(きこく)された翌日(よくじつ)の朝(あさ)、雀(すゞめ)が餘(あま)り騷々(さうざう)しいので何事(なにごと)ならんとコツクが行(い)つて見(み)れば、多(おほ)くの雀(すゞめ)が窓(まど)ガラスを目(め)がけて、飛(と)びついては鳴(な)き鳴(な)いては飛(と)びついてをつたそうである。聖(せい)フランシスの美(うるは)しき物語(ものがたり)も思(おも)ひ忍(しの)ばるゝ、寔(まこと)に詩趣(ししゆ)ある事實(じじつ)である。

十九、寫眞と肖像畫  

 監督(かんとく)は明治(めいぢ)二十年(ねん)日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)第(だい)一總會(そうくわい)の際(さい)、大勢(おほぜい)の人(ひと)と共(とも)に紀念(きねん)撮影(さつえい)せられた外(ほか)には、我國(わがくに)在留(ざいりう)の間(あひだ)一度(ど)もレンズの前(まへ)に立(た)たれた事(こと)はなかつた。自分(じぶん)を吹聽(ふいちやう)することが大嫌(だいきらひ)であつた監督(かんとく)は、何時(いつ)でも寫眞(しやしん)を撮(と)るやうな場合(ばあひ)になると、屹度(きつと)姿(すがた)を隱(かく)し撮影(さつえい)を避(さ)けられた。監督(かんとく)を敬慕(けいぼ)する人士(じんし)は、幾度(いくたび)か紀念(きねん)として寫眞(しやしん)を懇請(こんせい)したが、一向(かう)に聽許(きゝいれ)なかつた。或(あ)る時(とき)、京都(きやうと)で監督(かんとく)が某氏(ぼうし)と立談(たちばなし)して居(ゐ)る處(ところ)を、パットンといふ宣敎師(せんけうし)がコツソリ寫眞(うつ)したことが、後(あと)で露顯(ろけん)し、監督(かんとく)は大(おほい)に怒(いかり)り直(たゞち)に其(その)種板(たねいた)を破毀(はき)すべしと命(めい)じたさうである。
 監督(かんとく)の寫眞(しやしん)は到底(たうてい)得(う)る事(こと)ができぬので、洋畫(やうぐわ)の素養(そやう)ある某(ぼう)長老(ちやうらう)は、密(ひそ)かに監督(かんとく)の肖像畫(せうぞうぐわ)を試(こゝろ)みんと決(けつ)し、朝夕(てうせき)監督(かんとく)に面接(めんせつ)し、仔細(しさい)に容貌(ようぼう)を研究(けんきう)し、容美(ようび)の發現(はつげん)に苦心(くしん)し、多數(たすう)の日子(につし)ご精力(せいりよく)を傾盡(けいじん)して、一の肖像畫(せうぞうぐわ)を作製(さくせい)した。之(こ)れ即(すなは)ち氏(し)の今(いま)も祕藏(ひざう)せらるゝ油繪(あぶらゑ)にて、監督(かんとく)の面影(おもかげ)を傅(つた)ふる上(うへ)に於(おい)て、總會(そうくわい)紀念(きねん)撮影(さつえい)のものにまさるとの評(へう)あるものである。

 

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