積極的考え方の力

主教 アンデレ大畑喜道

 本年1月から健康上の理由により休養させていただいておりましたが、6月より仕事に戻ることができました。教役者や信徒のみなさまにはご心配をいただき、またお祈りいただきましたこと深く感謝いたします。
医師から「とにかく休養することが一番の薬です」と言われ、思いがけず半年間休養期間を過ごしました。当初は1か月くらいと言っていたので、家族も戸惑ったと思います。最初のうちはどのように休んでよいかもわかりませんでした。
仕事をしない罪悪感、山積みになるメール。本を読むことも、祈りをすることも、聖書を読むこともできず、勉強部屋に入ることもできない日が続きました。ある日曜日に教会の礼拝に出ると、私の顔を見た代祷の係りの人が困ったなという表情を見せました。「週報の病床にある人の中にあるのですが、ご本人がいても祈りの中に加えていいものでしょうか」と問われました。本人がいる前で、皆が祈ってくれました。自分は祈られている。「自分の力だけでどうにかしようとしないで、神を信頼することをもう一度思い出しなさい、あなたのためにも福音の種をまき続けているのですよ」という声を聴いたような気がしました。少しずつ本をめくることができるようになり、ある人が「自分もそうだったのだけれども、少し良くなったら読んでみてください」と一冊の本を紹介してくれました。ノーマン・ピール著『積極的考え方の力』という本です。パラパラとめくると、あなたが出会った聖書のみ言葉を繰り返し唱えなさい。それだけをすれば世界が変わります。という文に出会いました。騙されたつもりでロザリオを繰りながら「神はいつも私たちと共にいる。」と繰り返しました。世界が確かに変わったのです。喜びの光が見えてきたのです。皆さんの祈りによって、そしてみ言葉によって少しずつ回復してきました。まだ夜の会議には限定的に出席するなどリハビリ中ですが、今回のことで、祈りとみ言葉の力を思い知らされました。
宣言することができます。神は常に私たちと共にいて祈りを聞いてくださる。
感謝と共に

2017年7月27日

金なんか要らないよ、きれいな海を返してくれ

主教 アンデレ 大畑 喜道

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 10月の主教会は福島県郡山の聖ペテロ聖パウロ教会で行われました。

 毎回、主教会では人権の学びの時を持っていますが、今年は最終日に福島第1原発の被災地域を訪問し、仙台まで被災地を訪問しました。高速を降りてすぐにガイガーカウンターが警告音を発しだしました。促されてマスクをし、立ち入り禁止区域近くまで行きました。かつては子供の声が聞こえていたであろう学校は草に覆われ、駅舎も線路も草が生えていて、本当にこれが現実なのかと思い知らされました。除染中というのぼりだけがたなびく中、時折、工事車両だけが通り過ぎていきます。除染した土を入れた袋がうず高く積まれています。全くのゴーストタウンの中を訪問しながら、再びこの地で笑顔で食卓を囲むときは来るのだろうか、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。これから私たちはどのようにしていけばよいのだろうか悩んでしまいました。

 新地町の仮設で被災された方々と話す機会もありましたが、「試験操業でとれた魚を孫に食わせてやれないこの悔しさや、切なさがわかりますか」と迫られて、大震災から4年以上たって、しわ寄せがますます弱者に押し寄せている現実に私たちは、決して忘れない、祈り続けますとしか言えませんでした。

「金なんか要らないよ、きれいな海を返してくれ」その声がいつまでも頭から離れませんでした。東京に住んでいる多くの人々はニュースも聞かなくなり、その現実が分からなくなってしまっています。少しでも思い起こし祈り続けていきたいと思います。

