涼しい風を感じる頃

主教 植田仁太郎

 九月に入っても、まだしばらく暑い日が続くのでしょう。早く秋の涼しい風が吹いて来ないかなァ、とその日を期待しつつ。私の若い頃、キリスト教団体の職員として、バンコク・シンガポールという熱帯の都市に駐在したことがあります。熱帯の地に暮らしながら、毎年九月になると、日本に居る時と同じように、心の中でもうすぐ涼しい風が吹くようになるんだ、と楽しみにしている自分が居るのに気付いて、我ながら苦笑してしまったことが度々ありました。

 キリスト教誕生の地、エルサレムの夏もかなり厳しいものです。しかし、日射しは強いものの、夕方になり陽が傾くと、本当に心洗われるような涼しい風が吹き始め、それが夜半まで続きます。その風を石造りの建物にできるだけ取り込んで、昼間の暑気の残りを室内から追い出します。

 昔のヘブライ人も、この夏の夕方の涼風を、神の楽園にも吹いているすばらしいものと受け取ったようです。有名なエデンの園で、最初の人類であるアダムとエバが“禁断の木の実”を食べてしまったその日の夕、「風の吹く頃」(創世記3-8)主なる神が園の中を歩く音を聞いて、二人はハッと恐れを抱きます。人類がその犯した罪を気付く瞬間です。

 暑い日盛りの後の、天国を感じさせる素晴らしい涼風は、果てしない神の恵みと、それに仲々気付かない人類の愚かさの、その二つを同時に、私たちに思い起こさせます。

鍛錬の夏、実りの秋

主教 植田仁太郎

 夏休みの季節です。自分が小学校の頃から、長い休みがやってくるのだと、何か心がわくわくする季節でした。
 やがて中学・高校・大学と進むにつれて、この季節は(夏休みは)、勉強の遅れを取り戻したり、読まなければならない本を読破したり、書かなければならない作文やレポートを、「よし!やるぞ」と決心する季節になりました。そして決心するだけで、結局、決心したことをやりおうせないまま、秋になってまたアタフタするということの、(人生は)連続だったように思います。ふり返ってみると全く“鍛錬の夏”をみずからの努力で獲ち取ることはできませんでした。昔、大学の指導教授に、「鍛錬の夏を過ごさない者には、実りの秋を迎える資格が無い」と言われたことがあります。
 聖書の倫理的な教えは、この「鍛錬」に通じる人生態度、すなわちすべてに刻苦勉励・謹厳実直たることを教えているかのようです。教会の修道者たち、宗教改革者たち、そしていわゆるピューリタンの伝統を引き継ぐ多くの市民にも、そのような倫理は大切にされているでしょう。日本に、明治以降に伝えられたキリスト教も、そのような倫理観に支えられた欧米の宣教師たちの影響を色濃く残しています。
 同時に、イエス・キリストの福音(良い知らせ)は、人間としておおらかさを喜びとしています。神の愛は、人の善悪や、人の決意や、人の能力の違いを越えて、あるがままの人間を大切なものとして、注がれています。神に愛される人間は、ことさら倫理的に優れた人だとすることは、むしろ神の意に反することです。
 さあ、鍛錬の夏を、もう一度やってみましょうか。また結局目標を達成できず、それで良い!と言って下さる神さまの慈愛にすがることになるのでしょうか。

いのちと力の輝く季節

主教 植田仁太郎

 各地の桜の開花や満開のニュースで春の到来を実感しているうちに、アッという間に、木々の若葉が芽吹いて、日に日に輝きを増してゆきます。自然が一斉に、いのちとその力の輝きを見せるこの季節に、やはり、教会もいのちと力を祝い憶えるお祭を迎えます。
 ひとつは復活祭で、言うまでもなく、イエス・キリストの死からの復活を祝います。「祝う」という表現は不充分かも知れません。イエス・キリストの死からの復活が起こり、体験されなかったら、そもそも教会もキリスト教も生まれなかったでしょう。その復活を「祝う」どころか、その日には、その重大さを深く深く心に刻みました。(今年の復活祭は4月16日でした。)いのちは死の前に無力とされています。いのちは死をもって終る、というのが人間の常識です。復活の出来事はその常識を覆し、歴史上ただ一回、いのちが死を乗り越えたということが起りました。宇宙的時間の流れの中で、将来、神の支配し給ういのちのうちに、同じことが人間に起るだろうと聖書は伝えています。
 6月4日は「聖霊降臨日」と呼ばれる、教会にとって、もうひとつの大切なお祭りの日です。聖書に記された、弟子たちに不思議な力が天から与えられた出来事を記念する日です。イエスの死と復活に続いて、それを信じた人々に、神からの信じられないような力が与えられたということです。
 春に植物が輝きをとり戻し、その生命力の偉大さを発揮するように、人間が、神からの力をいただくとき、信じられないような働きをすることは、私たちみんなが知っています。

