ヤコブ宇野徹主教 逝去記念式 説教全文

2022年6月18日/川口基督教会

                                 主教 ナタナエル 植松 誠

 本日、ヤコブ宇野徹主教様のご逝去記念式に際し、説教をさせていただくということを、私は不思議な神様のお導きであると思い、畏れの念を禁じ得ません。

 いつまでも若いと自負していた私ですが、この3月末で、ついに定年退職となり、忙しかった教区主教の任を終えて、今は中部教区の岡谷聖バルナバ教会で嘱託として働いています。現役時代に比べるとはるかにのんびりペースで生活していて、これで良いのかと毎日大いに戸惑っています。妻にはそれが退職したということなのだと言われますが、退職聖職として生きるということ、それに慣れるまでにはもう少し時間がかかると思います。今、現役生活を終え、これまでの自分の人生のいろいろな場面で出会った方々のことを思い出すことがよくあります。それらの出会いの中には、これまであまり意識しなかったけれども、今になるととても印象深く心に迫ってくるものや、あまり思い出したくない辛い悲しいものもあります。しかし、今、自分の歩んできた道を振り返った時、何だかんだと言いながらも、私の存在は、これらのいろいろな出会いの中で形作られ、少なからぬ影響を受け、また私の知らないところで多くの方々に祈られてきたその集大成であるとつくづく思わされます。一つひとつの出会いや関りを何一つ無駄になることなく主は用いてくださり、恵みに変え、今の私にまで導いてくださったことは感謝に堪えません。さる3月8日、主のみもとに召された宇野徹主教様との出会いや交わり、そして同労者として共に働いたことを通して、教えられたこと、学ばされたこと、影響を受けたことがどんなに大きなものであったかを思い知らされます。

 今からちょうど40年前の1982年、私は執事として大阪教区に赴任しました。学生時代を大阪で過ごした経験はありましたが、大阪教区のことも大阪教区の教役者のこともあまり知らない中で、新任地の芦屋聖マルコ教会で働き始めました。当時、宇野徹司祭は44歳の働き盛りで、教区内のいろいろな働きにおいて指導的な役割を果たしておられました。私は宇野主教様がどのような背景の中で聖職への道を歩まれることになったのか、あまり存じ上げません。ただ、その当時、とても新鮮に思ったこととして、当時の宇野司祭が私と全く異なった背景を持った方だということでした。私は聖職の家庭に生まれ、その中で育ち、少年時代にはそれに大いに反抗したことがあったとしても、実際、教会という世界にどっぷり浸かっている、或いはそれしか知らないという中で生きてきたと言えるのですが、宇野司祭にはそのようなものがなく、その意味で、私とはかなり違う世界の中で生きてこられ、そして聖職を目指し、司祭になられた方ということで、私には無いものを持っておられる方だということに、何か一種の憧れ、或いは羨望のような思いを抱いたことは確かでした。

 その後、私が管区事務所に異動になるまで、私たちは大阪教区で12年間、共に働きました。その後、私は北海道教区の主教に就任し、宇野主教様は北関東教区主教、そして大阪教区主教に就任され、宇野主教の定年退職となられた2008年3月末までは主教会のメンバーとして、度々お会いし、話し合い、親しいお交わりもいただきました。

 40年前に私が大阪教区に赴任して以来、宇野主教のご逝去まで、私が感動したこと、それは、今、主教様が天に召されて、改めて思わされることですが、主教様の単純素朴さと謙遜さが挙げられます。宇野主教様は、先に申し上げた通り、私よりも14歳年長でいらっしゃいますが、私の記憶の中に、主教様が尊大に、また先輩ぶって、私にお話になったということがないのです。私とは全く違った世界の中で生きてこられ、艱難辛苦もおありだったでしょうし、教会の聖職者として、たくさんの経験や実績もあられたはずなのに、14歳も年下の私、神学校を出たばかりの若造の私に、最初からまったく対等に接してくださったこと、そしてそれはお亡くなりになるまで、少しも変わりませんでした。宇野主教様がそのようなお方であったがゆえに、そのことを特段考えたこともなかったのですが、今、自分の来し方を振り返ってみると、そのように私に接してくださる方が、私の聖職になった時から今まで、私の歩みの中にいたということに、私はどれほど励まされ、慰められ、感動を与えられてきたかを改めて思い、神さまに感謝するのです。私がどんなに若くても、どこにいても、何をしていても、まず、一人の聖職としてその人をそのまま受け入れてくださる方でした。それは、その相手に、教えを垂れるのではなく、まずは謙虚に聴くということ、さらに相手に、自分から教えや助言を求めるということに、その人は自分が大切な存在として扱われていることを感じ、「こんな私でもいいのだ」と安心するのです。