スーパードクター

主教 アンデレ 大畑 喜道

 精神科医とお話をする機会がありました。自分は切ったり張ったりするようなゴッドハンドも持たない。外科の先生のように派手ではないし、感謝もされない。自分のところにやってきて何かが解決すると来なくなる。怒こられたり、罵声を浴びせかけられることもある。しかし派手に治すことができなくとも、感謝の言葉をいただかなくても、自分が寄り添った患者さんが立ち直ってまた一歩を踏み出してくれるのは何よりもうれしい。現代社会は複雑になり、気持ちの整理がなかなかできないで、助けてともなかなか言えないような苦しむ人がたくさんいる。自分はそんな人の少しでも役に立てたらと思うんです。牧師さんも同じですよね。何か、目に見えるような、派手な技術はないけれども一緒に祈っていく中で、また勇気を与えられて立ち上がっていく人がいる。まさにこの世のスーパードクターですね。ちょっと面はゆい感もありましたが、自分の召し出されている役割を垣間見た瞬間でした。

数  独

主教 アンデレ 大畑 喜道

 小職の妻の趣味はいろいろありますが、数独もその一つです。毎日の日課のようにしています。ルールは単純なものですが、はまりこむようです。目をしょぼしょぼさせながらやっているので、時々、脇からここはこうではないかと余計な口をはさむと、たいてい間違っているようです。升目に空いた数字を埋めていって完成させる。隙間を埋めていくのに何が面白いと思う方もあるかと思いますが、ふと思うに牧師の仕事もこれと同じようなものかもしれません。何か物足りない、むなしい思いを抱いている心に寄り添い、神からの大きな恵みを埋めていく。周りから時々、ちゃちゃが入っても、神の言葉をしっかりと抱いて、ともに祈りあい、隙間を埋めていく。世の中の人からは何が楽しいのだと思われようが、目の前に隙間があるのを見つけると、神の恵みでいっぱいにしたくなる。時には周囲の誘惑に騙されると、とんでもないことになってしまうこともあります。しかし毎日、振り返り、神の恵みをしっかりと見つめていくことが大切なことです。こんな素晴らしい仕事に召し出されて、今年も神学院に入学する人が与えられました。本当に感謝です。毎日、毎日この世界で悩みや悲しみで心がむなしくなっている人のそばに寄り添い、祈り、恵みを埋めていく尊い仕事をしていく人を、神は今日も探しておられます。

只管打座 (しかんたざ)

主教 アンデレ 大畑 喜道

 先月、主教座聖堂の主催で教役者の黙想会がナザレ修道院行われました。聖職按手前にリトリートをすることはありましたが、2泊3日の間、沈黙のうちに神と対話したのは、久しぶりでした。携帯電話もパソコンも持ち込みは禁止、朝の祈りの時から黙想三昧は、大変に素晴らしい霊的な養いになりました。神との対話を楽しむことよりも何かをしなければ、これをしなければと最初のうちは雑念にとらわれていますが、何もしないで、神との対話に身を委ねていくと、いろいろなものから自由になり、心も体もすっきりします。そして聖書の御言葉が心に響いてきます。日ごろ、何かをすることで安心する自分が神によって解放される恵みの時。これは信仰者にとって本当に大切なことです。しかし少しばかり時間と訓練も必要です。 大斎節が始まりました。様々な教会グループでも黙想会が開催されていますが、教区の皆さんが少しでも良い、神様との恵みの時を過ごすことができますように。ナザレ修道院では個人的な黙想のために宿泊をすることも可能です。ぜひ一度お訪ねになりませんか。聖公会の大切にしてきた霊的なものに出合うことができると思います。

ピ ア ノ

主教 アンデレ 大畑 喜道

  私は音楽は好きですが、楽器となるとまったく才能がないようです。子供のころ、ピアノの練習を嫌々させられたからでしょうか。最近、音楽用語の本を読んでいて、改めて気づいたことがあります。ピアノというのは弱くとか優しくとか訳される強弱記号ですが、ただ単に弱く弾くとか、強く大きい音を出すとかということではなく、優しく美しい、繊細さが要求される。それによって一つの曲が大きな広がりを持ってくるのです。大きい音だけでは一方的な騒音にしかならないでしょう。

