大齋始日 灰の祝別の礼拝 説教

主教 アンデレ 大畑 喜道

灰の水曜日を迎えた今日、ご一緒に集まり礼拝を捧げることができることを感謝します。私たちがどういう思いをもってこれからの日々を生きていくべきかを学び、これから始まるレントの道のりをともに進んで参りましょう。聖霊が私たちの信仰の歩みを、神とともに生きる旅路を無事に歩み続けるための神からの援助を提供してくださいます。 神に向かって方向転換しなさい。そして歩みだしなさいこれが学ぶべき事柄です。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」(ヨエル2,12)。この呼びかけがすべてを要約されています。特祷において、キリスト者は各自が真の悔い改めの歩みを始めるよう勧められています。預言者ヨエルは、心を込め、断食と涙と嘆きをもって、天の御父の元に立ち戻るよう励まします。神は慈しみ・憐れみであり、怒るに遅く、慈愛に早く、私たちがもとの道に戻ることを待ち続けておられます。もし悔い改めへの招きを真剣に受け止め、聞いて実行していくなら、神の約束ははっきりしています。神は私たちに勝利を得させ、私たちは数えきれない恵みで満たされるのです。私たちはこの礼拝にあずかり、その心を新しくし、その精神をも強めてくれるよう神に願いながら、聖書の言葉の一つ一つを自分自身の言葉としていきましょう。福音書では、イエスは見栄や偽善、浅薄さ、自己満足に人々を導く虚栄の心に警戒し、常に心を正すよう注意しています。パウロはコリントの信徒への手紙で「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(2コリント5,20)と交わりの中に招き入れようとしています。使徒のこの招きは、レントの悔い改めへのさらなる招きでもあります。パウロは、神の恵みの力を特別な方法で体験しました。パウロはテモテに宛てた第一の手紙の中で書いています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られました。私は、その罪人の中で最たる者です」。そしてパウロは付け加えます。「私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずその私に限りない忍耐をお示しになり、私がこの方を信じて永遠の生命を得ようとしている人々の手本となるためでした」(1,15-16)。実際、彼は 自分が多くの人々の手本となるべき者であることを自覚していました。多くの人の手本、それは彼の悔い改めとを切り離しては語ることはできません。彼が手本となってほしいと願う事柄は、神の恵みによって起こった生活の変容に関することです。神の選びは私たちの選びとは根本的に違っています。敵対するものを神は本来の道筋に戻していきます。失敗を新しい方向へと進ませてくださいます。「以前、私は神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、それは信仰のない時に、知らずにしたことなので、憐れみを受けました。こうして、私たちの主の恵みが、…私にあふれるほど与えられました」(1テモテ 1,13-14)。パウロのすべての説教、彼の宣教者としての存在そのものが、神の恵みの根本的な体験に由来します。「神の恵みによって今日の私があるのです。そして、私は使徒のだれよりも多く骨を折って働きました。しかし、働いたのは私ではなく、私と共にある神の恵みなのです」(1コリント 15,10)。神が彼を力強い内的を与え続けてくださったのです。 パウロは、すべてが神の恵みの業であると認めていました。今日、私たちはこの礼拝からはじめて、自分自身をしっかりと見つめなおしましょう。汝ちりなればちりに帰るべきをおぼえよ。自分は優れている存在であるという虚栄や欺瞞から私たち自身を解放していかなければなりません。私たちはかつて洗礼を受けて新しい生命の恵みに自由に答えていくようにされました。神が選びだし、神の大きな恵みによって私たちは変えられたのです。そのことを思い出してください。ちりに帰るべき存在であるにも関わらず、私たちは大きな希望を与えられているのです。そしてその希望に応答するためにローマの教会へ宛てて書いています。「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させ、その欲望に屈服してはなりません。また、あなた方の五体を、罪に仕えるよこしまなことのための道具にしてはいけません。かえって、自分自身を死者の中からよみがえったものとして神に献げ、また五体を義に役立つ道具として神に献げなさい」(ローマ6,12-13)。この言葉の中に、私たちはレントの過ごしたかたをしっかりと学ぶことができます。死と復活によって実現されたキリストの罪に対する決定的な勝利、そして私たちの五体を罪に提供しないように、罪に再び陥ることのないように注意を促します。キリストはご自身が与えられた勝利を、自分を信じる者たちも同じように自分のものとすることを期待しています。
私たちはその方向性はわかりますが、どのようにしてその期待に応えるようにいきていくことができるのでしょうか。勝利を実現することができるのでしょうか。どのようにして肉と霊との戦いにおいて勝利者となれるのでしょうか。キリストは福音の中で、私たちに有益な3つの方法を教えています。それは祈りと施しと断食です。 聖パウロの経験とその書物でも、有益な方法が記されています。祈りに関してパウロは、祈りの中にあくまでも忍耐し、目覚めていること、常に感謝し、絶え間なく祈ることを勧めています。施しに関しては、コリントの教会に宛てた第二の手紙の8章から9章に記された貧しい兄弟たちのための施しについての箇所が重要でしょう。彼は、愛の生活こそが信者の生活の頂点であることを強調します。コロサイの教会に宛てた手紙の中では、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完全させる絆です。」( 3,14)彼は断食については直接には語っていませんが、主を待ちながら警戒して生きるよう招かれている人の特徴として、しばしば節制の必要性を繰り返します(1テモテ 5,6-8; テトス 2,12)。聖パウロが、競技場で競争する競技者の生活が絶えざる節制を要求することを挙げて、それを霊的競技に喩え、彼らは朽ちる栄冠を獲得するためにここまで節制するのだから、朽ちない栄冠を獲得したい私たちはなおのこと節制が必要だと強調しています(1コリント 9,25)。
この生活こそ、キリストと共に、復活し勝利を得たキリスト者の生活です。私たちはこれからの時間を、神のみ言葉によって養われる必要があります。「キリストのみ言葉をあなたがたの中に豊かに住まわせ、すべての知恵によって教え合い、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心の底から神をほめたたえなさい」(コロサイ3,16)とパウロは勧めます。私たちの共同体はこれからの日々を互いに支えあい、祈りあいながら、イエス・キリストにおいて示された恵み、勝利へ向かって進んでいきましょう。
皆さん、悔い改めと償いのしるしとして頭に灰を受けながら、神の言葉の人を生かす働きに心を開き続けましょう。この季節は特に神のみ言葉に、より耳を傾ける時です。特に最も貧しく必要に迫られている兄弟たちへの誠実な愛を誠実になしていく決心を固くしていきましょう。

