降臨節第3主日

<特   祷>

主よ、み力を現してわたしたちのうちにお臨みください。わたしたちは罪に妨げられて、苦しんでいますので、豊かな恵みをもって速やかに助け、お救いください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

<聖   書> マタイによる福音書 11:2~11

<メッセージ> 喜びの源泉はどこに

父と子と聖霊の御名によって アーメン

 今日降臨節第3主日は、伝統的に「喜びの主日」として知られています。この日には、司式・説教者はローズカラーのコープを身にまとうとも聞いたことがあります。私は川口基督教会と西宮聖ペテロ教会のベストリーのクローゼットで見ました。

どうして喜びの主日というのか。私たちの喜びの源泉がどこにあるのか、み言葉を通して探ってみましょう。

 今、洗礼者ヨハネは牢獄に捕らえられています。「喜び」とは正反対の状況にヨハネはおかれています。ヘロデとヘロデの妻とのことを厳しく非難したからです。ヘロデはヨハネを機会があれば殺そうと思っていました。

 牢の中で、ヨハネは不安を覚えたようです。自分の弟子たちを主イエスのもとに送って尋ねさせます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか。」ヨハネも身の危険を感じ取っていたのでしょうか、彼にしては珍しく弱気といいますか、迷いの中にいるようです。イエスがメシア・救い主なのか。

「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(ルカ3:6)と人々に悔い改めの実を結べと、厳しく人々の心を揺さぶったヨハネ。また、ヨハネがメシア・救い主ではないかと期待する群衆に、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしより優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない」(ルカ3:16)、自分は道備えをする者と来るべきメシア・救い主の露払いとの自覚を強く持っていたヨハネ。自分の方に来られる主イエスを「見よ、神の小羊と指さし(ヨハネ3:29)、人々が自分から離れ主イエスのもとに行くことを喜んだヨハネ(3:27以下)が、来るべき方はあなたなのかと、自分の弟子たちに主イエスに尋ねさせています。

人は、生死の深淵を垣間見るような抜き差しならない人生の困難に直面した時、自分の人生はこれでよかったのか、疑問をもったり、不安になったりと、人生の意味を問うと言う心境になるのでしょうか。

 私の父親のことで恐縮ですが、施設にはいっておりまして、ある時私が付き添いに入っておりました。何がきっかけだったでしょう。父親が自分の半生を語り始めました。九州の大分の農家に生まれ、9人兄弟の末っ子として育ち、小さい頃は靴などなくてはだしで走り回っていたこと。旧制中学を出て、名古屋薬業専門学校に学んだこと。戦争。戦後、大阪に住み、高度成長期には、働き詰めに働いたこと。病気のこと、妻(私の母、40代ですい臓がんで逝去)のこと、70過ぎてから洗礼を受けたこと、

などなど語ってくれた。最後に、これでよかったのかと言いました。そこで、私が、よく生きたのではありませんか、と言うと、深く大きく「うん」とうなずいて、これ以後、自分のことは話しませんでした。人は、生死の深淵を垣間見るような抜き差しならない人生の困難に直面した時、自分の人生はこれでよかったのか、疑問をもったり、不安になったりと、人生の意味を問うと言う心境になるのではないでしょうか。

 黒澤明監督の名作映画に「生きる」があります。胃がんの告知を受け、不治の病であると宣告を受ける平凡な役人、名優志村喬(たかし)さん演ずる役人が主人公です。彼は戸惑い、慄き(おののき)ます。その中で、自分の生きる意味に目覚めるように、市民から陳情のあった公園の建設に、獅子奮迅します。死力をつくして、やくざとも渡り合います。そして、公園の完成を見届け、雪降る夜、建設されたばかりの公園のブランコに揺られて、「ゴンドラの唄」を口ずさみながら笑みを浮かべる主人公のシーンは有名です。市民のために生きる道を選択し、死を受容していく主人公。

 黒澤監督は自分なりの「生きる意味」を見いだすことができれば、困難や危機に直面した時、笑みすら浮かべながら、死の恐怖乗り越えて行けることができると言いたかったのではないでしょうか。

 

 戸惑い、恐れ、疑い、不安、迷い、慄きさえ、私たちの人生の意味を教えてくれるものになるのでしょう。洗礼者ヨハネほどの人も、生死の深淵を垣間見るような抜き差しならない人生の困難に直面した時、疑いや迷い、不安が心に生じたのです。

主イエスは、洗礼者ヨハネの弟子たちに語り掛けます。「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

主イエスが誰なのかと言う問いの答えは、主イエスが何をしているのか、何をしようとしているかという点から報告されます。主イエスの働き、主イエスがなさろうとしていること、主イエスの願いは、人々にいのちを分かち合うことなのです。

メシア・救い主は、「いのち」と深くかかわっています。洗礼者ヨハネは、弟子たちの報告を受けて、安心して笑みを浮かべたことでしょう。

今世界では「いのち」がないがしろにされています。どうも独裁者、独裁的な体制が登場しますと、「いのち」は後ろへと後退していってしまうようです。

まことのメシア、救い主は、私たちといのちを分かち合おうと働かれます。

最初に歌いました聖歌の517番をお開けください。「主が来られたから、主が私のもとへ、主が共にあゆむ、この道を行こう」 私たちの喜びの源泉は、いのちを分かち合うため、クリスマスに誕生される、私たちの所に到来してくださった主イエスです。私たちをこよなく愛し、共に歩み、だれもぼっち(ひとりぼっち)にしない救い主イエスこそが私たちの喜びの源泉です。私たちは、主イエスと共に、いのちの道を歩みましょう。

父と子と聖霊の御名によって アーメン

<ウクライナの平和のための祈り>

正義と平和の神よ、

わたしたちは今日、ウクライナの人々のために祈ります。

またわたしたちは平和のために、そして武器が置かれますよう祈ります。

明日を恐れるすべての人々に、 あなたの慰めの霊が寄り添ってくださいますように。平和や戦争を支配する力を持つ人々が、知恵と見識と思いやりによって、み旨に適う決断へと導かれますように。

そして何よりも、危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子どもたちを、あなたが抱き守ってくださいますように。

平和の君、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン

<主の祈り>

救い主キリストが教えられたように祈りましょう。

天におられるわたしたちの父よ

み名が聖とされますように

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を

ゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

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