復活節第3主日

<特   祷>

神よ、誉あるみ子は、パンを裂くみ姿のうちに、ご自分を弟子たちに示されました。み恵みによって、わたしたちの信仰の目が開かれ、贖いのすべてのみ業のうちに主を見いだすことができますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

<聖   書> ヨハネによる福音書 21:1~14

<メッセージ> さあ、朝の食事をしなさい

父と子と聖霊の御名によって アーメン

主のご復活を心よりお祝い申し上げます。

本日の福音書も、復活の主イエスと弟子たちの出会いの出来事です。ヨハネによる福音書は、主イエスの復活が3度にわたって示されたことを記しています。(ヨハネ21:14)

最初はマグダラのマリアに対して、次は、ユダヤ人の指導者たちを恐れて閉じこもっていた弟子たち、そして今回は3度目、弟子たちの日々の仕事である漁に戻っていた弟子たちに主イエスは姿を現わします。いずれの場合も、最初は、弟子たちはそれが主イエスであることは気づかなかったとヨハネは記しています。つまり、復活の主は、弟子たちにとって、明白なこととして思われなかったということです。しかし、主は「そこに」共におられます。深い悲しみの内にいるマリアと共におられます。背後から支えるように、やさしく「マリア」と呼び掛けられます。(ヨハネ20:15)

主イエスは、恐れに囚われ、身動きできない弟子たちと共におられます。「平和があるようにとシャロームを祈り、十字架の死を乗り越えられた痕跡を見せながら、神の力・聖霊をお与えになり、福音宣教へと派遣されます。(ヨハネ20:26)「復活の主と出会った。」と言う弟子たちに、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」とすねたように言うトマスにも、主イエスは対面され、見ないで信じる人の幸い(私たちのこと)という大切な教えを語られました。

キリスト者を脅迫し、殺害しようと意気込んでダマスコに向かいサウロ(後のパウロ)にも、主イエスは共におられます。

私が高校生の時、ロス先生と言う英会話の先生がおられました。本当は宣教師さんでした。英会話の授業で、素敵な声でゴスペルを唄ったり、聖書のお話をしてくださいました。また、ロス先生はアフリカ系アメリカ人で、奥様が白人だったため、若い頃、アメリカで結婚が認められず、カナダに逃避行をして、やっと結ばれたことを涙ながらにお話下さったり、心豊かになる英会話の授業でした。

このロス先生がある時、「私たちは目で物を見る。でも本当にあなたの目は大事なものを見ていますか。私たちは耳で声を聞くが、あなたの耳は本当に大事なものを聞いていますか。」と言われました。

サウロが、本当に大切なもの(主イエス)を見、大切なこと(主イエスのことば)に聞く人になるように、主イエスはサウロと共におられ、迫害者から福音宣教者へと変えられました。(使徒言行録9章)

そして、3度目は、仕事の現場にも共におられます。「しかし、その夜は何も捕れなかった。」弟子たちはがっかりしていたでしょう。彼らは気づいていませんが、主イエスは岸辺に立って、弟子たちを見つめておられました。(ヨハネ21:4)私たちもその人生において、何もかもうまくいかない経験を致します。ひとりぼっちのように感じることもあるでしょう。倒れてしまいそうなこともあるでしょう。けれども、主は見守っていてくださっています。ずっと、見守ってくださっています。

そして、私たちを食事に誘われるのです。弟子たちを宣教活動の送りだす時、まず食事に誘われるのです。主イエスの宣教活動は「いのち」にかかわる活動です。食事も「いのち」にかかわる大切なことです。体と心に力をつけないと、私たちは歩み出せません。「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」(ヨハネ21:12)主イエスは優しい方です。魚を焼く炭火まで用意して下さっています。(ヨハネ21:9)そして、魚を焼いてくださいます。キリスト教会では、食事を大事にしてきました。今残念ながら、新型コロナウイルスの影響で、多くの教会が愛餐会・祝会(昼食)を控えています。教会が食事を大事にしてきたのは、ガリラヤ湖畔でお給仕して下さる主イエスの姿に倣ったことでした。(一日も早く、共に食事ができるようにお祈りします。)

大学のチャプレンをしております時、学生のボランティア・サークルの学生と沖縄スタディツアーに行きました。そこで沖縄の辺野古でおじい・おばあのお話を聞きました。おばあは「お結び」を学生のために作って来て下さいました。その「お結び」のおいしかったこと。「お結び」を頂きながら、おばあが学生たちに次のようなことを話されました。「会えば、兄弟と思いなさい。」

主イエスは言われました。「私の母とは誰か。私のきょうだいとはだれか。」そして、弟子たちに手を差し伸べて、「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。」神さまを求めて、神さまに招きに応じて集まって来る人は皆、わたしの兄弟、姉妹、母なのだ、主イエスはそのように信じておられました。私たちは、兄弟、姉妹、父、母です。これから出会う人々もそうなのです。

今、食事は共にできませんが、私たちには主イエス・キリストが与えられています。まぶねの中にすやすや眠るキリスト、悪霊を追い出し病をいやされるキリスト、聖餐式を残されたキリスト、十字架上のキリスト、復活のキリスト、昇天のキリスト、また再び来り給うキリストはすべて「神われらと共にいます。」「主はわれらと共にいます。」という福音を告げる主イエス・キリストの姿そのものなのです。

「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。」(ローマ6:8)とパウロはローマの教会に書き送っています。

主イエスの復活は、「神われらと共にいます。」という救いのおとずれ(音信・Good News)を指し示しています。そして聖餐式です。聖餐式では、私たちは主イエスの兄弟、姉妹、父、母として招かれ、そして主イエスがお給仕(司式)をしてくださっているのです。

私たちは、本日の特祷で次のようにお祈りしました。「パンを裂くみ姿のうちに、ご自分を弟子たちに示されました。み恵みによって、わたしたちの信仰の目が開かれ、贖いのすべてのみ業のうちに主を見いだすことができますように」

私たちの信仰の目が開かれ、いかなる時も主が共におられることを信じ、歩み出せますように、お祈りします。

父と子と聖霊の聖名によって アーメン

<ウクライナの平和のための祈り>

正義と平和の神よ、 

わたしたちは今日、ウクライナの人々のために祈ります。 

またわたしたちは平和のために、そして武器が置かれますよう祈ります。 

明日を恐れるすべての人々に、 あなたの慰めの霊が寄り添ってくださいますように。 

平和や戦争を支配する力を持つ人々が、知恵と見識と思いやりによって、 み旨に適う決断へと導かれますように。 

そして何よりも、危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子どもたちを、あなたが抱き守ってくださいますように。 

平和の君、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン。 

<主の祈り>

救い主キリストが教えられたように祈りましょう。

天におられるわたしたちの父よ

み名が聖とされますように

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を

ゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

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