第119(定期)教区会 開会演説

主教 アンデレ 大畑 喜道

 本日は休日にも拘らず東京教区のためにお集まり頂き本当にありがとうございました。心から感謝申し上げます。今回の教区会は来年度に向けての各委員会の計画と予算などが主なものとなります。この一年の働きを神に感謝しつつ、これからの教区の歩みについてご一緒に意見の交換をしていくことができたらと思います。
なぜ宣教するのか
 私たちが宣教する目的は何でしょうか。すべての人が神に選ばれ、愛されている喜びを実感し、すべて神によって創造された人々とともに人生の旅路を生き抜いていくことにあります。アンデレホールの入り口に聖アンデレの木彫があります。舟越桂という著名な作家の作品ですが、彼は「個人はみな絶滅危惧種」という本を出しています。「私たちはみんな絶滅危惧種だ。」自分なりにこのことを考えてみると重要なことに気づかされます。私たちはそのままでは滅び行く存在であるにもかかわらず、神によって生かされている。一人一人の違いがあり、固有の存在として大切にしあいながら生きている。その根底には神が、独り子を賜るほどに私たちを大切な存在として見守り、見えない力によって支えてくださるがゆえに絶滅を免れているという事実があります。しかし大きな神の愛によって包まれて生きている存在であるにも拘わらず、お互いを大切にし合えない現実があることも事実です。パレスチナではイスラエルとガザ地域の間の戦闘によって多くの犠牲者が出ました。幸い停戦合意が成立しましたが、いつまた悲劇的な状況が繰り返されていくか分かりません。パレスチナに限らず世界中で起こっている平和が脅かされている現実。犠牲になっているのは弱く小さくされた方々のことを思うと胸が痛みます。それは海の向こうの話ではありません。自分の生活を守るために人を踏みつけにし、押しつぶしていくような動きがたくさんあります。英国聖公会総会は、11 月20日に女性主教を認める議案を否決しました。主教、聖職、信徒の3院で、それぞれの三分の二の賛成が必要ですが、信徒票が3分の2に達せず、結果として否決ということになりました。女性主教に関する議論は、2015 年の次期総会まで棚上げとなります。様々な課題を世界の諸教会が抱えています。それに対して多くの教会が、人々が立ち上がり、たとえ小さな働きであったとしても頑張っています。そのために自分は何ができるかをしっかりと神との対話の中でつかんでいくことが大切です。東京教区のみならず、神によって招かれた一人ひとりが、神の愛を悟り、赦し合い、常に喜びのうちに成長していくことを祈り求めます。神によって生かされている。この喜びを共有していくこれが宣教の基本であり、その大元をしっかりとつかむことが肝要でしょう。

