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目で見て、人と語ったパレスチナ訪問 @
                                  管区事務所渉外主事 八幡眞也

出発から到着まで  成田空港を発ち、トルコのイスタンブール経由でエルサレムのテルアビブの空港に着いたのは、出発してから約16時間後でした。途中経由したイスタンブールの空港をテルアビブに向けて出発する際に、何故イスラエルに行くのか、荷物については他人から預かったものが無いか、訪問団の仲間は本当によく知っている仲間か等、しつこく聞かれました。テルアビブの空港の入国手続きでは、人間は全くこの国では歓迎しないという様な扱いでした。即ち、訪問団の仲間全員がそろった後、夜中の12時を過ぎ長旅の後で疲れているにも拘わらず、何故イスラエルの国を訪問するのか、訪問団の仲間はどれ位の期間知り合いなのか、荷物は常に自分の手元にあったか、託された荷物が無いか等、ここでもしつこく訊かれました。よほど不審な荷物(爆発物など)の搬入に敏感になっているのでしょう。ようやく入国手続きを終わった後は更に陸路で約1時間のバスの旅、途中で一箇所検問らしき所を通過しましたが、全員が寝ていた事もあって問題なく、宿泊施設のSt. George’s Cathedral Pilgrim Guest Houseに到着したのは、真夜中過ぎでした。帰国の際に、テルアビブの空港から出国するにあたり、空港に於ける気持ちのよくない経験をしました。何を目的として何処を訪問したか、どんな人たちと接したか、荷物は常時手元にあったか等、の質問をしつこくされました。荷物についての質問は理解が出来るのですが、我々の行動に関する質問は、他の外国を訪問する際に経験することはまずないのではないでしょうか。
諸施設の訪問
 翌日から積極的に施設訪問を開始しました。訪問した場所はアインカレム(パレスチナ人が殺害されたり村を追い出されて、ユダヤ人が住み着いた所)、ベツレヘム、ナザレ、ジェニン(パレスチナ難民キャンプのある所)、ラマラ(パレスチナ難民キャンプ、パレスチナ自治政府の本拠地)などで、パレスチナ人が自分たちの自治区でありながら、イスラエル政府の管理下で苦労の中で生活している事実を確認しました。

 ヨルダン川西岸はパレスチナ人が昔から住んでいた所ですが、1948年イスラエル建国以降1967年まではヨルダン領、1967年以降はイスラエルの占領地域となっています。この地域に政府の方針でイスラエル人入植地がどんどん出来上がり、元々この地域に住んでいたパレスチナ人が他の地域に追い出されたり(パレスチナの土地にかつては人口比二桁のキリスト教信徒が住んでいたのに、現在それが2%以下になってしまった。イスラエル政府の方針・やり方に不満を持ち、比較的経済的に恵まれている階層のパレスチナ人のある部分は外国に移住してしまうようです)、限られた地域に閉じ込められたりしています。パレスチナ人地域を取り囲むように、イスラエル人入植地に日本のマンションのような集合住宅が見下ろすように建てられ、高圧の電気を通した鉄条網で周りを囲んでいます。ある所では鉄条網の代わりに、8メートルの高さのコンクリート壁が出来つつあり、人や車両の行き来がチェックポイントにあるゲート以外全く遮断されています。例えばベツレヘムではパレスチナ人地域への出入りはイスラエル兵士によって完全に管理されていて、自由な出入りはほぼ完全に禁止されている様でした。我々が出入りした際も厳重なパスポート確認があり、平和な日本に住んでいる日本人にとってはとても異常な感じをもちました。入植したイスラエル人所有の高くそびえる住宅により威圧的に見下され、出入りを完全に管理され、いつイスラエル兵士がやって来て嫌がらせをされるか分からぬ状況下で日常生活を営むパレスチナ人の精神的な苦痛は我々の理解をはるかに越えています。

