大斎節第4主日(2022.03.27)

2022年3月27日(日) 大斎節第4主日

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<特祷>

恵み深い父なる神よ、み子は、すべての人のまことの命のパンとなるために、天からこの世に降られました。どうかこの命のパンによってわたしたちを養い、常に主がわたしたちのうちに生き、わたしたちが主の内に生きられるようにしてください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

<聖書>

ルカによる福音書 15:11〜32

<メッセージ> 悔い改めとは何?

父と子と聖霊の御名によって アーメン

 本日の福音は、有名な放蕩息子のたとえです。

放蕩息子とまじめな兄が登場します。この2人に共通していることがあります。この2人の息子は、お父さんの「愛」に気づいていないということです。

放蕩息子の方は、お父さんを離れて、「もっと面白いことがあるだろう、もっと楽しいことがあるだろう。もっといいことがあるだろう」と思って、財産の分け前をお金に換えて、「放蕩の限りを尽くして」(ルカ15:13)しまいました。

ところが、このお父さんは、勝手に飛び出していったこの息子を、見捨てないのです。お人好しというか。親バカというか。もうどうなっても知らん、ほっとけ、もう息子とは呼ばない、とは思っていません。お父さんは、息子をただただ愛して、心配しているのです。

しかし、息子の方は、お父さんの愛や、心配を知らない。わかっていません。財産を分けてもらって、飛び出していった放蕩息子は、お父さんの愛に、気づいていないのです。おもしろおかしいことに心奪われて、家を飛び出してしまう。ところが勝手に飛び出していっても、お父さんは愛し、心配し続けています。

放蕩息子は一文無しになり、すってんてんになった。お金のあるうちは、みんなちやほやしてくれたのですが、誰もかまってくれない。そこに飢饉が起こり、人々が忌み嫌う仕事、豚を飼う仕事をして、お腹がペコペコになり、豚のえさを食べようという、状況におちいって、どうしようもなくなって、「お父さんのとこに帰ろう」と思う。少し正気になってきました。「子と呼ばれる資格はありません。僕(しもべ)として雇ってください。一生懸命働きます。」とお父さんに言おう。そして受け入れてもらい、ご飯を食べさせてもらおう。だいぶ正気を取り戻してきました。しかしまだ「お父さんの愛に目覚めた」わけではない。 (ルカ15:17-19)。

これは、まじめなお兄さんの方も、同じなのです。いつもお父さんと一緒にいるのですが、「一生懸命働き、お父さんに仕えてきたのに、お父さんは、私に何にもくれない。」と文句を言います。(ルカ15:29)。お兄さんも、彼を深く愛しているお父さんの愛に気づいていない。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものなんだよ。」 お父さんは、弟もお兄さんも、飛び出していこうが、文句を言おうが、愛しているし、心配している。これからも、最後まで、愛し続ける。このお父さんは、神さまのことです。主イエスはなんとか、そのことを弟子たち、そして私たちに伝えたかったのです。

「悔い改め」と何でしょうか。大斎節の大切なテーマです。自分の愚かさ、わがまま、利己心、冷たさ、欠け多きものであること、人を差別する心、そういうことに気が付くこと、神さまから離れている、つまり罪の中にいることを自覚することは大切なことです。「悔い改め、改心」とは、何もわかっていないこどもですが、どこまでも愛し続ける、どこまでも心配し続ける、ほんまに親バカなお父さん、そうした神さまの愛に気づくとこまで行って、本当の「悔い改め」なのです。

放蕩息子は、帰って来ました。反省の弁も述べました。ところが、彼の想像をはるかに超えることが起こるのです。お父さんは毎日心配して、外に出て息子の帰りを、首を長くして待っていたのです。放蕩息子の反省の弁を聞くか聞かないうちに、お父さんは息子の首を抱き、接吻し、最上の衣服を着せ、指輪を与え、履物も履かせ、祝宴を始めます。そして、「弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ、喜び祝うのは当たり前ではないか」と喜びの声をあげるお父さん。

息子は少し気づき始めたでしょうか。宴会のさなかに、「本当に自分は愛されているのだ」と気づいたでしょうか。ところが「放蕩息子はついに親の愛に気づきました、めでたしめだし」という話は、このたとえには出てきません。つまり、 主イエスは、人間の側で気がつかなくても、徹底して愛し、心配し、赦しつづけている、お父さん、神さまの愛についてのお話がしたかったのではないでしょうか。「放蕩息子のたとえ」は、放蕩息子も、不満一杯口答えする兄の方も、とことん愛し続ける、ほんまに言葉が悪く恐縮ですが、「親バカなお父さんのたとえ」、「わが子を当たり前に愛する神さまのたとえ」と言い換えてもいいたとえです。

皆さんは、この神さまの愛に気づいていますか。気づいてなければ、まだ「悔い改めの途上」におられるということです。「悔い改め」というのは、神に愛されるために何かをすることではありません。神さまは、わたしがあなたを愛しているのは、「あたりめえじゃねえか」、時代劇みたいですが、「神さまが私を愛するのは当たり前なことなんだ」この有難さに目覚めること、目覚めて本当に安心することで、これを「悔い改め」と言います。

父と子と聖霊の御名によって アーメン

<主の祈り>

救い主キリストが教えられたように祈りましょう。

天におられるわたしたちの父よ

み名が聖とされますように

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人を

ゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

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