2022年2月27日 大斎節前主日
<特祷>
神よ、あなたはその独り子の受難の前に、聖なる山の上でみ子の栄光を現されました。どうかわたしたちが、信仰によってみ顔の光を仰ぎ見、自分の十字架を負う力を強められ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
聖書
出エジプト記34:29~35
詩編36編9節(祈祷書715頁)
<メッセージ> 神様の光に照らされて生きる
父と子と聖霊の御名によって アーメン
皆様、ご覧になったことがありますか? ミケランジェロのモーセ像ですが、モーセの頭には2本角が生えています。
以前エルサレムで訪れました古いギリシャ正教の教会の礼拝堂の壁に、聖書の出来事が描かれていました。そのイコンのモーセも頭に角が生えておりました。聖書が個人では手に入らなかった時代、人々は絵を見て、聖書の出来事を学びました。司祭が説教する時、その絵を指さして、説教しました。イコンの聖書箇所は、先ほど拝読した出エジプト記34:29以下の場面でした。今の聖書を読むと、モーセの頭に角は生えていません。モーセの顔が光り輝いていたとあります。初代教会の神学者ヒエロニムスという方の誤訳だと言う説があります。(諸説あるようです。)
さて、どうしてモーセの顔は光り輝いたのでしょうか。出エジプト記19章以下を見ますと、(どうぞ後でお読みになってください。)エジプトを脱出し荒れ野を旅するモーセとイスラエルの民は、シナイ山に到着します。モーセはシナイ山に登り、神様から十戒を授かります。ところがいつまで待ってもモーセが下山しないので、人々は大いに不安となり、金の子牛を作り、これが我々の神々だと飲み食いし、これで安心とばかりに、どんちゃん騒ぎを始めてしまいます。
シナイ山の上で、神様はそのことに気づき、激しい怒りを覚えられ、民を滅ぼしつくすと言われます。そこで、モーセは必死に神様をなだめ、神様は思い直されます。下山したモーセは、民の堕落ぶりに怒りを露わにし、十戒を記した2枚の板を人々の前で割り、民が作った金の子牛を火で焼き、粉々にします。
人々はあまりのモーセの怒りに、恐れおののき、悔い改めます。モーセは再びシナイ山に登り、再び神にまみえて、もう一度十戒を授かります。
その時、モーセは神の顔ではなく、後姿を見たとあります。モーセは、「わたしたちはかたくなな民ですが、わたしたちの中にあって進んでください。わたしたちを受け入れてください。」と祈り、神さまの共に歩むという約束を頂きます。
モーセはさらに四十日四十夜、断食して、再び十戒を板に書き記して、下山します。モーセは神様と豊かな交流をし、下山するわけですが、モーセの顔を見て人々はびっくります。モーセの顔が光り輝いている。その後も、モーセが神様の御前に行き、神様と語り合ってくると、モーセの顔の肌は光を放っていた。人々が恐れて近づけないので、モーセは人々と会う時は、顔に覆いをかけていました。このモーセの顔の光が、間違って「角」と訳されたわけです、
ここで大事なことは、モーセは自分で顔を光り輝かせたわけではないということです。神様と深く交流するによって光り輝いた。神様と親しく語りことで光り輝いていたということです。
詩編36:10節には、「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」とあります。神様と私たちの関係は、太陽と月のようです。月は自分では輝くことができませんが、太陽に照らされて月は光輝くことができます。
私たち信仰者の歩みもそうです。自分で輝くのではなく、神様、主イエスの光に照らされて輝くのです。
3月2日から大斎節・レントが始まります。大斎節を失う者は、1年を失うと、若い頃よく言われました。時期的には、卒業、入学、就職、転勤・・・・忙しい季節です。しかし、神様と静かに交流する時間を大切にしましょう。主イエスと親しく過ごしましょう。大斎節を大事に歩みましょう。
父と子と聖霊の御名によって アーメン
<主の祈り>
救い主キリストが教えられたように祈りましょう。
天におられるわたしたちの父よ
み名が聖とされますように
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を
ゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン