2023年3月26日大斎節第5主日 (A年)
<今週のメッセージ>
「イエスは涙を流された」<ヨハネによる福音書11:35>
上記の箇所を読むたびに、E.M.シオラン(1911~1995)というルーマニア生まれの思想家の「涙と聖者」というアフォリズム(格言・教訓)集を思いだす。その中の、簡潔で核に向かって切り込むようでありながら、かつ温かい言葉を紹介する。
「私たちを聖者に近づけるものは認識ではない、それは、私たち自身の最深部に睡っている涙の眼ざめである。」<涙と聖者>
彼は他の著作でも「涙」について触れる。
「私たちはそうしたいと思うときはいつでも、地上を転げまわり声を挙げて泣くべきだろう」<苦渋の三段論法>
「一切を理解したことのしるし、すなわち、わけもなく泣くこと」<悪しき造物主>
イエスの涙から、シオランを想起するには私自身が聖路加のチヤプレン・ルームで迎えた来訪者達の涙を想起せざるをえないから。
乳児が重い病気と宣告された母親が子を抱き訪ねて来た。彼女の目は、深い井戸の底のようだった。「なぜ罪のない子が重い病にならなくてはいけないのか」「宗教人が、子供の病は先祖の罪の結果だとか、神様の試練だとか言うが、神様はそんな方なのでしょうか」絶句しながら、重い問いを聞いているうちに、彼女の瞳に涙があふれ、光りが宿った。
この出来事が、わたしの聖路加での、濃密で長い時間の中で、今も光っている。(退職司祭 パウロ 佐々木道人)
2023年3月19日大斎節第4主日 (A年)
「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」ヨハネによる福音書9:3
生まれつき目の見えない人が変わっていくお話が描かれています。この人の目が見えないのを、誰かが罪を犯したので、神さまが罰を与えた結果だとしている人たちがこの人の周りに沢山いたことでしょう。イエスの弟子たちも、さもそれが常識であるかのように本人の目の前でそういう話をしています。本人もそう思っていたかもしれません。それに対して、イエスの答は上にあるように、「神の業がこの人に現れるため」というものでした。人が生まれ、死んでいく中で、生きている意味、死んでいく意味はどこにあるのか?イエスさまにとってはそここそが大切な問題で、その答えの一つが「神の業が現れる」ことだったのではないでしょうか?その答えを聞いたこの生まれつき目の見えない人は、イエスさまによって目が見えるようになります。しかも、この人は、その奇跡的な出来事そのものではなく、それが指し示している、神さまの恵みや祝福に目を向けていき、力強く歩み始める姿が、この物語の中に描かれているように思います。