 ジェニンやラマラは難民キャンプ地内に過激なパレスチナゲリラがいるという想定で、イスラエル兵士によるこの地域への出入りのチェックは更に厳しく、われわれが乗っているバスに自動小銃を持った若い兵士が乗り込んできて質問をするのはやはり異様な光景でした。この地域ではイスラエル兵士による嫌がらせ的な行為(威嚇のために子どもに銃を向けたり、怪我はさせないが威嚇発砲をしたりする様です)によって精神的に不安定になった子どもがいる旨の話も聞きました。

 この訪問を通して、パレスチナの人々がイスラエル市民と同一の取り扱いを受けていない事、殊に子どもたちの置かれた立場が困難である事がよく理解できました。子どもたちのための施設や援助団体をいくつか訪問し、話を聞き目で確かめたので、日本聖公会管区・東京教区としてこの子どもたちのために何をすべきか、何が出来るかは、時間をかけてよく考えて結論を出したいと考えています。

 多くの施設を訪問し、できるだけ沢山のパレスチナ人と話した結果、彼らの共通して訴えたい事を次の様に理解できました。ここ数年にわたってイスラエルとパレスチナの対立がさらに激しくなり、この地域を訪問する人が極端に減少した。そのため彼らの置かれている現在の状況についての情報が、世界に殆ど発信されなくなった結果、世界の人々に状況の理解がされていない。殊に最近加速し始めたイスラエル政府による隔離のための壁の建設が全くパレスチナ人の権利や人権を無視したものである事の訴えはとても強いものでした。私たちが彼らの友人として訪問した事は、従って彼らにとってはとても意義のある事のようでした。
エルサレム教区
 URLはwww.jerusalem.anglican.orgです。

 エルサレム教区はエルサレム・中東聖公会(管区、The Episcopal Church in Jerusalem and The Middle East)の一教区で、イスラエル、エルサレム、レバノン、シリア、ヨルダンを含んでいます。信徒数は7000名、29教会、34個所の諸施設(病院、学校、等)、35人の聖職(司祭29名、執事6名)と言う規模の教区です。主教座聖堂、St. George the Martyr in Jerusalem, はエルサレム市街にあり、英語会衆とアラビア語会衆があります。英語会衆は主に外国から派遣されている人たちで構成されているようです。

 教区の運営している施設に対して、未だに独立に運営できないために、強力に資金援助をしている場合と、施設の独立運営を確立させるために援助しない場合とがあるようです。
ジェニン
 難民キャンプのある所で、パレスチナ自治区です。この地区に入るためにはイスラエル軍の厳しいチェックポイントを通過しなければなりません。幸い時間はそれほどかかりませんでしたが、チェックポイントの場所に数多くの戦車が(近くで見ると今にも発砲しそうに見えました)置かれていました。

 日本に本拠があるCCPというNPO法人(パレスチナ子どものキャンペーン)が現地の団体(Jenin Early Childhood Center : JECC)と共同で運営している施設を見学しました。ジェニンはパレスチナ難民キャンプのあるところで、この中に過激なパレスチナ人の団体があるとのイスラエル政府の想定で取締りが厳しいようですが、私たちが実際街を歩いている際には、イスラエル兵は見かけませんでした。

 この施設にはCCP派遣の日本人(いしはらさとみさん)が活躍していました。この施設はイスラエル軍兵士の威嚇行動や戦車の存在によって精神的に不安定になったこどもを持つ親とこどものリハビリをしたり、幼稚園の教師を教育したりしているところです。戦争・爆撃等のため、罪のないこどもが置かれている厳しい状況から抜け出す事に必死に取り組んでいる姿を目にして、この施設がとても大切な働きの中心である事をよく認識しました。

 イスラエル軍の攻撃によって負傷した人の救助のために出動した救急車が攻撃を受けて、中に乗っていた医者もろとも救急車が焼かれてしまい、勿論その医者は死亡し、救急車は焼けただれてしまった様子を聞く事が出来ました。また、焼けただれたその救急車を見せてもらいました。何故、このような非人道的な事が行われるのでしょうか。(以下次号)

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