竹田主教 教区新年礼拝説教

      • 新年おめでとうございます。皆さんと一緒に教区の新年礼拝を捧げることをうれしく思っています。今年も皆さんの上に主の豊かなお恵みを祈ります。年末から年始にかけて、ノヴェナの礼拝で、お忙しいときと、せっかくの新年のお休みの時期を台無しにしてしまい、教区の皆さんから怨みを買うと心配していましたが、毎回多くの方々に参加していただき、この心配も杞憂だったと感じております。皆さんに心から感謝しております。

 

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      • 今日1月6日は、主イエスの「顕現」の祝日です。もともと、主イエスの誕生日の祝日は1月6日でしたが、次第に12月25日にご降誕だけをお祝いするようになったようです。顕現日はご降誕のお祝いの一部といえますが、とくにこの日は、東の国の『占星術の学者』が、イエスの誕生を知って、ベツレヘムまで拝みに来た出来事を記念します。新共同訳聖書では『占星術の学者』と訳していますが、原語は「マゴス」―マジックの語源―『魔術』です。

占星術と魔術

      • この占星術の学者は、「星占い」あるいは「魔術師」として、古代ペルシャやヘレニズムの世界で、学者あるいは祭司として尊敬されていました。占星術の根拠となっている考え方は、天体に無数に輝く星のうち、それぞれの人にはその人の星があるということです。星は、それぞれ決まった位置と軌道があるので、占星術は、星の動きと場所を観測して、人の運勢を鑑定します。占星術の学者や魔術師は、人間の運命だけではなく、社会の動きも、宇宙の動きも予測する知識を修得しているということで、一般の人たちから特別な知恵者として尊敬されていました。

 

      • しかし、聖書の世界では、占星術や魔術には否定的でした。聖書の信仰は、人間の命だけではなく、被造物すべてが神様のみ心に支配されているということです。人間の知識や魔術などで、運命を予測したり変えることが出来るという思想は、神のみ心に反逆する人間の傲慢な営みであると考えました。それぞれの人間の運命が、星の動きによって決められているという、人間の運勢を占う習慣は、日本にも昔からあります。日や月、季節によって、縁起が悪いあるいは良い日や時、方角など決められているという信心です。

 

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      • 私たち人間の命は常に不安定であり、私たち人間はいつも自分の将来の運命を気にしながら生きています。従って、人間には、将来の見通しをつけておきたいという願望があります。自分の縁起の良し悪しを決めてくれる鑑定に頼りたくなります。星占いで運命を鑑定してもらったり、魔術で悪い運命を良いものに変えてもらえば、そのような不安から解放されます。古代社会では、――古代社会ばかりでなくどの時代でも――占いや魔術は大変尊重されたのです。しかし、聖書では、主イエスの福音によって、神が何時も私たちと共にいてくださって、どのような危機や不安定の状態にいても、恐れなく生きていくことが出来る信仰が与えられています。にもかかわらず、初期のキリスト教が、ことにギリシャの世界に広まっていくと、多くのクリスチャンは、周囲の社会で信奉されている占いや魔術の託宣に、再び引き付けられ、戻ってしまう傾向が出てきました。

 

      • 私たち人間の命は常に不安定であり、私たち人間はいつも自分の将来の運命を気にしながら生きています。従って、人間

      • には、将来の見通しをつけておきたいという願望があります。自分の縁起の良し悪しを決めてくれる鑑定に頼りたくなります。星占いで運命を鑑定してもらったり、魔術で悪い運命を良いものに変えてもらえば、そのような不安から解放されます。古代社会では、(古代社会ばかりでなくどのの時代でも)占いや魔術は大変尊重されたのです。しかし、聖書では、主イエスの福音によって、神が何時も私たちと共にいてくださって、どのような危機や不安定の状態にいても、恐れなく生きていくことが出来る信仰が与えられています。ところが、初期のキリスト教が、ことにギリシャの世界に広まっていくと、多くのクリスチャンは、周囲の社会で信奉されている占いや魔術の託宣に、再び引き付けられ、戻ってしまう傾向が出てきました。

