<特 祷>
全能の神よ、あなたは独りのみ子を死からよみがえらせ、永遠の命の門を開いてくださいました。どうか、み子の復活を祝うわたしたちを、聖霊によって罪の死から命によみがえらせてください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
<聖 書> ヨハネ20:11~18
<メッセージ> マリアは振り向いて
父と子と聖霊の御名によって アーメン
「イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。」ヨハネによる福音書20:16
イースターおめでとうございます。
2023年、私たち大阪教区は教区成立100周年を迎えます。6月11日㈰午前10:30からプール学院中学校・高等学校メアリーズ・ホールで100周年記念感謝の教区礼拝を開催致します。この日のことを憶え、万障繰り合わせて、ご参集ください。当日顔と顔とを合わせて感謝と賛美をささげましょう。
100周年記念実行委員会の皆様も、2023年の年に、新しい宣教の一歩を歩みだすことができたらと準備してくださっています。
「前に」「前向きに!」大切なことです。現実の世界を見ておりますと、「順境の時代」ではなくて、「逆境の時代」に私たちは生きていると感じます。そのような時代に、ピンチをチャンスにするくらいの前向きの姿勢が大切なことは言うまでもありません。しかし、復活の主は、前からではなく、後ろから、背後からマリアに声をかけられました。主イエスは、いろいろな方向から私たちに声をかけて来られます。上から、前から、後ろから、下から、ナナメから・・・・・。
マリアは、墓の外に立って泣いていました。主イエスの遺体が納められた墓の入り口を塞いでいるはずの石がとりのけられていました。一体何が起こったのでしょうか。墓の中に入ったペトロともう一人の弟子は、主イエスの遺体を覆っていた亜麻布だけが残っているとマリアに報告したのでしょう。
主イエスの遺体が無くなっている。マリアは主イエス亡き後、主イエスのことを偲びながら、主イエスとの思い出を胸に憶え、お墓を守って生きて行こうと思ったのです。ところが遺体もない。あらゆるものが奪われていく中、マリアはただただ泣いていました。
さて今日の福音を読みますと、マリアは2回後ろを振り向きました。1回目は、「こう言って後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」「女よ、なぜ泣いているのか」と言われたのですが、主イエスだとは分からなかったのです。」ところが2回目は、「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」マリアは同じように後ろを振り向いたのですが、どうしてこんな違いが起こったのでしょうか。2回目は、主イエスの方がマリアの名を呼ばれ、お声をかけられて、マリアを振り向かせられたからではないでしょうか。
マリアは主イエスの遺体を求めて、必死に探そうとしていました。しかし、主イエスはもうマリアの後ろにおられたのです。マリアは気づきませんでしたが、主イエスは既に、後ろからマリアを支えておられたのです。既に、主イエスの大きな愛に包まれていたのです。なぜなら、復活の命は愛だからです。マリアが「ラボニ」と言ったのは、主イエスの復活の命に、悲しみに包まれたままで、大きな愛に包まれていることに、気づいたからです。主イエスが後ろから声をかけられたのは、マリアが自分の力で生きているのではなく、今日から、主イエスの復活の命に包まれて生かされている者になったことに気づくためであったのです。
マリアは、絶望の中、主イエスの死を憶えて生きて行こうとしました。この時から、主イエスの死だけではなく、十字架の死と復活の命与ったことを憶え続けて生きることになりました。その信仰を私たちは受け取り、今聖餐式を守っているのです。
父と子と聖霊の聖名によって アーメン
<黙 祷>
ウクライナとロシアほか戦争状態にある国々・地域に平和が訪れますように。
トルコ・シリアの大地震ほか大災害に見舞われている国々の人々、犠牲者と被災者、救援に当たる人々のため。
冤罪や生きづらさに苦しむ人々のため
日本聖公会大阪教区成立100周年のため
<主の祈り>
救い主キリストが教えられたように祈りましょう。
天におられるわたしたちの父よ
み名が聖とされますように
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を
ゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン