聖霊降臨後第7主日

<特   祷>

永遠にいます全能の神よ、あなたは常にわたしたちの祈りに先立って聞き、わたしたちが願うよりも多く与えようとしておられます。どうか豊かな恵みを注ぎ、わたしたちを赦して良心の恐れを除き、あえて願いえない良いものを与えてください。み子イエス・キリストのいさおととりなしによってお願いいたします。 アーメン

<聖   書> ル カ 11:1~13

<メッセージ> 「祈り」~いのちの道の入り口

父と子と聖霊の御名によって アーメン

ルカによる福音書10章から11章の中心テーマは、先々主日「善いサマリヤ人のたとえ」にて、ご一緒に見つめた律法の専門家の主イエスへの質問、「先生、何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」。その質問に主イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読むか」と逆に質問されます。律法の専門家は、「神である主を愛すること、隣人を自分のように愛すること」と答え、主イエスから「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言われます。「命を得る」これが中心テーマです。言い換えると、「主イエスが良しとされる、いのちの道を歩むためには、どうすればいいか」というテーマがあります。10章の最初には、72人の派遣という伝道・宣教活動、善いサマリヤ人主イエスに倣って生きること、そして先主日のマルタとマリアと主イエスの出来事では、「しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それをマリアから取り上げてはならない。」とあり、これらの箇所は「いのちの道」への入り口を指さしています。

そして、今日の福音のテーマは「祈り」ですが、この箇所も「主イエスのよしとしたもういのちの道」につながる教えであります。

 ルカ11:1~13を見つめてみましょう。前半は「主の祈り」、後半は「時間をわきまえない友」と言う小さなたとえとそれに伴う「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」大変有名な主イエスのお勧めが続きます。「祈り」の非常に重要な性格が示さえています。特に9節は、学校の入学礼拝などで、よく選ばれる聖句です。お祈りは、「くじけることなく、たゆみなく続けるもの」であります。

 創世記の18:20以下、罪深く、滅ぼすしかないと神さまが思われるほど悪に染まったソドムの住人のために、神さまにソドムの人々の赦しを執拗にとりなすアブラハムの姿が描かれています。ほんまに執拗です。

「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が50人いるとしても、それでも滅ぼされるのですか・・・・。」

神さまが言われます。「もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、町全部を赦そう」

アブラハムはさらに、「もし、50人の正しい者に5人足りなかったら・・・」神さまは「もし45人いればほおrぼさない。」

アブラハムはさらにさらに、続けます。「40人しかいなかったら」

神さまは答えます。「その40人のためにわたしはそれをしない。」

アブラハムのとりなしは、まだ続きます。「30人しかいなかったら。」

神さま「30人いるならそれをしない。」

アブラハムは、「20人しかいなかたら。」と言います。

神さま「その20人のためにわたしは滅ぼさない。」

アブラハム「10人しかいなかったら。」

神さま「その10人のために滅ぼさない。」

 ここで神さまとアブラハムやり取りは終わる。まだ続いたら、どうなったでしょうか。「5人」「0人」どうでしょうか。主イエスの十字架による罪の赦しのことを考えると、「0人」でも、「わたしは滅ぼさない。」です。

 パウロはコロサイの人々に、神さまの大きな愛は、「罪の中に死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。」(コロサイ2:13)と語りかけます。神さまの大きな愛は無償であり、神さまの賜物はわたしたちの小さなお祈りをはるかに超えて与えられていると語りかけています。

 アブラハムは神さまを説得というより、本当に信頼して、ゆだねて、父母にねだる幼子のように、単純素朴に、神さまに繰り返しとしなしのお願いをしています。

 

 ルカの「時間をわきまえない友」のたとえは、友達が真夜中に、立ち寄った友人に何もだすものがないと、パンを3つ貸してくださいと、ある人の門を叩きます。一度はけんもほろろに断られるのですが、しつように頼めば何とかしてくれるという話です。先ほどのアブラハムもそうなのですが、このルカの小さなたとえも、自分のためにしつように願っているのではありません。アブラハムはソドムの人々のため(おいのロトの家族が住んでいます。)であり、ルカのたとえも立ち寄った友人のためです。そして「求めよ、さらば与えられん」と続きます。悪に染まっているけれど、ソドムとゴモラの人々のため、立ち寄った友人のため、自分のためではなく、隣人のことを憶えて祈る、そこに「いのちの道」が開かれるのです。

 7月22日金曜日の朝日新聞の夕刊の1面、<「自分だけ核使う資格」大馬鹿の思考>という大きな見出しが目を引きました。歌手であり、俳優である美輪明宏さん87歳の寄稿文でした。美輪さんは長崎の出身で、ご自身被爆者です。美輪さんは「一人の人間に権力を持たせることの恐ろしさ」を語り、「人を殺したからって何になるのか。なんの得になるのか。土地は自分のものになったりしません。千年・二千年、生きるんだったら別ですよ。たかだか100年に過ぎない命ですもの、無駄なことをしているんです。地球は一つで狭いわけだし、みんな仲良くにっこり笑って、手を取り合わないと。それともう一つ。核戦争があれば地球は滅びます。そんなこと政治指導者はわかっているはず。・・いざ核戦争になったら自分の国も滅びることわかっているはず。自分の国だけ核兵器を使う資格があると思っていたら、大馬鹿です。」

 最後に美輪さんは、日本もアメリカの核の傘の下とかいろいろあるけれど、唯一の被爆国、このことに関しては被害者ですから、平和を唱え続けて、戦争や核兵器はいけないことと唱え続けないといけない。平和を唱え続けることの大切さを訴えておられた。

 「となりびと」、特に、いのちを脅かされている人々、傷つけられている人々を憶え、「祈り続けること」は、主イエスのよしとしたもう命の道の入り口です。

 

父と子と聖霊の御名によって アーメン

<ウクライナの平和のための祈り>

正義と平和の神よ、 

わたしたちは今日、ウクライナの人々のために祈ります。 

またわたしたちは平和のために、そして武器が置かれますよう祈ります。 

明日を恐れるすべての人々に、 あなたの慰めの霊が寄り添ってくださいますように。平和や戦争を支配する力を持つ人々が、知恵と見識と思いやりによって、 み旨に適う決断へと導かれますように。 

そして何よりも、危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子どもたちを、あなたが抱き守ってくださいますように。 

平和の君、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン。

<主の祈り>

主イエスが教えられたように祈りましょう。

天におられるわたしたちの父よ、

み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです アーメン

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