  さて今度は楽器のピアノの歴史を考えるとそんなに古い楽器ではないようです。ものの本によると1700年代に最初のピアノのようなものが発明されたようです。当時、貴族たちは、自分のために楽器を作らせることが多く、フィレンツェのメディチ家の王子もその一人でした。彼はメディチ家に仕えていたクリストフォリに、チェンバロの改良を依頼しました。その頃、鍵盤楽器はチェンバロが主流でしたが、音が強弱に乏しいのが難点だったのです。クリストフォリはそれを改良し、「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(ピアノもフォルテも出せるチェンバロ)」を創りだし、それが徐々に改良されて現在の楽器になったようです。そしてこの時、この名前が短縮されて、「ピアノ」と呼ばれるようになりました。省略すらならフォルテでもよかったはずですが、小さな音を大切にしようという神様の大きな計画がそこにあったのかもしれません。この世界はどうしても声の大きい人が勝利する傾向があります。しかし教会はこの世界の中で本当に小さい音しか出せない人の声も大切にしていくことが求められているのではないでしょうか。この世界での小さな声を大切にしていくということは言葉では簡単ですが、実際に実行することは大変なことです。しかしどんなに困難であっても教会はピアノを大切にできるような共同体でありたいと思います。

使命を共有し、互いに支え合う教会を目指して

主教 アンデレ 大畑 喜道

 新たな年を迎え、主の祝福が皆様の上にありますように祈ります。

 皆様がたはどのような新年を迎えられたでしょうか。私たちは神様からのたくさんの恵みをいただいて今日まで過ごしてまいりました。昨年は教区成立90周年の年であり、新しい一歩のためにキックオフの年といたしましょうと年初に申しました。思いかえしてみると、昨年もたくさんのことがありました。台風の被害によって、大島には甚大な被害がありました。またフィリピンを襲った台風も多くの人々の当たり前の喜びをあっという間に呑み込み、生活を奪っていきました。世界中では自然災害だけでなく、自己中心的な思いのぶつかり合いが、血で血を洗う争いになり、その犠牲はその周辺のもっとも小さくされている人々に強いられている状況が繰り返されました。アフリカ諸国や中東諸国の争いは激しくなるばかりです。一方で、新しい年を迎えて、私たちはあまりにも幸せで、安全で、もちろんニュースが伝えられた時は、必死に祈りました。悲惨な状況を思い祈りながらも、次第に忘却の彼方へと押しやってしまっている自分のふがいなさ、信仰の連帯と言いながらも自分の生活に汲々としている罪深さを痛感します。私たちはいつも、すべての人が完全な和解と交わりの中に生きることができるようにと祈り続けています。私たち、私だけではなく、神に創造されたすべての者が平和に生きることができるようにと私たちは召し出されたのです。

 今日選ばれた福音書は、弟子の召し出しの物語です。神に召し出されたものは網を洗って準備をしていました。漁に出ることと、準備をすることはなかなか目に見える成果もなく、骨の折れる作業です。しかししっかりと準備をしなければ漁に出ることはできません。きちんと呼びかけに応えられるような準備をしているかどうかが試されている時期でもあるかと考えます。神の召しに応えていくために、私たちは何をしていけばよいのか、第一に考えなければならないのは、神は何を求めておられるかということです。そのために私たちは日々、神のみ言葉に向き合わなければなりません。そして向き合っただけでなく、そして日々み言葉によって励まされて、自分を変えていく決断をしていかなければなりません。私たちは弱い存在です。しかし私たちには信仰の仲間がおります。互いに支えあいながら、主のみ言葉を噛みしめ、礼拝生活を大切にしてまいりたいと考えます。主教に按手されて以来、世界中の教会から様々なニュースが飛び込んできます。様々な方々が東京教区にいらっしゃいます。多くの友に出合う時、生きることに本当に困難を覚えながらも、必死に神の宣教のために生きようとしている仲間が世界中にいるということを実感します。あらためて言うまでもなく教会は私の教会ではなく、世界大に広がる大きな共同体です。そんな大きな広がりの中で、私たちは神に生かされている、恵みを与えられている、それをしっかりと受け止めていくことが私たちがまず大切にしていかなければならないことでしょう。そのために一致団結していくことの大切さを痛感しています。あの人が嫌い、この人が邪魔というような仲良しグループを形成していくようなことは慎まなければならないことです。使命を共有する仲間として互いに支えあう教会共同体を目指してまいりましょう。