春を迎える前に

主教 植田仁太郎

 キリスト教会のお祭りや祝日は、世界各地の地方に、もともとあったお祭りにその起源があり、それに新たにキリスト教の意味が与えられた、という例が少くありません。たとえば、クリスマスですが、もともとは各地で祝われていた冬至のお祭りです。冬至を境に一日一日と日が長くなり、光に浴する恵みが増してゆく--そのお祭りの意味とイエス・キリスト誕生の意味が、見事に合体されたものです。
 もうひとつ大切な教会のお祭りは、「復活祭」--キリストの死からの復活をお祝いする日です。これは、明らかに、ものみな芽吹く春の祭典と結びついたものです。復活日の決め方は、かなり複雑ですが、春分の日を基本にしていることは間違いないところです。あふれる陽光と、暖かさと、そして植物の再生は、まさにキリストの死からの復活を喜こび合うに相応しい季節です。
 文字どおり、自然は冬の間すべて死んでいるも同然です。その冬を、教会は、さらに、禁欲と断食の季節と定めました。それはイエスが、荒野で四十日間修行をしたという故事に呼応します。
 復活の喜こびを祝う季節の前の、禁欲の季節。これは、ただ春の前の冬、という季節の在りようを反映したのではありません。それは、真実というもの、本当の喜こびと恵みは、苦難と犠牲をみずから引き受ける、ということがあって初めて与えられるものだという、キリスト教の深いメッセージを伝えるものでもあります。

1月1日に想うこと

主教 植田仁太郎

 その昔、世界のほとんどの社会が、農耕を中心とする社会であった時代、新年を迎える日は、いわば特別な一日として区別されたのだろう。その特別な一日は、現代の都市化され高度に組織化された社会でも、名残りをとどめている。役所や学校や工場や仕事をしなくても良い機関は、すべてその日は仕事を休む。その日は、多くの人々にとって、手帳に予定を書き込むことのない空白の一日であろう。
 その昔特別な日は、共同体を憶え、家族を憶え、一応区切られた時の流れを憶え、これからの将来を憶える日であっただろう。共同体、家族、時(人生・歴史)、将来を意識にのぼらせるというのは、とりも直さず、いわば宗教的(哲学的)営みである。その名残りも現代にある。多くの人々が初もうでに出かける。  ただし現代では、この日が、特別な日でも空白の日でもない。普段と変わらずあるいは普段以上に仕事に精を出さなくてはならない日となってしまった人々がどんどん増えている。あるいは、仕事に追われ、仕事以外にも休日をつぶされてゆく人々の、本当に数少い、空白の日かも知れない。
 仮りに1月1日でないにしても、現代にとっても、人間には「特別な日」「空白の日」は絶対に必要であろう。つまり、共同体と家族と人生と歴史、それに将来に想いを馳せる真の意味の「休日」が、私たちには必要であろう。  [ところで、多くの宗教では、その一年のサイクルを必ずしもいわゆる西暦上の1月1日と一致させていない。それぞれ信仰内容に応じたカレンダーを持ち、そしてそれに呼応した宗教行事を守るからである。キリスト教の新年は、クリスマスを迎える四週間前に始る。1月1日は年初として祝われるのではなく、生まれたばかりのイエスが、命名された日として祝われる。]

「クリスマス文化」を越えて

主教 植田仁太郎

 クリスマスというものが世の中で受け容れられて、友人同士や家庭での楽しみの機会となっていることは、大変うれしいことです。私たちの知っている、クリスマスにまつわるすべての事柄を、私は「クリスマス文化」と呼んでいます。あらゆるクリスマスの飾りも、ケーキもプレゼントも、カードもクリスマス・キャロルも――これらすべては、イエス・キリストの誕生をお祝いする習慣の中で、世界各地で、人々が生み出してきた「文化」です。サンタクロースという、クリスマス・キャラクターも生み出しました。これも文化の一部です。
 この文化が表現しようとしていることは、言うまでもなく、喜び、平和、思いやり、尊さ、などで、人間なら誰もそのことの大切さに異を唱えないでしょう。だからこそ、社会のあらゆるレベルで祝われるのでしょう。
 教会は、そのことを一方で歓迎しつつ、他方では、いつもその「文化」を越えて、クリスマスの真実を呈示しようと苦労しています。その真実のひとつは、喜び・平和・思いやり・尊さは、イエス・キリストの苦しみと自己犠牲の結果としてもたらされる、ということでしょう。
 クリスマスを一緒に祝いましょうと、招かれている私たちは、同時に、いつも、他の人のために苦労できる人になりましょう、という風にも、呼びかけられています。

