第十四編 監督の記録と著述

第十四編 監督の記録と著述

一、日本及び日本語研究 

 監督(かんとく)は歸國(きこく)するに先(さきだ)ち、一日(じつ)自(みづか)ら記(しる)したる日誌(につし)記録類(きろくるゐ)を寸裂(すんれつ)し、僕(しもべ)に命(めい)じて悉(ことごと)く燒却(せうきやく)せしめた。當時(たうじ)師(し)の圖書(としよ)の整理(せいり)を命(めい)ぜられた一聖職(せいしよく)は、如何(いか)にも貴重(きちやう)なる師(し)の記録(きろく)を灰燼(くわいじん)するに忍(しの)びず、何(なん)とかして僅少(きんせう)なりとも殘留(ざんりう)せんと欲(ほつ)し、散亂(さんらん)したる反古中(ほごちゆう)より、古(ふる)びたる十册(さつ)餘(あま)りのノート、ブックを取(と)り上(あ)げ、師(し)の書籍(しよせき)と共(とも)に書棚(しよだな)に配列(はいれつ)し置(お)いたので、幸(さひはい)に現今(げんこん)師(し)の書籍(しよせき)と共(とも)に大切(たいせつ)に保存(ほぞん)されてある。此等(これら)の記録(きろく)を繙讀(はんどく)するに、斷片(だんぺん)ではあるが、中(なか)に日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)歴史編纂(れきしへんさん)のために、參考(さんかう)すべきものを發見(はつけん)するのみならず、師(し)の精勤(せいきん)、信仰(しんかう)、周到(しうたう)なる注意等(ちゆういとう)を知(し)らしめるもので、如何(いか)にも貴重(きちやう)なる遺書(ゐしよ)である。此處(こゝ)に師(し)の記録中(きろくちゆう)より或部分(あるぶぶん)を拔萃(ばつすゐ)して、讀者(どくしや)に紹介(せうかい)しよう
 現代(げんだい)に於(おい)ては、外國人(ぐわいこくじん)が日本語(にほんご)及(および)日本(にほん)の事情(じじやう)を研究(けんきう)するに、完全(くわんぜん)なる辭書(じしよ)もあれば、アストン、チャンバレン、グリフィス諸氏(しよし)の日本(にほん)に關(くわん)する良著書(りやうちよしよ)が多(おほ)くあるから、至極(しごく)便益(べんえき)にして其勞(そのらう)は少(すくな)いが、我(わ)が開國(かいこく)の初期(しよき)に於(おい)ては、斯(かゝ)る良書(りやうしよ)は一册(さつ)もなく、就(つい)て學(まな)ぶべき邦語(はうご)敎師(けうし)は容易(ようい)に得(え)られなかつた。フルベツキ氏(し)の著書(ちよしよ)によれば、神奈川(かながわ)に於(おい)ては蔓延(まんえん)元年(ぐわんねん)三月(ぐわつ)までは、一人(にん)の邦語(はうご)敎師(けうし)をも聘雇(へいこ)することができなかつた。偶(たまた)ま雇(やと)ひ得(う)れば、そは幕府(ばくふ)の牒者(てふじや)であつたといふ。かゝる事情(じゞやう)であつたから、當時(たうじ)外國人(ぐわいこくじん)が日本(にほん)を研究(けんきう)し、國語(こくご)を學習(がくしふ)する其(その)困難(こんなん)は到底(たうてい)今日(こんにち)名状(めいじやう)することはできぬ。されば監督(かんとく)が當時(たうじ)の苦心(くしん)慘憺(さんたん)其勞(そのらう)の多大(ただい)なりしことを察(さつ)すべきである。監督(かんとく)が其(その)困難(こんなん)の中(うち)に、日本語(にほんご)及(および)日本(にほん)を研究(けんきう)するために、精勵(せいれい)刻苦(こつく)された事(こと)は、左(さ)の事實(じじつ)に徴(ちよう)しても察知(さつち)しることができる。古(ふる)びたる一記録帳(きろくちよう)を繙(ひもど)き見(み)ると、紙表紙裏(かみへうしうら)の隅(すみ)に、見(み)覺(おぼえ)ある師(し)の筆跡(ひつせき)にて、日本(にほん)の假名(かな)を以(もつ)て左(さ)の如(ごと)く記載(きさい)されてある。