日本聖公会の現状・教区の現状
今年は管区で宣教協議会が開催され、それが十分に生かされるために、プレ宣教協議会や、教区の宣教を考える会が何度も行われました。教会のことだけを考えても信徒の高齢化、聖職不足、財政問題。数え上げれば多くの重い課題があります。平和を希求しながらも世界中では神の思いとはかけ離れた事態が起こっています。
 日本聖公会や東京教区の現状については、すでにいくつかの報告書が出されています。東京教区では「プレ宣教協議会の報告書」「各教会の宝物の発見のアンケート結果」を信徒の数だけ配布しました。宣教協議会では「日本聖公会〈宣教・牧会の十年〉提言」を出しました。今日は皆様にこの提言を再度お配りしています。これらを見ての感想として、当たり前のことではないかと思われた方もあるかもしれません。何十年も前から言われていたことであるかもしれません。教会の基本やあるべき姿に立ち帰ることこそが、この危機的状況の世界にある教会に今必要なことです。「日本聖公会〈宣教・牧会の十年〉提言」の表題だけを読み上げます。そこに付随している事柄の一つ一つも大変に重要な事柄を述べていますので、後で配布資料をじっくりと読んでいただきたいと思います。これをもとに具体的な方策の策定などのために、意見交換の場や実践をしていきましょう。宣教協議会の結果として出されてきた5つの提言は以下の通りです。
1、み言葉に聴き、伝えること〈ケリュグマ〉
2、世界、社会の必要に応え仕えること〈ディアコニア〉
3、生活の中で福音を具体的に証しすること〈マルトゥリア〉
4、祈り礼拝すること〈レイトゥルギア〉
5、主にある交わり、共同体となること〈コイノニア〉
単なるお題目にしてしまうのか、しっかりと実践できるのか。そのためにはまず、それぞれの場面でこの言葉を自分の言葉として翻訳しなおす作業をすることが大切です。そして実際の活動の指針としていきましょう。先に提示した全聖公会の5指標とも根本的なことは同じことであろうかと認識しています。きわめて原則的、根本的なことです。教会の働きにはすぐに効果が表れるような処方箋などはありませんが、これらの教会の働きにとって重要なことを確実に実践していくことで、東京教区は神の栄光を表す器となっていくと確信しています。
 さて東京教区も財政の問題や人的な問題は極めて深刻であるといわざるを得ません。教役者議員の表をごらんになると分かりますが、東京教区には現在34 名の司祭と2 人の執事、4人の聖職候補生と伝道師、そして勉学中の1 名の聖職候補生がいます。しかしそのうち、立教学院に3 名、立教女学院と香蘭女学校に各1 名、学校関係や施設に3名の合計8名の方々が教会外で働いておられます。実際に教会の牧師として奉仕しておられる司祭は26 名です。様々な苦心をし、退職の司祭にもご協力をいただいてどうにか毎週の聖餐式を捧げられています。しかし今後はどうしてもそれも叶わない状況になりつつあります。数年すると次々と聖職が退職されます。もちろん健康であれば、退職後も教区の働きのために尽力いただきたいと願っていますし、聖職候補生として志願される方々が皆無ではないことは嬉しいことです。しかし傾向としては、現職として責任を負っていかなければならない数はますます減少傾向にあります。定住の教役者を教会に置くことができない状況を一朝一夕に解決させることは非常に難しいことであると言えます。牧師の数が少ないということは、東京教区だけの問題ではありません。他教区との協力、協働も念頭に置かなければなりません。そんな状況であるからこそ、私たちは信徒も教役者も意識の変革をしていくことがどうしても必要になります。
 神によって喜びを与えられ、召し出された私たちが、一人ひとりが各々の能力、賜物を生かしあって力をあわせていくことが何としても必要です。自分だけでどうにかしていこう、隣の教会のことなども考えられないというのではなく、私たちは協力し合い、一致団結していくことが求められています。

