降臨節前主日

https://youtu.be/z1hvYtbaFHs

<特   祷>

永遠にいます全能の神よ、あなたのみ旨は、王の王、主の主であるみ子にあって、あらゆるものを回復されることにあります。どうかこの世の人々が、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また,ともに集められますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

<聖   書> ルカ23:35~43

<メッセージ> 支配する王ではなく、仕える王・主イエス ~独りの犯罪人を救うために~

父と子と聖霊の御名によって アーメン

私たちの聖公会という教会は、教会暦という「暦」をもっています。教会の暦では、7つの期節からなっています。来主日からはいよいよ降臨節(アドベント)です。そして、降誕節、顕現節、大斎節(レント)、聖週、復活節、聖霊降臨節と続きます。今日降臨節前主日は、教会暦による一年の最後の主日です。日本聖公会では降臨節前主日と呼んでいますが、同じ聖公会でも、管区によって違いがあります。たとえば、カナダ聖公会では、「王であるキリスト・降臨節前主日」と呼んでいます。どうして「王であるキリスト」という特別な名称で呼んでいるのでしょうか。今日の特祷を見てください。

本日の特祷には、「王の王、主の主であるみ子によって」とあります。神様の願いは、主イエスを私たちの王の王、主の主として見つめ、あらゆるものが回復されることにあります。そして、神様のお心が実現しますようにというお祈りが続きます。「どうかこの世の人々が、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また,ともに集められますように。」

しかし、回復されること、解放されること、共に集められることというのは、何からの回復、解放なのでしょうか。どういう状態から、回復、解放、共に集められるのでしょうか。私たちの特祷では、そのことは明確になっていません。アメリカ聖公会の特祷では、はっきりと「罪によって分裂させられ、奴隷にされている状態からの解放」が祈られています。そして、罪によって、非人間化され、バラバラにされている状態から再び集められることが、お祈りされています。

さて、今日の福音書に目を向けましょう。十字架上の主イエスをあざ笑い、罵る人々も主イエスのことを「王」と呼んでいます。彼らの理解する「王」と十字架上の主イエスが証しする「王」とは全く違うようです。

十字架の上と下とで、でも同じようなことが起こっています。十字架上の主イエスの両側に2人の犯罪人がいます。独りの犯罪人はこう言いました。「お前はメシア(救い主)ではないか」、と言い、そして「メシアなら、自分自身とわれわれを救ってみろ」と言います。救い主といっても、この世の救い主、この世の王のことです。議員たち、兵士たちと、この犯罪人、3人はそろって同じことを言っています。「救い主なら、ユダヤ人の王なら、自分自身を救うがよい」

もう一人の犯罪人を見つめてみましょう。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない。」そして、言います。「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」「わたしを思い出してください」 それで充分ですと言ったのです。地獄に落ちてもしようがない生き方をしてきてしまったのでしょう。思い出して下さるだけで十分です。

 そして、この人が「わたしを思い出してください」って言ったときに、主イエス、「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。この「今日」とは、いつのことでしょうか。この後、ほどなく私も死んだら、そのとき楽園に一緒に連れてってあげる」ではなく「あなたは今日」、この「今日」というのは、「今」なんです。ザアカイの物語の時、主イエスは「今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19:9)と言われました。ルカの「今日」は「今、ここで」と言うことです。ですから、主イエスは、この犯罪人に、「あなたがこの私をと出会った、今、この十字架上に楽園が始まっている、やってきているというのです。「楽園は、今、ここに、始まっている」

 この犯罪人は、おそらく悪い環境の中で生まれ育ち、社会からは見捨てられ、さまざまな不運の中で犯罪を犯して、捕まった。死刑になるというくらいですから、 大変な犯罪人なのかもしれません。自分では「こんな自分は救われるはずがない」と、闇の底にいたでしょう。ところが、その闇の生涯における、最期の瞬間に、最も幸せな瞬間が訪れる。それまで真っ暗な闇の中を生きてきて、今やもう、十字架上で処刑されるしかない、最後の瞬間、横を見ると主イエスいて、その血によって、すべての人が救われる」という恵みの瞬間が、そこに始まっていたのです。頼んだわけでもないのに、主イエスが十字架の道を歩み、ゴルゴダの丘に近づいてこられる。無理やり十字架を負わせられて、主イエスの方から近づいて来られる。そして、主イエスが十字架上に共にいて、主にすべてをゆだねて「この私を思い出してください」 (ルカ23:42) と言った瞬間、そこに救いの道が開かれたのです。そこに真の平和が訪れて、もはや恐れも怒りもなく、この犯罪人は、楽園を生き始めているのです。もちろんその後、この世での命は終わったでしょう。でも、私たちは、この世を何のために生きているかということを、最後の最後でしたけれども、生きてる間に十字架の愛を信じて、「楽園であなたと一緒にいる」というお言葉を頂いて、主から頂く平和を味わうためであるということをこの犯罪人は知りました。星野富弘さんの詩に、こういう詩がございます。

 毎日見ていた

 空が変わった

涙を流し友が祈ってくれた

あの頃

恐る恐る開いた

マタイの福音書

あの時から

空が変わった

空が私を

見つめるようになった

すてきなしがあります。この犯罪人は、自分なんか神さまも主イエスも気にかけてくれるとは思っていまかった。人生の最後の最後で、神さまから見つめられ、主イエスが共にいて、ご自身の血をもって赦し、今日楽園に共にいると語り掛けてくださったのです。

主イエスは、ある時弟子たちに語りかけられました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える人になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人のこが仕えられるためではなく、多くの人の身代金として自分のいのちを献げるために来たのと同じように。」マタイ20:25以下

主イエスは、人々を支配、思うように動かす王としてではなく、人々を生かすために、この一人の犯罪人を救うために、仕える王として、命をも投げ出す王として私たちのところにきてくださいました。

私たちにとって大切な期節、降臨節(アドベント)、そしてクリスマスがやってきます。人々が、神さまの愛を受け取り、互いに愛し合い、生きとし生けるものを、自然を愛し、非人間化されている状態から、世界が解放され、回復され、神様と共に生きる喜びのうちに一つに集められるという、神様の御心が実現しますように。アドベントが近づいてきます。この一人の人が救われるために、主がやってこられます。

父と子と聖霊の御名によって アーメン

<ウクライナの平和のための祈り>

正義と平和の神よ、

わたしたちは今日、ウクライナの人々のために祈ります。

またわたしたちは平和のために、そして武器が置かれますよう祈ります。

明日を恐れるすべての人々に、 あなたの慰めの霊が寄り添ってくださいますように。平和や戦争を支配する力を持つ人々が、知恵と見識と思いやりによって、み旨に適う決断へと導かれますように。

そして何よりも、危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子どもたちを、あなたが抱き守ってくださいますように。

平和の君、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン。

<主の祈り>

主イエスが教えられたように祈りましょう。

天におられるわたしたちの父よ、

み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです アーメン

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