復活前主日

<特  祷>

人類じんるい深くふか愛しあい救いすくぬし、みイエス・キリストをこのつかわされた全能ぜんのうかみよ、みはわたしたちと同じおな肉体にくたいり、おのれ低くひくして至るいたまで、十字架じゅうじか至るいたまであなたにしたがわれました。どうかわたしたちに恵みめぐ与えてあた、み苦しみくる模範もはんしたがわせ、またそのよみがえりにあずからせてください。しゅイエス・キリストによっておねがいいたします。アーメン

<聖   書> マタイ27:1~54

<メッセージ> 神さまにすべてを委ねた人

父と子と聖霊の御名によって アーメン

聖週が始まりました。主イエスの受難、死、復活の出来事は、福音書の中で最も古い箇所です。弟子たちが最初に思い出したのはこの出来事でした。弟子たちは、主イエスの受難、死、復活の出来事に、主イエスの言葉とお働きの中心・核となるものを見出しました。少しずつこの核となる出来事に、主イエスの行動や言葉、彼の幼少期の出来事が付け加えられて、福音書が記されていきます。

 付け加えられた記事が、意味を持つのは、主イエスがいのちを差し出され、神さまが主イエスを復活させ、死やこの世の闇に勝利されたということに照らされるときなのです。

 マタイ福音書は、主イエスの受難、死、復活の出来事を詳細に伝えます・弟子たちの裏切り、おびえ、主のことを知らないと言ったことなどありのままに報告しています。主イエスの姿は、弟子たちや権力者たちを当惑させます。

 権力者たちは、主が王になろうとしたと告訴します。主イエスは、王であることをお認めになりましたが、ローマ帝国の肯定やヘロデ大王とは全く異なる王です。主イエスは支配する王ではなく、仕える王、奉仕する王、人々のためにいのちさえ差し出す王です。フィリピ書2:7「かえって自分を無にして、しもべの形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架に至るまで従順でした。」とある通りの不思議な王の姿でした。

 今日の福音書の主イエスは、すべてを神さまにゆだねて、ご自分を全面的に引き渡されます。そして十字架への道を歩んで行かれます。

 先日聖ヨハネ学園で、新入職員の皆様に、聖ヨハネ学園の創始者ミス・リーラ・ブール宣教師についてお話をする機会を与えられました。

彼女にふさわしい聖書のことば フィリピの信徒への手紙 4:13

 「わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です。」

彼女のまれた道を、辿ってみると、本日の福音書の主イエスに倣って、すべてを神さまにお委ねして、神さまと人々に仕えたブール宣教師であったことを知らされたわけです。

ブール宣教師は、1846年アメリカ合衆国ニューヨーク州レバノン、スプリングスの町に誕生。裁判官のお家。母が敬虔なキリスト教信者。母から強い影響を受けた。多くの知識才能に恵まれた方、学校の教師として過ごされた。ただ、体が大変弱かった。関係諸施設聖バルナバ病院初代院長ラニング氏(宣教医師)の夫人と親交が深く、日本での日々を嬉しそうに記し、また語るラニング夫人のことばに惹かれ、日本へのあこがれ、日本への伝道事業に深い興味を持たれたようです。幾度か、宣教師になる申請をしたが、すでに40歳となっていること(日本語を学ぶことに無理があるのではないか。)、何より虚弱な体で、無理はできないとしてその願いは許されなかった。

ところが、すでに日本で宣教活動をしておられたジョン・マキム主教が、大阪で婦人学習会を開くために、ふさわしい人はいないかと帰米したおり、ブールさんと会い、適任者と判断し、彼女を米国聖公会に推薦。日本行きが決定。1888年明治21年 米国聖公会の信徒の人々の祈りの中、4月23日ゲイリック号に乗船、サンフランシスコを出発。ブールさんにはきっと大きな不安があった。お体のこと、日本語のこと、まだ見ぬ異国での生活。しかし、ブール宣教師は、すべを神さまにゆだねて、1888年、船酔いに悩まされながら、(神、共にいます、と祈りながら)5月13日横浜に上陸、日本到着。そして23日ウイリアムス主教と共に大阪へ。

