聖霊降臨後第16主日

<特   祷>

憐れみ深い主よ、どうかみ民を赦し、平安を与え、その罪をことごとく清め、穏やかな心をもって主に仕えさせてください。主イエス・キリストによってお願い致します。アーメン

<聖   書> ルカ16:19~31 今をどう生きるか。

<メッセージ>

父と子と聖霊の御名によって アーメン

 ルカは貧困や病気に苦しむ人々に対して、非常に強い感受性と申しますか、共感する心をもっていました。同時に貪欲に気を付けるように警鐘を鳴らしています。それはルカ1:52・53ではマリアの賛歌「権力あるものをその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」とマリアのことばに表現されています。ルカ6:20では「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」という主イエスのことばを通しても表されています。また今日の福音の少し前、16:14「金に執着するファリサイ派の人々」とあり、律法を厳格に守ろうとした宗教熱心なグループが、「分かち合う」と言う神さまの教えよりも、自分の生活の豊かさに執着している姿を指摘し、貪欲への警鐘を鳴らしています。

 今日の主イエスのたとえの前半では、貧しいラザロと金持ちの状況が逆転します。一般的に人間の歴史上では無名であるはずの貧しい人の方が名前を持っていて、金持ち(名声や家名をもっているはず)の方が無名なんですね。神の国では、逆転が起こるのです。権力や社会的に見れば、大切にされるべき人が、神さまの前では名前のないものとなり、この世界では名前で呼ばれない人が、名前のある人、価値あるものとなっています。この主イエスのたとえは、私たちに物事の見方を変えるようにと招いています。福音書は、何回も最後の人が最初の人になることを伝えています。私たちが行動を起こす時、教会を形成していくとき、社会を築いていく時、最後の人たち、最も貧しくされている人たちを大切にすることへと私たちを導いています。

 

フランス革命の時、断頭台に消えたマリー・アントワネット(ベルサイユのバラ、宝塚歌劇)と言う女王がいました。彼女の有名なことば、「民衆がパンがないと聞いて、私はじゃあお菓子を食べたらいいのにと思ったわ。それほど私は何もわかっていなかったの」マリーは民衆が生活に困窮していることに無関心でした。わかってはいなかった。人々の反発を買い、ついには断頭台に上がることになってしまいます。

この金持ちは、家の軒先にいるラザロを追い出したりはしなかったけれど、彼の苦しみ、飢えに全く無関心でした。

 関心や共感をもつことができなかった。無視していたのです。

 私たちは、教会の軒先にいるラザロに無視してはいないか、この社会の中で、無視されている人、ほったらかしにされている人がいないか、しっかりアンテナを張っておく必要があります。

 陰府(よみ)でさいなまれている金持ちは、神の国の宴席にいるアブラハムに「私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。」と懇願します。アブラハムは、「私たちとおまえとの間には大きな淵があって渡ることができない。」と言います。そこで金持ちは、「私には兄弟が5人いて、彼らがこんな苦しい目に合わないように、ラザロを遣わしてよく言い聞かせて下さい」と願います。アブラハムは、「お前の兄弟には、モーセと預言者がいるではないか。彼らに耳を傾けたらいい。聖書に聴けと言うわけです。申命記15:7以下(新共同訳 旧約聖書305頁)「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて・・・この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、私はあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」またイザヤ58:6以下「・・・虐げられた人を解放し、・・・更に飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に合えば衣を着せかけ、・・・」み言葉がある。それに聞くことができないと、仮にラザロが使わされても、気づくことはないと主イエスは譬えで語られます。

 聖餐準備の式144頁 

 司式者 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守しようとは思わず

 会衆  己をむなしくして僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられた

 司式者 その有様は人と異ならず、己を低くし、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた

 主イエスは、ラザロのところまで降りて行かれました。

 私たちは、今どう生きるのか。聖書を通しての神さまからの呼びかけに耳を澄まし、そして目の前の人間の現実を結びつけて、貪欲に気をつけて、貧しきラザロが大切にされる社会の実現を祈り、行動することです。そして貧しいラザロが大切にされる神の国に向かって旅をしましょう。

父と子と聖霊の御名によって アーメン

<ウクライナの平和のための祈り>

正義と平和の神よ、

わたしたちは今日、ウクライナの人々のために祈ります。

またわたしたちは平和のために、そして武器が置かれますよう祈ります。

明日を恐れるすべての人々に、 あなたの慰めの霊が寄り添ってくださいますように。平和や戦争を支配する力を持つ人々が、知恵と見識と思いやりによって、み旨に適う決断へと導かれますように。

そして何よりも、危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子どもたちを、あなたが抱き守ってくださいますように。

平和の君、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン。

<主の祈り>

主イエスが教えられたように祈りましょう。

天におられるわたしたちの父よ、

み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです アーメン

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