 海外との関係でいえば、今年は日韓の両聖公会の交流が始まってから30年の年で釜山(プサン)教区成立40周年になります。東京教区は隣国との相互依存と相互責任を果たすべく、東京と釜山との間で始められたBTプロジェクトを管区の交流よりも早く始めています。もう一度、大韓聖公会とのかかわりを再確認し次の世代につなげていければと願っています。

 2011年3月に発生した東日本大震災は、現在も尚、わたしたちにとっての現実的な課題が残っています。この震災復興の働きのために皆様方の祈りと支えによって大きな募金をお捧げすることができましたことは本当に感謝です。しかしこれで終わりではありません。一応の区切りは付けましたが、今後も私たちのできることをしっかりと続けてまいりたいと考えています。東京には今なお、原発の事故によって、故郷を奪われて、いつ戻ることができるかわからない状態でいる人々がたくさんいます。東北教区を中心とした「大事に東北」ともう少し広がりを持たせて、私たちの生活の質の変革も含めた「原発問題」への取り組みに積極的に参与してまいりましょう。
私たちは2011年の東日本大震災によって、日本における主イエス・キリストの働きに参与するわたしたちキリスト教会にとって背負うべき「わたしたちの課題」を突き付けられたと認識してきました。大きな犠牲にあった人々のことをいつまでも忘れずに、一人一人を大切にしていこうという呼びかけを再確認してまいりましょう。わたしたち東京教区は、他の日本聖公会諸教区と、とりわけ直接の被害をこうむった東北教区との協働において、自らの課題を背負う働きを展開し続けてまいります。具体的には聖職の派遣や、人的交流などをより一層深めてまいりたいと考えています。こんなに人的に教会の牧師が不足している中で、なお支援できるのかといぶかる方々も多いかと思います。もちろんそのためには、皆様お一人お一人の協力が不可欠であることは言うまでもありません。復興の道は、今なお遠く、課題が多いことをしっかりと心に留め、わたしたちの協働の働きをさらに進めることの具体化に教区を挙げて進んでまいりましょう。

 教役者会は毎週第3日曜日に主教座聖堂に集まり祈りの時を持ち続けています。それは今年も続けてまいりたいと考えています。各教会においても教役者が参加しやすい環境を作っていただきたいと切にお願いします。一致し心を合わせて祈り合うことを大切にしていきましょう。震災から3年が経過しようとしています。幸いにも東北教区の主教座聖堂も3月に竣工できる予定でいるようです。この3年間をもう一度振り返りながら今後の歩みをしっかりとしてまいりましょう。一緒に歩くことは大変に難しいものです。自分を捨てていく覚悟がどこかで必要になってきます。自分を変化させることを恐れずに、キリストが死んで復活したことを信じている私たちならば不可能なことではありません。神が望まれていることの実現のために自分を捨てて、自分を変えて協力してまいりましょう。