これからやろうとしていること
・新しい教会体制
基本は、昔も今もそんなに変わっているわけはありません。長い目で見れば、原則をしっかりと見つめて固めることの重要性を認識いたしましょう。やらなければならないことはたくさんあります。何もかも大事なことです。しかしあれもこれもを少ない人数でこなしていくことは不可能です。しかも根本がしっかりとしていなければぐらついてしまいます。しかしできることは早急にしていかなければなりません。東京教区の十年後のために今から私たちがなすべきことを整理統合していくことは不可欠なことでありましょう。バネは伸びきってしまったらその力を十分に発揮することはできません。十年後の飛躍のためにしっかりと地盤固めをしなければなりません。どのようなことに重点を置いていこうかということについてお話します。
 昨年から高橋顕司祭にはきわめて異例ですが、二つの教会の牧師をしていただきました。まだこのことによって起こった具体的な評価をするには時間経過が少ないかもしれません。実際に二教会の皆さまの声を共有する時間も場もまだ十分にはありませんが、しかし意識の変化ということでは大きな影響があったように思います。宣教の担い手は誰でもない、私だという意識を信徒の皆さんも持っていてくださることに感謝しています。この二つの教会の働きに励まされながら、教区全体が、信徒とは何か、司祭の責任と職務とは何かということをしっかりと確認しないといけないのだ、そして夫々の役割を的確に果たしていく芽生えを自ら作っていきましょう。定住の教役者がいないから駄目だということから、何をすることによって、その危機的という状況から抜け出していけるかを真剣に問い続けていかなければなりません。

・教育の充実
前述の提言の遂行や教会の新しい宣教体制の実施のために教育は重要な事柄です。教区の一貫した教育ビジョン、世代別、あるいは分野別の教育プログラムの策定、実施などが急務です。そのために主教座聖堂を中心として計画を推進していきたいと考えます。宣教主事の呼びかけで、教区の教育に関する部門の委員長が非公式に会合を重ねています。主教座聖堂でも十年後の教区を見越して、すでに信徒講座などを開催しております。これが私たちの意識変革、自分は何をすべき存在として神に召し出されているのか、今自分は何をしていくことができるかを明確にしていく端緒になろうかと期待しています。司祭とは何をすべき存在であるのか、それに向かって日々の営みをどのようにしていくのか。信徒とはどうであるべきなのか。明確にし、実践していく必要があります。たとえば現在、教区には信徒奉事者が80有余名もいます。しかし今、信徒奉事者は何をする人か、何ならできるのかが不明確です。積極的に基本的なキリスト教の神学を学んでいただき、礼拝の中の奉仕も、奨励を行うことができるようになったり、信徒訪問をすることができるようになったりしていただきたいと考えます。必ずしも聖職としての道ではなく、信徒としての召命の実践です。あるいは聖職として召し出されていることに気づかされる人もその中から出てくるかもしれません。

・教区の委員会制度の検討、整理
これらの実践のためには法的整備も含めて考えなければなりません。教区の機構改革、最終的には施行規則や管区の法規の改正の提案も必要でしょう。東京という狭いエリアに多くの教会があります。協力して様々な活動を行うことが可能な教区です。こうして教区会を年に2 回、宿泊することなく開催できるのは大きなお恵みです。このお恵みを有効に活用するためには選択と集中が必要なのです。今までのことを振り返ってみると少し拡散傾向にあったように思います。協力してできるところはできる限り協力し合いながら、機能的にしていきましょう。そのためには今は教区の活動計画の縮小や選択をしていくことも必要になってくるでしょう。