サマノスケノコスイワタリ
タイコウサマノセンナリビヨウタン
コトタレバタルニマカセテタラヌモノタラデコトタルミコソヤスケレ

 此(この)記録帳(きろくちやう)の始(はじめ)の部(ぶ)には、羅馬字(ろうまじ)にて孟子(もうし)の支那語(しなご)音讀(おんどく)を記載(きさい)しあることより考(かんが)ふれば、此(これ)は師(し)が支那(しな)在住(ざいぢゆう)の時(とき)より所持(しよぢ)されたるものらし、而(しか)して日本(にほん)の假名(かな)にてかゝる事實(じじつ)及(およ)び和歌(わか)を記(しる)し得(う)る迄(まで)には、一年(ねん)以上(いじやう)を要(えう)せば、多分(たぶん)文久(ぶんきう)二年頃(ねんころ)の筆跡(ひつせき)であらう。尚(な)ほ最(もつと)も古(ふる)くより所持(しよぢ)せられたりと思(おも)はるゝ一册(さつ)の記録(きろく)があるが、其(その)表紙(へうし)の裏(うら)には、

Edict against Christianity
   [#キリスト教禁教令]

キリスタン、シユウモンノ、ギハコレマデ、ゴキンセイノ、トヲリ、カタク、アイマモルベキコト。

とある。此(これ)は師(し)が自(みづか)ら心得(こゝろえ)のために、最(もつと)も見出(みいだ)し易(やす)き表紙(へうし)の裏面(りめん)に、記載(きさい)したのであらう。同(おな)じ表紙(へうし)の裏面(りめん)に、左(さ)の道歌(だうか)と俚言(りげん)を記(しる)された。

ツヽシメヨ、ホタルホドナル、ワツカノヒ、コヽロユルスナ、ハヤ、カネ(Bell)ノコヘ、ヲカメハチモク、

また記録中(きろくちゆう)にいろは歌(うた)の解釋(かいしやく)を載(の)せられた。

いろは歌(うた)の解釋(かいしやく)

色(いろ)は艷(にほ)へと、散(ち)りぬるを(諸行無常之義)
我世(わがよ)は誰(たれ)ぞ、常(つね)ならむ (是生滅法之義)
有爲(うゐ)の奧山(おくやま)、今日(けふ)越(こ)えて (生滅々已之義)
淺記(あさき)夢見(ゆめみ)し、醉(ゑひ)もせず (寂滅爲樂之義)
假字本末十一卷之上

色(いろ)ハ隆艷(にほへと)散去(ちりぬ)ルヲ、我世(わがよ)誰(たれ)ゾ有常(つねならむ)、有爲(うゐ)ノ奧山(おくやま)今(けふ)越(こえ)テ、淺(あさ)キ夢不見(ゆめみず)醉(ゑひ)モ不爲(せず)、
涅般槃經(ねはんはんぎやう)に四句(く)ノ頌語(しようご)アリ是(これ)ヲ梵語(ぼんご)モテ書(しよ)シ或(あるひ)ハ漢語(かんご)モテ書(しよ)シ日本語(にほんご)モテ書(しよ)シアリ今(いま)其(その)二ヲ記(しる)ス

同(どう)四句(く)頌(しよう)日本語(にほんご)

いろはにほへと、ちりぬるを、わかよたれそ、つねならむ、うゐのおくやま、けふこえて、あさきゆめみしゑひもせす、

以呂波發音訓傳

色(いろ)はと云(い)ふ句(く)より、常(つね)ならんと云(い)ふ迄(まで)は、衆生(しゆふじやう)の流轉(りゆうてん)と云(い)ふ、有爲(うゐ)の奧山(おくやま)と云(い)ふより醉(ゑひ)もせずに至(いた)る迄(まで)は、衆生(しゆうじやう)の還滅(くわんめつ)成佛(じやうぶつ)を云(い)ふ、然(さ)れば以呂波(いろは)注解(ちうかい)に云(いふ)京者(きやうは)涅槃(ねはん)常住(じやぢゆう)之(の)都(とに)向(むかふを)謂(いひ)、有爲(うゐの)奧山(おくやま)今日(けふ)越者(こえては)歸法(きはふ)之(の)都也(となり)淺(あさき)夢不見(ゆめみず)者(は)安住(あんぢゆう)法性(はふしやう)之(の)都也(となり)