 さらに東京教区主教として、新たな年を迎えるに当たって、これまでの在任期間を思い、来るべき新たな一年を考えると、多様な課題に直面していることは当然のことですが、その課題の重さに身の引き締まる思いがいたします。しかし幸いなことに、去る11月の定期教区会において具体策を皆さんとともに教区のビジョンやアクションや方策を考え実行していこうとするために新しいプロジェクトチームが立てられました。昨年は財政委員会によって今後のシュミレーションを信徒懇談会の場においても、教役者会においても分かち合いました。現実の把握も大切ですが、神の宣教の器として成長していくために手をこまねいていたり、だれか任せにしていたのではいけません。互いに近隣の教会と手を取り合うことの大切さ、そして何よりも誰かがやってくれるのを待つというよりも、自分も福音宣教のためにめされているものだという自覚を強く持っていただきたいと願います。今年は各教会におきましても、自分たちの歴史や伝統をしっかりと踏まえたうえで、今、教区として何をしていく必要があるのか、そのために自分たちは何かできるのかを明確にしていただきたいと考えます。聖職者が不足していることを悲観して立ち止まってしまうのではなく、そこにも大きな恵みが与えられていることをしっかりと受け止めてまいりましょう。今後も数教会が協働で、また、支えあって、聖書研究会などの働きを実施していくこと、礼拝の共有などを進めていくことで、自分だけの教会という枠組みを外していきましょう。変化し、また新しいものを作っていくことは大変な作業です。しかし私たちには信仰が与えられています。教区の成立の時に、関東大震災が起こって、その時に、マキム主教が本国に、「すべてがなくなった。しかし信仰が残った」と誇りをもって打電した伝統が東京教区の伝統です。この伝統をもう一度思い返していただきたいと考えます。私たちはこれから次の世代の人々に対して、「あの時の東京教区は素晴らしかった。どんな困難があっても一致し、信仰共同体とし神の働きのために邁進していたね。先輩たちに感謝します」と言われるように、歴史に残るような行動を起こしましょう。先輩聖職の皆さんの牧会経験、専門的な知識、経験、神学的な素養、また信徒お一人お一人の信仰生活の積み重ねは東京教区の極めて大きな財産です。与えられた財産をしまいこむのではなく、神がなさろうとしていることの実現のために積極的に活用してまいりましょう。

 過渡期は一時的な混乱が生じます。しかし方向をしっかりと見据えていれば不安になることはありません。先頭にたっているイエスを見つめ続けましょう。新しいプロジェクトの方々と共に、教区会においてビジョンの策定、方向性を教区に言葉化して提示できればと考えています。教区再編成の委員会ができたからすべてがうまくいくということではありません。大きな混乱も起こる可能性があります。しかしまず聖職団も一致し霊的な生活の向上を努めてまいりたいと考えています。昨年は主教座聖堂において、信徒連続講座を開催していただきましたが、今年も引き続き、学びの機会や霊的成長の場を提供していきたいと準備しています。互いに責任を明確にしていくことが大変に重要な課題です。私たち聖職者たちの協働的な働き、ことに神学研究、牧会訓練などの、聖職者にとっての生涯学習の必要性を再度申し上げたいと思います。

 教役者も、信徒もそれぞれの責任と自覚をもって、熱心に学び、教会の多様な活動を創造してまいりましょう。主イエス・キリストに従うために、しっかりと準備をし、主の召し出しにすぐに応答できるようにしてまいりましょう。教区成立100年に向けて、新しい歩みを開始した第二年目です。これから信徒や教役者各位と十分に話し合い、理解しあっていきたいと願っています。今年も皆様の祈りと協力をお願いします。ともに主の定められた信仰の告白を共に唱え、一致のスタートといたしましょう。

2014年1月11日 主教座聖堂にて

降誕日メッセージ

主教 アンデレ 大畑 喜道

 主イエス・キリスト誕生をお祝い申し上げます。
  世界中で救い主イエス・キリストの誕生を祝っています。普段キリスト教会とは無縁の人々も、この季節には、主イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの行事に参加してくださいます。世俗化された現代社会はクリスマスが恋人の日のように駆り立てます。そして孤独でいると取り残された疎外感を味会わされてしまうそんな日にもされてしまっています。今年も多くの兄弟姉妹と一緒にイエス・キリストの誕生の意味を黙想し、誕生を祝って賛美の歌声を響かせることができますように。
  神は人間を素晴らしい存在として創造されましたが、人間は神の掟に対して非常に軽率な行動をとってしまいます。この自分勝手で自分があたかも世界の中心であるかのような軽率さがこの世界を混乱させます。神は人々が平和に暮らすことができるような行動をとるべく生きていくように、繰り返し、原初に戻ろうと軌道修正をはかります。神が人間を創造された時、目を細めて見つめていました。自由と信頼の上に成り立っていたからです。規則で縛り付けるのではなく自由を与えました。どんなに可愛い物でもぎゅっとしていたら、息苦しくて息苦しくて死んでしまいます。神は大きな掌にそっと卵をのせているような方です。自由と信頼をこの掌の上に存在するものすべてが共有し、連帯していくことが求められています。その信頼に応えられるような人生を送ることがクリスマスを祝うものの責任ではないでしょうか。

