誰のための信仰、誰のための宗教

主教 植田仁太郎

 神を信じる、仏を信じる、アラーを信じる、靖国神社に祀られているみ霊を信じる――これらの営みは、大変個人的な人生態度だと考えられています。そして、その「信じる」という人生への姿勢は、みずからの幸せや、解脱や、救いに通じる在り方だと考えられています。そのためにみずからに、ある戒律や道徳を課す、ということはそれなりに尊重されなければならないでしょう。
  最近のこと、例のオリンピックの聖火リレーの混乱の中で、長野の善光寺が、それに関わることを辞退したことが報じられました。善光寺幹部の間では色々意見があったそうです。混乱を避けるため、という一般論から、同じ仏教徒であるチベットの人々に、むしろ連帯する姿勢を示すべきだ、という意見まで――仲々まとまらなかったようです。
  この事態を論評した朝日新聞は、次のように述べています。「現実から超然とするところに宗教の価値を見いだす立場もあるだろう。しかし宗教者が他者の『苦』を自分の『苦』として心から分ち合うとき、以前と言葉や行動が違ってくるのはむしろ自然ではないか。」
  信仰や宗教は、みずからの幸せや救いや解脱を求めるレベルだけでなく、他の人々の「苦」を分ち合う次元を含むものだ、という理解は極めて大切でしょう。
  クリスチャンは、自分が神さまの良い子であるためにクリスチャンなのではありません。今、苦しんでいる人、傷ついている人、悲しんでいる人が、神さまの愛に包まれるようになるため――そのために、神さま、私をお用い下さい、と神さまを信じて祈っています。

春そしていのち

主教 植田仁太郎

 暑さ寒さも彼岸までと申します。年毎に、季節の変わり目が早まったり遅くなったりしますが、それでも、春分・秋分を境にして、はっきり変るものですヨ、という昔の人の見事な観察眼を示した諺だと思います。
  事実、4月を迎えますと、まさに「春」を実感します。森羅万象すべての「いのち」がまさによみがえったようです。
  この自然の営みのサイクルに見事に合わせたかのように、4月は、社会の様々なものが新しく出発する時、新年度、新学期として開始されます。まさに自然の営みと同じように新たな「いのち」の営みを始める時です。
  ところで「いのち」とは実に不思議な概念で、誰もがそのことを充分わかっているつもりなのですが、別のことばで説明しようとすると実にむずかしいことです。また物質ではありませんから、これがいのちだと指し示すこともできませんし、また力やエネルギーのように数値化することもできません。善悪の尺度を当てはめることもできません。敢えて定義すれば、みずから成長し、いずれ死ぬ(成長を止めてしまう)物体、とでも言いましょうか。そしていのちは、あるいのちから「生まれる」ということによってしか存在しないことも確かです。未だにそれは「合成」されたためしはありません。
  生まれ出るもの。成長するもの。新しいいのちを生み出す可能性を秘めたもの。
  私たちひとりひとりはそういうものとして存在しています。そして、イエス・キリストは「私は道であり、真理であり、いのちである。」とおっしゃいました。私たちひとりひとりが、イエス・キリストと共有できる「いのち」というものを与えられている、そういう可能性をいただいている、ということでしょう。

復活祭を迎える

主教 植田仁太郎

 毎年移動する教会の祝日である復活祭、今年は3月23日です。言うまでもなく、教会とクリスチャンにとって一番大切な祝日です。もちろんイエス・キリストの誕生日であるクリスマスよりも大切な日です。
  イエス・キリストの誕生と生涯ということだけでは、私たちの信じるキリスト教というものは生まれなかったでしょう。歴史の中に生まれ、生き、そして死んだイエス・キリストが「復活した」からこそ、この方が永遠に憶えられることになりました。
  イエス・キリストの復活についての最初の記述は、十字架上で刑死したイエスが葬られた墓に、死後三日目に訪れた女性達に起った出来事を記した、あの物語ではありません。イエス・キリストの復活を、文書でレポートとした最初の人はパウロです。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわちキリストが……死んだこと、葬られたこと、また聖書(旧約)に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(コリントの信徒への手紙15章3節以下)とパウロは伝え、さらに何人もの人々に復活したキリストが現れ、ついには「月足らずで生まれたような私にもあらわれました」と証言しています。
  復活とは、息をふきかえしたのでもなく、幻視の結果でもありません。イエス・キリストが全く新しいいのちをもって、「生きて」いることを示しています。
  その復活のキリストを信じ、従う私たちも、その全く新しいいのちにあずかることができる――その深い喜びが、復活祭の喜びです。