 更(さら)に左(さ)の物語(ものがたり)は英文(えいぶん)にて記(しる)さる。
大和(やまとの)國(くに)吉野山(よしのやま)の奧(おく)に、大峰(おほみね)と稱(しよう)する山(やま)あり、役(えん)の行者(ぎやうじや)を祭(まつ)る、彼(かれ)は降世後(かうせいご)凡(およ)そ七百二十年頃(ねんころ)、死(し)したる人(ひと)にして、山伏宗(やまぶししう)の開山(かいざん)なり、彼(かれ)が偶像(ぐうぞう)は絶壁(ぜつぺき)の洞窟内(どうくつない)にありて、彼(かれ)自(みづか)ら安置(あんち)したるものなりと傳(つた)へらる、凡(およ)そ山伏(やまぶし)たらんと欲(ほつ)するものは、先(ま)づ其(その)像(ぞう)を拜(はい)せざるべからず、而(しか)して之(これ)を拜(はい)せんと欲(ほつ)せば、絶壁(ぜつぺき)に懸(かゝ)れる鐵(てつ)の鎖(くさり)に寄(よ)りて、 洞窟内(どうくつない)に降(くだ)らざるべからずと謂(い)ふ、時(とき)には絶壁(ぜつぺき)の頂上(ちやうじやう)に伏(ふ)し、頭(かしら)を突出(とつしゆつ)してのみ禮拜(れいはい)を献(さゝ)くるものあり、かゝる場合(ばあひ)には、其人(そのひと)に代(かは)りて他(た)の者(もの)を洞窟内(どうくつない)に降(くだ)らしめざるべからず、而(しか)して彼等(かれら)は常(つね)に山伏(やまぶし)なる先達(せんだつ)に導(みちび)かれざるべからざるなり、若(も)し夫(そ)れ普通(ふつう)の參詣者(さんけいしや)にして、山伏(やまぶし)ならざる時(とき)は、頂上(ちやうじやう)に伏(ふ)し先達(せんだつ)なる山伏(やまぶし)をして、其(その)足(あし)を持(も)たしめ、其(その)頭(かしら)を絶壁(ぜつぺき)に突出(とつしゆつ)し以(もつ)て洞窟内(どうくつない)を凝視(ぎよし)するのみ、 其時(そのとき)先達(せんだつ)は彼(かれ)に問(と)ふて曰(いは)く、汝(なんじ)將來(しやうらい)善(ぜん)を行(おこな)ふや、父母(ふぼ)に孝行(かうかう)なるや、汝(なんぢ)の心(こゝろ)を改(あらた)むるや、然(しか)らずんば絶壁(ぜつぺき)より汝(なんじ)を放棄(はうき)すべしと、爰(こゝ)に興味(きやうみ)深(ふか)き一例(れい)あり、先達(せんだつ)か以上(いじやう)の如(ごと)く問(と)ひたる時(とき)、或者(あるもの)は我(われ)は先達(せんだつ)の言(げん)に從(したが)ふてかゝる約束(やくそく)をなす能(あた)はずと答(こた)へたりしかば、 彼(かれ)は遂(つひ)に先達(せんだつ)のために放棄(はうき)せられたりき、今(いま)や彼(かれ)の身體(しんたい)は千丈(ぢやう)の深谿(しんこく)に達(たつ)して、將(まさ)に粉碎(ふんさい)せんとする時(とき)、俄然(がぜん)大天狗(だいてんぐ)顯現(あらは)れて彼(かれ)を攫(つか)み、彼(かれ)を安全(あんぜん)に頂上(ちやうじやう)に携(たづさ)へたりき、天狗(てんぐ)謂(い)へらく彼(かれ)が先達(せんだつ)の命(めい)に應(おう)ずることを拒(こば)みたるは、專心(せんしん)一意(い)以(もつ)て父母(ふぼ)にのみ孝順(かうじゆん)ならんことを、表(へう)する行爲(かうい)に外(ほか)ならざるなりと
 以上(いじやう)は唯(た)だ一例(れい)に過(す)ぎぬ。其他(そのた)俗神道(ぞくじんだう)、純神道(じゆんじんだう)、佛敎(ぶつけう)等(とう)に關(くわん)する記録(きろく)も多(おほ)くあるが、詳(くは)しく記述(きじゆつ)することはできぬ。要(えう)するに、以上(いじやう)の事實(じじつ)により、師(し)が日本語(にほんご)及(およ)び日本(にほん)を研究(けんきう)するために、如何(いか)に周到(しうたう)なる注意(ちゆうい)を拂(はら)はれたるか、如何(いか)に其(その)勞(らう)の多大(ただい)であったかを推知(すゐち)することができる。

