聖霊降臨後第11主日

<特   祷>

主よ、教会はただ主の助けによってのみ健全に立つことができます。どうか絶えることのない助けをもって主の教会を清め守り、恵みと力によっていつまでも堅く保ってください。主イエス・キリストによってお願いいたします。

アーメン

<聖   書> ルカによる福音書13:22~30

<メッセージ> 茶道の「躙(にじ)り口」と「狭い戸口」

父と子と聖霊の御名によって アーメン

 

主イエスと弟子たちの旅が続いています。主イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムに向かって進んでおられます。すると、主イエスに質問をする人が現れます。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」

山浦玄嗣先生の訳「ガリラヤのイエシュー」では次のように訳されています。「旦那さま、神さまに助けて頂く人はごく僅かなものでござりますか?」

主イエスは、その人も含めてその場にいたみんなにこのように言われました。「狭い戸口から入るように務めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」山浦先生の訳では、「苦労しても狭い木戸口を通って入るようにしなされ。言っておくが、大勢の人が何とかして入りたいと思うのに、入れないんだ。」質問した人の期待、人々の期待とは違うお答えのように思います。

さらに続いて、主人によって戸が閉められてしまったら、開けてもらえないし、「お前のことなんかどこのどなたか知らない。」と言われるというのです。さらに、それどころか、「お前たちがどこの者かしらない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ。」とひどいことを言われ、戸の外で泣きわめいたりすることになると言われます。最後には、後の人が先になり、先の人が後になると言われます。私は救われないのか、そのような気持ちになります。

神さまによって助けられる人、救われる人は少ないのでしょうか。

「狭い戸口」と聞いて、私は茶道の「にじり口」を思い出します。千利休がキリスト者であったかどうかはわかりませんが、弟子たちにキリスト者も多く、何らかの宣教師や聖餐式からの影響はあったと考えられます。

66センチ四方の狭い入り口から、茶室に入ります。母親の胎内、みんな母親のお腹の中で育ち、生まれた者であるということを表していると言う説があります。またお侍にも茶室に入る時には、刀を預けて、頭を下げてへりくだって入る。茶室では、みな平等であると言う世界観が示されていると言う説もあります。

主イエスは、今どこに向かって旅をしておられるのでしょうか。

エルサレムです。そこで何が主イエスや弟子たちを待っているのでしょうか。十字架の出来事です。主イエスはすべての人の命を贖うため、いのちを投げ出されます。十字架で両手を打ち付けられるのは、すべての人に向かって、両手を広げて迎え入れるお姿を示しています。神の国、天の国は、すべての人々に開かれています。その時、狭い戸口をくぐらないといけないのです。

これは何を表しているのでしょうか。へりくだること、自分の力では救いに与ることはできないということです。

ここに小島誠志牧師「見出された命」という本があります。堅信式のお祝いでよくプレゼンとします。この本の題名となっている文章があります。

ルカ15:8「無くした銀貨」のたとえからの小メッセージです。

「ドラクメ銀貨を10枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて探さないだろうか。 銀貨が見失われてどこか床の隅に転がっているというのであれば、その銀貨の存在には何の意味もありません。人に探し出されて、手に取られて、初めて価値あるものとなるのです。人も同じです。神に見出され、神の御手に捕らえられて、人は自分の存在の意味を知ります。神の御手の中でこそ人の命はかけがえがないのです。」

狭い戸口から入る、自分が主ではなく従なる者として、神に見出された者として、それもかけがえのない命を持つものとして、私が主イエスを見つける前に、主イエスによって見出された者であると言う信仰を持つことが、身をかがめ狭い戸口から入ると言うことなのです。

 また故 井上洋治神父は、主イエスに対する信仰について、次のように表現されました。※

 「祈りができないのならそれでもよい。アガペーの心がないのならそれでもよい。泥まみれの生活から抜け出せないのならそれでもよい。ただ手を合わせて私の方を向きなさい。私はアッパ神さまからいただいた私のすべてをこめて、私の方からあなたの方に飛び込んでいってあげる・・・」これが主イエスの愛であると表現され、安心して歩み出すようにと語り掛けておられます。

 茶室のにじり口を、へりくだってくぐるように、神の愛、主イエスの愛に身を任せて狭い戸口を入る時、そこに救いの道、神の国への道が開かれるのであります。狭い戸口は、すべての人に開かれています。

父と子と聖霊の御名によって アーメン

※井上洋治「第9章悲愛の突入」『井上洋治著作選集1』日本基督教出版局

<ウクライナの平和のための祈り>

正義と平和の神よ、 

わたしたちは今日、ウクライナの人々のために祈ります。 

またわたしたちは平和のために、そして武器が置かれますよう祈ります。 

明日を恐れるすべての人々に、 あなたの慰めの霊が寄り添ってくださいますように。平和や戦争を支配する力を持つ人々が、知恵と見識と思いやりによって、 み旨に適う決断へと導かれますように。 

そして何よりも、危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子どもたちを、あなたが抱き守ってくださいますように。 

平和の君、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン。

<主の祈り>

主イエスが教えられたように祈りましょう。

天におられるわたしたちの父よ、

み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです アーメン

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