『この世の諸霊』

      • パウロがガラテヤの信徒への手紙の中で、「あの無力で頼りにならない支配する諸霊のもとに逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」(4章 節)と警告しています。「この世を支配する『諸霊』(ストイケイア)」とは、「真実の神でない神々」のことです。異邦人たちが信奉している、占いによる託宣です。自分の知識で考えだしたことを、天から聞いた神の声と宣伝して、純真で素朴な民衆を信じ込ませる偽りの預言や戒律です。人間の思想や知識を、あるいは物体を霊験あらたかなものとして、信仰の対象にしてしまうことです。聖書が繰り返し非難している偶像崇拝です。ガラテヤの信徒への手紙では、キリストの福音によって、このような諸霊から解放されて自由になったはずのガラテヤの信徒が、またその諸霊の信仰に逆戻りして、神々の奴隷になってしまったことを警告しています。

 

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      • 誕生したイエスを拝むためにベツレヘムを訪ねた占星術の学者は、もともとは『諸霊』に仕える祭司でした。しかし、天体を観測しているうちに、不思議な星の光を発見して、ベツレヘムに『ユダヤ人の王が生まれた』ことを知り、はるばる東の国から、礼拝するために訪ねたのです。ガラテヤの信徒は、キリストの信仰から、『諸霊』の信心に逆戻りしました。反対に、この占星術の学者は『諸霊』の神々に仕える祭司から、「唯一の神」の信心に到達した学者たちです。星の動きによって、偽りの救いの宣伝をして、多くの人々に崇拝されていた学者が、星を観察しているうちに、その星が『ユダヤ人の王』の誕生を伝える神の器であることに気づいたのです。星その物が真理ではなく、星は神の真理に導く導き手なのです。この星の光の導きによって、神のみ子の誕生という知識に到達したのです。

 

      • ベツレヘムに生まれた貧しく、無力な幼子イエスに、「平伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」と書いてあります。一説によると、彼らの献げ物は、魔術のために使用する、彼らがそれによって生きていかなければならない、貴重な商売道具だったとも言われます。彼らは、自分たちの魔術―その営みを支えてくれていたもの―を、神のみ子に献げて、諸霊(神々)を越える神に帰依したのです。 イエスの顕現は、人間の不安につけ込んで取り込もうとする、『諸霊』からの解放です。闇に閉じ込められている状態の中、光の輝き、絶望の中の希望、お互いに切れてしまっている人と人との関係の中の孤独と対立の壁を乗り越えて輝く、和解と平和の道を照らす光りなのです。

現代社会の諸霊と解放

      • いよいよ二一世紀が始まりました。現代の世界、とくに日本の社会は、経済も、政治も、教育も、福祉も『諸霊』の支配が、ますます強くなっているようです。『諸霊』の支配の特徴は、人間にランクをつけ、区別し、分類する社会です。権力や財産を持つものが高く評価され、貧しく無力な人々が周辺に追いやられ無視される社会です。支配し、管理する人々と、抑圧され、社会の底辺で小さくされている人々がいるのは、星によって決められたものであり、変革したり批判することの出来ない正しい制度である…とする社会です。

 

      • 経済的に豊かな者と貧しいもの、学校教育での偏差値によるランク付け、また自治体もランクがつけられ…占星術の托宣のように、どの学校に入学するかで、その人の将来が決められてしまうのです。肉体的精神的に弱くなっている老人たちの介護は、その健康状態の評価によってランクが決められ分類されます。権力と財産と知識と技術等をどの程度所有しているかによって人間や職業などの価値が決定されています。

 

      • 一方においては権力を持ち、豊かであることを享受している人々がおり、他方、社会の底辺で無力で搾取され、苦しみ悲しむ人々がいることが当たり前と思いこんでいる人々が多くなっている社会です。 古代のアテネはその学問と民主的な市民社会で有名ですが、そのような社会の底辺には自由市民よりも多くの奴隷がいたのです。この抑圧された人々は、存在したことも無視されてきたのです。アテネでは、そのような社会が、神々が決めた社会として受け入れられていました。今の日本に生きる私たちも、このような『諸霊』が支配する世界に安住する誘惑を受けます。そして、自分よりも無力なもの、小さいものを抑圧することに、いつの間にか加担していることになるのです。

 

      • 私たちの教区の宣教目標とプロジェクトは、このような状態は、神のみ心に反することであるという信仰的気づきに動機づけられています。私たちはこの現実に気づき、私たちの罪を懴悔し、み心にかなう社会の実現のためにこのノヴェナの礼拝をささげているのです。

 