二、飜譯 

 長崎(ながさき)在留(ざいりう)約(やく)七年間(ねんかん)は、殆(ほと)んど直接(ちよくせつ)傳道(でんだう)をなすの餘地(よち)がなかつたから、監督(かんとく)は專(もつぱ)ら日本語(にほんご)の研究(けんきう)と飜譯(ほんやく)事業(じげふ)に從事(じゆうじ)せられた。師(し)の書信(しよしん)によれば、文久(ぶんきう)元年(ぐわんねん)に飜譯(ほんやく)事業(じげふ)に着手(ちやくしゆ)し、主禱文(しゆたうぶん)、使徒信經(しとしんぎやう)、十誡(かい)、及(およ)び小兒(せうに)のための小册子(せうさつし)を和譯(わやく)し、續(つヾ)いて馬太(またい)福音書(ふくいんしよ)の數章(すうしやう)と祈禱書(きたうしよ)の一部分(ぶぶん)を飜譯(ほんやく)された。師(し)はまた其(その)頃(ころ)和英辭書(わえいじしよ)の編輯(へんしう)に着手(ちやくしゆ)せられしと見(み)へ、師(し)の記録(きろく)と共(とも)に其(その)原稿(げんかう)が殘存(ざんそん)してをるが、之(これ)は完成(くわんせい)せられなかつた。思(おも)ふに此(これ)は、支那(しな)日本監督(にほんかんとく)に任(にん)ぜられ、敎務(けうむ)が多端(たたん)になつた爲(ため)に放棄(はうき)せられたか、或(あるひ)はヘボン氏(し)がかゝる事業(じげふ)に着手(ちやくしゆ)せられたと聞(き)いて、中止(ちゆうし)せらるゝに至(いた)つたのであらう。明治(めいぢ)五年(ねん)には、祈禱書(きたうしよ)中(ちゆう)早晩禱(さうばんたう)、嘆願(たんぐわん)、特禱(とくたう)、洗禮式文(せんれいしきぶん)、信徒(しんと)按手式文(あんしゆしきぶん)等(とう)を飜譯(ほんやく)され、大阪(おほさか)に於(お)ける第(だい)一回(くわい)の洗禮式(せんれいしき)執行(しつかう)の時(とき)は、和譯(わやく)洗禮式文(せんれいしきぶん)が使用(しよう)せられた。又(また)其頃(そのころ)聖歌(せいか)Rock of Ages「よゝいわわれて」を譯(やく)し、續(つゞ)いて「われをばたのまじ」、「なみかせのあらき」、「われのかみに」、「十字架(じか)にかゝりし」等(とう)を譯(やく)された。
 明治(めいぢ)十一年(ねん)英米(えいべい)聖公會(せいこうくわい)宣敎師(せんけうし)及(およ)び香港(ホンコン)のバーデン監督(かんとく)と、ウイリアムス監督(かんとく)とは東京(とうきやう)に會(くわい)し、既(すで)に監督(かんとく)が飜譯(ほんやく)された早禱(さうたう)、晩禱(ばんたう)、嘆願(たんぐわん)の日本語(にほんご)祈禱文(きたうぶん)を採用(さいよう)することを承認(しようにん)し、且(か)つ聖餐式(せいさんしき)、先禮式(せんれいしき)、堅信禮式(けんしんれいしき)、公會問答(こうくわいもんだふ)を飜譯(ほんやく)し出版(しゆつぱん)する爲(た)め委員(ゐゐん)を選定(せんてい)した。明治(めいぢ)十五年(ねん)には、監督(かんとく)は祈禱書(きたうしよ)の大部分(だいぶぶん)と、他(た)の飜譯(ほんやく)委員(ゐゐん)と協力(けふりよく)し、詩篇(しへん)の大部分(だいぶぶん)を飜譯(ほんやく)された。明治(めいぢ)十六年(ねん)米(べい)ミツションに屬(ぞく)する第(だい)一の邦人聖職(ほうじんせいしよく)按手式(あんしゆしき)には、監督(かんとく)の譯(やく)された會吏(くわいり)聖別式文(せいべつしきぶん)が用(もち)ひられた。
 師(し)の記録中(きろくちゆう)に、主禱文(しゆたうぶん)、使徒信經(しとしんぎやう)、使徒信經(しとしんぎやう)問答(もんだふ)、壯年先禮式(さうねんせんれいしき)等(とう)の邦語譯(はうごやく)が記載(きさい)されてあるが、之等(これら)のものを見(み)るに、其文體(そのぶんたい)古風(こふう)にして術語(じゆつご)未(いま)だ定(さだま)らず、飜譯術(ほんやくじゆつ)も幼稚(えうち)なると、長崎(ながさき)時代(じだい)の記録(きろく)と共(とも)に記載(きさい)しあるより考(かんが)ふるに、其時代(そのじだい)の作(さく)なるは疑(うたが)ふべからざるものであるが、師(し)が良好(りやうかう)なる飜譯(ほんやく)を得(え)んと、一方(ひとかた)ならぬ苦心(くしん)した事(こと)は、左(さ)に記載(きさい)する如(ごと)く、主禱文(しゆたうぶん)の種々(しゆじゆ)なる邦語譯(はうごやく)あることを以(もつ)て知(し)らるゝのである。 