・教会グループの再編も視野に入れて各教会が5つの提言のすべてをなしていこうとすると無理が生じる場合があります。そのために虻蜂取らずになってしまったらいけません。先の教区会では一つの家族としての教区ということを意識して、ローマの信徒への手紙の12 章4節「わたしたちのひとつの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちは数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形作っており、各自は互いに部分なのです。」というみ言葉をはじめに提示させていただきました。これから近隣の教会との協力が必要になります。たとえば、聖書研究や家庭集会を1教会だけで行うのではなく、複数の教会で行うなど。そのためには現行の教会グループの再編も視野にいれていく必要があるでしょう。また礼拝時間を都合しあって、合同の礼拝や午前午後の礼拝を行うということも考えられます。そのためにはまず各教会のビジョンや得意分野が明確に認識しあえなければなりません。信徒が自分の教会のビジョンとそれに対して何が必要なことか、それをしっかりと把握しなければ協力のしようもありません。先に出された各教会の宝物のアンケートなどをもとにもう少し進めてこの分野では、協力し合おう、これはこの教会に頼るけれどもこの問題は自分たちが担う。そのような動きになってくれればと願います。
 また一人一人が宣教の担い手であるということは、対等なパートナーシップを持つことであり、ジェンダーの平等を保障しなければなりません。できることからまず意識的にはじめなければなりません。代議員の男女比の問題もそうです。もちろん、選挙で選ばれるのですが、以前にこのような話し合いがなされた直後は女性の参画も増加しました。常に意識しないでいると減少傾向になります。次期教区会での激変を期待します。

教役者動静
 最後に教役者の動静ついてお話します。4 月からの人事に関してはまだ発表することはできません。教会グループの再編も視野に入れて徐々に人事を進めていくつもりです。皆様にお知らせできる範囲のみお伝えしたいと思います。11 月には長い間、東京教区に在籍され、神戸国際大学学長として奉仕された遠藤雅己執事が神戸教区に移籍されました。ご活躍をお祈りしています。また大変に喜ばしいことですが、聖オルバン教会に今般米国聖公会ミネソタ教区のウイリアム・ブルソン司祭を牧師として招聘することができました。今後のお働きを期待します。また朴美賢司祭は出産のために一時教会の働きから離れます。無事に出産の恵みにあずかることができることを祈ります。教区事務所でお手伝いをしていただいています高柳章江さんが聖職への召し出しを受け、聖職候補生の志願を出され、聖職候補生志願者
となられました。今後の霊的旅路のために見守りの期間を実り豊かに過ごしていただきたいと思います。退職された福澤道夫司祭は現在病気加療中です。神様の癒しのみ手を求めます。皆様のお祈りをお願いします。
 危機的だ、絶望的だと諦めるのではなく、今私たちが変革することで、大きな希望が与えられている。福音宣教の大きな担い手として、すべて主を信じる者が成長していくことができるように、教区の皆さまが互いに一致と協力していくことを願いつつ開会の説教とさせていただきます。ご静聴ありがとうございました。

アイスワイン

主教 アンデレ 大畑 喜道

 季節はもうカレンダーが薄くなりました。教会の暦では新しい年が始まろうとしています。あんなに暑かったのに朝晩は本当に冷たさを感じるようになりました。先日小平墓地の帰りにぶどう農家の前を運転していたら「今年の収穫は終わりました。また来年のお越しをお待ちしています。」という看板がありました。そこでちょっと気づいた話からはじめたいと思います。 日本ではちょうど鬼の平蔵、長谷川平蔵が活躍していたころです。喜多川歌麿なども30代であったと思いますが、1794年冬、ドイツのフランコニアは予想外の霜に見舞われたそうです。農家は放置されて凍ってしまった熟した葡萄を処分するに捨てれず、それでワインを造ったところ、甘みの強い、芳醇な香りのワインになった。これがアイスワインの始まりといわれています。完熟して果糖分の高くなった葡萄が寒さによって果汁が凍結し、その実を凍ったまま搾汁した為に、水分が氷として残って果糖分が凝縮され、非常に濃厚で強い味わいになったのである。その生産性の低さから希少性が高く、高級なデザートワインとされるそうです。こんな話をしだすと酒飲みのように思われてしまいそうですが、普段捨てられてしまうようなぶどうだったということ、寒さに耐え抜いたぶどうから馥郁とした甘い香りの高級なワインが作り出されるという不思議です。神様のなさることは本当に不思議です。忍耐して神の不思議な業がなされることを待ち続ける。このことの重要性を再認識しています。

