「Jʼsキャンプのフィールドワークを通して」 能登半島地震から3ヶ月、志賀原発とかつての原発建設予定地/珠洲を訪れて
2024年1月1日16時10分、能登半島で大地震が起きました。地震の規模M7.6は、阪神・淡路大震災(M7.3)や熊本地震(M7.3)を超え、石川県輪島市と志賀町では最大震度7を観測しました。震源の真上を示す震央は、石川県珠洲市内にありました。
能登半島には現在運転停止中の志賀原発が建っています。また、珠洲市は過去に原発建設の候補地となった地域でした。
松山健作司祭は、日本聖公会京都教区金沢聖ヨハネ教会の牧師で、ご自身も石川県金沢市内で地震を体験されました。そして、3月に能登半島で行われた中高生世代の人達とのワーク研修「J’sキャンプ」を通して感じたことを今回記事としてまとめくださいました。「J’sキャンプ」は、中高生世代が「平和」をテーマに学ぶため開催されるキャンプです。
日本には原発を立てるのに安全な場所はどこにもありません。私たちの行動が未来の人の生活に影響し、繋がっていくことを改めて考えさせられます。
Jʼsキャンプのフィールドワークを通して (司祭 アンデレ 松山健作)
2024年1月1日最大震度7の能登半島地震が起こってから3ヶ月が経とうとする3月末に、京都教区宣教局教育部Jʼsキャンプにおいて、志賀原発及び珠洲原発建設予定地であった高屋(たかや)、寺家(じけ)に中高生4名、大学生スタッフ2名、スタッフ7名でフィールドワークを行いました。
フィールドワークの講師は、能登半島の原発誘致反対に関わり、石川県議員や珠洲市議員を歴任された北野進さん(「志賀原発を廃炉に!訴訟原告団」団長)をお迎えしました。非常に丁寧に私たちが「平和」について考える上で、なぜ原発が必要ないかについて、ガイドしていただきました。
私は金沢聖ヨハネ教会に赴任し、3年目を迎えて大きな地震に遭遇しました。金沢市内でも信じられないほどの大きな揺れに恐れ驚き、また続く余震で眠れぬ日々が続きました。2017年に新築された牧師館内も物が散乱し、壁の所々に亀裂が入りました。余震の数は、1月だけでもすでに1,000回を超えていました。山が崩れ、道路は寸断され、お正月で能登に帰省していた社会福祉施設の聖ヨハネこども園の職員もおり、たくさんの関係者が被災しました。
教会の信徒さんも珠洲にお住まいの方がおられ、断水は現在でも続いており、生活の目処が立たない日々が続いています。また長い避難生活が続き、体調を崩されて震災関連死と認定された方もおられれば、認定はされてなくてもご逝去された方など、身近に震災後の影響が出ています。
震災直後のことを思い出しますと、かろうじてインターネットはつながっていましたので、すぐに志賀原発のモニタリングポストの値を確認したことを覚えています。外に出られるのか、こどもたちを避難させるべきか、さまざまなことが頭をよぎりました。後からわかりましたが、モニタリングポストは地震によって故障して、明確な値は示されていなかったようです。すべてのことが想定外で、もし福島第一原子力発電所のような事故が起こっていたとしても、「想定外」という合言葉をもとに多くの人が事故に巻き込まれていたのだろうと思うと背筋が凍る思いがします。
幸いなことは、2011年以降原発は稼働停止しており、運転していないゆえに燃料棒が冷めていたことも大きな事故には至らなかった要因であろうということをガイドの北野さんはおしゃっていました。しかしながら、放射能漏れはなかったとは言えども、変圧器の2万リットルもの油が漏れ、一部海にも漏れ出していたといわれています。あれだけ大きな地震でしたので、そのほかにもさまざまなダメージはあるのだろうと思われます。
「志賀原発建設、稼働の最中で地域住民がさまざまな利権によって引き裂かれた」
