聖霊降臨後第6主日

<特   祷>

恵みと憐れみを賜るとき、殊に全能を現わされる神よ、豊かな慈しみをわたしたちに与え、あなたが約束されたものを目指して走り、ついに天の宝にあずかる者としてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

<聖   書> ルカ10:38~42

<メッセージ> 「余白」の大切さ

父と子と聖霊の御名によって アーメン

ルカによる福音書10章から11章の中心は、先主日ご一緒に見つめた律法の専門家の主イエスへの質問、「先生、何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」にあります。言い換えると、「いのちの道を歩むためには、どうすればいいか」というテーマがあります。10章の最初には、72人の派遣という伝道・宣教活動、善いサマリヤ人に倣って生きる、11章の最初には主の祈りが示され、「祈り」の生活、これらが「いのちの道」への入り口であります。

そして、今日の福音、「マルタとマリア」も、「いのちの道」につながる出来事であります。

7月10日の朝日新聞朝刊、「日曜に想う」と言うコラムがあります。この日は編集委員吉田純子さんの投稿で、<「余白」の使い方 教える教育>というテーマの記事でした。前半は、公立中学における休日の部活動指導を地域の指導者や団体へと移行させる改革が国指導で進んでいます。公立だけでなく私学にも指導が大阪府から来ています。活動時間を縮小するようにという努力がなされています。しかし、試合やコンクールが近づくと、どうしても土日練習したいと言う生徒からの要望があります。先生からすると、練習したいと願うかわいい教え子を「他人に預けろというのか」先生の責任感からでしょう、憤る先生もでてきます。吉田さんは、先生の働き方改革は、国も都道府県も学校も先生もよく話し合って決めないといけないと書いておられる。

吉田さんが一番気にしているのは、部活をがんばりすぎると、卒業するとその種目をしたくない、その楽器や歌を手放してしまう子が多いということ。

私も先日ある大学の先生とお話をしていてこのようなお話がありました。推薦入学で入ってくる生徒の面接をした時、志願書には、バレーボールを高校時代にしている。うちのバレー部弱いのだけれども、大学で、バレー部に入ってくれるかな、と尋ねると、「とんでもない、もういいです。大学に入ったら自由に過ごします。」また、高校で吹奏楽をしている生徒に、大学に入ったら、吹奏楽部にはいるの、と尋ねると、「もう充分です。大学ではしません。」よくあるのです、燃え尽き症候群。コンクールや試合のために力を使い切ってしまっている。

吉田さんは、中学の時吹奏楽だった。地方大会で早々に敗退。そのおかげでいろんな曲に取り組めた。指導する先生も、音楽大好きという先生で、いろんな作曲家の話をしてくれたり、いろんな曲のカセットテープを貸して下さった。音楽の歴史を知り、想像の世界だけれども世界中を旅して、音楽って何だろうか、「余白のような時間」を過ごすことができて、人間として大きく育てて頂いた気がすると書いておられます。

記事の最後には、「せっかく音楽と出会えたこどもをその先の深淵へと導くためには、大人にも学びの時間が必要だ。己の人生を豊かに生きる大人たちの背中をこどもたちに見せ、休むことの意味を伝えることも、また現代の教育だろう。真の働き方改革は形ではなく、そうした心の整備から始めるべきではないか。人生にもっと余白を。」と言う内容のコラムでした。

井上洋治先生と言うカトリックの神父さんがおられました。「余白の旅」という名著があります。その中で、水墨画についてこう書いておられます。「墨でスーッと丸を書く。その白い部分、余白が大事。そこに超越者、神さまがおられる」と書いている。余白が大事なのです。

本日の福音書を見つめてみましょう。先主日の「善いサマリヤ人のたとえ」に続いて、有名な「マルタとマリア」と主イエスの出来事です。

主イエスがある村に入ります。マルタが、家に迎え入れます。「旅人をもてなしなさい。」これは旧約聖書からの伝統、素晴らしい教えです。今もシルクロードで生活する砂漠の民は、このことを忠実に守っています。創世記の18章、アブラハムのところに神さまの使いが(もちろんアブラハムは気づいていませんが)3人やって来た時、アブラハムは旅人だと思い言います。「ご主人さま、もしよろしければしもべのところを通り過ぎて行かないでください。水を少しばかり持ってこさせますから、足を洗って、木陰でお休みください。またパンを幾らか持ってきますので、元気をつけ、それからまたお出かけください。せっかくしもべの近くを通られたのですから。」これは聖書の民のすばらしい教えです。マルタはこの教えを守ります。

マルタにはマリアと言う妹がおりました。マリアは主イエスの足元に座り、主イエスのお話を一生懸命聞いています。マルタは、主イエスのお世話をしなければと、忙しく立ち働いています。妹のマリアを見て、マルタはイラっとして、主イエスに言います。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせています。何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」すると主はお答えになります。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。」

先ほど、申し上げました「旅人をもてなしなさい。」これは聖書の民の、生きる知恵、すばらしい教え・習慣です。問題は、マルタの心の内にあります。主イエスは、心の内を見つめられます。イラっとして、気遣いし、思い煩っています。心が乱れています。

当たり前ではないでしょうか。この世に生きている限り、イラっとする、思い煩うし、心が乱れるのは当たり前ではありませんか。けれども、こうした思いには気を付けなければなりません。

この時、マルタは主イエスのお世話をしようと必死なのですが、肝心の主イエスとつながっていません。お世話しなければならない、という思いに縛られて、主イエスとつながっていません。先ほどの吉田さんの言葉からすると、「余白がない」のです。もてなすことで、心が一杯一杯なのです。何が大切なのか見分けることができなくなっています。人を非難したりしてしまう。

主イエスは続けます。「しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それをマリアから取り上げてはならない。」

教会の聖餐式、礼拝、聖書の学び、余白の時間なのです。余白に神さまがおられるのです。主イエスがおられるのです。

心乱れたり、思う煩う時、どうしたらいいでしょうか。マリアの道を選びましょう。主イエスの足元に座り、み言葉に耳を澄ますことにしましょう。そこに命の道が開けてきます。命を得る道が開けて参ります。

父と子と聖霊の御名によって アーメン

<ウクライナの平和のための祈り>

正義と平和の神よ、 

わたしたちは今日、ウクライナの人々のために祈ります。 

またわたしたちは平和のために、そして武器が置かれますよう祈ります。 

明日を恐れるすべての人々に、 あなたの慰めの霊が寄り添ってくださいますように。平和や戦争を支配する力を持つ人々が、知恵と見識と思いやりによって、 み旨に適う決断へと導かれますように。 

そして何よりも、危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子どもたちを、あなたが抱き守ってくださいますように。 

平和の君、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン。

<主の祈り>

主イエスが教えられたように祈りましょう。

天におられるわたしたちの父よ、

み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです アーメン

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