8月15日に為すべきこと

主教 植田仁太郎

 「過去に目を閉ざす者は、結局のところ、現在にも目を閉ざすことにもなります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」(R・フォン・ヴァイツゼッカー)
 これは、1984年から94年までドイツの大統領を務めたヴァイツゼッカーが、ドイツの敗戦40周年を記念して、連邦議会で行った演説の一部です(1985年)。ドイツの戦争加害者としての反省とこれからの在り方を示す、深くまた見識のある演説として、各国語に訳され、ドイツ国内では何度も印刷・配布された有名なものです。そして、述べられていることは、敗戦60年目の今日も、この日本においても依然として真実を衝いています。多くの日本人にとっては、戦争の被害者(空襲の犠牲者、兵士の遺族、戦後の飢餓)の体験が鮮烈ですが、その反対側で、日本人以外に対しては、私たちは明らかに加害者であることを、どうしても認めなければならないでしょう。
 私たちの体験した戦争の不条理とともに、加害者として行ってしまった非人間的行為(戦闘行為ばかりでなく、植民地化、強制連行、従軍慰安婦の強制など)を「心に刻ま」なければなりません。個人としての「私」の行為ではないですが、国家の名において為されたその国家に連なるものとして、その行為を心に刻んでおくことが大切でしょう。
 教会の教える「悔改め」の第一歩は、為してしまったことを、「心に刻む」ことです。

聖霊降臨日

主教 植田仁太郎

 私たちの信じている神さまは、三つの様態をとられると言います。イエス・キリストという歴史上に出現してくださった神(子なる神)。その子をお送り下さった普遍的な神(父なる神)。いくら神が居られることが確かであっても、その神が私たちの人生と歴史と毎日に働きかけてくださらなければ意味がありません。その人生と歴史と個々人の在り様に働きかけて下さる力としての神―それを聖霊なる神と呼びます。神の望み給うことに、私たちが参与できるのは、この聖霊の力をいただいて初めてできることです。
 新約聖書の中の文書のひとつ、ルカ福音書と使徒言行録の著者であるルカは、「父と子と聖霊」を「順序立てて」説明しようとしました。つまり、時系列の中で説明しようとしました。イエスの生涯と受難―十字架上の死―復活―昇天―聖霊が下される、という順序です。
 その順序に依れば、ある日突然に、復活のイエスを信じた人々に、特別な力が与えられ、その日以来、教会という人々の群れが誕生したと伝えています。(使徒言行録二章)
 その出来事を憶え、私たちにも、日々聖霊の力が与えられるよう祈り求める日が「聖霊降臨日」です。それはちょうどユダヤ教暦の五旬節(過越祭から五十日目の日)であったという記述から、そのギリシャ語名をとって「ペンテコステ」とも呼ばれています。キリスト教暦に置き換えると、イエスの十字架の死から五十日目ということになります。

主イエス復活の日<イースター>

主教 植田仁太郎

 3月27日に復活日を迎えます。〔古来からの満月に連動した日の決め方なので、この復活を記念する日は、毎年変わります。〕
 言うまでもなく、教会にとって一番大切なお祭りの日です。「お祭り」というのは、大切な礼拝をする時という意味です。教会に、そして私たちに受け継がれた、「イエスは死から復活した」という信仰の根拠を憶える日です。この信仰が無かったら、教会も無かっただろうし、キリスト教という宗教そのものも無かったでしょう。また、イエスの復活の日を毎週覚える日として始まった、「日曜日」も無かったかも知れません。イエスの誕生日とされるクリスマスほどに一般には祝われることはないでしょうが、現代の社会の成り立ちに深く関わっている日であることは間違いありません。
 「死からの復活」-などということがあるわけない、というのが私たちの普遍的な体験です。人間は全て死すべき存在だからです。それは、今も、二千年前にもわかり切ったことでした。
 しかし「イエス・キリストに限って」そうではなかったという証言が続々と出現しました。またその証言に命をかける人々も、続々と出現しました。どちらも、そんなことをしても何の得になるというわけでもないのに、です。証言に耳を傾けた人は、神と人間と世界、そして人生のことが段々はっきりと見えてくることを発見しました。そこに私たちも人生を賭ける価値があると思うのです。

エルサレム教区 リア主教 クリスマスメッセージ

リア・アブ・エル・アサール主教 
(エルサレム教区主教)

Dear Sisters and Brothers in Christ,

Salaam / Peace and grace from Bethlehem, the little town in the Land of the Holy One.