志賀原発は、石川県志賀町に立地する北陸電力の原発で2基あります。1967年に北陸電力が石川県と志賀町、そして旧富来町(現、志賀町)に立地を申し入れ、計画が公になりました。すぐに富来町福浦地区で反対の住民組織が立ち上がり、労働組合や漁協、住民グループなども相次いで反対の声を上げました。そのため1号機が運転を開始したのは1993年で、計画発表から26年が経過していました。2号機は2006年に運転を開始しました。しかし1、2号機とも順調に運転を続けてきたわけではありません。臨界事故隠しなど数多くのトラブルや不祥事があり、設備利用率は全国の電力会社の中で最低ともいわれます。反対派住民は1988年以降、運転停止を求めて裁判に取り組み、2006年には初の運転差止判決も勝ち取っています。現在3度目の運転差止め訴訟が続いている原発です。
Jʼsキャンプでは、志賀原発建設、稼働の最中で地域住民がさまざまな利権によって引き裂かれた歴史についても学びました。原発とは、ただ単なる発電所ではなく、それを巡って地域の生活が変化し、地域社会が引き裂かれるという人間の関係性を破壊することでも知られています。その原発はしばしばいわゆる「田舎」に計画がなされ、電気を使用する大都市の人々に対しては、原発を巡り地域社会の構造が破壊されていることは伝えられもしません。むしろ、公金が投入され豊かになっているのだという説明を真に受けているかもしれません。おそらく、大切な命が脅かされている現場の課題は、共有されもしていないということに現場を訪問してみると気づきます。そのような小さな声は、無視され、あるいはかき消されていくのだということを目の当たりにしました。
「高屋、寺家の双方を見学してすぐに分かったこと…ここに原発があれば、事故が起こり、誰も避難すらできなかった」
Jʼsキャンプ一行は、志賀原発について学んで現場確認を終え、次に珠洲原発建設反対の歴史を学ぶために、能登半島地震で大きな被害を受けた「のと里山街道」を通り、自然の猛威に驚嘆しながら、建設予定地であった高屋と寺家を見学しました。
珠洲原発の計画は関西電力、中部電力、北陸電力の3社で進められた計画です。関西電力は高屋で、中部電力は寺家で、それぞれ建設に向け取り組み、北陸電力は地元自治体などとの連絡調整役を担いました。計画が浮上したのは1975年です。珠洲市議会が過疎脱却の切り札として、原発立地に向けた調査を国などに要望したのがはじまりでした。当初は大きな反対の声は聞かれなかったそうですが、1989年の市長選挙と、関西電力の立地可能性調査阻止行動を通じて反対運動が市内全域に広がりました。以後、反対派住民は選挙のたびに原発反対の意思を示し、同時に共有地運動を展開し、用地買収も阻止しました。電力3社は2003年、立地は困難と判断し撤退を表明し、原発誘致反対派が勝利したという歴史を学びました。
Jʼsキャンプ一行が高屋、寺家の双方を見学してすぐに分かったことは、ここに原発があれば、事故が起こり、誰も避難すらできなかったという事実です。ガイドの北野さんは、「珠洲に原発がなくてよかった」と、心からの声を私たちに語っておられました。山は崩れ、海岸は隆起し、地面は割れ、陥没しています。42路線、87箇所が通行止めになったといわれています。このような場所に安全神話を語りながら原発を誘致しようとするずさんさと、命を軽視する電力会社の姿勢を肌で感じた気がいたしました。
Jʼsキャンプ一行は、翌日も早朝より珠洲市に出向き、渡辺キャロラインさん(金沢聖ヨハネ教会信徒)のおうちの整理をお手伝いしました。キャロラインさんも、珠洲原発誘致反対に尽力された方で、「ぜひ聖公会も原発反対に力を注いでくださいね!」という言葉をいただきました。
「珠洲に原発がなくてよかった」「私たち住民の判断は間違っていなかったんだ」
能登半島地震から6ヶ月が経とうとしています。能登からは2,000名もの人口流出があったともいわれています。一方で現地に赴くと、被災地で希望を見出して生活をしようとしている人々に出会うことがあります。それができるのは、「珠洲に原発がなかった」、「なくてよかったんだ」、「私たち住民の判断は間違っていなかったんだ」という決断によって、震災による被災は大きいものの、希望を見出す可能性が残っているということを私たちに示しているように感じています。
現在は、京都教区能登半島地震対策室の活動を通して、定期的に珠洲に訪れています。現場の状況に触れつつ、また珠洲の方々に出会う中で原発反対を勝ち取って行った命を尊ぶ生き方について学びたいと思います。