 宇野主教様とのお交わりの中で、私が思うのは、宇野主教は教区主教であった小池俊男主教様と木川田一郎主教様から大きな影響を受けたのではないかということです。小池主教は神学者でしたが、神学を机上の学問とはなさらず、実世界で、まさに私たちの日々の生活の中で、福音の喜びをどのように生きるかということを大事になさいました。分かりやすく聖書を解き明かし、神の言葉が私たちを生かす力になることを常に説き続けられました。若き宇野青年がキリスト教信仰に入り、次第に聖職への道を志すようになったのは小池主教から、福音を単純素朴に生き、その生き方を人々に伝えるという喜びを教えられたからではないかと私は思います。

 さらに、もう一人の教区主教、木川田主教様からは、その福音とは、社会の中で、家庭の中で、小さくされた人々、周辺化された人々、差別されている人々と共に生き、その中で隔ての中垣を取り除き、平和の器となって働くということを教えられたと思います。私が大阪教区にいた時代は木川田主教が教区主教でしたので、私も、木川田主教から大きな影響を受けました。

 当時、木川田主教は社会の諸問題に対して、とても熱心に取り組んでおられました。南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)、パレスチナ問題、部落差別問題、在日韓国朝鮮人への差別問題など、たくさんの運動に関わっておられました。これらの活動に関わる人々の所属や思想的背景が異なるため、時には運動している人々や団体の間で抗争が起きたり、果てしの無い論争が続いたりすることもありましたが、木川田主教が宗教者であるといういわば中立の立場で、これらの人々の求心的な存在として、なんとかまとめていくといったことがよくありました。しかし、教区として、これらの問題にかなりのエネルギーを割かざるを得ない状況もあり、主教も教区も、社会問題ではなくてもっと宣教に力を注ぐべきだという厳しい批判もありました。宇野司祭はその木川田主教のもとで教務局長を務めておられました。私もその真只中にいましたが、木川田主教の信仰から来る信念ははっきりしたものでした。この世の中で、小さくされた者、片隅に追いやられた者、差別されている者、抑圧されている者、権利を奪われている者、悲しみや孤独、痛みの中にいる者たちへの深い共感、同情がその根底にありました。宇野司祭はその主教の片腕としてこれらの問題に関わる中で、これを福音宣教の根幹であるとの信念をお持ちになったのだと思います。いつも穏やかでいらした宇野主教が、これらの問題が主教会などで話題となる時には、熱く、厳しく、頑固なほどにご自分の思いを述べていらしたのを思い出します。

聖職であるということは、人間の思いではなく、神の指し示す方向を見極め、信徒たちを導かなければならないのは言うまでもありませんが、いろいろな場面で「痛み」を伴うことが多いものです。そしてそれは主教となると、尚更、信徒たちのことだけではなく、教区の有るべき姿勢や方向性も、自分の思いではなく、必死で神の導きに寄り添う者でなければならない、その重圧に押しつぶされることもままあります。宇野主教様は、日本聖公会総会で北関東教区の主教に選ばれ、1998年、住み慣れた大阪を離れて北関東教区に移られました。大阪弁の主教様でした。それは単なる言葉の問題ではなく、その言葉の背後にある文化、伝統、世界観など、それまでの価値観が全く異なる地で主教となるということでした。主の指し示すところに赴くのは容易なことではなかったはずです。教区主教になるということはその教区と結婚することだという言葉をどこかで聞いた覚えがありますが、まさに宇野主教は、それまでの生き方に終止符を打って、北関東教区の主教になられました。しかし、その5年後の2003年、総会で主教様は大阪教区主教に選出され、その年の秋、今度は大阪教区主教として、再び、大阪に戻られることになりました。北関東教区主教として全身全霊をもって打ち込んでおられたところから、突然大阪教区に移るということは、宇野主教にとってはとても重く、辛い試練であったはずです。日本聖公会総会が自分を北関東教区主教に選び、そして同じ総会が今度は大阪教区主教に選んだということにより、自分の召命感についても、またそれによって両教区の聖職・信徒にもたらされる混乱についても深く悩まれたことと思います。しかし、この時も宇野主教はそれが主の指し示す道なのだと信じて、すべてを主にお委ねして、また新たな道へと踏み出して行きました。