それぞれの信仰、それぞれの神

主教 植田仁太郎

 アメリカの大統領選挙の候補者指名についてのニュースが毎日報道されています。その背景解説の中で、アメリカ人一般と宗教の関係が紹介されていました。
 ある調査によれば「人生にとって宗教は重要だ」と考えるアメリカ人は、「とても重要」「ある程度重要」を合わせると、全人口の82%だそうです。また「神を信じる」と答える人は86%にのぼり、天国や地獄を信じる人も70%以上ということです。
 このような答を出した人の理解する「宗教」「神」「天国」「地獄」は、みな、キリスト教の教えが前提になっているようです。「神」はともかく、天国や地獄の存在は、キリスト教本来の教えというより、はるか昔からどの文化の中にもあった、言わば人々の「俗信」に近いものでしょう。アメリカ国民の宗教的背景は確かにキリスト教的ではあるでしょうが、人々の信仰表明が、そのままキリスト教の説く真実だとは言えないでしょう。
 ひるがえって、日本の状況はどうでしょうか。お正月に初詣でに出かけた人は、全国で九八一八万人だったそうです。しかし、その人々全てが「神を信じている」とは答えないでしょう。福田総理大臣は伊勢神宮へお参りした後の記者会見で、「五穀豊穣をお祈りしました」と語っていました。でもいわゆる神を信じているのかどうかわかりません。
 明らかに、日本人一般とアメリカ人一般の神観念は異なっています。唯一絶対の神もあり得るし、自然界に色々な形で宿る神々もあり得るでしょう。キリスト教は、聖書の伝統の中で形造られてきた神のイメージの上に、イエス・キリストという方の生き様こそ、神を示すものだと理解しています。そして、神は、いつも私たちの真剣な問いかけに、応答してくれる、そのような「生きた」神であると、私たちは信じています。イエス・キリストがそういう方であったからです。

信 頼 こ そ

主教 植田仁太郎

 過ぐる一年は、世の中あげて、まさに不信の渦巻く一年でした。
 食品表示(賞味期限や産地など)の偽装は、人々の信頼を裏切る、最悪のケースだったでしょう。しかも、本来、人々からもっとも信頼されていたはずの名店や老舗といわれる製造元が、その信頼を逆手にとったのですから、なんともやりきれない思いです。

 また、お役所がきっちり管理してくれているものと、誰も疑わなかった、個々人の年金のデータが、何千万人分も、あやふやだったという事実が明るみに出ました。
世の中、怪し気な、そして疑わしいことはいくらでもある、というのはいわば私たちの生活の知恵ですが、最も信頼できると疑いを差しはさまなかった会社や役所が、その信頼を良いことに、不正を働いていた――そういう社会そのものが大変悲しい社会です。

 社会の制度や法律は、本来、お互いが信頼できる社会を保つために考え出された工夫なのでしょうが、その根底には、お互いがそれを尊重しなければならない、尊重するはずだ、という信頼が置かれていて初めて、法律や制度がその機能を発揮します。
人間同士の信頼は、ややもすればこわれ易いものです。制度や法律だけでは、とてもそれを保障できるものではありません。

 人間同士の信頼は、神様への無限の信頼を媒介して初めて確実なものとなります。
不信に満ちたこの世の中に、教会こそは信頼の連鎖を作り出す人の集まりでありたいと思います。

クリスマスの前に

主教 植田仁太郎

 教会の十二月といえば、クリスマスとその準備と相場が決まっているようです。クリスマス(イエス・キリストの誕生)を祝うのも、イエス・キリストの復活を祝う復活祭も、一年間をとおして教会のカレンダーがあり、そのカレンダーを、日々守る中で、そういう大きなお祭りの日を迎えることになります。クリスマス前の四週間は、私たち人類にとって決定的な存在となった方、すなわちイエス・キリストの到来を「待つ」という大切な期間として、教会のカレンダーに定められています。
 
  現代という時代は、「待つ」という生活と人生の間合いが、どんどん無くなる時代のようです。人を待たせるのは失礼なことだし、なるべく待たずに電車に乗ったり、サービスを受けたりできることが良いこととされています。電話がかかってくるのを待つこともなくなり、ケータイがあればどこに居てもつながります。とりたてて「待つ」必要はなくなりました。

 ある哲学の先生はこう書いています。<「待たない社会」、そして「待てない社会」。意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性を私たちはいつか無くしたのだろうか。……時が満ちる、機が熟すのを待つ、それはもう私たちにはあたわぬことなのか……。>

 神の与える、私たちに決定的な意味を持つものが、必ず明らかになる、それを信じて「待つ」。そのことに習熟しようとするのが、クリスマス前の期間です。

「種も蒔かず、刈り入れもせず」

主教 植田仁太郎

 暑い夏と、それがいつまで続くのかと思われるような、九月・十月の日々が過ぎ、ようやく秋を感じる季節になったようです。
「実りの秋」とよく言われますが、稲刈りは、まだ残暑厳しい頃に、とっくに終わってしまうのが、この頃の農家のサイクルのようです。それでも、都会を離れると、柿が見事に色付いていて、ようやく秋を感じさせてくれます。
人間の労働と自然あるいは神の恵みが相まって、私たちに実りを得させてくれるようです。そういう自然を通しての神の恵みを語るのに、聖書は、「種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋や倉も持たない」カラスさえも、神は養って下さる、と表現しています。カラスという私たちが半分小馬鹿にしている、美しくも何ともない鳥にさえ、神は目をかけている、人間の生活に何の役にも立っているようには見えないカラスにさえ、神の恵みが与えられている。ましてや、カラスよりはるかに価値がある人間に、神が目をかけ、そのいのちを支えないはずがあろうか、という論法で、神の恵みのあまねく注がれていることを、伝えようとしています。
私たちは、ややもすると神の愛は、その神の愛を受けるにふさわしい(立派な?敬虔な?)人間に注がれると考えがちですが、このカラスへの神の愛のたとえは、まさに役立たずで何の生産もしていないように見えるいのちの営みにも、神は目をかけていますョという教えです。だから、クヨクヨせずに神さまに私たちの身を委ねなさい、と。

