聖霊降臨後第18主日

<特   祷>

わたしたちの避けどころ、力であり、また信仰の源である神よ、どうか主の教会が信仰をもって献げる祈りに耳を傾け、真心を持って願い求めることをかなえてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

<聖   書> ル   ツ 1:1~19a 

<メッセージ>「はるかに望み見て喜ぶ信仰へと導くルツ記」

父と子と聖霊の御名によって アーメン

今日は、旧約聖書のルツ記に耳を傾けましょう。まず、「ルツ記」の人、時、場所、そして過酷な状が紹介されます。士師(例えばサムソン)がユダヤの地を治めていた時代に飢饉があり、エリメレク、ナオミの夫婦が、マフロンとキルヨンの二人の息子を連れて、難を避けて、ベツレヘムからモアブ草原に逃れます。ところがどうしたことでしょうか。異国で家族を養い、守るために無理をしたのでしょうか。モアブについてしばらくして、頼みの夫エリメレクが死んでしまいました。しかし気丈にも異邦人の地でナオミは、二人の息子を育て、成人させます。そしてモアブの地で、嫁をめとり(一人はオルパ、もう一人がルツ)、家を持ち、10年余の年月が経ちます。

そこでまた、悲劇が家族を襲います。二人の息子が相次いで死んでしまいます。ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、ナオミとオルパ、ルツは残されてしまいます。

傷心のナオミは、故郷ベツレヘム(意味は「パンの家」)が飢饉を脱したと聞き、故郷へ帰ることします。旅の途中、ナオミは二人の嫁に言います。「自分の里に帰り、そこでしあわせになりなさい。」二人は泣いて、「一緒にあなたの国に帰ります。」と言うと、ナオミは、もう私には息子はいません(レビラート婚→兄弟が死んだとき、その妻は他の兄弟の妻になる。)。さあ里にお帰りなさい。あなたたちより、私の方が辛いのです。」オルパは、ナオミのことばに従うことにしますが、ルツはすがりつき言います。「わたしはあなたを見捨てて、あなたに背を向けて帰ることはできません。あなたの民は私の民。あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。」ナオミはルツを説得することをやめ、二人はベツレヘムへの旅を続けます。

 先ほどお読みした旧約聖書はここまででした。もう少し先を追ってみましょう。

 ベツレヘムに到着して、故郷の人々と出会った時、ナオミはその心の悲しみがどれほど深いか吐露します。「わたしをナオミと呼ばないでほしい。マラと呼んで。」

 「ナオミ」は「快い」とか、「甘美な」と言う意味をもつ名前。「マラ」は「苦い」

と言う意味。夫と二人の息子を失ったナオミは、絶望して、心はうつろでした。死にたいと思ったかもしれませんが、死ぬ力さえ失っていました。将来に何の希望も見いだせなかったのです。「主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのです。」というほどに、ナオミの悲嘆は深かったのです。

 先日、日本聖公会主教会が、東北教区で開催され、2日目に東日本大震災の被災地と、原発事故被災地の近くへ行ってきました。まだまだ人々の間に傷跡は残っており、終わりはないのだと思いました。宿舎に戻って、夕の礼拝があり、東京教区主教・北関東教区管理主教高橋宏幸主教からメッセージを聴きました。香蘭女学校チャプレン時代のお話でした。香蘭の生徒たちと被災地でボランティア活動を行った時のお話をしてくださいました。仮設住宅を訪問し、住民からお話を伺うと言う活動をした時のこと、チャプレンと2人の生徒が組になって、ドアをノックすると一人の初老の男性が出て来られた。何をしに来たと言う顔をされたが、上がっていいというので、恐る恐る部屋に入ったそうです。電気もつけず暗い部屋でぽつりぽつりと、大切な家族を失ったこと、生きている意味を見いだすことができないなど、つらい体験と、辛い思いを語られました。チャプレンと生徒たちは、ただただ聞くのが精一杯でした。