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      • 最後に私たちの聖公会の現状について、反省したいと思います。私たちの教会も、『諸霊』の支配に戻る危機に直面しています。一つは現代の、はっきりした規範が見いだせない混乱した状況の中で、もう一度過去のある特定の歴史状況の中で造られた習慣、制度を、神が制定したものとして、それを権威ある規範として押しつけて、混乱を治めようとする動きです。そのような秩序にどれだけ従順であるかによって、信仰の高さ低さのランク付けをする宗教にしてしまう傾向です。神の永遠の愛のみ業に仕え、仰ぎ見ることをしないで、歴史の中で形成された教理や制度を、神が定めたものとして、それを基準にして、信仰の在り方を裁き、また、それに従わなければ救われないと主張する動きです。

      • もう一つの傾向は、歴史の中で形成された伝承を無視して、自分独りの思い付きで神の福音を理解し、教会の礼拝や制度を自分の思いのままに作り替えようとする動きです。もともと神の言葉とはいえないことを、神から直接聞いたかのように、神の名で語ることです。とくに聖職は、常に自分の思いや行いや言葉を、聖書と伝承された教えに留意して、共同的学問研究と祈りによって謙遜に吟味してから、必要な変革を試みなければなりません。パウロは各自が思いのまま振る舞う、コリントの教会での聖餐式について、あなた方は主の晩餐でなく、自分自身の晩餐を楽しんでいると警告しています。

 

    • 更にパウロは、「なぜ『「手をつけるな、味わうな、触れるな』などという戒律に縛られているのですか」と尋ねます。同時に「独り善がりの礼拝、偽りの謙遜」を戒めています(コロサイの信徒への手紙)。 二一世紀の日本の社会全体においても、また教会の中においても、私たちは『諸霊』の支配に注意を向けなければなりません。私たちは、イエスの顕現で明らかにされた、神の和解と平和を追い求め、神の愛の業にますます熱心に仕える恵みと力が与えられるように、この礼拝で共に祈りたいと思います。

 

2000年教区報クリスマスメッセージ

インマヌエル

 イエスは「インマヌエル」という称号で呼ばれます。「神はわれらと共におられる」という意味です。イエスはすでに生まれた時から、私たちと共に、ことにこの世で苦しむ者と共におられます。イエスが「インマヌエル」と呼ばれるのは、イエスご自身が最初から苦しみを味わっておられたからです。

 イエスは、この世の無力な人と同じように、傷つき易く、権力者の迫害に苦しめられました。生まれたばかりのイエスは、ヘロデ王の迫害で、両親に連れられてエジプトに避難民として逃亡しなければなりませんでした。

 ここに掲げた二つの絵のうち、上のものは一六世紀に描かれたイエスと家族の「エジプトへの逃亡」の絵です。もう一つは、一九九一年のピナツボ火山の爆発の時、若い両親が幼児と家財道具を抱えて避難するアユタ族の家族です。避難民だったイエスは「インマヌエル」として、現代もこのような家族と共におられます。

竹田主教のクリスマスメッセージ

-2000.12.18-

みなさんクリスマスおめでとうございます。みなさんの上に主イエスのご降誕のお恵みが沢山ありますようにお祈り申し上げます。

クリスマス…主イエスがベツレヘムの馬小屋でお生まれになった…そういうことは、私たち、小さい者の中に神様の子がいらしゃる~そういうことを教えているのだと思います。
私たちはいつも私たちの回りにいる、小さくされた人たち、貧しくされた人たち、何も言えないで苦しんでいる人たち、悲しんでいる人たちのことを思いながらクリスマスを過ごす。
クリスマスの喜びがそういう人たちにも伝わるようにと思いながら、クリスマスをお祝いすることがクリスマスの大事な私たちの守り方だと思います。

どうかみなさまの上にまた、苦しんでいる人たち、飢えている人たち、貧しい人たちの上にも神様の愛が、神様のお恵みが豊かにありますようにと共に祈りながらクリスマスを迎えたいと思います。

みなさまの上にどうぞ豊かなお恵みがありますように。

竹田主教のイースターメッセージ

-2000.04.23-

みなさん、イースターおめでとうございます。

イースターは主イエスの十字架の死からのよみがえりの喜びの祝日でございます。私たちはこの主イエスの復活の信仰に基づいて生きているわけでございます。

私たちは日々の生活の中で、時々行き詰まり挫折が起こり、神様がいらっしゃられていなくなってしまうような…そういう出来事に直面します。

しかしその中でも、神様は「私はいる」「私はいるのだ」という「私が」という声で、私どもに近づいてきてくださいます。そしてもう一度、私たちは希望を回復して、そして生きていくわけでございます。その根拠が私たちの主イエスのよみがえりの信仰でございます。私たちはますますこの信仰を強くして、生きていきたいと思います。

