Patrick News20161218

聖パトリック教会1957年伝道開始
2016年12月18日発行 第287号


力ではなく信仰を

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

 山からイエス様とペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人が戻ってきたとき、残っていた弟子たちは、大勢の群衆に囲まれながら律法学者と議論していました。彼らにイエス様は「何を議論しているのか」と尋ねます(9:16)。

この弟子たちは、山に登った三人と同じ体験をしていません。三人の山での体験は特別であり、イエス様の秘密を知った素晴らしい事柄であったと考えると、残っていた弟子たちは、イエス様について大切なことを教えてもらえずに少し不公平のように思えます。しかし、山での弟子たちの体験は、ペトロの反応に代表される通り、決してイエス様に対して理解が深まる体験だったとは思えません。「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」(9:6)とある通り、イエス様について理解できなかった、誤解してしまった体験でした。そのような誤解がない分、山に登らなかった弟子たちのほうがまだよいかもしれません。そのような中で、これから物語は後半部分に入ります。あらすじを先に追ってしまうとするならば、これから弟子たちの失敗が続きます。山に登った弟子たちの失敗は、平たく言えば、弟子たちの本格的な失敗の始まりなのです。

山での出来事が失敗の物語だとすると、当然、山に登らなかった弟子たちはどうであろうかという期待が生まれます。しかし、最初からあまり期待できないことが明確です。イエス様の問いかけに答えたのは、弟子たちではなく、群衆の中の「ある者」であったからです。群衆はイエス様に気が付いたのですが、弟子たちは律法学者との議論に夢中で気が付かなかったからです。

群衆の中の名もないある一人が答えます。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」(9:17-18)。ほとんどが霊に取りつかれた子について説明ですが、最後はイエス様の弟子たちに対する苦情です。新共同訳では省略されていますが、原文では、「あなたの」「弟子たち」と明記されています。また、「できませんでした」とは、直訳すれば、「彼らは(霊を追い出す)力がありませんでした、強くありませんでした」となります。弟子たちは、子どもに取りついた霊を追い出すには力不足と見られたようです。そのことが原因かどうかわかりませんが、律法学者との議論にはイエス様に気が付かないほど熱心だったのです。悪霊に取りついた子を放って議論に集中する弟子たちの姿は、きっと群衆にとって、律法学者と同列に思えたかもしれません。

そのような中で、イエス様は答えます。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい」(9:19)。これはイエス様の嘆きの言葉ともいえます。イエス様は何について嘆いていえるのか、弟子たちの力不足、能力不足か、そうではありません。信仰のなさです。「信仰のない」という言葉は、「信仰のある、忠実な」という形容詞に否定語をつけて反対の意味にした言葉です。また「時代」は、「世代、その時代の人々」など時間的な意味でも存在的な意味でも訳すことができます。新共同訳は時間的な意味で「時代」と訳しています。この部分を直訳すれば、なんと「ああ、不信仰な時代よ」となります。もちろん、「不信仰な世代よ」あるいは「不信仰な今の世の人よ」とも訳せます。いずれにしてもイエス様は、力不足ではなく、信仰のなさを嘆いているのです。必要なのは、力ではなく、信仰なのです。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」に続く「あなたたち」は、誰を指しているか。これは弟子たちだけとは限らないと思います。おそらく群衆、律法学者たちにも向けていると思います。そして、間接的に、弟子たちの失敗は、力ではなく信仰の問題だ、そう読者に呼び掛けていると思います。

もうすぐ来週は主の降誕を祝うクリスマスがきます。私たちの教会でも総員礼拝をおこないます。クリスマスの物語の背景にあるのも、力ではなく、神様を信じる信仰から生まれる優しさです。それがなければ、イエス様の誕生はなかったかもしれない、クリスマスの物語はそう語っているとも思えます。その優しさから生まれたイエス様は、その生涯においてもそれを貫かれた方でした。教会やキリスト教の文化的枠組みを超えて、世界中でいろいろな状況でクリスマスをお祝いするのは、本当に素晴らしいことだと思います。決して教会のクリスマスだけが本物なのではありません。しかし、どのクリスマスにも大切なことは、神様を信じることから生まれる優しさです。そしてその優しさを生涯貫かれた方の誕生を祝うお祝いであることを忘れてはならないと思います。