2016年6月26日

「弟子の覚悟」

ルカによる福音書9章51-62節

本日、聖霊降臨後第6主日(特定8)の福音書は、ルカ9:51-62ですが、51-56節は「サマリヤ人から歓迎されない」という表題が付けられています。かつてアッシリア帝国の侵略を受けた影響で、正統派とされるユダヤ人から疎外された人々が生み出され、その差別を受けてきたがゆえに、イエス様を通してエルサレムでやがて起こる出来事を知らず、首都エルサレムへ向かう人物・イエス様を信用できなかったのでしょう。それに対して、激しい性格だったのでしょう、“雷の子(ボアネルゲ)”と呼ばれたヤコブとその兄弟ヨハネは、これもここでのサマリヤ人に負けず劣らず、イエス様の思いも知らず「天から火を降らせて、焼き滅ぼしましょうか?」とまで進言します。イエス様のサマリヤ人への深い眼差しが窺える有名な「良きサマリヤ人の譬」は10章で出てきます。

57-62節は「弟子の覚悟」と題されています。イエス様への追随希望者が「どこにでも従ってまいります。」と言うのに対して、ご自身の置かれている立場が狐や空の鳥以上に厳しいことを伝えられます。

別の人にイエス様は「わたしに従ってきなさい。」と呼び掛けられますと、その人は「主よ、まず父を葬りに行かせてください。」と答えました。するとイエス様は、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を広めなさい。」と言われます。これも厳しいことです。不思議なことですが、今日の旧約聖書日課、列王記上19:15-16、19-21は、大預言者エリヤがエリシャを後継者に指名する場面です。エリシャは、「わたしの父、母に別れの接吻をさせて下さい。それからあなたに従います。」と答え、エリヤは「行ってきなさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と寛大な返答をしています。イエス様はエリヤ以上に厳しく求められている感じです。

また別の人が「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言うと、イエス様は「鍬に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」と、これも厳しい返事が返ってきています。

この3番目の個所が出てくる度に、私は自分の"聖職志願”の時を思い出します。小池虔二司祭のお勧めで志願の気持ちになりながら、いざ家族にその旨を伝えたところ、猛反対に遭って思いを断念した時、自分の不甲斐なさに泣きました。幸いにして1年後に再決断をし、道が開かれていきましたが、私の覚悟の程を自覚させられたできごとでした。今となってみれば、そういうことを経たからこそ今の私があると思います。神様は弱い私を鍛え、強めて下さったと思います。

これらのことを臨床心理学の一分野である「交流分析(T.A.)」流に言うと、「人生の脚本」の書き換えをしたということになるでしょう。TAの開発者・精神分析医エリック・バーンに言わせると、親は子どもに「あなたはこう生きていきなさい。」という“脚本”を無意識のうちに渡し、子どもは忠実にそれを生きる。自分の中に書き込まれた脚本に気づき、それがおかしければ書き直すことが出来るというのです。

例えば私の場合、家族の中に誰一人、キリスト者のいなかった中(実は叔父が密かに受洗していたことを後年に知る)で、中学3年生の時に受洗を決断したこと。これは1回目の書き換えだった思いがいたします。今日の使徒書ガラテヤの信徒5:1、13-25に“肉の業”が列記されています。それに対して“霊の実”として愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制が挙げられていますが、日曜学校を通してキリスト教に触れ、こうしたものに目を向けることを促されたと思います。有り難いことでした。イエス様の弟子となって歩んでゆくことは難しそうでありながら、イエス様が共にいて下さるので、私たちは身を委ねれば良いのです。

個人の出来事を越えて、社会と世界に目を向けます時、この数日、英国がEUからの離脱を国民投票で決議したニュースに、私は気分が悪くなりました。聖公会の故郷・英国が、古い大英帝国に逆戻りし、排外政策へと動いていこうとする姿に、英国人宣教師の存在を通して知ったキリスト教の歩み方と違うものを感じてしまいました。今日の特祷「どうか、わたしたちを害する肉の行いを聖霊によって除き、み心に従って良い行いの実を結ぶことができますようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」と祈りましょう。より良き社会と世界を目指して歩みましょう!