見通しの暗い時代ですが、しばしば神様を見失うようなことが起こる時代ですが、それでも神様は必ず顕れて私たちと共にいてくださる…そういうことを、私たちが復活の信仰によって増すことができます。

どうかこの復活の信仰をますます強めて、この信仰をこのような人たちにも広めていき、また私たち自身、この信仰を強めていきたいと思います。

では、みなさんイースターおめでとうございます。皆様への神様のお恵みを祈ります。

2000年教区会開会演説

主の恵みの年として  主教 竹田 眞


本日は東京教区第八八(定期)教区会にお集りいただき有難うございました。神の人類救済の働きに奉仕するため、教区/教会でのさまざまな領域での皆さんの献身的ご奉仕を感謝致します。ことに、教役者、その他の奉仕者、兄弟姉妹の働き、ことに奉仕者同志の協働態勢の進展を感謝しています。


一  新しい世紀を迎えて


 いよいよ紀元二〇〇〇年、新しい世紀及び千年期(ミレニアム)を迎えることになります。世俗的な見方をすれば、このことは単なる時間の進行に過ぎませんが、私たちの信仰から言えば、主イエスの降誕後二〇〇〇年の記念の年ということになります。聖書の用語を使えば、今年はとくに大きな「ヨベル(ジュビリー)の年」として、「ジュビリー二〇〇〇」と呼ばれています。ルカ福音書によると(四章一六ー一九節)主イエスが、自分の故郷ナザレの会堂で最初に宣教を始めた時、そこで読まれた聖書の言葉がイザヤ書六一章の「主の恵みの年」つまり「ヨベルの年」の到来の宣言でした。

  主は……
  わたしを遣わして、
  貧しい人に良い知らせを
    伝えさせるために。
  打ち砕かれた心を包み
  捕らわれた人には自由を、
  つながれている人には解放を
    告知させるために。
      主が恵みをお与えになる年……
 こういう宣言をされました。

 今年は、「主の恵みの年(ヨベルの年)」として、現代の世界の「貧しい人」、「打ち砕かれた心」、「捕らわれた人」、「つながれた人」に解放を告げる年とされるため、世界中で解放を告げる運動が広まっています。今世界中で広まっている「ジュビリー二〇〇〇」の運動は、すでに一九九四年にローマ教皇が提唱し、さらに一九九八年のランべス会議でも全世界の聖公会が積極的に関わる申合せをいたしました。この運動の第一の目標は、世界に四〇ヶ國ほどある「重債務最貧國(HIPCs)」の人々が負う債務の苦しみからの解放です。この運動は、今や世界の政治指導者を動かすほどになりました。一九九八年のバーミンガム、また昨年のケルンのG七サミットでも議題になりました。今年の七月の沖縄の(G八)サミットに注目したいと思います。七月には沖縄で「ジュビリー二〇〇〇」の國際会議が開かれ、日本聖公会主教会ではこれに参加する沖縄教区に積極的に協力することを決定致しました。来る五月二三日から開かれる日本聖公会総会でその取り組みのための議案が提出されるはずです。

 またこの他にも、キリスト降誕二〇〇〇年の記念として、さまざまな行事が行われますが、ことに一一月に開かれる東京大聖書展には前回の臨時教区会でプロジェクト・チーム設立を決議したように積極的に参画したいと思っております。
 二〇世紀は戦争と紛争が繰り返された世紀でした。相手に効果的に被害を与える技術も著しく発達して、犠牲者が、ことに無実の弱者の犠牲が激増しました。また貧富の格差が拡大しております。二一世紀を神の平和と正義の実現に希望を与える世紀になるため、教会は大きな宣教課題を課せられています。


