大斎節前主日

<特   祷>

神よ、あなたはその独り子の受難の前に、聖なる山の上でみ子の栄光を現されました。どうかわたしたちが、信仰によってみ顔の光を仰ぎ見、自分の十字架を負う力を強められ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

<聖   書> フィリピ3:10~14

        マタイ  17:1~9

メッセージ> 神さまの光に照らされて

父と子と聖霊の御名によって アーメン

 先主日、2月11日放送、NHKテレビのインタビュー番組「ここから」で、映画監督山田洋次さんが話されたことをご紹介致しました。今日はその続きのお話です。先週どのようなお話をしたかといいますと、

山田洋次さんは、お父さんが満州鉄道の職員だったので、旧満州で幼少期を過ごしていました。敗戦となり、裕福なお家だったそうですが、すべてを失い、何とか帰国し、山口県宇部の親戚のところに身を寄せます。

しかしお父さんに仕事が見つからず、中学生になった山田少年も行商をして家計を助けたそうです。ある時、ちくわを仕入れて、おでん屋さんに売りに行きます。薄汚い格好の少年が売る、それも品質の良くないちくわを買ってくれる人はなかなかいない。あるおでん屋さんに、「ちくわ買ってください」と入ります。中年のおばさんが、「あんたは中学生かい」、山田少年「はいそうです」と答えた。そのおばさんが、「全部買ってあげるよ。これからも残ったら、持っておいで、全部引き取ってあげるから。」帰り道、自転車をこぎながら、山田少年は涙がとまらなかったそうです。「生きていてよかった。生きて行くぞ」と思ったとのこと。山田監督はこのおばさんのやさしい心が、私の人生に入ってきて、自分の映画の底流にはこのおばさんのやさしい心が流れていると話されていました。やさしい思いやりのこもった一言が、生きる力や生きる希望を与えることがあります。

 続いて新劇の俳優だった宇野重吉さんの話をなさいました。宇野さんは舞台に映画に活躍された名優でした。宇野さんは、1941年頃太平洋戦争勃発の気配に、「もう死のうと思った。」そうです。戦争なんかで死にたくない。自殺しようと思った。けれど死ぬ前にもう1本だけ映画を見て死のうとおもった。「スミス都へ行く」当時日本で上映されるアメリカ映画の最後の映画だった。これで戦争中アメリカの映画は上映されることはなかった。どのような映画化と言いますと、地方から出て来た青年議員が、政治の腐敗に立ちむかう社会派ドラマだった、宇野さんはこの映画を見て「もうちょっと生きてみよう」と思った。後に、山田監督に「山田君、映画っていうのはね、死のうと思った人間を生き返らせる力を持ってんだよ。」しっかり真剣に作らなきゃいけないよと言われたように思ったそうです。

思いやりのこもったやさしい一言が、希望を見失いつつある人に生きる力を与えたり、偶然目にした映画の場面やストリーが、しんどさや辛さ、将来への大きな不安を抱え、もう死のうと思う人を、生き返らせたり、生きる希望を与えたりすることがあるのです。

 

さて、今日の福音に目を向けましょう。「イエスの姿が変わる」とテーマがついております。16章の終わりを見ますと、主イエスは弟子たちに、十字架と復活の出来事について、はっきりとお話をはじめます。ペトロは、「とんでもないことです。そんなことはあってはなりません。」と主イエスに言います。そして主から「サタンよ、引き下がれ」と叱られてしまいます。特に、十字架の出来事

弟子たちにとって、理解しがたいこと、恐れや不安をいだかせることであったと思われます。その6日後、主イエスがペトロとヤコブとその兄弟ヨハネだけをつれて高い山に登った時に、今日の出来事が起こりました。

 どういうことが起こったのでしょうか。彼らの目の前で、主イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。更に、モーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合ったというのです。これは弟子たち、そして私たちのための出来事です。神の国を、復活の姿を見せて下さったのです。

 困難多き人生において、暗闇の存在が大きくなる世界で、意気消沈してしまわないように、神の国、復活の出来事が成就した時の様子を垣間見させてくださったのです。これは神の国、復活の出来事の映画で言うと、予告編です。

 ペトロは何が何だかわからなくて、ここに幕屋を立てて、ずっとここに住みましょう、ここに留まりましょうと言います。すると光り輝く雲が多い、神さまの声をペトロたちは聴きます。「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」弟子たちはひれ伏し、恐れに捕われます。すると主イエスは、彼らに触れて、「立ち上がりなさい、おそれることはない。」と励まします。主イエスは度々山に登り、祈りをささげられました。山は留まるためにあるのではないのです。下りるためにあるのです。

 主イエスと弟子たちは、山を下り、十字架の道、復活への道を歩みます。

 弟子たちはこの出来事に励まされて、宣教伝道の道を歩みます。

 

先ほど拝読したフィリピ書を思い出してください。「何とかして死者の中からの復活に到達したいのです。」「何とかして捕らえようと努めているのです。」「神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

 聖公会と言う教会が大切していること、私たちは神の国・真理・復活の出来事を目指して旅をする旅人であると言う自覚です。パウロも何とかして到達したいと願い、祈る旅人であると自覚していました。必ず到達できる、それは「自分が主イエス・キリストによって捕らえられているからだ」と語っています。主イエスが掴んでいてくださっていると言うのです。

 

 弟子たちは、山の上で神の国、復活の出来事の予告編を見て、困難な旅路を越えて行きます。私たちも今日、予告編を耳にしました。それだけではありません。主日の礼拝・聖餐式は、神の国、十字架と復活の出来事の予告編を体験しています。神さまの光に照らされながら、神の国に向かって、困難がありますが、励まされつつ歩んで行きましょう。

父と子と聖霊の御名によって アーメン

<黙  祷>

 ウクライナとロシアほか戦争状態にある国々・地域に平和が訪れますように。

 サイクロンが襲い、非常事態宣言が出るほどの大きな被害が出ているニュージーランド北島の犠牲者・被災者のため。

 トルコ・シリアの大地震、犠牲者と被災者、救援に当たる人々のため。

<主の祈り>

救い主キリストが教えられたように祈りましょう。

天におられるわたしたちの父よ

み名が聖とされますように

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を

ゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

関連記事一覧

PAGE TOP