實(じつ)に唯(た)だ邦語敎師(はうごけうし)を相手(あひて)として、かゝる難事業(なんじげふ)を執(と)られたる其(その)困難(こんなん)、想像(さうぞう)するに餘(あまり)あることである。以下(いか)原文(げんぶん)のまゝに記載(きさい)すれば、 テンニ、マシマス(イマス)、ワガチヽヨ、アナタノオンナハ、セイ(聖)トナシタマヘ(ナサリマセ)、アナタノクニハ、オイデナサレマセ、アナタノゴシユイハ、テンノヤウニ(ゴトク)、チニモオコナハレヨ、ワレラ(ワタクシドモ)ガモチユルダケノ、シヨクモツヲ、コンニチ、ワレラ(ワタクシドモ)ニ、アタヘタマヘ(クダサリマセ)、ワレラ(ワタクシドモ)ニ、ツミオフヒトヲ、ワレラ(ワタクシドモ)カユルスヤウニ、ワレラガ(ワタクシドモガ)オウツミモ、ワレラ(ワタクシドモ)ニユルシタマヘ(オユルシクダサリマセ)、ワレラ(ワタクシドモ)ヲコヽロミノウチニ、イザナヒタマフナ(ヲミチビチナサリマスナ)、モツトモ、ワレラヲ(ワタクシドモヲ)、アクヨリスクヒタマヘ(オスクヒナサリマセ)、クニヤ、イキホヒヤ、エイクワナド、ミナヨゝ、アナタニツイテオルニヨツテ。
 天(てん)ノ吾父(わがちゝ)アナタノ名(な)、聖(せい)トナリタマヘ、アナタノクニ、來(きた)リ給(たま)ヘ、アナタノ旨意(しい)、天(てん)ニ行(おこなは)ルヽガ如(ごと)ク、地(ち)ニモ行(おこなは)レヨ、我等(われら)ガ用(もち)ユルダケノ糧(かて)ヲ、今日(こんにち)我等(われら)ニ與(あた)ヘ玉(たま)ヘ、我等(われら)ニ罪(つみ)ヲ負(お)フ人(ひと)ヲ、我等(われら)ガ免(ゆる)ス如(ごと)ク、我等(われら)ガ負(おふ)罪(つみ)ヲモ免(ゆる)シ玉(たま)へ、我等(われら)ヲ惑(まどひ)ノ内(うち)ニ誘(みちび)キ玉(たま)フナ、乃(すなはち)我等(われら)ヲ惡(あく)ヨリ拯(すく)ヒ玉(たま)へ、國(くに)モ勢(いきほひ)モ、榮光(えいくわう)モ、アナタノモノデヤルニヨツテナリ。
 天(てん)に在(ましま)す我(わが)父(ちゝ)、君(きみ)の御名(おんな)は聖(せい)となし給(たま)へ、君(きみ)の國(くに)は來(きた)り給(たま)へ、君(きみ)の意(い)天(てん)と同(おな)じく地(ち)にも行(おこな)はれよかし、我等(われら)が用(もち)ゆる所(ところ)の糧(かて)を今日(こんにち)我等(われら)に授(さづ)け給(たま)へ、我等(われら)に罪負(つみお)ふ人(ひと)を、我等(われら)が赦(ゆる)す如(ごと)く、我等(われら)が負(お)ふ罪(つみ)をも赦(ゆる)し給(たま)へ、我等(われら)を試(こゝろみ)の内(うち)に導(みちび)き玉(たま)ふべからず、然(しか)りと雖(いえども)我等(われら)を惡事(あくじ)より救(すく)ひ玉(たま)へ
 國(くに)、勢(いきほひ)ひ、榮光(えいくわう)、皆(みな)代々(だいだい)、世々(よゝ)君(きみ)に屬(ぞく)するに因(よつ)てなり。
 以上(いじやう)は師(し)の記録中(きろくちゆう)に記載(きさい)されたるものであるが、序(ついで)なれば尚(な)ほ師(し)の手(て)に成(な)れる他(た)の譯文(やくぶん)を掲載(けいさい)すれば、
 天(てん)にましますわれらの父(ちゝ)よ、ねがはくはみ名(な)をあがめさせたまへ、み國(くに)をちがづかせたまへ、みこころを天(てん)になすごとく、地(ち)にもなさしめ給(たま)へ、われらの日々(ひゞ)の糧(かて)を今日(こんにち)もさづけたまへ、われらが人(ひと)のつみをゆるすごとく、われらのつみをもゆるしたまへ、われらをこゝろみらるゝことに、みちびきたまはず、なほすくひてあくよりいだしたまへ、國(くに)と權(ちから)と威光(ゐくわう)はあなたのかぎりなくもちたまふものなればなり亞孟(あゝめん)。
 此(この)譯文(やくぶん)は何年頃(なんねんごろ)の飜譯(ほんやく)なるや、明了(めいれう)ならざれど、未(いま)だ活版術(くわんぱんじゆつ)の行(おこな)はれざりし頃(ころ)のものなるが爲(た)めにや、木版(もくはん)にて印刷(いんさつ)された。また明治(めいぢ)十年(ねん)一月(ぐわつ)、東京(とうきやう)深(ふか)川(ふかゞは)西元町(にしもとまち)三一敎會(けうくわい)(現今(げんこん)の眞光敎會(しんくわうけうくわい)、淺草(あさくさ)東仲町(とうなかちやう)講義所(かうぎしよ)の爲(ため)に、活版(くわつぱん)にて印刷(いんさつ)せられたる左記(さき)の譯文(やくぶん)があつた。