婦人学習会というのは、1887年大阪に上流階級の女性の教育機関として、大阪知事、造幣局長、軍の司令官(鎮台司令官・師団長)、大阪商工会議所等によって設立された道修町(現在、藤沢薬品)の婦人学習会。 西洋文化を教える学校でした。マキム主教に最適任者として見いだされたのが、ブール宣教師。 当時の知事らが、キリスト教会、聖公会の宣教師に教育事業を託した。24日には婦人学習会を訪問。26日土曜日は、婦人たちに、聖歌の練習を始める。これが聖ヨハネ学園とゆかりの大阪聖ヨハネ教会の始まりの日であった。

本当に精力的に動かれたのです。

ブール宣教師は、婦人たちと祈り、この地に教会を与えたまえと祈られた。

この祈りの中から、救児院が設立されていく。道修町に設立。これが聖ヨハネ学園の前身となります。宣教師たちは、「魂」「体」「知」を課題として、日本にやってきた。学習会は、関西女子高等女学校と組織を変えたが、残念ながら、長くは続かなかった。10年ほどで廃校。しかし、教会は大阪聖ヨハネ教会(現在、中央区糸屋町)として、救児院は聖ヨハネ学園として続いて、今に至っています。ブール宣教師は、今でいう社会福祉事業にも関心があった。

ブール宣教師は、体は本当に弱かった。しかし、教会の活動(日曜学校・聖書研究会)、また京都にある平安女学院の教師として働かれた。1919年休暇で帰国。72歳で、コロンビア大学で幼稚園の教授法を学び、研究して、日本へ戻る。神のよき力に守られた、働かれた。聖ヨハネ学園の恩人の一人。(こどもたちのよき母)また、関係施設博愛社が、経営危機に陥った時(1894年頃)、アメリカの知人に手紙を送り、多くの支援を得て、ご自分も俸給のほとんどをささげられ助けた。経営者の一人となり、二つの施設に深い愛情を注いだ。

その他、川口商業学校の英語教師として、定期的に聖バルナバ病院(今は産科、当時は総合病院)を訪問し、病床にある人を慰め、励ました。

奇跡のような人生を生きられた。体が弱いこと、年齢のことすべてを神さまに委ねておられたから、できたことでした。

1924年対象3年3月 78歳の誕生日を多くの関係者(学習会、教会関係者、学校、聖ヨハネ学園)がお祝いする。風邪をこじらせて急性肺炎、聖バルナバ病院に入院。お見舞いに来た人に、「あなたがたはまだそこにいてくださるのですか。私は神さまに祈っていますから安心して、どうぞ休んでください。」これが最後のお言葉だった。最後まで、人々を気遣う方でした。

3月20日未明に神様のみもとに帰られた。40近く大阪でご奉仕下さった。今、お墓は豊中市にある服部緑地外人墓地にある。

 

 今日の福音書には、神さまにすべてを委ねて、十字架の道を歩まれる主イエスのお姿を見つめました。私たちも、主イエスに倣い、またブール宣教師のように、恐れずに、すべてを神さまにおゆだねして歩むように招かれています。力がなくてもいいのです。受難と死と復活の主イエスが、私たちを愛し、復活へと導いて下さいますから、安心して歩み出していいのです。

 聖歌509番 あなたは岸辺で 力のないわたしに したがえと 招かれる

 イェスはわたしを見つめ わたしの名を呼ばれる

 小舟をおりて あなたとともに歩みだそう

父と子と聖霊の御名によって アーメン

<黙  祷>

 ウクライナとロシアほか戦争状態にある国々・地域に平和が訪れますように。

 

 トルコ・シリアの大地震ほか大災害に見舞われている国々の人々、犠牲者と被災者、救援に当たる人々のため。

冤罪や生きづらさに苦しむ人々のため

日本聖公会大阪教区成立100周年のため

<主の祈り>

救い主キリストが教えられたように祈りましょう。

天におられるわたしたちの父よ

み名が聖とされますように

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を

ゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

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