二 教会の機構の改革について

 現在、激変する社会の中で、日本聖公会が管区としての自己理解をあらためて明確化した上で、宣教と奉仕の使命に奉仕するために、管区の機構が再検討されています。五月の総会で、管区機構の改革案が提出されるはずです。また、教会と各個教区のレベルでも、従来の機構の改革が求められています。宣教と奉仕の働きが、教区で担うべき領域と各個教会で担う領域をさらに明確化する必要があると思います。宣教の方針と企画は現在は教区レベルに重点が置かれていましたが、前回の臨時教区会で申し上げましたように、プロジェクトなども教会または教会グループからの発案で企画されることが望ましいと思います。教区はむしろ、各個教会や教会グループのプロジェクトの遂行の支援に奉仕することが望ましいと思います。二一世紀には、さらに各個教会を主体とした宣教活動が充実されることを期待致します。教会の牧師の任命も従来は事実上教区主教が一方的に派遣していましたが、各個教会がそれぞれ独自に適当と思われる司祭を牧師候補として人選して独自に交渉し、主教の了解を得て任命するという招聘制度の可能性も、いずれは検討しなければならない時期が来ると考えております。各個教会の自発性と主体性、つまり教会の自立を強化することです。

 もちろん各個教会自立の強化の動きに反対の意見もあることも承知しております。つまり、教区を一つの教会ように理解し、各教会は教区のもとにおき、各個教会(パリッシュ)としてよりも、むしろ伝道所あるいはチャペルのようにみなす組織であります。問題は、教区と各個教会の性格と役割が不明確なことであります。教区主導の制度を強化するか、各個教会主体の方向を取るか、さらに検討して明確化することが必要です。

 現時点では、教区レベルでは、常置委員会と宣教委員会を中心とした制度をさらに充実させていくつもりですが、教区の宣教目標である「もっとも小さい者への出会いと奉仕」は、今後も堅持することを希望しております。これはいつ、どこにおいてもわたしたちが従わなければならない主イエスの福音の教えであるからです。そのために、教区の制度も、より効果的にこの宣教目標が執行出来るように、財政を含めてその制度を検討しなけれなばならいと思います。二〇世紀から二一世紀に移る今の時期は、近代から近代が終わった時代と言われるように、従来以上に時代に応じた変革が必要の時であるようです。しかし、教会はどのような時にも、変えるべきものと、変えてはならないものとを識別する必要があります。

 さらに、最近起こってきた問題は、私たちが宣教の使命に取り組む時、宗教法人としての管区や教区のありかたに留意しなければならないということです。一九九五年のオウム真理教の反社会的事件を契機として、宗教法人法が改定されました。「宗教は恐ろしいもの」という世論の支持で、宗教に対する行政の管理、監督、調査が強化され、信教の自由に触れるような国家の介入が起こっています。特に税務調査の動きにその事態が具体的に現われています。宗教法人法の改定の外にも、従来余り気にしなかった宗教活動に関わりをもつ法案(たとえば消費者契約法、情報公開法)が提出され、このような法を理解した上で牧会、伝道を行わなければならないような事態であります。日本の現在の政治の動向と宣教のあり方をあらためて検討しなければならないようです。


三 教役者の人事

 二一世紀の始まりから東京教区も教導職の定年退職による異動が行われます。ことしの七月一五日には来年四月に就任する新しい教区主教選出のために臨時教区会を招集します。さまざまな任務の引継ぎのため、特に来年の四月の教役者人事には、新しい被選主教と協議して行いたいと願っています。従って、個人的には、選出を聖公会総会に委ねる事態が起こらないことを切望しております。東京教区の新しい教導職のために、皆さん一人一人、またいろいろなグループでの慎重で積極的な準備と祈りを期待致します。

 すでに公表されましたように、四月一日付で教役者人事の異動が行われます。詳しくは常置委員会報告に記載がありますので省きますが、特に今年は三人の司祭が定年を迎え退任されます。聖パウロ教会の佐藤信康司祭と米村路三司祭、立教大学の塚田理司祭です。長年の聖職としてのご奉仕に感謝いたします。教区の全教会に司祭を牧師として派遣出来ず、聖職候補生が牧師館に定住したり、管理体制の教会もあります。定年退職された司祭に、主日聖餐式その他司祭の職務の奉仕を随時お願いすることになると思いますが、お元気な限り積極的にお手伝いをお願いする次第です。また、今年四月からは、神学院の課程を修了した鈴木裕二聖職候補生に、教会勤務の聖職候補生として、八王子復活教会勤務を命じました。新しく教役者の仲間に加わるわけです。

