日本聖公会 東京教区

聖マーガレット教会

〒167-0054
東京都 杉並区
松庵1-12-29
TEL 03-3334-2812



 

2020年4月10日

聖金曜日(受苦日)

聖マーガレット教会夕暮れ
ご自宅での礼拝・お祈りのために
5月17日 復活節第六主日 自宅での礼拝
5月10日 復活節第五主日 自宅での礼拝
5月3日 復活節第四主日 自宅での礼拝
4月26日 復活節第三主日 自宅での礼拝
4月19日 復活節第二主日 自宅での礼拝
4月12日 復活日をともに祝いましょう
4月12日 復活日のご案内
4月10日 聖金曜日(受苦日)
4月9日 聖木曜日 自宅での礼拝
4月5日 復活前主日
牧師より
新型コロナウィルス危機の中での祈り
復活の希望、予定外の歓喜
復活:世界の命を癒す神の働き

新型コロナウイルス感染の広がりが続いています。多くの活動が制限されていることも加わって、不安やストレスを感じていらっしゃる方も多いかと思います。どうかご健康に留意されて、希望をもってこの抑圧の日々を乗り越えてください。
本日はイエスさまが十字架の苦しみを受け、死んで葬られた日を記念する聖金曜日(受苦日)です。この悲しみの金曜日を、教会は「Good Friday(良い金曜日)」として憶えます。主が私たちを救うために、すすんで苦しみを引き受けてくださった日です。
それぞれの場所で心を一つにして聖金曜日の礼拝をお献げしましょう。闇の力に包まれそうに思えても、死と絶望、苦しみ、悲しみの中にあっても、主イエスが必ず希望の力を注いでくださいます。


十字架上の七つの聖語

聖金曜日には、十字架上のイエスさまの7つの聖語を中心に説教、黙祷、詩篇、聖歌などで構成される礼拝が広く行われています。

七つの聖語

第一聖語:父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカによる福音書23:34)
第二聖語:あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。(ルカによる福音書23:43)
第三聖語:婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です。(ヨハネによる福音書19:26-27)
第四聖語:わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。(マタイによる福音書27:46)
第五聖語:渇く。(ヨハネによる福音書19:28)
第六聖語:成し遂げられた。(ヨハネによる福音書19:30)
第七聖語:父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。(ルカによる福音書23:46)

聖墳墓教会内にある第11留の写真
エルサレム旧市街の聖墳墓教会内にあるヴィア・ドロローサ(悲しみの道、十字架の道行き)の第11留「主イエス、十字架に釘付けられる」

米国デューク大学神学部のW.H.ウィリモン教授が聖金曜日のために書かれた本"Thank God It's Friday: Encountering the Seven Last Words from the Cross"(邦題)「十字架上の七つの言葉と出会う」(上田好春訳 日本キリスト教団出版局)の内容の一部を抜粋・要約して紹介させていただきます。

第一聖語

イエスさまは十字架上で最初に父なる神に向かってお語りになります。それは赦しです。
この世的には、まず罪を犯した人が、罪の重さを認識し、悔い改め、その次に赦しが与えられる、それが普通の順序です。しかし、イエスさまが十字架上でなさったのは、先行する赦しです。すべてが赦しから始まります。赦しがなければ、わたしたちと神様との交わりが発生しないということなのです。新しい世界は生まれないのです。赦しこそ、神さまがわたしたち人間に向かって架けてくださった橋です。わたしたちが踏みだす第一歩です。わたしたちの暗闇に響く第一の声は「父よ、彼らをお赦しください」です。
この金曜日、主イエスが十字架に架けられ、わきばらをつかれ血と水を流されるとき、わたしたち人間は、自分の冷酷さの底知れぬ大きさ思い知らされます。そしてこの日、主が最初の一言を発せられるとき、神の子の愛と恵みの限りない大きさを思い知らされるのです。 まだ時間は残されています。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです。」

第二聖語

主イエスは、かつてこう言われました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」この言葉は、祈りの集会や礼拝の中に、たとえ二・三人しか集まっていなくとも、イエスさまがその場にいてくださる、そんな意味に捉えられがちです。しかし、このカルバリの丘で、死を目前にした二人の犯罪者たちの間に、イエスさまも十字架につけられて、ともにおられるのです。イエスさまがおっしゃったのは、「この十字架につけられた犯罪者たちのような、世の中で何の役にも立たないと思われている罪人たちが、集まっている。その場所に、まさに、わたしはその中にいる」ということなのです。
神学者カール・バルトは、これこそ最初の教会だと言いました。二人の罪人がイエスさまと一緒にいる、ここに教会があります。本来の教会があります。十字架上の第二の聖語がしめすように、そこに、イエスさまは楽園を約束されます。教会は天国の一部分です。
罪人のなかの最大の罪人は自分の罪を認めない人々とされます。また失われた人々のなかで最悪の人は、自分が実際どんなに失われているかに気づいていない人です。この聖語は良い知らせです。イエス・キリストは今日も、楽園のなかに、罪人たちの居場所を約束しておられるのです。

第七聖語

最後の言葉でイエスさまは、ご自身の命を、そしてご自身の死を、父なる神にお献げになるのです。最後の場面で、主イエスは父なる神との十字架上の対話を再開されます。
聖金曜日の礼拝が終わると、わたしたちは暗黒の中へと移動します。この一週間たくさんの言葉が語られました。今、わたしたちに残されているのは、沈黙と静寂だけです。ここにあるのは神の御子の死という悲劇です。この悲劇のすべてが何を意味するのか、それは「神さまだけがご存知」です。イエスさまがこの世で話されたすべてのみ言葉、すべてのおはたらき、それらに意味をお与えになるのは神さまだけです。それらをすべて父なる神にゆだねられたのです。十字架上の七つの言葉の意味は、三日後の日曜日に明らかになります。そのとき、三位一体の神が、最後の発言をなさるのです。ですから私たちはイースターの教会に戻らなければなりません。
み子を十字架に架けて墓に葬ったわたしたち人類は、聖金曜日の礼拝のあと、運命を神の御手にゆだねて待つしかないのでしょう。沈黙が支配し、教えは結論なしのままです。神の答えは、少なくとも三日待たねばなりません。
しかしながら、この日にわたしたちが聴いているのは、イエスさまの最後のみ言葉です。
祈りましょう。
わたしたちに神の恵みと、神への信頼とをお与えください。それによって、主イエスの最後のみ言葉を、わたしたちの最後の言葉、究極の祈りとさせてください。 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」