<特 祷>
主よ、教会はただ主の助けによってのみ健全に立つことができます。どうか絶えることのない助けをもって主の教会を清め守り、恵みと力によっていつまでも堅く保ってください。主イエス・キリストによってお願いいたします。
アーメン
<聖 書> ルカによる福音書13:22~30
<メッセージ> 茶道の「躙(にじ)り口」と「狭い戸口」
父と子と聖霊の御名によって アーメン
主イエスと弟子たちの旅が続いています。主イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムに向かって進んでおられます。すると、主イエスに質問をする人が現れます。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」
山浦玄嗣先生の訳「ガリラヤのイエシュー」では次のように訳されています。「旦那さま、神さまに助けて頂く人はごく僅かなものでござりますか?」
主イエスは、その人も含めてその場にいたみんなにこのように言われました。「狭い戸口から入るように務めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」山浦先生の訳では、「苦労しても狭い木戸口を通って入るようにしなされ。言っておくが、大勢の人が何とかして入りたいと思うのに、入れないんだ。」質問した人の期待、人々の期待とは違うお答えのように思います。
さらに続いて、主人によって戸が閉められてしまったら、開けてもらえないし、「お前のことなんかどこのどなたか知らない。」と言われるというのです。さらに、それどころか、「お前たちがどこの者かしらない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ。」とひどいことを言われ、戸の外で泣きわめいたりすることになると言われます。最後には、後の人が先になり、先の人が後になると言われます。私は救われないのか、そのような気持ちになります。
神さまによって助けられる人、救われる人は少ないのでしょうか。
「狭い戸口」と聞いて、私は茶道の「にじり口」を思い出します。千利休がキリスト者であったかどうかはわかりませんが、弟子たちにキリスト者も多く、何らかの宣教師や聖餐式からの影響はあったと考えられます。
66センチ四方の狭い入り口から、茶室に入ります。母親の胎内、みんな母親のお腹の中で育ち、生まれた者であるということを表していると言う説があります。またお侍にも茶室に入る時には、刀を預けて、頭を下げてへりくだって入る。茶室では、みな平等であると言う世界観が示されていると言う説もあります。
主イエスは、今どこに向かって旅をしておられるのでしょうか。
エルサレムです。そこで何が主イエスや弟子たちを待っているのでしょうか。十字架の出来事です。主イエスはすべての人の命を贖うため、いのちを投げ出されます。十字架で両手を打ち付けられるのは、すべての人に向かって、両手を広げて迎え入れるお姿を示しています。神の国、天の国は、すべての人々に開かれています。その時、狭い戸口をくぐらないといけないのです。
これは何を表しているのでしょうか。へりくだること、自分の力では救いに与ることはできないということです。
ここに小島誠志牧師「見出された命」という本があります。堅信式のお祝いでよくプレゼンとします。この本の題名となっている文章があります。
ルカ15:8「無くした銀貨」のたとえからの小メッセージです。
「ドラクメ銀貨を10枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて探さないだろうか。 銀貨が見失われてどこか床の隅に転がっているというのであれば、その銀貨の存在には何の意味もありません。人に探し出されて、手に取られて、初めて価値あるものとなるのです。人も同じです。神に見出され、神の御手に捕らえられて、人は自分の存在の意味を知ります。神の御手の中でこそ人の命はかけがえがないのです。」
狭い戸口から入る、自分が主ではなく従なる者として、神に見出された者として、それもかけがえのない命を持つものとして、私が主イエスを見つける前に、主イエスによって見出された者であると言う信仰を持つことが、身をかがめ狭い戸口から入ると言うことなのです。
また故 井上洋治神父は、主イエスに対する信仰について、次のように表現されました。※
「祈りができないのならそれでもよい。アガペーの心がないのならそれでもよい。泥まみれの生活から抜け出せないのならそれでもよい。ただ手を合わせて私の方を向きなさい。私はアッパ神さまからいただいた私のすべてをこめて、私の方からあなたの方に飛び込んでいってあげる・・・」これが主イエスの愛であると表現され、安心して歩み出すようにと語り掛けておられます。
茶室のにじり口を、へりくだってくぐるように、神の愛、主イエスの愛に身を任せて狭い戸口を入る時、そこに救いの道、神の国への道が開かれるのであります。狭い戸口は、すべての人に開かれています。
父と子と聖霊の御名によって アーメン
※井上洋治「第9章悲愛の突入」『井上洋治著作選集1』日本基督教出版局
<ウクライナの平和のための祈り>
正義と平和の神よ、
わたしたちは今日、ウクライナの人々のために祈ります。
またわたしたちは平和のために、そして武器が置かれますよう祈ります。
明日を恐れるすべての人々に、 あなたの慰めの霊が寄り添ってくださいますように。平和や戦争を支配する力を持つ人々が、知恵と見識と思いやりによって、 み旨に適う決断へと導かれますように。
そして何よりも、危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子どもたちを、あなたが抱き守ってくださいますように。
平和の君、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン。
<主の祈り>
主イエスが教えられたように祈りましょう。
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです アーメン