2013年12月20日

クリスマスを迎えるシーズンに
  ー秘密法案が通ってしまったー

主教 アンデレ 大畑 喜道

 今年の六本木は凄まじいものでした。ハロウィンの夜中は仮装してないと「なんかここにいるの間違ってるんじゃないか」って思いをした人も多いと思います。警察も警備していたようです。いつの頃から大騒ぎをするようになったのかよく分かりませんが、もう少し立ち止まって自分の生きる方向性を考えてもらいたいものだと感じました。そして一夜明けるとすべては何もなかったかのように静まり返ります。そしてハロウィンからクリスマスへと時は移っていきます。
  今、日本は極めて大きな危険の渦に巻き込まれようとしています。若者たちがこれからの人生を考えるよりも、今を楽しく可笑しく生きることができればよいと騒いでいるうちに(多くの大人たちも諦めと自分の欲望の世界でだけで生きている)秘密保護法案が通ってしまいました。自由にものを考え、発言することができる。互いに話し合い、決めていくことができるような民主的な国家は少しずつ外堀が埋められてきています。まさに闇が迫っている。そんな思いがしてなりません。主教のコラムとして政治的な発言はなるべくしないようにするつもりでしたが、やはり闇が迫っていることを訴えずにはいられません。いまこそ生き方の悔い改めが必要でしょう。
  クリスマスを迎えるシーズンになって、教会でも様々にイルミネーションをしているところも増えています。しかし商業ベースのイルミネーションには比べようもありません。今こそ闇に対抗する本物の光をこの世界に広げていかなければなりません。本物の光はこの世の片隅から光輝き、闇を駆逐していきました。そのことをもう一度考えていきましょう。

2013年11月29日

九仞の功 一簣の虧

主教 アンデレ 大畑 喜道

 今年の二月に武蔵川親方が相撲界から引退しました。大関から陥落しながらも最後は横綱にまでなった武蔵川親方〈元横綱三重ノ海)。彼の化粧まわしには「一簣の功」という字が刺しゅうされたものがあるそうです。土を盛り上げて山を作ろうと考え、一生懸命に努力する。しかし99%完成したとしても最後の最後の踏ん張りがないためにそれを成し遂げることができない。千尋の谷底という言葉もありますが、仞というのは高さを測る単位で、尋と同じだそうです。九仞というのは高く積み上げられた九割方成し遂げられたというような意味でしょうか。簣というのは土を運ぶ道具です。ブルトーザーで山を積み上げるのではなく、少しずつ少しずつ毎日の積み重ねは重要です。しかしだんだんと山が高くなっていくと、積み上げていく努力も最初とは比べ物にならないくらい大変になります。そこで私たちはついつい途中で努力を投げ出してしまいます。しかし最後のひと踏ん張りが大切だ。彼は常に自分を叱咤激励していたそうです。私たちの信仰生活も同じことが言えます。このくらいやったからもうあとは適当にしておこう。誰かと比較したら、ずいぶんと高い山になっているはずだから。それが悪魔の誘惑というものかもしれません。その誘惑に打ち勝つためにはどうしたらよいのでしょうか。自分の努力もさることながら、神が後押ししてくださる。聖霊の力が私たちを支えてくださるという強い信念が大切なのです。信仰生活を続けていくことにはこの聖霊のみ力が不可欠です。長い信仰生活をしっかりと続け、自分の使命を全うし、山を完成させるまで聖霊のみ助けを求めつつ頑張って参りましょう。