主禱文(しゆたうぶん)

天(てん)にましますわれらの父(ちち)よ、主(しゆ)の聖名(みな)を聖(せい)となさしめ給(たま)へ、主(しゆ)の御國(みくに)をきたらせ玉(たま)へ、主(しゆ)の聖旨(みこゝろ)天(てん)にをこなわるゝごとく、地(ち)にもをこなわせ玉(たま)へ、われらが日用(にちえう)の糧(かて)を今日(こんにち)もあたへ玉(たま)へ、己(おのれ)に罪(つみ)なす人(ひと)をわれら赦(ゆる)す如(ごと)く、われらの罪(つみ)をもゆるし玉(たま)へ、われらを試(こゝろ)みらるゝことに導(みちび)き玉(たま)ふなく、却(かへつ)て惡(あく)よりすくひ玉(たま)へ、國(くに)も權威(いきほひ)も榮光(かゞやき)も世々(よゝ)に主(しゆ)の物(もの)なればなり、
あゝめん。

 以上(いじやう)は唯(た)だ主禱文(しゆたうぶん)を以(もつ)て、監督(かんとく)の飜譯(ほんやく)の一例(れい)を示(しめ)したのであるが、以(もつ)て師(し)が飜譯(ほんやく)事業(じげふ)に如何(いか)に苦心(くしん)せられたるかを、窺(うかゞ)ふことができる。
 左(さ)に記載(きさい)するものは、フツベツキ氏(し)より、監督(かんとく)に贈(おく)られたる書簡(しよかん)にして、師(し)の遺書中(ゐしよちゆう)より發見(はつけん)したるものである。フルベツキ氏(し)は、安政(あんせい)六年(ねん)十一月(ぐわつ)長崎(ながさき)に來着(らいちやく)し、明治(めいぢ)二年(ねん)まで同地(どうち)に滯留(たいりう)したれば、リギンス氏(し)が歸國(きこく)の後(のち)は、長崎(ながさき)在留(ざいりう)數年間(すうねんかん)、監督(かんとく)の唯(ゆゐ)一の友(とも)は、フルベツキ氏(し)であつた。されば兩氏(りやうし)の間(あひだ)の友情(いうじやう)は實(じつ)に親密(しんみつ)であつた。フルベツキ師(し)は、亞米利加(あめりか)改革敎會(かいかくけうくわい)の宣敎師(せんけうし)なりしに係(かゝ)はらず、師(し)の子女等(しぢよら)は聖公會(せいこうくわい)に屬(ぞく)し、ミス、エマ、フルベツキ、ミスター、チャニング、エム、フルベツキの二人(にん)は、監督(かんとく)より信徒按手式(しんとあんしゆしき)を領(りやう)した。左(さ)の書簡(しよかん)は兩師(りやうし)の親密(しんみつ)なる友情(いうじやう)の一端(たん)を示(しめ)すと共(とも)に、現今(げんこん)吾人(ごじん)の使用(しよう)する舊約詩篇(きうやくしへん)は、兩師(りやうし)の協力(けふりやく)にて飜譯(ほんやく)せられたるものにて、之(これ)がために如何(いか)に兩師(りやうし)が苦心(くしん)せられたるかを窺(うかゞ)ふことを得(う)べく、若(も)し夫(そ)れ吾人(ごじん)にしてかゝる飜譯(ほんやく)の困難(こんなん)を察(さつ)し、以(もつ)て和譯(わやく)聖書(せいしよ)に對(たい)する時(とき)は、先輩(せんぱい)諸氏(しよし)の勞(らう)に對(たい)し、實(じつ)に感謝(かんしや)の念(ねん)禁(きん)じ難(がた)きを覺(おぼ)ゆるのである。