病院帰りに

主教 アンデレ 大畑 喜道

 2年前に入院してから2ヶ月に一度のペースで病院で定期健診を受けています。運動不足や休肝日を作ることを指摘されています。ついつい車で行くことが多いのですが、ちょっと歩いて散歩がてらに行きました。そうしたら、飲み屋の看板にこう書いてありました。「飲むのは月水金、そして火木土と決めている。加えて週に一度だけ日曜日に飲むことにしている。」月水金と火木土と日だったら毎日じゃないかと思いつつ通り過ぎました。これを信仰的な看板にしたらどうだろうかと考えてみました。「聖書と祈りは月水金、そして火木土と決めている。加えて週に一度だけ日曜日に教会に行くことにしている。」毎日の生活の中で忙しさにかまけて祈ること、聖書を開くことを忘れがちになっていくこと。日曜日を大切に守っていくことの重要性が信仰の基本です。お祈り不足、勝手な休賛美をつくっていてはいけません。体の健康を保つためには適度な運動と休肝日。心の健康を保つためにはたゆまぬ祈りと聖書、そして休みの日に賛美する休賛美が必要です。

雨 ど い

主教 アンデレ 大畑 喜道

 先日、朝の礼拝の時に大きな雨が降りました。屋根からの水はあふれるばかりに道路に流れていきます。桜の花が散って詰まっていたのを放置していたのが原因です。雨どいにたくさんのごみが詰まってしまって屋根から集められた水が溢れ出します。大急ぎで応急処置をしたら、つなぎ目が取れてしまってまったく大騒ぎになってしまいました。雨どいがしっかりとしていればたくさんの雨が一つのところに集まってきます。神様のお恵みはこれと似ています。みなさんの一人一人のうちに神様はいつも恵みを与えようとしています。私たちはそれを集めてしっかりとつかまなければなりません。しかし途中に何かが詰まってしまったらもうたいへんです。しかし時々、途中がつまってしまうことがあります。自分に大きな責任があるのですが、自分の思い通りに行かなかったり、困難が迫っていると、ついつい神様は私に目もくれないと嘆き、恨みが先行します。神様と私たちとの間にある雨どいをしっかりと掃除して一つところに集めるように、日々の生活の中で神様のお恵みをたくさんいただけるように注意をはらっておいていくことの大切さを感じています。どうやったら詰まっているかどうかを検証できるか、それは毎日心を神に向けていくことです。まず神様が私たちに常に恵みを与えてくださっているという信頼を保ち続けることではないかと考えています。

その時は突然やってきた
ーあの日の出来事は 今も続いているー

主教 アンデレ 大畑 喜道

 久しぶりに教会の草むしりをしました。毎年花を咲かせていてくれた草が枯れてしまってがっかりし、新しい花を植えようと思い立ったからです。そうしたら枯れ枝だと思っていた所から新芽が吹き出していたのです。いままでは草に覆われていてしまって、雑草に妨害されていましたが、今はすっかりきれいになりました。また花を咲かせ心を和ませてくれることを心待ちにしています。それと同じように、私たちには神様からの大きな恵みが与えられています。聖霊の働きが今日もあることを確認したいと思います。神様はいつも私たちを喜びに充ち溢れさせ、疲れた私たちを癒してくださいます。しかしこれに対抗するかのように、この恵みを妨害しようとする力が働きます。それは自分自身の中でも働いています。時に様々な困難に遭う時、「もう駄目だ」諦めの心が沸き起こってきます。
  神はどんな試練の日にも、私たちを励まし、力づけ、出発させてくださいます。「聖霊来て下さい。」と本気で祈るならば、すべての人に聖霊が働き出します。そして私たちの想像を超えて、努力してきたこと、人のわざを吹き飛ばしてくださいます。圧倒的な神の霊による恵みが実現します。目の前でイエスが十字架で殺されたとき、弟子たちは、もう絶対無理だと諦めました。イエスの宣教が失敗したから、もうこの世に救いはない。みんなが絶望しているその現場に、「突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえた。」と聖書は伝えています。神からの一方的な恵みです。誰もそれを予想して待っていませんでしたが、突然に降ってきたのです。神からの霊が「安心しろ、大丈夫だ。私が働く。怯えるな。」という音が天から響き、弟子たちの上に注がれたのです。その出来事は過去のことではなく、今もここで起こっていることです。私たちは諦めの心を払拭することができます。勿論、自分だけの力でそれを解決しようとしても無理です。聖霊を願うしかありません。人それぞれに大きな悩みもあるでしょう。迷いや悲しみが、絶望が心を支配してしまっている人もいるでしょう。神様に敵対する悪の力は、人を恐れさせて、無理だと思わせます。しかし教会には聖霊が働きます。聖霊の喜びに満たされます。もう駄目だ、無理だという時にこそ聖霊の力を信じてやって行く。教会は今日までずっとそれを信じ続けてきたのです。教会の誕生以来一日も欠けることなく続いてきたのです。想像をはるかに超える神の力を信じ続け、その喜びを世界に発信し続けて行きましょう。

