大斎節第2主日

<特   祷>

全能の神よ、わたしたちには自らを助ける力のないことをあなたは知っておられます。どうか外は体を損なうすべての災いを防ぎ、内は魂を襲う悪念を除いてください。主イエス・キリストによってお願い致します。アーメン

<聖   書> ヨハネ3:1~17

<メッセージ> 生かされていることへの気づき

父と子と聖霊の御名によって アーメン

「わたしたちが くらやみに とどまることのないように キリストはひかりとして 世に来られた。」(ヨハネ福音書12:46)

私が大好きなテゼの賛美の歌です。まず、ご一緒に賛美することから始めましょう。

 主イエスの光に照らされた人のお話をしましょう。隠れた弟子とも言えるニコデモのお話です。ある日の夜、ファリサイ派の人で、指導的な立場にあったニコデモが、主イエスのもとにやってきます。夜ですので、人目を忍んできたのでしょうが、私はニコデモはとても謙遜で、道を求めてやまない姿勢は、すばらしいと思います。私もずっとそうありたいと思います。

彼は、主イエスと対立するファリサイ派の指導者でしたが、主イエスに何か惹かれるものを感じていたようです。ニコデモは「私ども」と言っていますので、彼一人ではなかったようです。「あなたが神のもとから来られた教師であると知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしをだれも行うことはできません。」ニコデモは主イエスが、神から来た人であると感じ取っています。十字架で亡くなられた主イエスの遺体を引き取ったのは、アリマタヤのヨセフとニコデモでした。

主イエスとの対話が続きます。「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

主イエスは、ニコデモを「神の国」「救い」「まことのいのち」へと導いて行かれます。

ニコデモは「私のように年老いた者が、新たな命に生まれ変わるなんてことはできるはずかありません。母親のお腹に戻ることなんてできません。」

もう一度、日の福音の5節~8節をもう一度お聴きください。

  イエスはお答えになった。「よくよく言っておく.だれでも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれなければならない。』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

禅問答みたいで難しい気がします。私は一休和尚の歌を思い出ました。

「とし毎に 咲くや吉野のさくら花 樹を割りてみよ 花のありかを」

 美しく咲く桜の花のありかを樹を割って丁寧に調べても分からない。なぜこんなに美しいのか調べてもわからない。「命」に関しても、命のありかについて、自分自身を割るように探ってみてても分からないというのです。私たちは確かに生きていますが、この命がどこからきてどこへいくのか、どんなに調べてもわからないというのです。桜の花の美しさは不思議だと、一休さんは感動しているのです。

私たちはいろいろなことを考えます。人間関係、家庭、健康、仕事、生きがい、幸福などいろいろと考えます。いのちについてはどうでしょうか。

どうして命与えられてここにこうして、私は生きているのか。なぜ生を受けたのか。私が望んで生まれてきたわけではない。私は3月4日に68歳になりました。100歳人生といいますが、そろそろ自分の「終(しま)い」について考えさせられます。つい最近も同級生や一つ下の同窓生が亡くなったりしたので、死と言うことを考えさせられます。生きることにせよ、死ぬことにせよ、いくら考えてもわからない。「いのち」がどこから来て、どこへ行くのか、はっきりとは分からないのです。風がどこから吹いてきて、どこへ行くのか分からないように。

ニコデモはファリサイ派の人ですから、律法を知り、守って、教えや掟を守って、自分の力で神の国を見る、救いに与る立場です。主イエスはそうなのだろうかとニコデモに問うておられます。いろいろなことを考察し、自分の力で、自分で理解して救い与るのだろうか。私たちにはどうしてもわからない事があるのです。ただただ、神の命が風のように私に吹いてきて、私を生かしてくれていることへの不思議さに感動と感謝をもって生きること、それが私たち信仰者の姿勢ではないかと、主イエスはニコデモに語り掛けておられるのです。

「命」がどこから来て、どこへ行くのかを知っている者ではなく、知らない者として、知らないままで、風のように吹いて来る神さまの命に生かされている自分を知ることが大切なことなのです。命について、律法について、ニコデモはきっと知識をいっぱい持っていたでしょう。それでいいのだろうか。知識でいのちを得られるわけではありません。

知識で神の国を見ることができるのではないのです。知識で救われるわけではないのです。そうではなくて、神さまの命の風に吹かれて、生かされていることを知っている、霊にから生まれたことを知っている、それが新たに生まれるということであり、神の国を見ると言うことなのです。

 そして、3章の16・17節です。

  ヨハネ3章の16節から17節は「小福音」と呼ばれ、福音書のエッセンスとも言われる主イエスみ言葉です。すばらしいことが書いてあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。」神さまは世を愛されているのです。それは「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」すべての人がです、すべての人が救われるために、神さまは独り子主イエスを私たちのためにお与えになったのです。十字架の上に神の独り子主イエスは、私たちみんなが救われるように、命を投げ出してくださったのです。そして、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」主イエスが私たちのところに来て下さったのは、この世のすべてが、すべての人が救われるためなのです。そして、本日は読まれませんでしたが、世に来た御子主イエスは「光」であったと続きます。

 最初に歌いました賛美を思い出してください。「わたしたちが くらやみに とどまることのないように キリストはひかりとして 世に来られた。」

 この世が、すべての人が救われるために、主イエスは来られました。私たちのところへ。

 主イエスとつながる時、すべての人が救われるのです。天の国が約束されるのです。

 でも、仮に洗礼を受けても、私は欠け多き者だし、自分中心だし、大丈夫かなと思われる方もあるでしょう。特祷にもありますように、「全能の神よ、わたしたちには自らを助ける力のないことをあなたは知っておられます。」自らを助ける力がない私、これが実際の私たちの姿なのです。しかし、私が主イエスを掴んでいるのではなくて、主イエスが私を捕まえていてくださるので、大丈夫なのです。安心して、信仰の道を歩みましょう。

 父と子と聖霊の御名によって アーメン

<黙  祷>

 ウクライナとロシアほか戦争状態にある国々・地域に平和が訪れますように。

 

 トルコ・シリアの大地震ほか大災害に見舞われている国々の人々、犠牲者と被災者、救援に当たる人々のため。

<主の祈り>

救い主キリストが教えられたように祈りましょう。

天におられるわたしたちの父よ

み名が聖とされますように

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を

ゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

関連記事一覧

PAGE TOP