大斎節第1主日(2022.03.6)

2022年3月6日 大斎節第1主日

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<特祷>

四十日四十夜、わたしたちのためにみ子を断食させられた主よ、どうか己に勝つ力を与え、肉の思いを主のみ霊に従わせ、常にわたしたちがその導きにこたえ、ますます清くなり、主の栄光を現すことができますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられるみ子イエス・キリストによってお願い致します。アーメン

<聖書>

ローマの信徒への手紙 10:8b〜13、10:7

<メッセージ> 信仰は聴くことに始まる

父と子と聖霊の御名によって アーメン

聖公会の教会では、今年は3月2日から大斎節に入りました。少し遅い大斎節です。若い頃、牧師さんから「大斎節を失う者は1年を失う」と言われたことを思い出します。友人とスキーに行きたくて、でも遊んでいていいのだろうかと、後ろめたい気持ちで夜行列車に乗ったことを思い出します。大斎節は、復活日に洗礼を受ける志願者の準備期間として始まりました。4世紀ごろからその期間が長くなり、7世紀頃には、主日(日曜日)を除く40日間となったようです。40という数字は聖書の中で、特別な意味をもつ数字です。

 ノアの洪水は40日40夜続きました。(創世7:4~)

 モーセは、十戒を神さまから頂くためにシナイ山に40日間留まりました。(出24:18)

 出エジプト後のイスラエル民族は荒れ野を40年間彷徨しました。(ヨシュア5:6)

 主イエスは、40日間昼夜断食をされました。(マタイ・ルカ)このように、40という数字は新しい土地への旅、準備、悔い改め、修行を現す聖書では聖なる数字となっています。この40日間をどう過ごすのか。今日はローマの信徒への手紙に聴きましょう。

私が主イエスについての聖書のメッセージを最初に聞いたのは中学1年生の時でした。それも入った学校が偶然ミッションスクール(キリスト教主義学校)だったからです。父親・母親(母親はミッションスクール出身)はこの時クリスチャンではありませんでした。きっとただただ頼りない息子の行く末を心配して、中高大一貫校を受験させたのだと思います。私もキリスト教の学校へ行きたいと思ってはおりませんでした。聖書もキリスト教も何も知らず、関心を寄せていたわけでもない私が、教会に通うようになり、高校生の時洗礼を受けることになったのは、まさに神さまのお導きがあったとしか言いようがありません。それは偶然でしょうと思われる方もあるかもしれません。

本当にその通りで、「偶然」「たまたま」なんですが、様々は方法で神さまは私たちに福音に触れるチャンスを与えられるのだと思います。

今日の私のメッセージも、たまたま見てくださっている方もいるかも知れません。

「主イエスについてのみことば」は、私たちにとって良い知らせ(福音、good news)です。ある方は、福音とは神さまからのラブレターだと言った方もあります。主イエスが私たちの罪の身代わりに、私たちの苦しみを背負って、十字架にかかって死んでくださいました。その後、墓に葬られ、三日目によみがえって、復活のいのちを確かなものとして示し、天に上げられて、今、神の右の座に着いておられます。そして、福音とは、この主イエスを救い主と信じるなら、罪が赦され、神との平和を保ち、永遠のいのちをいただくことができる、私たちも復活のいのちに招き入れられるという、神さまの私たちに対する大きな愛の良い知らせなのです。

神さまからの良い知らせを信じるためには、まず聞かなくてはなりません。先ほど拝読したローマの信徒への手紙にこうあります。「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)この聖句が書かれた時代は、主に口頭での伝達が宣教・伝道の手段だったので「聞く」という言葉が使われているのだと思います。聖書も長い間、多くの人々は手にすることはできませんでした。先日、「心耳(しんじ)」という言葉があると教えて頂きました。心で「聞く」、それも「聴く」ということばのほうがいいでしょう。耳を十方、四方にそばだてて、心で聴くのです。

今は活字となった書物もたくさんあります。インターネット上にもいろいろと紹介されています。聖書も皆が手にすることができるようになりました。「読む」「見る」も含めて、深く見つめる、深く「知る」ことが大切だと思います。「心眼」という言葉があります。「物事の真の姿を見抜く心」「心の眼で見る・知る」ことが大切です。自ら知りたいと求めている場合でも、たまたま聖書のことばに触れた場合でも、神が与えてくださった救いのチャンスを逃すことなく受け止めることをお勧めします。

 ローマ書にはまた、次のようなみ言葉があります。「では何といわれているのだろうか。御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」(ローマ10:8)申命記30:14からの引用です。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」

神さまはご自身のことばを、どこか遠いところに隠しておられるのではなく、あなたの近くに、あなたの口に、あなたの心に置いてくださっているというのです。そして、あなたはそれを行う、み言葉を生きることができると神さまは宣言してくださっています。今年の大斎節、み言葉を味わって過ごされることをお勧めします。でも、聖書の言葉を生きることは難しい、そうお思いの方がおられるでしょう。

まずは、自分のことばかりでなく、隣人のことを考えること、できれば目の前にいる困った人に手を差し伸べること、悲しむ人、泣く人、苦しむ人に寄り添うこと、喜ぶ人と共に喜ぶことから始まります。

特に私は、私の周りで起こっていること、今世界や社会が抱える課題や問題を、「ひとごと」ではなく、「自分のこと」としてとらえていくことができればと考えています。3月4日の朝日新聞天声人語に、「一人の兵士の視点から戦争への疑問をつきつけるのが、シャンソンの名曲『脱走兵』だ。フランスの作家ポリス・ヴィアンの手によるもので、召集令状を受け取った男がこんな手紙を書く。<大統領閣下 私は戦争はしたくありません 可哀相な人たちを殺すために 生まれてきたからではないからです>」とありました。

ウクライナの人々の苦難を我が事、自分のこととして考えていきましょう。またロシアの人々のためにも祈りましょう。だれも人を殺すために生まれてきたのではないからです。

そうすれば、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」という主イエスの御言葉を生きることがそこから始まります。

 祈ります。「主よ、どうか、日々の生活の中で、自分にではなく、主に立ち返り、主の声を聞き、主の声に従って、み言葉を行うことができますように、隣人に寄り添うことができますように、ウクライナの人々の苦難を我が事としてとらえることができますように、お力とお恵みをお与えください。きょう一日、主の声に従って歩むことができますように。」

父と子と聖霊の御名によって アーメン

<主の祈り>

救い主キリストが教えられたように祈りましょう。

天におられるわたしたちの父よ

み名が聖とされますように

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を

ゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

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