日本聖公会 東京教区

聖マーガレット教会

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2019年5月19日(日)

復活節第5主日

み言葉と勧話

ヨハネによる福音書13章31-35

聖マーガレット教会の
「み言葉の礼拝」

毎月第3日曜日午前7時半
/司祭不在の日曜日礼拝

み言葉の礼拝紹介
最近の「み言葉の礼拝」
2017年
8/20 聖霊降臨後第11主日
2018年
8/12 聖霊降臨後第12主日
8/26 聖霊降臨後第14主日
12/16 降臨節第3主日
2019年
1/20 顕現後第2主日
2/17 顕現後第6主日
3/17 大斎節第2主日
5/19 復活節第5主日
6/9 聖霊降臨日
6/16 三位一体主日
7/21 聖霊降臨後第6主日
8/4 聖霊降臨後第8主日
8/18 聖霊降臨後第10主日
9/15 聖霊降臨後第14主日
11/17 聖霊降臨後第23主日
12/15 降臨節第3主日

 

(あたら)しい(おきて)
31さて、ユダが()()くと、イエスは()われた。「(いま)や、(ひと)()栄光(えいこう)()けた。 (かみ)(ひと)()によって栄光(えいこう)をお()けになった。 32(かみ)(ひと)()によって栄光(えいこう)をお()けになったのであれば、(かみ)御自身(ごじしん)によって(ひと)()栄光(えいこう)をお(あた)えになる。しかも、すぐにお(あた)えになる。 33()たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと(とも)にいる。あなたがたはわたしを(さが)すだろう。『わたしが()(ところ)にあなたたちは()ることができない』とユダヤ人たちに()ったように、(いま)、あなたがたにも(おな)じことを()っておく。 34あなたがたに(あたら)しい(おきて)(あた)える。 (たが)いに(あい)()いなさい。わたしがあなたがたを(あい)したように、あなたがたも(たが)いに(あい)()いなさい。 35(たが)いに(あい)()うならば、それによってあなたがたがわたしの()()であることを、(みな)()るようになる。」

日本聖書協会 新共同訳聖書

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勧話

ただいまお読みいただきました本日の福音書には「新しい掟」という見出しが付けられています。復活節も第5主日となりましたが、今回の福音書は復活後のお話ではなく、「最後の晩餐」の席上での話であり、ヨハネによる福音書の17章まで続く「告別説教」と呼ばれる、イエス様による弟子たちへの最後の説教の冒頭部分ということになります。

冒頭の31節に「 さて、ユダが出て行くと…」とあるのは、イエス様が弟子たちの足を洗われた後、最後の晩餐の席上で、イスカリオテのユダによる裏切りを予告され「しようとすることを、今、すぐにしなさい(13:27)」と仰られた直後です。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった。」と今回の福音書の直前に書かれています。ここで、ユダが出て行くとイエス様は「今や、人の子は栄光を受けた。」と仰られていますが、この言葉はどのような意味なのでしょうか。「人の子」とはイエス様のことですが、問題はその続きにある「栄光を受けた」の部分です。救い主であるイエス様の「栄光」とは十字架のご受難の後にご復活されることを指していると理解していますが、イエス様が十字架にかかられるのは、この話をしている次の日の出来事です。にもかかわらず、イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた。」と仰られているのです。このイエス様の言葉を、この時点では弟子たちは理解できなかったことでしょう。現在を生きる私たちは、この後に起きる十字架のご受難とご復活の次第を知っていますから、このユダの裏切りからイエス様の栄光が始まったのだと理解できますが、弟子たちはそうではなかったでしょう。これが本日の福音書の前提となる背景です。

さて、今回の福音書は先ほども申し上げましたように、イエス様による弟子たちへの「告別説教」の始まりの部分です。この説教の冒頭にイエス様は「新しい掟」を弟子たちにお与えになりました。「新しい掟」があるなら「古い掟」もあるということです。ご存知のように「古い掟」とは、旧約聖書のモーセ5書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記にある「律法」を中心とするものです。そして、今回の福音書に記されている、イエス様によって与えられた新しい掟は、旧約聖書のレビ記19章18節に記されている「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という掟と呼応したものです。

イースターに撮影した聖堂前の花水木の写真、バックに白い聖堂と十字架が見える
イースターに撮影した花水木と聖堂の十字架

両方を比べる時、古い方では「自分自身を愛するように」となっているところが、「新しい」方では「わたしがあなたがたを愛したように」となっています。つまり、「自分」という「人間の方法」を基準としたものから、「救い主イエス・キリストという「神の方法」に基づくものへと変化しているのです。この「告別説教」をされている時点では、まだキリスト教は始まっていませんから、イエス様をはじめ弟子たちはユダヤ教の教えを守って生きていました。そして、イエス様はたびたび律法学者と意見を戦わせてきましたが、「律法」についてマタイによる福音書の5:17~18で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」と仰っているように、とても大切にされていました。ですから、「新しい掟」というのはこれまでの律法(掟)に加えて、「新たに掟」をお与えになったということです。

この新しい掟の核心は「わたしがあなたがたを愛したように」という部分です。とてもシンプルな言葉で語られていますが、なかなかに奥行きの深い言葉です。わたしたちが互いに愛し合うのは、イエス様(神様)がわたしたちを愛してくださったように愛し合わなければならないのです。