(東京教区時報コミュニオン第4号より抜粋)

教会の過去 現在 未来

主教 アンデレ 大畑 喜道

 私たちはいつも過去の様々な出来事に縛られて生活しています。これからの出来事を判断するときに、過去の様々な経験から判断していきます。今まで経験したことからしか新しいことが判断できない。それが人間の悲しい習性かも知れません。僕の将来の夢は○○になることだと言う子供がいるとします。すると大人はそんなことは絶対にありえないことだ。なぜなら今までそうだったから。そのようにして夢を打ち砕いてしまうことがたくさんあります。ことに過ちを犯した場合、そこから抜けきれないでいるようにも思います。もはや取り返しがつかないのだ。それが一般の人の考える過去現在未来です。
  一方キリストを信じている人の考えていることは少し違っています。過去とは何か。現在とは何か、未来とは何か。過去とはそれは過ちが去られたとも読み替えることができます。イエスによって、私たちの今まで犯してきた過ちはリセットしてくださった。その上に現在生きている社会があります。イエスは私たちの様々な苦しみや過去の出来事をすべてを去らせるために十字架にかかってくださいました。人々はイエスを嘲笑し、イエスに希望をかけていた人々も諦めてしまいました。しかし今、この世界に死を乗り越えて現れてくださった。現代とはイエスが死を乗り越えて現れてくださった今です。そして私たちは、神が約束された世界に向かって新しい歩みを歩み出そうとします。未だ来ていませんが、確実に実現する素晴らしい世界に希望をもって生きていく。諦めは希望へと変わっていった。そのことを教会は喜びをもって確認するために集まっています。いつも過去にとらわれ、諦めに絶望している人に向かって、私たちはいつも、神によって喜びに満たされていく約束を信じて生きていくことができることを伝え続けています。神から希望を与えられたことを目に見える形で示しているのが教会です。試練のときこそ、聖書の伝える出来事を思い出してください。そして教会の過去現在未来を一緒に生きましょう。教会の扉を叩いてください。そこに集う人々と共に喜びを享受できるはずです。

一杯のコーヒー

主教 アンデレ 大畑 喜道

 この頃、皆様に感謝ですといって、近くのファミリーレストランでお子様ランチが39円と言う激安のセールが始まりました。確かに100円玉一つか二つで、三人の子供が食べられるなどとは嬉しい限りですが、しかしよくよく考えてみると、こんなことをことをして本当に採算が合うのだろうかと考えます。勿論、採算など合わないでしょう。別にそこで儲けなくても、他で儲ければよいと考えているのかも知れませんが、何となく不安になってしまいます。お米、お肉、野菜、丹精込めて作ったものの代価がたとえ客引きの宣伝であったととしてもそれで喜んでいていいのだろうか。どこかに無理はないのだろうか。企業が無理をするはずはありませんから、その無理は生産者にいってはいないだろうか。
  浅草でカフェをしている李司祭という同労者がいます。そこで話をしていた事ですが、儲けようとすれば安いコーヒーを手に入れることはできる。しかしその裏側では、貧困に喘ぐ生産者がいる。分かち合うと言うことは本当に日本の国でなされていくのだろうか。1杯300円のコーヒーがあるとする。そのうちコーヒー生産農家がコーヒー豆の代金として手にする金額はいくらくらいか知っていますか。2,3年前の統計ですが3~9円だそうです。どうしてそんなに安いのか、では残りの金額は一体どこへ? コーヒー豆は生産農家から消費者に届くまで、非常に複雑なルートをたどる。そしてコーヒーの価格は、ニューヨークとロンドンの商品取引所で、農家の取り分とは無関係に決められるだそうです。大手コーヒーチェーンに豆を提供している地区では飢餓が発生し、子供たちが栄養失調に苦しんでいるということも起こっているのだそうです。適正な分かち合いということがどれほど意識されているか。私たちはもう一度この社会の仕組みについて考えてみる必要があるようにも思います。