『我(わが)親愛(しんあい)する監督(かんとく)、
 小生(せうせい)が希伯來(へぶる)の原文(げんぶん)の如(ごと)く飜譯(ほんやく)したる詩(し)第(だい)三十九編(へん)を、御受領(ごじゆりやう)あらんことを請(こ)ふ。小生(せうせい)は或(あ)る諸點(しよてん)を除(のぞ)くの外(ほか)は、既(すで)に貴君(きくん)の飜譯(ほんやく)せられたるものに、一致(ち)せしめんことを力(つと)め申候(まをしそろ)。固(もと)より貴君(きくん)が汝(傍線==)の語(ご)に代(か)ゆるに主(しゆ)、をもて(3文字に二重傍線======)の語(ご)に代(か)ゆるににて(2文字に二重傍線====)、しめ(2文字に二重傍線====)に代(か)ゆるにさせ(2文字に二重傍線====)を使用(しよう)せられたることを了解(れうかい)致申候(いたしまをしそろ)。然(しか)れども多分(たぶん)貴君(きくん)の望(のぞ)ませらるゝ如(ごと)き、尚(な)ほ變更(へんかう)致(いた)され申候(まをしそろ)時(とき)には、何卒(なにとぞ)後(のち)に御通知(ごつうち)被下度(くだされたく)奉願候(ねがひたてまつりそろ)。
 末節(まつせつ)に關(くわん)し小生(せうせい)が典據(てんきよ)とすべきものは、悉(ことごと)く"Look away from me"と譯(やく)するを至當(したう)の如(ごと)く解(かい)せしめ申候(まをしそろ)。然(しか)らば「我(われ)を不問(みすぐし)にし給(たま)へ」(使(し)十七○三十)と、謂(い)ふ語(ご)よりも近(ちか)き意義(いぎ)ある語(ご)を發見(はつけん)し、若(もし)くは考(かんが)ふることさへ出來不申候(できまをさずそろ)。我(われ)を不問(みすぐし)し給(たま)へば、我(われ)を不問(みすぐし)にし給(たま)へと異(こと)なり、且(かつ)かくしては適合(てきがふ)せぬ樣(やう)相考(あひかんが)へ申候(まをしそろ)。此節(このせつ)の眞(しん)の意義(いぎ)に關(くわん)し、小生(せうせい)は路(ろ)十三○八を回想(くわいさう)致(いたし)申候(まをしそろ)、"Lord let it alone(貴君(きくん)の用語(ようご))This year also"かく埋葬式文(まいさうしきぶん)にも使用(しよう)有之候(これありそろ)。不問(みすぐし)といふ語(ご)は小生(せうせい)には美(うる)はしく被感(かんぜられ)申候(まをしそろ)。怒(いかり)(をこりて)、若(もし)くは怒(いか)りて、若(もし)くは睨(にら)み等(とう)の語(ご)を、「むかひ給(たま)ふ勿(なか)れ」の前(まへ)に插入(さうにふ)せば、宣(よろ)しからんと奉在候(ぞんじたてまつりそろ)。千八百八十一年(ねん)十月(ぐわつ)三十一日(にち)
信實(しんじつ)なる友(とも)
     シ、エフ、フルベツキ』