聖職として生きるということは、十字架上のキリストを仰ぎながら、そのキリストのみ跡を踏むことです。人々のために自分の命をお捧げになったキリストの苦難を自分も負うことです。十字架上のキリストに、人々はあざけりの言葉を浴びせ、「もし、お前が神の子なら、救い主なら、十字架から降りて来い」と叫びました。その言葉は今私たちの聖職者としての生き方の中でもよく聞きます。「十字架の苦しみの中にいて、いったい何ができるのか。十字架から降りて、もっと自由に、お前のしたいことをしたらどうだ」と。イエス様は確かに神の子でありキリストでした。何でもお出来になる方でした。しかし、十字架から降りて行かなかった。御父のみ旨、すなわち神の愛の計画は、あの時キリストが十字架から降りることではなく、十字架の苦しみに耐え、十字架上で死ぬことにありました。首座主教であった宇野主教のそばで私は主教様の悩みと苦しい胸の内を想像しながら、敢えて十字架から降りようとされなかった主教様に真の聖職者の生きざまを見る思いがしました。

大阪教区での執事、司祭として働かれた時、北関東教区の主教として働かれた時、そして大阪教区主教として働かれた時、きっと何度も何度も宇野主教は「痛み」を感じられたはずです。特に主教となられて、大きな使命と責任を負わされてからの「痛み」はいつも主教様を苦しめたことと思います。しかし、使徒聖パウロのような人でさえ、思い上がらないようにとひとつの「とげ」が与えられたと記されています。確かに棘は痛い。それは毛抜きで抜けるような肉体的なことだけではなく、いつまでもいつまでも心に突き刺さる痛みなのです。主よどうぞみ心ならばこのとげを取り除いてくださいと、パウロほどの人も祈ったというのですから、神の与えたもう棘は特別に痛いのです。この痛みさえなければ、この苦しみさえなければ、もっと良い宣教ができるのに、もっと喜びを人に伝えられるのに・・・と、パウロの足元にも及ばない私でさえも思ってしまうのです。

もしも、この棘がなければ・・・、これさえなければ・・・。でも本当にそうでしょうか。自問自答します。この棘があったからこそということはなかったか?・・・と。物事が棘になることもあります。人が棘になることもあります。自分の身近な家族が棘になることもあります。しかし、その痛みの中で、その痛みがあるからこその今までに気付かなかった恵みに、こんなにも大きなお恵みがあったんだと気付かされる・・・そういう経験を積み重ねてきたのではないかと思い返します。神がパウロに言われた「わが恵み、汝に足れり」という言葉は、今までの信仰生活の中で、何度も何度も繰り返し、痛みに覆いかぶさるように響いてきた言葉ではなかったかと思うのです。それは聖職だけではなく、信徒の皆さまにも、信仰を捨てたいと思うくらいの辛い中ほど、響いてきた神の言葉ではなかったでしょうか。宇野主教様も、そのご生涯を通じて、たくさんの棘を与えられながらも、主の指し示す道を選び、そこを歩き通される中で、「我が恵み、汝に足れり」という主の御声を聞き続けてこられたと思います。

私は今、宇野主教を思い出すとき、主教の権威とは何であるかを考えています。神学的に、聖書学的に、また教会の組織やガバナンスの点からいろいろなことが言えると思いますし、それらこそが主教に求められる資質や権威であるかのように私たちは思いがちですが、私は敢えて、主教の権威はそのようなものではなくて、宇野主教の生き方からそれを学んできたとつくづく感じます。権威者であるのに、それを感じさせないということ。奢らず高ぶらず、謙遜に誰とでも同じ目線で交わり、外に見えるものには執着せず、単純素朴な信仰に生き、一人ひとりに深い関心を寄せて、いつくしむこと。しかし、神の正義と愛がないがしろにされているときには、全身全霊をもってそれに立ち向かうこと。それらから私は大きな影響をうけてきたと思うのです。

私は普段、聖職の生涯の三つの時点に接するときに、深い感動を覚えます。一つは定年退職のとき、一つは司祭按手50周年の金祝のとき、そしてもう一つは、その司祭の天に召されるときです。それぞれ、それまでの長きにわたって幾多の困難の中、いつも主の御手の内に守られ、聖職としての召命の生き方を貫き通せたことに深く感動するのです。宇野主教様がこれまでの長きにわたって聖職として生きてこられたことを神様に感謝しつつ、それが可能となったのは、そばでいつも主教様を支えて、そのご生涯を共に歩んでこられた奥様の喜句子さんのおかげでもあったことを覚えて心から感謝いたします。

 ヤコブ宇野徹主教様の魂に主の平安と憩いが、またご家族の上に主の豊かなお慰めがありますように。アーメン

関連記事一覧

PAGE TOP