マリアの人生をもう一度見つめなおしてみよう
ー本当に平和な社会を実現させるためにー

主教 アンデレ 大畑 喜道

 私たちは自分が可愛いからでしょうか、自分の地位を守ろうとしたり、自分の行ったことが間違っていたとはなかなか言えないものです。聖書の最初の物語で、アダムとイブが禁断の木の実を食べて神に叱責された時、彼らは「自分が悪いのではない、相手が悪い」と裁きあっています。事の大小に拘らず、そんな歴史を繰り返してきたのかもしれません。人間は自分の都合の良いように物事を判断したり、時には現在の地位の保全のために虚しい言葉を重ねてきました。口から出る虚しい言葉、正に嘘を重ねていきます。子どもの頃から、「どうしてごめんなさいと言えないの。」「素直に謝りなさい」と育てられてきたと思うのですが。震災に続く原発事故でも様々な嘘がこの世に溢れています。何が本当のことなのか分からなくなって来ています。どうやったら私たちは相手の立場に立って真実の言葉を語ることができるのでしょうか。単純に自分が悪かった、関係をバラバラにしないでくださいと言えるようになるのでしょうか。人間にはそれはできないものなのでしょうか。聖書には沢山の模範となるべき人が登場します。勿論、頂点にあるのはイエス・キリストですが、それ以外にも母マリアもヨブも、詩篇22編の作者もみな、神への信頼を保ち、自分を守ることではなく、出会った相手をまるごと受け止め、自分の人生の中に働く神の愛を信じて希望を持っていき続けます。私たち人間は所詮アダムとイブだ、自分が可愛くて嘘を重ねる存在だと諦めてしまってはいけません。歴史の中に、神を信頼し自分を放棄していった人々がたくさん居ることを改めて考えたいと思います。自分が自分がと言っている内は本当の平和は訪れません。真の平和を作り上げていくために大切にしなければならない事が何かをしっかりと見つめて生きたいと思います。

神さま助けて

主教 アンデレ 大畑 喜道

 聖アンデレ教会では復活日に大人たちが子供達に向けてイエスの生涯の劇を見せています。毎年いろいろな趣向を凝らしてそれこそ大人が本気でやっているので、今年も、イエスを十字架に架ける前の場面で、兵隊たちが鞭打つ場面で、小さな子供達が泣き出してしまいました。そんな劇を見ていて、ヘロデが手を洗う場面が出てきます。もはや責任はお前達にある。自分には何も関係が無い。そのように宣言する場面です。イエスの処刑で起こる様々な問題の責任は自分達で処理せよと言うものです。ユダヤ人たちもイエスの血の責任は自分達にあると応答します。自己責任という言葉があります。流行り言葉のように自己責任ということが言われてきました。確かに何かの失敗をしたらその責任は個人にある場合もあるでしょう。誰も責任逃れをして責任をとろうとしないのも考え物ですが‥‥。誤解を恐れずに語るとすれば、失敗が自分だけの責任であってもはや取り返しが付かないと思ってしまってよいものなのでしょうか。自分が悪いのだから仕方が無い、自分の努力が足りなかったからだ。本当にそうなのかなと思う時もあります。そうやって自分を責めてしまうと「助けて」と言うこともできないようになります。自分を責め続けて諦めてしまうことが社会の中で当然だと思わせてしまってはいけないのではないかと思います。時には「助けて」と声をあげて、それを助けあっていく社会が健全な社会ではないかと思います。聖書にはイエスに対して、自分から「助けてください」と懇願する人々がたくさん出てきます。イエスはいつももう一度やり直しができるよ、大丈夫だよ、もう一回、一緒に寄り添ってあげるから立ち上がってご覧なさい。そうやって一人一人を回復させていきます。教会もイエスを中心に生きる共同体であるならば、一度や二度の失敗で自分を責めて諦めるなといい続け、いつでも戻ることのできるよう、一緒に立ち上がろうと言えるような場所になって欲しいと願っています。