三、著述 

 監督(かんとく)の遺書(ゐしよ)數(すう)百卷(くわん)は、現今(げんこん)は類別(るゐべつ)整理(せいり)されて、京都(きやうと)地方部(ちはうぶ)監督(かんとく)事務所(じむしよ)内(ない)の圖書室(としよしつ)に保存(ほぞん)されてあるが、何(いづ)れも時代(じだい)の大著述(だいちよじゆつ)にして珍重(ちんちやう)の書(しよ)に非(あらざ)るはない。
師(し)が修養(しうやう)深(ふか)く薀蓄(うんちく)の學者(がくしや)なりしことか推知(すゐち)さるゝのである。師(し)は殊(こと)に古典(こてん)に精通(せいつう)したさうである。監督(かんとく)は讀書家(どくしよか)であつた。旅行中(りよかうちゆう)も巡回(じゆんくわい)に出(で)られた時(とき)も、餘暇(よか)さへあれば讀書(どくしよ)を樂(たのし)まれた。監督(かんとく)が單身(たんしん)孤獨(こどく)の生活(せいくわつ)を送(おく)らるゝので、定(さだ)めて寂寥(せきれう)であらうと、時々(ときどき)來訪者(らいはうしや)は、監督(かんとく)さんお獨(ひと)りで寂(さび)しう御座(ござ)りませうと尋(たづ)ぬると、監督(かんとく)は、イヽエ私(わたし)ちつとも寂(さび)しくありません、多(おほ)くの友人(いうじん)があります。其(その)友人(いうじん)は私(わたし)より信仰(しんかう)の篤(あつ)い德(とく)の高(たか)い人々(ひとびと)ですといふ。其(その)友人(いうじん)は何處(どこ)に居(ゐ)ますかと問(と)へば、監督(かんとく)は微笑(ほゝゑみ)ながら書棚(しよだな)の書籍(しよせき)を指(ゆび)さし、彼(あれ)はジヨン、クリソストム、此(これ)はアウガスチン、彼方(あちら)はフランシス、此方(こちら)はバジルですと、答(こた)へらるゝが常(つね)であつた。
 監督(かんとく)は薀蓄(うんちく)の學者(がくしや)であつたが、其(その)學識(がくしき)思想(しさう)を文筆(ぶんぴつ)を以(もつ)て發表(はつぺう)し、社會(しやくわい)人心(じんしん)を指導(しだう)するやうな質(たち)の人(ひと)ではなかつた。それ故(ゆゑ)に監督(かんとく)にはこれぞといふ著述(ちよじゆつ)はなかつた。僅(わづか)に監督(かんとく)の著述(ちよじゆつ)として傳(つたは)つて居(い)るものは、何(いづ)れも傳道上(でんだうじやう)の必要(ひつえう)に迫(せま)り、已(や)む能(あた)はずして筆(ふで)を執(と)られたものであつた。それも自己(じこ)の名(な)が社會(しやくわい)に知(し)らるゝを欲(ほつ)しなかつたから、一として監督(かんとく)の署名(しよめい)がない。卷頭(くわんとう)の序文(じよぶん)には著者(ちよしや)識(しる)すと書(かい)てあるが、其(その)著者(ちよしや)の名(な)は何處(いづこ)にも記(しる)してない。監督(かんとく)の著述(ちやじゆつ)せられたるものは左(さ)の書(しよ)である。
 「聖餐(せいさん)の友(とも)」、「聖書(せいしよ)の讀法(どくはふ)」明治(めいぢ)廿五六年(ねん)に出版(しゆつぱん)されたもので、前者(ぜんしや)は聖餐式(せいさんしき)に倍(あづ)かる者(もの)の靈的(れいてき)準備(じゆんび)を説(と)かれ、後者(こうしや)は聖書(せいしよ)を讀(よ)む者(もの)の心得(こゝろえ)を説(と)きたるものである。何(いづ)れも反覆(はんぷく)熟讀(じゆくどく)すべき敬虔(けいけん)なる書(しよ)にして、師(し)の篤信(とくしん)高德(かうとく)を偲(しの)ばしめ、其(その)警咳(けいがい)に接(せつ)する思(おもひ)あらしむ。此(この)兩書(りやうしよ)は現今(げんこん)は、殆(ほとん)ど絶版(ぜつぱん)のやうであるが遺憾(ゐかん)の事(こと)である。
 「使徒信經(しとしんぎやう)問答(もんだふ)」、「十誡問答(かいもんだふ)」、「主禱(しゆたう)問答(もんだふ)」、「洗禮問答(せんれいもんだう)」、「堅信禮(けんしんれい)問答(もんだふ)」、何(いづ)れも洗禮(せんれい)堅信禮(けんしんれい)志願者(しぐわんしや)の準備(じゆんび)に用(もち)ひるために、問答體(もんだふてい)にて説明(せつめい)せしものである。之(こ)れ等(ら)の最初(さいしよ)の出版(しゆつぱん)は、何年頃(なんねんごろ)なるか明(あきらか)ならざれど、既(すで)に文久(ぶんきう)年間(ねんかん)に、主禱文(しゆたうぶん)、使徒信經(しとしんぎやう)等(とう)の飜譯(ほんやく)に着手(ちやくしゆ)せられ、明治(めいぢ)六年(ねん)には祈禱書(きたうしよ)中(ちゆう)の必要(ひつえう)なる部分(ぶぶん)は飜譯(ほんやく)されたれば、餘程(よほど)早(はや)くから手書(しゆしよ)と成(な)つて、志願者(しぐわんしや)の準備(じゆんび)に用(もち)ひられ、其後(そのご)木版(もくはん)にて出版(しゆつぱん)されたものが、幾度(いくたび)か訂正(ていせい)されて現形(げんけい)と成(な)つて出版(しゆつぱん)されたのである。
 「敎會(けうくわい)歴史問答(れきしもんだふ)」上中下(じやうちうげ)續(つゞ)き六册(さつ)より成(な)り、初代(しよだい)並(ならび)に中世敎會(ちゆうせいけうくわい)から、英國(えいこく)聖公會(せいこうくわい)、米國(べいこく)聖公會(せいこうくわい)それより日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)初期(しよき)に至(いた)るまでの歴史(れきし)を問答體(もんだふてい)に記(しる)したるもので、師(し)が晩年(ばんねん)の著述(ちよじゆつ)にして、明治(めいぢ)四十年(ねん)十二月(ぐわつ)に出版(しゆつぱん)された。

 

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