ここで、イエス様が誰を愛されたのか、どのように愛されたのかを振り返ってみたいと思います。誰を愛されたのか、といえば「すべての人を愛された」ということでしょう。分け隔てなく誰にでも向けられ愛です。ご自分に従われる弟子たちだけを愛されたのではありませんでした。ローマの兵や律法学者、犯罪者、祭司、取税人など、また、病気の人、貧しい人、抑圧され差別された人、社会の底辺に追いやられた人にイエス様は愛を向けられたのです。また、どのように愛されたのかといえば「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」のです。イエス様は文字通り、その命を差し出してまで、私たちを愛してくださったのです。

自己本位に生きている私たちが、全く見返りを求めずに愛に生きることなどありえないと思ってしまいますが、イエス様はそうではありませんでした。全く見返りを求めない愛のうちに生きられたのです。イエス様はご自分には何の罪もないのに、私たちの罪を贖うために十字架にかかられ、その命を差し出され、栄光ある復活をなさったのです。その愛ゆえに、その犠牲ゆえに、私たちは救われたのです。またそれを信じるならば、誰でも救われるのです。私たちは誰もが罪人です。誰でも「悪に心を惹かれ」「真実から遠く離れ」「道を逸れて」しまうものです。そのままの人生で良いわけはありません。しかし、私たちが求め、願うならば、主が赦してくださり、救ってくださるのです。誰も自分の力で正しさに立ち返ることはできないのです。

たとえば、一番弟子を自認していたペトロはイエス様に「あなたのためなら命を捨てます。」と誓っていました。しかし、イエス様がいわれなき罪で逮捕された途端、逃げ出してしまいました。「お前もあのイエスという男の仲間だろ?」とバレそうになった時には、「あの男とは何の関係もない。」と嘘をつきました。

そう、ペトロはイエス様を裏切ったのです。そうやってイエス様はみんなに裏切られ見捨てられて、十字架に架けられて殺されたのです。ところが、イエス様は、そんなペトロたちに対して「わたしはあなたがたを愛する」と仰るのです。

自分の失敗や裏切り、自分の罪を知っているからこそ、ペトロたちは驚いたに違いありません。そして誰かを見捨てようとする思いが頭をよぎるたびに、あるいは誰かに裏切られたそのたびに、「わたしがあなたがたを愛したように」というイエス様の声を思い出したことでしょう。このように、繰り返し繰り返しイエス様の愛に立ち返ることで思い直し、力をもらい、自分たちだけでは到底無理だった「互いに愛し合う」ことの実践を積み重ねていったのだと思うのです。

今、同じイエス様の愛が私たちにも注がれていると、私は信じています。イエス様を信じて、イエス様の愛から力を頂くことで、「たとえ私たちの間に立場や主義主張の違いがあってもなお、互いに愛し合う関係を結ぶことができるようになるのだ!」と信じたいと思います。

ところで、本日の福音書の少し後、15章13節には「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあります。私たちは、自分の命を捨てて愛を示すように、招かれているのです。しかし、私たちはそのように生きることはできません。私たちが自己本位に生きているからです。さっさと諦めを決め込んで「イエス様の仰ることは正しいだろうけど、そんな生き方はできっこない」と開き直るのでしょうか。そうであってはならないのだと思うのです。 イエス様が私たちに与えられた「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という新しい掟は、素敵な人、立派な人として生きるための方便でも、勧めの言葉でもありません。あくまでも掟です。つまり、私たちはこの掟に従って生きるように命令されているのです。それは、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」ためだとイエス様は語られます。

私たちが主の弟子であることを皆が知るとはどういうことでしょう。以前に塚田司祭が「新しいクリスチャンは、古いクリスチャン、すでにクリスチャンとなった人との出会いを通して生まれます。新しいクリスチャンを生むために必要なのは、人々がクリスチャンと出会う「場」であり、その出会いを通してキリストに出会うまでの「時間」ではないか。」と話してくださったことが思い出されます。私たちが互いに愛し合うことが、新しいクリスチャンを生み出す力となるのです。

私たちはイエス様のような真実の愛に生きることは難しいですが、そのように教えられたイエス様の言葉に対して従順な姿勢をとるように、努力することはできるのではないでしょうか。自分自身の心の奥底にあるエゴは捨てきれなくても、「イエス様の言葉に従わなくては…」「イエス様ならどうするだろう…」という思いを動機にして行動することはできるのだと思います。完全な愛に到達することはできなくても、そこに至ろうとする心を、自らの中心に据えて生きることが大切なのです。不完全でもよいから、その愛にとどまり、ひたすらに祈り、行動したいものです。

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」というイエス様によって与えられた「新しい掟」を改めて心に刻みたいと思います。イエス様のように、その命をもって愛を示し、人を救うことは私たちにはできないのかもしれません。だからといって何もしないのではなく、また、諦めたり投げ出したりすることもなく「イエス様ならどうされただろう…」と考えながら、互いを大切に思いやりながら生きていきたいものです。

私たちが主に与えられた愛を思い起こして感謝し、主が命じられたように愛のうちに生きる者となることができますように。アーメン

パウロ 福永 澄

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