オンラインフォーラム「原発はやめようよ」を開催しました〜『平和のうちに生存する権利』を手放さないために私たちができること〜

6月5日〜11日は「原発のない世界を求める週間」とされ、日本聖公会原発問題プロジェクト主催のオンラインフォーラム「原発はやめようよ」として、2011年3月当時、福島県郡山市に在住の森松亜希子さんの公開講演会を行いました。

オンラインフォーラム「原発はやめようよ」講師の森松明希子さん

森松さんは2ヶ月後の5月、東京電力福島第一原子力発電所爆発事故により大量に放出された放射性物質による被曝を避けるため、0歳、3歳の二人の乳幼児を連れて大阪に自力避難しました(森松さんは自主避難ではなく自力避難と主張しています)。放射能による被曝は少なければ問題ないというものではなく、少なければ少ない方が良いのです。低線量被曝の危険性があるのです。

子供を被曝から守るために自力で必死に避難した人々は、避難先で謂れのないバッシングや差別に遭遇することになりました。そして、避難者としてもみなされず、まるでそこにいない者として扱われるということが起こりました。それは11年経った現在も続いています。

「原発事故は戦争とのみ比較可能である」と言われます。私たちは毎日TV放送や新聞報道などにより、ロシア軍によるウクライナ侵攻の悲惨な状況を知らされていますが、その影響範囲や被害の大きさ、復旧の難しさから「原発事故は戦争とのみ比較可能である」(*1)といわれます。元京都大学原子炉実験所助教授の小出裕章氏によれば、福島原発の爆発事故で放出された放射能は広島原爆の168発分(大気中だけで)といわれています。(*2)

まさに原発事故によって放出された放射性物質は地形や風向きにより広範囲に拡散し、原発近隣の人々は勿論、環境の全てが被曝し汚染され、そこに住む事ができなくなったのです。放射能は見えません。被曝した事すら気がつかないのです。そして時間が経つにつれて、被曝した人々の中には健康を損なう人や重い病に悩まされる人が現れる事になるのです。汚染された地域は、その後長い間放射能が発生し続けます。このような状況では、台風や洪水、火災、地震などの災害と異なり、復興作業は被曝対策や工法の検討などに要する時間が長く、規模も大きなものとなります。東京電力福島第一原子力発電所で爆発事故が発生し、廃炉が決定してから11年以上経ちましたが、現在もまだ原子炉の中の溶融(メルトダウンした)燃料棒の取り出しすらできていないのです。廃炉作業の工程も見通されていない状況です。まさに原発事故は、全てを破壊する戦争とのみ比較可能とされるものです。

避難した人々は避難先の仮設住宅や親戚、友人、知人を頼って、慣れない土地での生活を余儀なくされ、肩身の狭い思いで日常を過ごすことが多くなります。

森松さんはそうした中で、非難や差別を受けることがあったと言います。原発は、国策として建設されてきました。立地地域や国民の協議や同意によって建設されたものではありません。国や電力会社は原発建設後、運転を続ける中で常に「安全」を強調し、「安全神話」を作り出してきたといえます。しかし、起こってはならない過酷事故は発生してしまいました。そして、それは11年経った今もまだ終りが見通せていないのです。裁判では、この事故を防ぐことが出来なかったのかが問われています。そして、損害賠償に関する裁判も継続中です。

森松さんは、ご自分が被災者、避難者という状況の中で、「いのちを守る権利」を主張しておられます。憲法第11条(国民の基本的人権)、第25条(国民の生存権と国の社会的責任)を改めて確認したいと思いました。
講演のYouTube録画記録は、後日「原発のない世界を求める週間」のページで配信します。是非ご覧ください。そして事故発生後11年経った現在でも、原発近隣地域や避難された人々の現状を知り、避難とは何かを考える機会としていただければ幸いです。


『災害からの命の守り方 ─私が避難できたわけ─』(文芸社・2021年)

また、森松さんの著書を示します。お話の内容の詳細が分かります。お勧めします。他に多数の著書があります。

(注釈)

*1
2019年の原発のない世界を求める国際協議会の発題の中で、相澤牧人司祭が「原子力事故は他と比較できないほど過酷なもの」として言及した。引用元『脱原発の哲学』佐藤嘉幸、田口卓臣(人文書院、2016年)

*2
小出裕章さんオンライン講演:2022年5月15日(日)
本会場:北海道旭川市 真宗大谷派旭川別院、オンラインサテライト会場:帯広市 とかちプラザ
核ゴミの地層処分に反対する宗教者ネットワーク主催