 新しい一〇〇〇年期を始める東京教区の上に、また本教区会の上に主の励ましの霊が豊かに注がれる様に祈りつつ、私の挨拶を終わりたいと思いす。御清聴有難うございました。

竹田主教の大斎節メッセージ

みなさんこんにちは

だいぶ暖かくなって春らしくなってまいりました。

春になると教会では主イエスのご復活のお祝いを迎えます。イースターのお祝いです。

その前の40日間、教会では特に聖公会では「大斎節」という40日間の期間を過ごします。これはイースターを前に主イエスの十字架のご受難また死を思い起こして、そして私達も「主イエスの道に従っていく」そういう信仰を強める期間でございます。

昨年の12月25日にはクリスマスを迎え、その後は~主イエスが私達の所に来て私達のことを救ってくださった~という「来てくださるイエス様」をお迎えして喜びの期節を過ごしましたが、私達は主イエスを学び、主イエスを黙想している間に、主イエスはただ、来てくださる、だけではなくて「先立つイエス様」…十字架の道を進むイエス様に変わってまいります。そして主イエスは私達にそのイエスが進む十字架の道に従うことを促されます。

私達が改めて私達の信仰を「強化」しなければなりません。そのために「大斎」の期節は私達が改めて主イエスの十字架の道に従う信仰が強まるように様々な訓練をしたり、研修をしたりする期節であります。

どうかみなさんもそのために40日間を大事にしていただきたいと思います。そして「来るイエス様」を私達は信仰するだけではなくて、「先立つイエス様」に従っていく、そういう信仰を強めたいと思います。そして主イエスのご復活の喜びを皆さんと共に迎えたいと思います。

皆さんの上に大斎節の間、神様の励ましと導きがありますようにお祈りいたします。

竹田主教の顕現節メッセージ

-2000.1.10-

みなさんこんにちは

12月25日のクリスマスが終わりまして、年が明け、1月6日から教会では顕現節という期節を迎えます。顕現節はクリスマスの話の中に異邦の国から占星術の博士がやってきて、生まれたばかりの幼な子イエスを訪ねたということを記念します。

異邦の世界にも神様の愛が及び、神様の救いが及んだということを記念する期節です。

どうかみなさんひとり一人の上にイエス様の救いの働きが及びますように、多くの恵みが与えられますように祈りたいと思います。どうぞみなさん、恵みのもとで過ごしていただきたいと思います。

2000年新年メッセージ

  東京教区新年礼拝説教

 皆さん新年おめでとうございます。今年は紀元二〇〇〇年、キリスト降誕から第三回目の「ミレニアム」の始まりです。「ミレニアム」とは、「千年」という意味ですが、聖書でも黙示録に「千年」の記事がでてきます。悪魔(サタン)が底なしの淵に閉じ込められて、封印されている期間が千年ということです。千年の後再び解放されて姿を現わして、諸国の民を惑わそうとします。今年は竜年ですが、このサタンも竜の姿です。今の世界の現状は人々の心を惑わすサタンが動いているような感じでもあります。しかし、同時にキリストが世界を支配するメシアの「千年王国」も出てきます。聖書では災いの期間と祝福の期間両方のミレニアムがあるようです。

 キリスト降誕後、最初の一〇〇〇年のミレニアムの終わり(九九九年)は「これで世の終わりが来るかもしれない」といううわさが広まり緊迫感があったようです。二度目の千年の終わり(昨年の一九九九年)、「Y2K」でいくらか緊張しましたが、たいした災害もなく第三のミレニアムを迎えることになりそうです。今年は、またジュビリー(ヨベルの年)の二〇〇〇年です。神の恵による解放の年です。わたしたちはサタンが支配するような世界の中で、神の恵みの徴を見いだして、それを証ししていかなければなりません。
 新しい年を迎えるにあたり、振り返りとこれからの展望を黙想したいと思います。私は「平和」ということと、「小さい者たち」ということを強調するつもりです。