「開く・信じる・食べる」

主教 植田仁太郎

 毎年秋分の日の祝日の頃に、東京教区の諸教会の信徒が集まって、礼拝を一緒にし、教会やグループがお店を出し合って、楽しい一日を過ごします。教区フェスティバルと呼んでいます。
「開く・信じる・食べる」は、今年のフェスティバルに掲げられたテーマです。「開く」は心を開く、とびらを開くなど、私たちが内にこもらず、自分たちのことだけを考えず、私たちの生き方も教会の在り方も、外に開かれた状態を心がけましょうということでしょう。「信じる」は、そういう心をもって、みんなで、共同体として信仰を持ちましょう、ということでしょう。
さて、「食べる」は何を呼びかけているのでしょうか。実は、教会を中心にした生活、神さまと共に生きようとする生活と、「食べる」ことは大変密接な関係があります。神さまと共に日常を生きるということは、必ずしも、祈りや瞑想に満ちた敬虔な生活のことを言うのではありません。私たちの教会の礼拝の中心はミサあるいは聖餐式と言われる、聖なる食事、イエス・キリストのからだと血を「食する」行為なのです。
「食する」行為の中で、神さまの愛と恵みを実感し、そこに列する人々と共に生かされていることを確認します。「食する」行為は子どもも老人も、病気の人も障害のある人も、教育のある人も無い人も、――すべての人がいのちのある限り続ける行為でもあります。 「開く」「信じる」と同じくらい大切な行為が「食べる」ということでしょう。

海外へのボランティア

主教 植田仁太郎

 韓国の教会が派遣したボランティア二十三人が、アフガニスタンで、旧支配勢力であったタリバーンといわれるグループに拉致されてしまった。ようやく解放される見通しとなったようだ。韓国のキリスト教界では、この事件をめぐって様々な議論が沸き起こっているようだ。このボランティアの方々は、そして送り出した教会は、現地の医療や教育を助けようとする、善意の方々であることは疑いない。拉致する側の暴力的行為は決して許されるものではない。
 この事件の報道で分らない部分がある。それは、この教会なり、ボランティアの人々を現地で責任をもって受け入れてきた機関や組織はどれなのか――それが無かったようだ。この教会のグループは、医療や教育の援助活動ですでに数年の実績があるようだ。ある地域で、善意であれ、部外者が活動する場合には、その地域で、同じく善意で受け入れ協力してくれるパートナー組織が絶対必要である。
 東京教区から、エルサレム教区が受け入れて下さって十一人のボランティアが、九月の末まで、ヨルダンの盲・ろう者の施設で奉仕活動をすることになっている。中東の地に行くというだけで心配される方々もいらっしゃるようだ。
 現地の教会がしっかりと受け入れてくださるので、私は全然心配していない。ヨソ者である私たちを受け入れてくれるパートナーが居ることは本当にうれしいことである。

8月15日を迎える

主教 植田仁太郎

 60年前のあの日から、この日は特に平和を憶え平和を求める日となった。「終戦」でも「敗戦」でも、あの日をどう呼ぼうと、あの日は一つのことを悲痛にも全国民で悟った日であったはずだ。自分たちの国家がみずから決断して始めた破壊と殺戮と暴力は、他の国、他の民族の人々に対しては言うまでもなく、国家にそれを許し、結局みずからもその破壊と殺戮と暴力をこうむることになった日本の私たちにとっても、その理由や目的を全く正当化できるものではないと、悟った日である。そしてその悲痛な認識は、数年を経ずしていわゆる「平和憲法」として、わたしたちの思想的財産となって引き継がれることとなった。  二度の世界大戦を防ぎ得なかったキリスト教会とその神学の営みも、厳しい反省を迫られることになった。その反省は、私たちの信仰の表現をする時にも、なるべく「戦い」「滅ぼす」「兵士」「勝ち取る」などの戦争のイメージにつながる言葉や概念を用いないようにするという努力にも表れている。残念ながら、イスラエル民族の民族神話の性格を色濃く持つ旧約聖書は、「万軍の主」「滅ぼす」など戦争と殺戮是認の物語に満ち満ちている。そのことが、永い教会の歴史の中で、神のため、キリストのために「戦う」考えを良しとしてしまう間違いを、気付かせなかったのかも知れない。