Stars do not only penetrate the dark skies; they also give sight and shine bright in the darkest moments of any long and scary night. Light brings life. In the words of St. John: "In Jesus was life and the life was the light of men. The light shines in the darkness and the darkness has not overcome it." John 1:4-5. The circle of life must continue to defeat and indeed overcome all darkness and with a shining armor, it must continue to rift and crack all wombs and tombs and make birth the event of events and the miracle of all miracles.

Towards the end of the year 2004, the heart of Palestine quaked with the passing away of President Yasser Arafat. Calendars all around the globe marked November 11th 2004 with the black ribbon of sorrow and mourning. Nevertheless, a nation of faith is a nation of convictions: It will shake off the rains of sadness from upon its shoulders and its paralyzed hopes and trembling decisions will once again fly, with the sacred wings of freedom, northward to its right- righteous destination.
Whether it is in Palestine or in Iraq our mission as one family in Christ must ultimately and urgently transcend into ethical duty and moral obligation. It is time that we realize and help others realize the pain and suffering of our fellow brothers and sisters in humanity. The frozen, careless, indifferent waxed hearts must melt down and learn the art of arts that of meeting the other fellow halfway. The moment to give a hand is now. With the divine mutual cooperation we can wrestle, up-rise, and breakup the iron chains of human occupation: release, liberate and set free the captive souls, deprived refugees, and shivering scared homeless escapees.
It is Christmas again. It is high time to join hands and unchain our dear Bethlehem, to cross over and above every barrier, and to welcome the millions of pilgrims from around the globe to come and shout with joy "Glory to God in the Highest Heaven, And on Earth Peace among Those Whom He Favors."
Our prayer this Christmas is that the star of the East may enlighten all in power and wake them up, refreshed anew with humanity, to fulfill the greatest of goals - namely life and life with dignity and freedom for all.

Wishing you a blessed Christmas and may 2005 be the year of the Turning Point for peacewith justice, for healing and reconciliation.

 

In Christ,
+ Riah Abu El-Assal


キリストにある兄弟姉妹の皆さま

サラーム - 聖なる地の小さき町ベツレヘムから平和と神の恵みを

星たちは暗い空を照らすだけでなく、どんな長く怖い夜の真っ暗闇の時にも見えるようにし明るく照らし出します。光は命をもたらします。聖ヨハネの言葉:「言葉の内に命があった。命は人 間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった
(ヨハネによる福音書1:4,5)命の輪は光り輝く鎧を持って全ての暗闇を打ち負かし、打ち勝ち続けるにちがいありません。そしてそれは、すべての胎内とすべての墓場に割れ目とひびを入れ続け、全ての出来事の中の出来事、そしてあらゆる奇跡の中の奇跡を生み続けるでしょう。
2004年の終わりに、パレスチナの人々の心はアラファト議長の死に震え上がってしまいました。世界中の暦は、2004年11月11日に悲しみと哀悼を表す黒いリボンを記しました。にもかかわらず信仰の国は信念の国です:悲しみの雨をその肩から振り払い、麻痺した希望とゆれ動く決意は、自由の聖なる翼をもって、全き正義へと再び飛び立つでしょう。
パレスチナであろうとイラクであろうと、キリストにある家族として我々の使命は、速やかに倫理的な義務と道義的責任へと向かうものでなければなりません。私たちは、仲間である兄弟姉妹の痛みと苦しみを、慈愛をもって理解し、他の人々の理解を助ける時です。凍てつき、無頓着、無関心で固まった心は溶かさなければならないし、――他者と歩み寄るという技そのものを学ばねばなりません。今こそ手を差し伸べる時です。神から授かった相互協力をもってすれば、私たちは立ち向かって立ち上がり、人間の占領という鉄の鎖を砕くことができ、囚われた魂、難民、家を奪われ震え脅えあがる人たちを解放し、自由にすることができることでしょう。
またクリスマスとなりました。今こそ手を取り合って愛しのベツレヘムを解放し、全ての垣根を乗り越えて、世界中からの何億という巡礼者、旅人を歓迎し共に喜び叫ぶ時です。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」 (ルカ伝 2:14)
今年のクリスマスの私たちの祈り:東方の星が権力の座にあるもの全てを教え導き、目覚めさせ、慈悲によって新しく生まれさせ、最大の目標――すなわち、全ての人に命と尊厳と自由のある生活を得させてください。

どうぞ、よいクリスマスを。そして2005年正義ある平和癒し、そして和解のためのターニングポイントの年となりますように。

 

キリストにあって
リア・アブ・エル・アサール

 

[二〇〇四年十二月二十一日]