平和の実現を祈る

 昨年来、何度かふれましたが、二一世紀を迎える教会は、世界の平和の実現のために祈り、そのために仕えることが一番大事な使命であると思います。
 第一のミレニアムから第二のミレニアムに進む歴史の過程で、世界は中世から近世に変わりました。その変化はひとことで言えば、神が主体の時代から、人間が主体の時代に変わったということです。人間と神との関係が分離したばかりでなく、いろいろな分野で分離と自立が進みます。同時に対立と闘争が激しくなります。
 人間が宗教の束縛から解放され、人間が自分の知識(科学)と意志で自由に動くようになります。神がいなくてもやっていける世界になります。また自立の精神が強まりますから、それぞれ自分自身の信仰や意見が中心になります。人間の自由が強まり、知識も進歩したと思いますが、同時に人間と神との関係、人間と自然との関係、人間同士の関係(人と人)、また国と国、民族と民族、宗教や宗派や教派の分裂と対立が激しくなりました。
 このような動向に対して、二〇世紀は、お互いに和解と一致を回復する努力が、政治の世界でも宗教においても、進められました。しかし、それよりも自己主張の方がどうしても強くなり、戦争や抗争、人間の自然破壊による災害、さらに人間自身が自分が何者だか判らなくなり、自分の内面にも分離が起っていることに気付くようになりました。時代が進めば、世の中は良くなるという近代の信仰もあやしくなりました。天国への道が見えなくなり、時代を導く預言者の託宣が聞けなくなりました。迷いと不安が起こっています。

わたしたちのためのしるしは見えません。
今は、預言者もいません。
いつまで続くのかを知る者もいません。 (詩74・9)

 第二のミレニアムから第三のミレニアムヘの移り変わりの時代も、この詩篇の言葉の通りの時代です。他のメシア、偽の預言者が現われた時代です。現代もメシアや預言者らしい人が現われると、飛びつきます。怪しい宗教が広まる時代になりました。「わたしの教えに従えば、超能力が与えられる」と宣伝する異能者に、科学や哲学を学んだ人でも、熱狂的な信奉者になってしまうような時代です。「ミレニアム」と共に「カリスマ」という言葉が流行る時代です。洗礼者ヨハネが出現し、イエスが誕生した二〇〇〇年前のイスラエルも、このような時代でした。まさに、「わたしたちのためにしるしは見えない」という、詩七四篇に唄われているような時代です。

 プエルト・リコの首都はサン・ファンです。「聖ヨハネー洗礼者ヨハネ」の意味です。カリブ海の海岸にある美しい、また忙しい南国のかつて植民地であった近代都市です。海岸と町の間にハイ・ウェイが通っていて、その向こうに大きな洗礼者ヨハネの銅像が町に向かって建っています。ややうつむき加減に、左手を上にあげてその指は天を指しています。町の人々に向かって「わたしではなく、目を天に向けなさい」と叫んでいるようです。
 イエスの誕生の時と同じような喧しい社会で、洗礼者ヨハネが荒野で叫んだように、あまりにも、目先の利益と快楽に目を向けている世界で、教会は、すべての人に神のいます天を仰ぎ見るように叫ばなければなりません。人々に、そして私たちも、生きる方向を変えるように、洗礼者ヨハネのように「悔い改め」の叫びに聞かなければなりません。
 洗礼者ヨハネが指差す方向に目を向けたものが、そこに見たものは神の救いのしるしです。ベツレヘムの馬小屋に生まれた幼子の姿をとる救い主イエス・キリストです。神の民が待ち望んでいたメシアは、富と権力者を持つ王様の姿でなく、無力な最も小さな幼子の姿をとって現われたのです。そのことを主イエスの降誕と顕現の出来事は伝えています。
 現代の二一世紀を迎える私たちの社会の多くの人々は、この世的な大きなもの、高いもの、力強いものに救いを求めている社会です。年末に銀座の数寄屋橋を通りました。大勢の人が行列を作って並んでいるのを見て驚きました。宝くじを買うために並んでいるのです。ここはくじがよく当たる売場らしいのです。もし何億のお金が手に入れば、人生も変わるかも知れないと思いながら、私もちょっと並んで見たいという衝動に駆られました。

 見通しが暗い、不安な生活を少しでも生き残れるめどを求めている人が多いようです。何の不安もないエデンの園の生活を追放されて、いつまで生き延びられるか見通しがなく、自分の労働と蓄えしか生き延びる手段が無くなった最初の人間、アダムと同じ状況がまだ続いているのです。
 神から隠れようとするアダムに対して、「おまえはどこにいるのか」という神の憐れみの問いかけです。毎年クリスマスに読まれるヘブライ人への手紙の冒頭には

神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、み子によってわたしたちに語られました。
(ヘブ1・1~2)

