顕現後第6主日(2022.2.13)

2022年2月13日 顕現後第6主日

<特 祷>

永遠にいます全能の神よ、み子イエス・キリストは病気の人をいやし、健やかな命を回復されました。憐れみをもってこの世の悩みを顧み、いやしのみ力によって、人々と国々とを健全なものとしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

<聖 書>

エレミヤ書 17:7~8
詩編 1:1~3
ルカによる福音書 6:20~21

<メッセージ> この木のようになりたい

父と子と聖霊の御名によりて アーメン

桃山学院大学のチャプレンをしている時、毎朝犬の散歩に行っておりました。
時間があります時、1時間ほど歩いて、松尾寺バス停のすぐ横にあるクスノ木のところまで行きました。大楠の木で、大変バランスよく伸びた樹で、樹齢700年、高さが30メートル、幹回りが9、36メートルというなかなか立派な木です。「クスノ木さん、700年間(大阪夏の陣、冬の陣)何を見て来たのですか」と、お話をしに行っておりました。古い巨木に、人は心惹かれるようです。

人生いろいろなことがありますが、なかなかこの木のようにはなれません。クスノ巨木のように泰然自若(たいぜんじじゃく。ゆったりと落ち着いて、平常で変わらないこと)として、物事に処すると言う訳にはなかなかいきません。

作家藤沢周平さんの名作に「静かな木」という小品があります。藩の勘定方を退いてはや五年という孫左衛門が主人公です。あと二年で還暦を迎える。城下の寺に立つ欅(けやき)の大木に心ひかれる彼は、見上げるたびにわが身を重ね合せ、平穏であるべき老境の日々を想い描いておりました。ところが……。難題が持ち上がり、苦労の連続。「なかなかあの大木のようにはなれない。」と感慨深くつぶやく場面が出て参ります。(藤沢周平さん自身の思いだったとか・・・)

高さが20メートル・30メートルを超える巨木が、長年にわたって風雪に耐えるためには、根が枝ぶりと同じくらいの広さで張っていないと、倒れてしまうと言われてい
<メッセージ> この木のようになりたい
父と子と聖霊の御名によりて アーメン

桃山学院大学のチャプレンをしている時、毎朝犬の散歩に行っておりました。
時間があります時、1時間ほど歩いて、松尾寺バス停のすぐ横にあるクスノ木のところまで行きました。大楠の木で、大変バランスよく伸びた樹で、樹齢700年、高さが30メートル、幹回りが9、36メートルというなかなか立派な木です。「クスノ木さん、700年間(大阪夏の陣、冬の陣)何を見て来たのですか」と、お話をしに行っておりました。古い巨木に、人は心惹かれるようです。

人生いろいろなことがありますが、なかなかこの木のようにはなれません。クスノ巨木のように泰然自若(たいぜんじじゃく。ゆったりと落ち着いて、平常で変わらないこと)として、物事に処すると言う訳にはなかなかいきません。

作家藤沢周平さんの名作に「静かな木」という小品があります。藩の勘定方を退いてはや五年という孫左衛門が主人公です。あと二年で還暦を迎える。城下の寺に立つ欅(けやき)の大木に心ひかれる彼は、見上げるたびにわが身を重ね合せ、平穏であるべき老境の日々を想い描いておりました。ところが……。難題が持ち上がり、苦労の連続。「なかなかあの大木のようにはなれない。」と感慨深くつぶやく場面が出て参ります。(藤沢周平さん自身の思いだったとか・・・)

高さが20メートル・30メートルを超える巨木が、長年にわたって風雪に耐えるためには、根が枝ぶりと同じくらいの広さで張っていないと、倒れてしまうと言われています。根の深さや長さも、高さの何倍も根が張っていないと、倒れてしまうと言われています。太い幹や枝、葉を守るためには、しっかりとした根が必要です。

聖書の世界でも「木」が登場致します。エレミヤ17:7「祝福されよ、主に信頼する人は、主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。」神さまに信頼する人は、神さまがその人を守り、水路のほとりに根を張った木の
ように、暑さにも干ばつにも負けない人となるとエレミヤは語ります。

また詩編の1篇も、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人の幸いを、木にたとえています。「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。」主に信頼する人、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人はしっかりとした根を張ることができます。それが大きな木になるためには、根が養分や水をしっかり吸い上げなければなりません。私たちは、泰然自若とした大木にはなかなかなれませんが、命の水を吸い上げることができます。それは、主イエスが下さる命の水であります。

さきほど拝読しました福音書をもう一度見つめてください。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。」「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」大勢の弟子と民衆があちらこちらから集まって来た、とルカは語っています。

私たちも人生の歩みの中で、幸いを求めて生きています。しかし、イエスの言う“幸い”は、私たちの考える幸いとは随分違うようです。どうしてイエスは、このようなことを告げられるのでしょうか。

インターネットで「福音のヒント―せせらぎ」という黙想の手引きがございます。(是非皆様も黙想の手引きとしてください。)そこに、ある修道院のお祈りの言葉が紹介されていました。 限りなく人々を慈しまれたイエスのみ心 人皆が救われますように。限りなく人々を慈しまれたイエスのみ心 愛と正義のうちに世界を平和で満たしてください。限りなく人々を慈しまれたイエスのみ心 信じる人々の迫害者にも、弱い人を圧迫する人にも、あなたの愛が勝ちますように。」

限りなく人々を慈しまれるイエスの愛、その愛が、この社会で、世界で弱くされている人々に注がれているとお祈りされています。主イエスの愛が、“貧しい人”“飢えている人”“悲しむ人”の上に注がれています。私の隣にいる“貧しく、飢えていて、悲しんでいる人の中に、イエスの愛が注がれています。また、私自身の中にある貧しさ、飢え、悲しみにも、イエスの愛が注がれています。それも、限りなく、いつも、と祈られています。

そしてこの主イエスの慈しみは、気の毒に、かわいそうにと言うことではなくて、さあ私と一緒に立ち上があろう、あなたこそ、今社会や世界を、愛と希望に満ちたものに変えていく力をもっていると言うメッセージがこめられています。この幸いを、告げ知らせに来てくださった主イエス、その主イエスの愛と正義のうちに、世界が平和で満たされますように、と祈られています。 主イエスの人々を限りなく慈しまれる心が、わたしたちの心の栄養となる命の水です。この水は私たちの貧しさ、弱さ、飢え、悲しみに注がれています。主イエスの命の水を頂きながら、あの木のようになりたい。 父と子と聖霊の御名によりて アーメン

<主の祈り>

救い主キリストが教えられたように祈りましょう。
天におられるわたしたちの父よ
み名が聖とされますように
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

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