ところが、しばらくして香蘭に手紙が届きます。この初老の男性から。そして、生徒さんたちが、私が忘れていたことを思い出させてくれたと書いてあったそうです。何を思い出したかというと、「笑うこと」「笑顔」を思い出した。生徒たちも緊張して、どう受け止めたらいいか戸惑っていたので、笑顔と言われても憶えがありません。本人たちは、笑顔どころではなかったのです。少女らしい笑顔を見せたのでしょうか。下心もなにもない純粋な心の生徒たちですので、ひょっとしたら天使が笑ったのかもしれません。生徒たちは、どうしたらいいかわかりませんでしたが、彼女たちの訪問が、この男性の心に寄り添うことになったのです。この男性は今、どう生きていいかかわからずに、引きこもっている被災者が沢山いるので、仮設住宅の訪問を始めたという内容のお手紙だったそうです。

 ルツはナオミに寄り添いました。その後の顛末は、どうぞルツ記を最後まで読んでみてください。小品ですので、すぐ読めます。

 この後、「ナオミではなくマラと呼んで」と言ったナオミの心に、光が指していきます。「ナオミ」と言う「快い、甘美な」と言う意味を取り戻します。ついには、ルツはボアズと言う人と結ばれ、赤ちゃんが与えられます。夫と二人の息子を失い、うつろになったナオミが赤ん坊を抱く日がやってきます。ルツが寄り添うことでナオミは、喜びの日を迎えることができました。ルツ記は、一つの小さな家族の歴史であります。

しかし、そこで物語は終わらないのです。このナオミが抱いた赤ちゃんはオベドと名付けられます。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父となります。ナオミとルツの深い悲しみと苦労は100年後、偉大な王ダビデ誕生につながります。そして、私たちの主イエスはダビデの家系から誕生されました。ナオミとナオミに寄り添って生きるルツの苦労は、1200年後主イエスの誕生につながるのです。マタイ福音書1章の系図の中にルツの名前が出てまいります。探してみてください。

 今、皆様も様々な苦労や、苦しみ、悲しみ、なぜ私がと言う思いをお持ちでしょう。自分の人生に対して理不尽さを感じておられる方もあるでしょう。ヘブライ人への手紙11章1節には、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」また、11章13節には、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手にいれませんでしたが、はるかにそれを見て喜び」とあります。

 目に見えて、手で触れられ、五感で認識できることは信じる必要はありません。認識・認知すればいいのです。見えない、触れられないから信じるのです。

 信じる、それは魂の働きです。信じる根拠は、神さまの言葉を信じるのが信仰です。

ルツ記は小品ですが、歴史における神の働きについて教えてくれます。

 

 教会の業、伝道・宣教の業にも、5年後、10年後、100年後、1000年後を「はるかに望み見て喜ぶ」信仰が大切です。川口基督教会も150年をお祝いしましたが、この「はるかに望み見て喜ぶ」信仰の大切さを忘れないようにしましょう。150年前、ウイリアムス主教もこの喜びを抱いて大阪の地に住まわれたのです。ウイリアムス主教、宣教師、初代の教役者の皆さまは、150年後に、皆さまが教会に集っていることをはるかに見て、喜びつつ働かれたのです。(磯主教は、10月9日川口基督教会主日礼拝にてこのメッセージを致します。) 主に感謝。

父と子と聖霊の御名によって アーメン

<ウクライナの平和のための祈り>

正義と平和の神よ、

わたしたちは今日、ウクライナの人々のために祈ります。

またわたしたちは平和のために、そして武器が置かれますよう祈ります。

明日を恐れるすべての人々に、 あなたの慰めの霊が寄り添ってくださいますように。平和や戦争を支配する力を持つ人々が、知恵と見識と思いやりによって、み旨に適う決断へと導かれますように。

そして何よりも、危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子どもたちを、あなたが抱き守ってくださいますように。

平和の君、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン。

<主の祈り>

主イエスが教えられたように祈りましょう。

天におられるわたしたちの父よ、

み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです アーメン

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