と書かれています。
 「お前はどこにいるのか」という言葉は、旧約の歴史では預言者を通してずっと問いかけられて来たのです。預言者がいなくなった時、洗礼者ヨハネが現われ、神はみ子イエスをこの世に送って、人類救済のみ心を貫徹されたのです。そのみ子の生まれたみ姿は「最も小さいもの」であり、それを最初に「神の救い」と信じて礼拝したのも「最も小さいものたち」だったというイエス降誕の出来事を、もう一度見直さなければなりません。

自分自身が小さい者になること

 一九九〇年以降の東京教区は「小さな者との出会いと奉仕」を宣教方針にしてきました。小さい者に仕えることは小さい者を大きい者にする手助けをすることではありません。私たち自身が小さいものになるように務め、私たちとの関係を変えることです。
 私たち自身もともとは小さいものであります。しかし、わたしたちは小さいものであることをやめて、この世の力と富を貪欲に求めて、それを身につけてしまったのです。そこで「小さい者」を軽蔑し差別するようになりました。小さい者に関心を向けるようになっても、お互いに共に生きる交わりを持つことが難しくなっています。わたしたち自身が小さいものになる必要があるのです。
 旧約の預言者は神から離れた民に対する神の裁きと滅亡を預言しました。しかし、その中で「残りのもの」について語ります。神の残れる民は「小さなものたち」なのです。人間・アダムへの「どこにいるのか」という神の問いかけに、耳を傾け、答えたのが小さな人々です。

 ゼファニヤの預言を読むと都エルサレムの罪が指摘され、神の激しい怒りによって、地上が焼き尽くされるという預言を彼は語ります。そしてその中で、

わたしはお前の中に
苦しめられ、卑しめられた民を残す。
彼らは主の名を避け所とする。 (ゼファ3・12)


 「苦しめられ、卑しめられた民」とは、貧しい人たち、小さくされた人々です。そしてこの人たちこそ、神の救いのみ心の実現に重要な役割を果たす人々です。被らは生き延びるための富も力も持てない、ただひたすら苦しみに耐え忍びながら救いを待ち望み、祈ることしか出来なかった人々です。

 わたしたちは小さいものを助けるために近づくのではなく、わたしたち自身の救いのしるしをそこに見い出して、救いの望みに与るための礼拝・奉仕をするのです。礼拝と奉仕の間には何の分裂もありません。二〇〇〇年の教区新年礼拝にあたり、あらためて、私たちの宣教方針にある「小さな者」という言葉の信仰的な意味を黙想することをお勧めいたします。

( 教区新年礼拝=二〇〇〇年一月八日 聖アンデレ主教座聖堂)

竹田主教のクリスマスメッセージ

-1999.12.25-

日本聖公会東京教区からごあいさつ申し上げます。

今、丁度年の暮れで、クリスマスと新年の季節でございます。教会では大変な喜びの季節でございますが、クリスマスの喜びは私たち教会の者だけではなくて皆さんと一緒にお祝いをしたいということを願っているおまつりでございます。

私たちが救い主として信じているイエス・キリストのお誕生は、明るいにぎやかな所ではなくて、暗い馬小屋でお生まれになりました。そして暗さの中に光が見えて、そして私たちは喜ぶわけです。

私たちは皆、暗さの体験をします。しかしキリストが光となって、それを見つけて私たちは喜ぶわけでございます。

皆さまも共に光を見出すように、教会にいらっしゃって共に喜びを味わいたいと思っております。

竹田主教の諸聖徒日メッセージ

みなさん今日は。今年の夏は非常に暑くて大変だったと思いますが、11月になりだいぶ涼しくなりました。

11月は教会では特別な期節がまいります。それは11月1日、2日、それぞれ「諸聖徒日」また「諸魂日」、いろいろな魂を記念する日です。つまり世を去った方を記念する月であります。

キリスト教では日本の古来の死者の葬り方と違って、「供養する」ということではなくて、死んだ方は神様の永遠の命に与っている…そういうことで、私達が死んだ方と一緒に交わりをもって、やがて私達も永遠の命に与るという希望を再確認し、また死んだ方々と「交わっている」ということを記念する、そういう期節であります。

私達は死者を記念したり、あるいは墓地に行って墓地で礼拝をしたりしますが、それは私達が常に死んだ方と共に神様の恵みのもとで暮らしていく…そういうことを再確認して終わりの日を希望をもって迎えるということを学ぶ時であります。皆様もそのことを覚えて神様の恵みのもとで終わりの日まで過ごしていただけるようにお祈りいたします。

神様の恵みをお祈りいたします。